香月探偵事務所

山本記代 (元:青瀬 理央)

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最終章 赦されざる欺瞞者は嗤う

case16. 優しくない甘さ

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 愛が香月探偵事務所に慣れ始めた頃「そろそろ良いだろう」と守樹が言い、マオと愛は振り返った。
マオは愛に漢字の読み書きを教えていたところだった。
愛は自身の名前である『愛』と、姉の『恋』そして『守樹』の漢字しか知らないと言う。

「守樹サン『良い』って何が?」

 マオが聞き返すと、守樹は「パレットしたへ行く。愛、着いてこい」と組んでいた脚を解く。

「え! ま、まだ早いんじゃない? って本人のタイミングが一番大事だよ、きっと」

「愛、行くぞ」

 愛は心底嬉しそうに顔を綻ばせる。

「うん」

 そして守樹の腕に自身のそれを絡ませると、ぎゅうと力を込め、ぐいぐいと守樹の頬に擦り寄り、焦るマオの言葉に耳を傾ける事無く無情にも扉は重い音を立てて閉められた。

「……本当に大丈夫か?」

――いやマジで。



 * * *



 やはり気になったマオはこっそりとパレットに足を運んでいた。
店に入ると頭にキンキンと金切り声に近い叫びが響き、何事かとマオは元凶を見やる。
守樹の後ろに隠れる愛から、苦笑いを浮かべる舞子に向けてのものだった。

その声で発せられる言葉は殆どが英語。
時折日本語も混ざっているが、叫ぶ本人も自分が何を言っているのかわかっていないらしい。

慌ててマオが駆け寄る。

「ほら! やっぱりパニック起こしてんじゃん! 守樹サンのバカ!」

「愛、一度落ち着け」

じゃ無理に決まってんじゃん! 戻るよ!」

 尚も騒ぐ愛の細く白い手首を掴むと、怯えた目で振りほどかれた。
目に涙を溜めた愛は突然走り出し、パレットを飛び出す。

「あ! おい!」

――仕事増やすな!

「守樹サン! 俺が行くから、守樹サンは事務所戻ってて! いいですか、電話が鳴ったら必ず出て下さいね! 必ずですよ!」

 声を上げながら走るマオの背中を見送った守樹はゆっくりと頭を垂れた。

――私には少々難しかった様だ。



 * * *



「……いた。――愛!」

 マオが愛を見付けたのは、あれから直ぐの事だ。

――まさかにいるとは……。

 守樹と舞子の思い出の詰まったあの公園だった。
 ベンチの前に佇み、目を閉じて上を仰ぐ愛の顔には優しい木漏れ日が揺れている。

 マオの声に、ゆっくりと目を開けた。

「……落ち着いたか?」

「…………」

 頷いた愛を確認したマオは参った様に笑うと、乱暴にベンチに腰を下ろす。

の事、知ってるか?」

 マオの問いに目を丸くした愛は、何やら考える仕草を見せたがわからなかったらしく、左右に首を振った。

――ふうん、知らねぇのか。守樹あいつの事なのに……。

 聞かせてやろうか、と言い掛けたマオだったが口を結んだ。

「そ……か」

  今はまだ舞子の話しはしない方がいいだろう、そう判断したからだ。
 会話も無くその場で過ごしていると子供の無邪気な笑い声が聞こえ、見ると幼い兄弟だろう、同じ服を身に纏った二人の男児がこちらへ駆けてきた。

二人は砂場に着くと、何がおかしいのか楽しそうな笑い声を上げながら遊び始める。
後に続いて一人の男性が入ってきた。
男性は優しげな面持ちで二人に言う。

「他の人の邪魔にならないようにするんだぞ」

――あれ? あの人どっかで……。

 見覚えのある男性を思い出そうと、マオは記憶の引き出しを家探しよろしくひっくり返す。

「――あ!」

 思わず声を上げたマオに、愛は首を傾げる。
 以前の素行調査で、その対象となった入江幸則だったからだ。
マオにとって初めての素行調査だった事もありよく覚えていたのだ。

幸則はマオと愛に気付くと軽い会釈をする。
釣られてマオも頭を下げ、愛にもそれを促す。

「こんにちは。今日は暖かい日ですね。お隣、よろしいですか?」

「こんにちは、どうぞ」

 隣に座った幸則は愛しそうに二人の子を見つめて目を細めた。
父性に満ちたその瞳からは、とても子供を放って不倫をする様な人物には思えなかった。
しかし同時に、彼の元妻が恐ろしいとも思った。

「……お子さん、ですか?」

 なんとなくマオは尋ねた。

――不倫相手とどうなったんだ?

