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第3章

3. 水難の相あり

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「誰が池に落ちたのですか」
 突然現れた劉長官の一言で時間が止まった。

 
 
 野外演習4日目、中間地点となる神秘的な山池「こいいけ」のある拠点にたどり着いたのは数時間前の事である。 

 美しい瑠璃色の池は果てない深さを物語っており、龍樹と対になるはずだった乙女龍の伝説が残っている知る人ぞ知る秘境だ。余談ではあるが、悲しくも美しい悲恋の池としてと呼ばれている説と、こんな山中にあるはずがないと気配すら感じさせず突如現れる絶景に言葉が出ず、口を開けたままの姿が鯉なのでという説があると言われている。
 
 訓練生たちはそんな絶景を味わう間も無く到着してすぐ、昼夕食の準備をする班と明日からの帰路3日間の野営の準備を整える班に分かれた。そしてその合間に一人ずつ軍医の診察を受け、昼食後やっと休憩時間が与えられたのだ。
 
 とにかく、ここに4日ぶりに集まった面々は課題を一応半分クリアした安心感や、他のメンバーと再会した喜びなどからも少し興奮気味だったかも知れない。
 ゆっくり休む者は少なく、魚釣りやワイワイと野外活動中の情報交換(おしゃべり)に花が咲いた。池に入ることだけは禁止されていたが禁止では無かったら泳ぐ者もいただろう。
 朱璃たち女武官たちが楽しそうに小舟で中洲へ向かおうとしていたのは数人が目撃していた。そんな和気あいあいとした中での出来事だった。


「おそらく、籐武官と秀武官だと思われます」
 隠しきれるわけも無いので、千紫明が正直に申し出た。遠目からでも、舟には蒼白蓮しかいない事がわかる。
 心中で朱璃のあほ~と悪態をつく。本当になんてタイミングの悪さだ! 寄りによって劉長官に見つかるとは。
 
 
 実は中間地点に到着し、もっとも彼らを驚かせたのはこの野営に劉長官が参加していることがだった。
「ふふふっ、そんなに驚かなくても。採って食ってはしませんよ。みなさんの疲れた様子を視に来ただけですから」
 魅惑あくまの笑みにわずかに残った体力が一瞬でほぼゼロになったものも多かった。
 
 しかし、今回は管轄外と言うことなのか、一つを除いては言葉通り何も関わってはこなかった。
 その一つはと言うと、ニコニコと笑みを浮かべ当然のように朱璃にだけ山での食材集めを命じたことだ。森の精霊と言って過言ではない絶世の美人は相変わらず籐朱璃にだけ厳しく当たった。
 

 だからこそ、皆は劉長官の反応を息をひそめて注目していた。
 休憩中であったとしても何かお咎めがあるだろうと。

 なので一瞬顔色を変えた劉長官が、素早く上着と剣を投げ捨て池に飛び込んだ事を誰も信じられなかった。目を擦り、もう一度池を見つめ顔を見合わせた。
 そして数秒後、あたりは騒然となった。
 
「やっぱり、あの噂は本当だったんだ」
「うわ、まじで!?」

「何の話だ!」
 紫明があり得ない状況に胸騒ぎを抑えられず、噂話をしていた者に詰め寄った。

「秀武官が劉長官のお気に入りって話だよ」
「最近では夜な夜な部屋に呼びつけているらしぞ」
「はぁ!? そんなバカな」
「いや、秀家から正式に婚姻の打診をしているらしいぞ。そもそも、美琳様が武修院に入られたのはお二人を出会わすために工作したって噂もあるぜ」

 確かに劉長官の美琳への扱いは朱璃と比べ物にならぬほど丁寧であった。美琳の劉長官への好意は誰の目から見ても明らかであったので、池に飛び込んだのは美琳を助けるためだろうと誰もがそう思った。

