君の唇に触れたい

小貝川リン子

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第三章 秋冬

第三話 進路

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 夕日の赤を淡く滲ませた紫が、水平線から漏れている。まだ五時前だというのに、空はもうすっかり暗い。
 
「……先輩もホント呑気っすね~」
 
 北風の吹き付ける校舎の屋上。天文部の元部長であり、今は引退して受験勉強に勤しんでいるはずの吉川が、天体望遠鏡を組み立てる。瞬介は、空き教室から勝手に拝借してきた椅子にまたがり、ぼんやりとその手際を眺めていた。
 
「呑気なのはお前の方だぞ。せっかくの天体ショーをほったらかして、また教室で菓子を食っていただろう。それでも天文部員か、全く」
「だって、俺一人じゃやる気になんないすよ。それに、わざわざこんなクソ寒ぃとこに出なくても、肉眼で見えるんだからいいじゃないすか」
 
 吉川の言う天体ショーとは、月と金星の大接近だ。細い細い、今にもほつれてしまいそうな三日月と、黄金のように光り輝く宵の明星とが、西の空で共演している。双眼鏡すら必要ないほど、はっきりと見て取れる。
 
「全く、いつまでも頼りない後輩だな。お前がそんなんだから、オレだっておちおち引退してられないんだぞ。こうやってちょくちょく顔出してやらないと……」
 
 望遠鏡を覗きながら愚痴を零す吉川だったが、ふと、思い出したように顔を上げる。
 
「そういえば、宮野はどうした。休みか?」
「あ~、あいつ」
 
 吉川はあくまで元部長。現部長の七瀬の姿が、ここにはなかった。
 
「風邪こじらせてて、休んでんすよ。軟弱だから」
「風邪か。珍しいな。お前がまた無茶させたんじゃないのか」
「むっ、無茶ってどーいう意味っすか。俺ァなんもしてねっすよ!」
「そうか? どうせまた、北風我慢対決でもしたのかと」
「ん、んなくだんねぇ遊びしねぇし……誤解すぎる……」
 
 瞬介は内心胸を撫で下ろしたが、吉川の言ったこともあながち間違いではない。というのも、七瀬が体調を崩す切っ掛けになったのは、瞬介の無茶が原因でもあるからだ。
 短い冬休みの間、クリスマスや年越しは、それぞれの家で家族と過ごした。三が日を過ぎた頃、瞬介と七瀬は例年通り、近所の神社へ初詣に出かけた。そこで、少しばかり興が乗ってしまい、雑木林の草むらで、一発かましてしまったのだ。
 一応まだ明るい時刻で、三が日を過ぎたとはいえ、参拝客も疎らに訪れる地元の神社。こんなところでこんな行為に耽っているという倒錯した事実に、異常なほど興奮した。さすがに全裸になったわけではなく、必要な箇所だけを緩めたのだが、それでもやはり、新春の風は寒かった。
 翌朝、瞬介は発熱して寝込んだが、その日のうちに回復した。そして、それを笑っていた七瀬が、今度は咳をし始めて、昨晩になってとうとう発熱。新学期早々、学校を休む羽目になったのだ。
 
「水島、ほら見てみろ。金星だぞ」
 
 吉川に促され、レンズを覗く。肉眼で見ると、完璧に削られたダイヤモンドのように輝いている金星だが、望遠鏡を通して見ると、月と同じように細く欠けて見えた。
 
「どうだ、綺麗だろう。さすがはビーナス。愛と美の女神に象徴されるだけのことはあるな」
 
 地球と同じように太陽の周りを回る金星が、地球のすぐそばまで接近している。欠けているのに、明るい。近いから明るいのだ。地球の衛星である月よりも、今夜の金星は明るく眩しい。
 望遠鏡から顔を上げる。肉眼で見た方が、その明るさはより際立つように感じた。今にも宵闇に呑まれそうな三日月と、寄り添って輝く一番星。
 どちらの星も、太陽光を反射して光っている。どちらの星も、同じような形に欠けている。それなのに、金星の方がずっと明るい。そして、地球上からは寄り添っているように見えるけれども、実際は数千万キロメートルもの隔たりがある。近いようで遠いのだ。この二つの天体は。隣り合っているように見えて、本当はずっと、すれ違い続けている。
 