 幸則はまた柔らかく笑う。

「ええ、そうです。君達は学生かな?」

「あ、はい。……大学生で、は弟なんです」

「そう、仲が良いんだね。も君達の様に、幾つになっても仲良くしてほしいものだよ」

 眉を下げて笑う幸則はどこか痛々しかった。
子供達に目を移すと、いつの間にか愛がそこに紛れて遊んでいた。

「……何で水を掛けるの?」

「その方が頑丈になるんだよ!」

 どうやら遊び方を教えて貰っているらしく、その微笑ましい光景に思わず笑みが零れたマオの視界の端に、カサリと音を立てる買い物袋が映った。

「それ、夕飯の買い物ですか?」

 マオの質問に幸則の肩が跳ねる。

「えっ、ああ、これ? そうなんだ。……恥ずかしながら、少し前に女房と離婚してね。……私の不倫が原因だったんだけど、余程腹を立てたのか親権も投げられてしまったよ。いや、この子達を残してくれてありがたいんだけどね」

「そう……だったんですか」

――知ってるけどな。

「すみません、言いづらいでしょうに……踏み込んでしまって」

 顔を逸らして謝罪を述べたマオに幸則は慌てて首を振って応えた。

「いやいや、良いんだ。……やっと誰かに話せて心がすいたよ」

 笑う幸則に、マオは更に踏み込む。

「差し出がましい様で申し訳ありませんが、今はと?」

「いいや。女房と離婚して直ぐ、その子にも別れを告げられたよ」

「大変だったんですね……」

「自業自得さ。すまないね、こんな話しを聞かせてしまって」

「……あの」

「何だい?」

「さっき『やっと誰かに話せた』と仰いましたけど、誰にも話していなかったんですか?」

「ああ、それ。みっともなくて知り合いは勿論、友人になんて特に話せないよ」

「子供達は、がいない事を?」

「まだ詳しくは話していないけれど、きっと子供ながら悟っていると思うよ。その証拠に、もうあんなに大きいのに夜泣きするんだ『お母さん、お母さん』って。あの子達から大切な唯一無二の母親を奪ってしまって、本当に申し訳ない」

 俯いて語る幸則に、マオは何と声を掛ければいいかわからなかった。

――聞きすぎたな。

 段々思考が霞み、ぼんやりとしながらマオが口を開く。

「案外、奪ったのは正義の味方かもしれませんよ」

「え?」

「例えば……」

――探偵、とか……ね?

 幸則はぷっ、と吹き出すと笑い声を上げた。

「探偵は正義の味方じゃないだろう?」

 ドキリとマオの心臓が音を立てる。

「じゃあ、何だと思います?」

「探偵は、弱い者の味方じゃないのかい?」

「弱い者……」

――あんたの元奥さん、全然弱くねぇぞ。

「僕の勝手なイメージだけどね。

大人になって社会に出てみると、信じられない程理不尽な事ばかりで『どうして平等じゃないんだろう』って頭を悩ませるけれど、不平等は常に平等に与えられていて、その中でもなんだよ。