 着衣しているとはいえ、禁軍の一員になろうかという者に対して過保護すぎるだろうと、冷やかす者もいる中、側岸側からバシャンと人が飛び込んだ音がした。

「久遠が飛び込んだぞ!?」
「あっ! 劉長官の付き人が舟を出した」

 報告を受けた武官たちが慌ただしく動き出し、単に恋人を助けに池に飛び込んだという美談という雰囲気ではなくなっていた。
 
 この池はもしかしてただの池ではないのだろうか。彼女たちを秒を争って救出する理由があるのではないか。
 それにしても、なぜ、2人はすぐに水面に上がってこないのだろうか。

 野次馬たちの中に不安が広がり始めた時だった。

 彼女たちの乗った小舟よりかなり離れた場所に人影が確認された。

「美琳様だ!」
 取り巻きの中から安堵の声が広がった。


 水面から顔を出した美琳は自分たちの乗っていた舟を確認する。
「あった」
 転覆したわけではなかったのだ。舟の上に不安そうな白蓮が見え、美琳はほっとした。良かった彼女は無事なようだ。
 朱璃はどこだろうかと辺りを見渡した時、まっすぐこちらに向かってくる劉莉己に気が付き驚いた。

「劉長官!」
 助けの来てくれたのだと思うとうれしさを隠せず手を挙げた。

「え……」
 しかし劉莉己は美琳には目もくれず、再び池の中に戻ってしまった。



「……朱璃が浮かんでこない」
 紫明がつぶやく。
 岸に集まった面々の間に言いようのない沈黙が広がった。
 無視された美琳、池の中に再度潜ってしまった劉長官。そして姿を現さない朱璃。

「あのバカ、まさか、泳げばないのか!?」
 信じられないが、朱璃を目のかたきにしていた劉長官が彼女を救出しに行ったということは明白だった。

 無視された美琳の唖然とした表情に少々同情しつつ、まだ姿を見せない2人に気が焦り始める。
 久遠も何度か水面に顔を出し、再び潜るを繰り返している様子だ。

「長官だ! 何か抱えてる」
 白蓮の乗る舟からは随分は離れたところに劉莉己が浮かび上がってき、彼が朱璃を抱えているのが見えた。

「朱璃もいる!」
「やった!」
 岸では安堵の歓声が上がった。 
 
 
 莉己は片手で朱璃を顔を水面に出し、一番近い中洲に向かい必死で泳いでいた。
 計算通り中洲の周りは浅瀬になっており、朱璃を抱き上げ上陸する。そしてすぐさま応急処理を始めた。

「朱璃! 朱璃!」
 呼びかけの反応はない。青白い顔に頬を近ずける。当然、息をしていなかった。
 
 莉己はすぐさま朱璃の上顎を上げ気道を確保し、紫に変色した小さな唇を覆うように口を密着させゆっくりと息を吹き込んだ。朱璃の胸が上がるのを確認しいったん口を離す。そして息が自然と吐き出されるのを確認し、祈るような気持ちでもう一度朱璃の肺に呼気を送った。
「朱璃っ 息をしてくれ」
 2、3度息を吹き込むが自発呼吸はなかった。
「くそっ」
 どんな手段をとっても朱璃を連れ戻す気迫で心臓マッサージをしようとした時、朱璃が咽頭反射とともに少量の水を吐き出した。直ちに顔を横に向け気道に逆流しないようにする。

「朱璃!」
 朱璃の胸郭がかすかに上下し自発呼吸が始まった。軽くむせた朱璃が開眼するのを確認し、莉己は小さく息を吐いた。
「朱璃。私が分かりますか」

 次第に焦点があってきた朱璃が莉己を認識し小さく頷いた。

「だから、水辺には近づくなと言ったのに」
 小さな声でそう言うと、莉己はそっと朱璃を抱き上げた。

 琉晟の乗った小舟が中洲に着けられ、莉己は素早く舟に乗り込む。もう心配ないと伝えるように頷くと琉晟がほっとしたように頭を下げた。
 
 そして腕の中で必死に意識を保とうとする朱璃にもそっと声を掛けた。
「朱璃。大丈夫ですよ。安心して眠ってなさい。……大丈夫」

 うっとりするような優しい声に朱璃は暗示にかかるようにゆっくり瞼を閉じた。


 
 