「……俺、先輩が時々うらやましくなりますよ」
 
 双眼鏡で月と金星の共演を楽しみながら、望遠鏡のピントを別の天体へと合わせる吉川を見て、瞬介は呟いた。
 
「うらやましい? オレはお前の身長がうらやましいぞ」
「いや、そういうんじゃなくて。つかそんなこと思ってたんすか」
「冗談だ。オレも別にチビではないしな」
「何なんだよ。じゃなくて。あんたのその、好きなもんへの情熱ってやつが、うらやましいっつってんですよ」
「好きなもの? ……これのことか」
「それ以外に何があるっつーんだよ……」
 
 この先輩は、優秀なくせに時々抜けたところがあるから困る。興味のないことに関しては、本当に注意力散漫になるのだ。
 
「“これ”っていう好きなもんがあって、毎朝毎晩飽きもしねぇで眺めて過ごして、そーやって生きられたら、そりゃあ幸せだろうなって。好きなもんのためならなりふり構わず突っ走って、“好き”って気持ちに全力でぶつかって、“それ”さえありゃあ他には何にもいらねぇって、そんな風に生きられたら……そういう生き方を選べるってこと自体が、うらやましいっつーか、何つーか……」
 
 取りとめのないことをつらつらと零してしまった。吉川は、空から視線を移して言った。
 
「……お前だって、好きなものに一途になればいいだろう」
「そうは言ってもねぇ……」
「と、いうか……あまり言うと自慢みたいになるんで言わなかったが、オレは何も全てを投げ打って天文に人生を捧げているわけではないぞ」
「けど、今の時期にわざわざ天体観測なんて、正気の沙汰じゃねぇよ。あんた一応三年でしょ」
「いや、だからその……推薦で合格してるから、受験はもういいんだ」
 
 照れたように、吉川は言った。瞬介は大声を上げる。
 
「は、はああああ!?」
「気を遣わせて悪かったな。だがもう心配はいらないぞ」
「いや別に心配とかは全然してなかったけど!? そういうのは先に言っといてくんねぇと!」
「いや~、なかなか言い出しにくくてな。周りはこれから受験なわけだし」
「つーか、え? 推薦で合格したの? そんなに優秀だったのかよ」
「趣味で書いた論文が当たったんだ」
「趣味で? え? やっぱ天文系?」
「それはまだ分からないが、一応物理学部だから、いずれはそうなるかもな」
「なっ…んだよ、それェ……」
 
 瞬介はがくりと膝をつく。
 
「うらやましい通り越して、ねたましいわ」
「ねたましい!?」
「てか、ずりぃ。好きなもん極めて、そのうちそれを仕事にする気なんだ。先輩はこっち側だと思ってたのにぃ……」
「こっち側ってのはどっち側なんだ」
「好きなことして好きに生きて破滅するタイプ」
「何だそれは!? 失礼にも程があるだろう。仮にも先輩だぞ」
 
 吉川に引きずられ、椅子に座った。背もたれに体を預けて、空を見上げる。寄り添って光る月と金星と、それ以外にもあまたの星が瞬き始めていた。
 
「大学ってなァ、遠いんすかね」
「物理的な距離の話か? オレの場合は、まず寮に入るかな」
「はァ、やっぱ遠いんだなぁ」
「けどまぁ、大学進学を機に一人暮らしなんて、よくあることだろう。宮野だって、そうなるかもしれないぞ」
「…………は?」
 
 たっぷりと間を置いて、瞬介は声を発した。何を言われたのか、理解できなかった。脳が理解を拒んでいた。
 
「……七瀬が、なんて?」
「薬学部のある大学を目指しているらしいんだが、通える範囲にないだろう? それに、上を目指そうと思えばいくらでも目指せる。場合によっては、東京や大阪へ出ていくことになるかもな。どちらにしても、希望通りに進めば、地元は離れることになるだろうな」
「……」
「……まさか、聞いてなかったのか」
「……ハイ」
 