だけど助けを求める事を躊躇ってしまって、どんどん渦に巻き込まれる……きっとそれが『大人の世界』なんだろうね。

探偵というものを僕はよく知らないけれど、依頼人の心に寄り添い、支えてあげる。
『大人の世界』から逸した、素晴らしい仕事だと思うよ。

なんて、偉そうに言っては怒られてしまうかな?」

 相変わらず眉を下げて笑う幸則は、その笑顔が癖の様だ。
 子供達と愛がこちらを見ていたかと思えば三人は顔を見合わせて、とたとたと走って来る。

「お父さん、何笑ってたの?」

「何が面白かったの?」

「マオ、お腹減った」

 マオはずっこけそうになるのを堪える。

「お前は何なんだよ。急に来たんだから、何も持ってるわけねぇだろ。……帰るか?」

 こくん、と頷いた愛に「行くぞ」と声をかけると、幸則が「飴で良かったらあるよ」と買い物袋を漁る。
慌ててマオが静止をかける。

「え! いえ、いいですよ、そんな!」

「構わないよ、この子達のおやつと別に買った物だから」

「でも……」

「あった、あった。綺麗だろう?」

「すみません、ありがとうございます」

「これ……何?」

 色とりどりの飴を指差して尋ねる愛に、マオは半ば呆れた様に「だから飴だっつの」と答えるが、愛は頭を捻るばかりだ。

「……あめ、の?」

 幸則がきょとんと愛を見るが、マオは「ああ」と納得した声を出す。

「雨じゃない、飴。キャンディーの事だよ」

「キャンディー」

「帰国子女なもんで……」

 汗を垂らすマオに幸則は「そうなんだ」と笑う。
 そして幸則から受け取った飴を口に含んだ愛は眉を顰めた。出て行った母、マニカの面影が脳裏を掠める。

『さようなら、私のシュガー』

――ああ、頭が痛い……。

「どうした?」

「……冷たい味がする。美味しくない、甘いだけ。……冷たい甘さ。俺が怖い味」

――まるで与えておけば良い、とでもいうような……。

「何だそれ? お前貰っておいて……すみません、日頃から注意はしてるんですが……」

「構わないよ。あんまりお口に合わなかったのかな? ごめんね」

 そう言って幸則も飴を口に放り込むと「ん!」と目を見開いた。

「え、どうしました?」

「これ飴じゃない、砂糖だ。君、ごめんね。驚いただろう?」

「ああ。これ、デザインシュガーですよ。底に書いてある」

「デザインシュガー?」

「お洒落な角砂糖、ですよ」

 頭を掻いた幸則にマオがくすりと笑う。

「案外抜けてるんですね」



 * * *



「ただいまー」

 事務所に戻ると、デスクに足を上げて林檎を齧る守樹の姿が目に飛び込んできた。
行儀の悪さに怒りを露わにするマオの横を通り過ぎ、愛は守樹に抱き着いた。

「帰ったか」

「守樹! ただいま」

「守ー樹ーサーン?」

 しかし例によって守樹はそんなマオを無視すると、愛を見ながら口を開く。

「愛、これから大樹がお前を迎えに来る。暫くお前は弁護士助手として過ごすんだ、いいな?」

「え、大樹さんが?」

 思わず口を挟んだマオに、守樹が頷いた。
愛が震える唇に力を込めたのがわかった……それはそうだろう。

――パニック、やっと落ち着いて帰ってきたらだもんな。、メンタルケアとか考えた事ぇだろ絶対。つーか考えなくても大体わかんだろ。サイコパスかよ。

「俺が要らないの?」

――……そうなるわな。

「守樹サン、今回ばかりはもう少し考えてあげた方が……」

「そうじゃない、よく聞け愛。お前はまだ頭が空っぽの子供だ。を知り、知識をつけろ。いつか見つかる『やりたい事』を諦めずに済む様に。に挑める様に知識を得、情報を得、お前の見える世界を広げるんだ。わかるな?」

「…………」

 愛の揺れる瞳を見据えて守樹は続ける。

「今のお前は正に乾燥したスポンジだ。いくらでも、何でも吸収出来る。やがてそれはあらゆる面においてお前の『力』となるはずだ。その為にはに居るばかりでは駄目だ。大樹に着いて、学んで来い」

「守樹じゃダメなの?」

「お前は私に依存し過ぎている。それでは

「…………」

また訊こう、香月探偵事務所ここに勤めるかと」

 影を差していた愛の顔が、僅かに明るくなった事を守樹とマオは見逃さなかった。

「うん」



 * * *



 その後直ぐに訪れた大樹に連れられ、愛は事務所を後にした。
二人が去った扉を見つめるマオは「守樹サン、随分思い切ったね」と笑った。
守樹は窓から下を歩く二人をまだ目で追っている。

「――可愛い子には旅をさせろ、というからな」

 面食らった様に固まったマオだが、それも直ぐに笑顔へと変わった。

「うん、そうだね。……また、二人だけになっちゃったね」

「きっと直ぐにそんな事も忘れる」

 ゆったりとした足取りでマオは守樹の後ろに立ちデスク凭れるように腰を落ち着けると、守樹の方へ手を伸ばしながら「さっきね」と切り出し、幸則と会った事を口にした。

「そうか」

 聞き終えた守樹から発せられたのは、その一言だけだった。

 マオは深い溜め息を吐きながら、未だ窓の外を見つめている守樹の後ろから、その肩口にトン、と額を落とした。

「守樹サン……どうしてって、奪う事の方が多いんだろうね」

「マオよ、私は奪う為にをしているわけではない」

 マオが僅かに身じろぐ。

「じゃあ、何?」

「さあな」

「何だよ、それ」

 笑ったマオの左手の小指と無表情の守樹の左手の薬指は、少しの空気の揺れでも離れそうな程に、脆く、優しく絡んでいた。
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