 その様子を美琳たちは舟上で一部始終見つめていた。実は莉己が朱璃を救出した後、久遠が白蓮の小舟に乗り込み、そこから美琳を引き上げてやったのだ。

「大丈夫か」
 あまりに微動だにしない美琳に久遠が声を掛けた。

 人工呼吸をするほど命の危機にさらされた朱璃の事も心配だったが、その事実と同じくらいあの莉己が人工呼吸をし必死で朱璃を助けようとしたその姿が衝撃だった。
 いや、美琳の脳裏には見たことのない劉莉己の姿が焼き付いていた。
 まるで宝物のように朱璃を抱きしめ、救命できたことを心から安堵し泣いているようにさえ見えた。朱璃を見つめるまなざしは見たことが無いほど優しかった。

「劉長官も朱璃がだと知っておられたんだろう」
 久遠は美琳の心中をわずかながらに察し莉己の代わりに弁解してみるが耳に入ったかは無反応の為分からなかった。
 
「どうして……」
 美琳の声は隣の白蓮にしか届かないほど小さいものだった。
 助けに来たのは朱璃の事だけ。自分の事は目に入っていないように見えた。朱璃が泳げないと知っていたから、命の危険がある方を優先したに過ぎない。いや……泳げる泳げないは関係ないと解る。朱璃だから、自ら飛び込んで助けたのだ。

 体が小刻みに震え、頭だけが熱く痛み、自分だけが何かの膜で覆われるような別空間にいるような感覚。
 美琳は生まれて初めて屈辱という情に体を包まれていた。


「美琳さん……………美琳さん」
「……!?」
ひやりとした感覚に意識が引き戻される。白蓮の顔が目の前にあり、華奢な手で頬を包まれていることに気が付いた。
「大丈夫ですか」
 
 美琳の世界に色が戻り、岸が近くに見えた。そして久遠がかいをこぎ、舟が動いていることに気が付く。
「ええ……」

「私がバランスを崩したばかりにお二人を危険な目に合わせてしまいました。申し訳ありません」
 普段から表情豊かな方ではない白蓮だがさすがに眉が下がり情けない顔になっている。

 元はと言えば、急に立ち上がった白蓮のせいで舟が大きく揺れ、バランスを崩した白蓮を守ろうとした二人が舟から落ちてしまったのだ。2人を助けようとしたのに舟が離れたのは気が動転した白蓮が櫂操作を誤ったせいだ。

「大丈夫、心配なさらないで。朱璃も無事なようで安心したわ」
 美琳は矜持を立て直し笑顔を向ける。その様子に久遠は美琳の気位を見た気がした。


 一方、莉己たちの舟は一足早く岸に着いていた。
 待ち構えていた武官たちを横目に莉己は朱璃を自分で抱き上げたまま、急きょ用意された天幕の中に足早に入って行った。
 朱璃を受け取ろうとした柑次官でさえ無視されている様子をただただ見るしかなかった訓練生は朱璃の安否に気をもんだ。遠目から、劉長官が人工呼吸をし意識が回復したように見えたが果たして朱璃は無事なのか。

 なので久遠たちの舟が岸に着いた時、朱璃のことで質問攻めとなった。
「咳き込んでいたからな意識は戻っていたと思う」
「そうなのか、良かった」
「朱璃は? 会えなかったのか」
「劉長官が朱璃を抱えて離さなくてさ、すぐにそこの天幕へ入ってしまったんだ。ちらっと見えたけど目を瞑って意識ないように見えて焦ったぜ」
「そうだったのか」