 寝耳に水とはこのことだ。
 高校入学以降、進路志望調査は何度か行われたが、その度に適当な学校名を書いてはやり過ごしていた。七瀬も同じだったはずだ。少なくとも、どこの大学を目指しているかなんて、しかも学部まで絞っているなんて、そんなことは今までに一言も話さなかった。
 こんなにも大事な話を、まさか他人から聞かされることになるなんて。しかも、志望大学はいずれにしても遠方で、十中八九地元を離れることになるなんて。十数年続いた幼馴染関係に終止符を打ち、七瀬は遠くへ行ってしまう。そうなった時、瞬介はどうしたらいい。そうなった時、この関係はどうなるのだろう。
 いや、本当は分かっていた。遅かれ早かれ、いずれ必ずこんな日は来る。高校まで一緒だったからといって、その先もずっと一緒にいられるなんて、そんな都合のいい話が易々と転がっているはずはない。卒業後はそれぞれの進路を歩み、その道はいつか遠く離れていって、かつて交わっていたことさえも忘れてしまうのだろう。
 分かっていたのだ。ただ、それはまだ、ずっと未来のことだと考えていた。進学はおろか、卒業ですら、まだまだ先のことだと。けれども、時間はもうそう多くは残されていない。進学も、卒業も、そして、いつか来る七瀬との別れも、全てが今そこにある現実として、重く圧し掛かってくる。
 
「……水島? 大丈夫か」
「あぁ……ハイ」
「なんだか、悪かったな。前にちらっと相談されたんだ」
「……受験のことを?」
「進路全般だな。手堅い資格を取って、全国どこででも働けるようにしたいと言っていた。実際、薬剤師の需要は地方でも高いようだし、いい選択ではあると思う」
「……はあ」
 
 どっと疲れてしまった。吉川の言葉が右から左へ流れていく。寄り添って光る細い月と金星が、水平線の向こう側へと落っこちそうになりながら、寄る辺なく揺らめいていた。
 
 
 
 屋上での天体観測を終えて家路につく。いつも通りの田舎道を、いつも通りのママチャリで駆ける。けれども、今日は七瀬がいない。前述の通り、風邪で休んでいるのだ。今頃、ベッドで魘されているだろうか。
 家の前を自転車で通る。二階の七瀬の部屋は明かりがついていた。閉ざされたカーテンに人影が映り、窓が開いた。
 
「おかえり」
「……ただいま」
 
 パジャマにカーディガンを羽織った七瀬が、ベランダに姿を見せた。おばあちゃんが毛糸で編んだ、生成り色のカーディガンだ。「俺の帰り待ってたのかよ」とふざけて言ってみると、七瀬は白い息を吐いて笑った。
 
「まさかな。たまたまだ。先輩がお前を連れ出して、星でも見せてくれてるんじゃねぇかと思って、だったらこのくらいの時間に帰ってくるなと思ってたら、ホントに通りかかったから、確かめてやろうと思って」
「それを待ってたっつーんじゃねぇのぉ?」
「お前だって、おれが出てくるのを待ってたろ」
「俺ァ別に? お前が苦しんでんの見てやろーかと思って」
「そうかよ」
 
 違う。本当は待っていた。少し期待をして、わざわざ七瀬の家の前を通り、その窓を開けて姿を見せてくれやしないかと、自転車を停めて待っていた。
 
「しかしまぁ、残念だったな。この通りピンピンしてらぁ」
「おー、残念残念。風邪からの回復勝負は俺の勝ちな」
「んな勝負した覚えはねぇが、風邪を長引かせる勝負ならおれの勝ちだぜ」
「いや何だよその勝負! 長引いてんだから負けだろーが」
 
 七瀬が、ベランダの欄干から身を乗り出す。飛び降りるつもりかと、瞬介はベランダの真下で腕を広げた。
 しかし、降ってきたのは飴玉一つ。しかも、取り損ねて植木の間を探す羽目になった。
 
「んだよ、これ」
「余りそうだからやる」
 
 個包装のパッケージを見てみれば、のど飴だ。子供にも舐めやすく、果物の味がついている。昔はよく、おやつ代わりに舐めていた。
 
「ガキの頃、風邪でもねぇのに食いまくって怒られたよな」
「だって、普通にうまいんだもんよ」
「それ食って、せいぜい喉風邪に備えとけ」
「俺はもう治ってるんですけどね」
 
 ベランダから手を振る七瀬に、手を振り返した。もらった飴はレモン味だった。頬張って、舌で転がす。久しぶりに舐めるのど飴は、昔よりも酸っぱかった。
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