「美琳様。ご無事で」
 取り巻きだけがあとから降りてきた二人へ駆け寄っていた。

 自然と全身びしょ濡れの美琳に視線が集中する。
 美琳の視線は3人が消えた天幕にあった。その双眸は充血し少し色の悪い口唇は強く噛みしめられていた。
 一部始終を目撃していた者は彼女が受けた屈辱が相当のものだと理解でき、かける言葉も見つからない。
 
 動こうとしない美琳に健翔が声を掛ける。
「早く着替えた方がいい」

 朱璃たちがいるであろう天幕の入り口は二人の武官が立っており、厳重に護衛しているのは明らかであった。
 あそこへは入れない。どうしたものかと思案していた時であった。

「美琳様。あちらに天幕をご用意しております。とにかく早く体をあたためなければっ。お体を壊してしまいます。おのれ籐朱璃! 敵はきっとこのダン炳霧ヘムが取りますゆえ、とにかく今はこちらへ!」

 段がヒステリックな母親のように喚きつつ美琳を有無を言わせず連れて行った。

「あいつ初めていい仕事したな」
 多少問題発言はあったが思わず紫明が心の中で拍手をした。
 白蓮も取り巻きにいつの間にか保護され姿を消していた。


 久遠は仲間が食事を作るために起こした火のそばで着替えをしながら紫明に尋ねる。
「どういうことだろう。あれは」
「見たまんまだろ。劉長官が朱璃を助けた。朱璃だけを保護したのは、死にかけた朱璃の容体が思いのほか悪いのか、もしくは長官にとって朱璃だけが特別な存在だっていうことだろ」

「特別な存在とは?」
 健翔が眉を寄せる。ゲスな噂話に乗る気はないが、4日野外演習で寝起きを共にした健翔にはどうしてもぬぐえない違和感が朱璃にはあったのだ。

「あれだけ朱璃を虐めてきた長官が、誰にも触らせないって感じで大事に抱えてたんだぜ。信じられない。朱璃が本命で、それを隠すためにわざと虐めてたってこと?」

「……それはないだろうが、長官は朱璃と名を呼んでおられたから以前からの知り合いなのではないだろうか。俺は、朱璃はただの平民の出ではないと思っている」

「じゃあ、なんだってんだ? この国に籐という上級貴族はいない。地方の中級~下級貴族ならいるかも知れないがそういう意味ではないんだろう?」

「憶測でしかないが、長官たちと以前から面識があるのなら王族関係者やそれに近い上級貴族。偽名なのかも知れないし、もしかして他国の者なのかも知れない」
 
「羅国のように没落してしまった王族の生き残り……」
 健翔の独り言のようなつぶやきはしっかりと二人の耳に入っていた。

「羅国? 黄国の方の島国だろ。年の内半分は雪氷だという。あそこの人種は黄金色の髪が特徴的だと聞くが、朱璃の髪は漆黒だせ。でも、そんな事いうのは何か心当たりがあるのか」

「ああ、でも本当に大したことではないのかも知れないが、朱璃は朝晩必ず白湯を飲む習慣がある。それからめっぽう酒に弱い。両親も酒が飲めない体質らしい」

「へ―それは珍しいな。この国で酒に弱い奴なんて見たことが無い。羅国人は酒に弱く、果実から作る弱い酒を好むと聞いたことがあるな」

「それを言うなら亜国人も酒が弱いと聞いたことがあるぞ。髪色だけで言うなら亜国も捨てがたい」
 話が横道に逸れてきている。

「よー。籐朱璃が溺れたって?」
 本陣に居たと思われる宗泉李が知らせを受けて戻って来たようだ。

「宗長官!」
「後で状況教えろ。先に診てくる」
 その一言だけで天幕へ入って行ってしまった泉李だったが、口調とは裏腹に泉李の瞳は笑っていなかった。

 3人は顔を見合わせた。詮索するなと釘を刺されたような気がし、再び朱璃について話すことはなかった。

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