香月探偵事務所

山本記代 (元:青瀬 理央)

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第三章 色褪せた記憶

case09. 真実

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 ベルダが捕まった事で香月探偵事務所の臨時休業期間は終わり、早くも日常を取り戻していたマオはまるで肩の荷が下りた様に軽やかな足取りでビルの階段を下りる。

 階段を下りきると手すりを掴んでいた右手をそっと離し、その右手が下りる前に左手をトンと反対側の壁につく。
そして爪先も其処へ当てると、それを軸にグルリと体を反転させ今度は伸びきった右手をパレットのドアノブにぺチン、と音を立てて当てた。グッと指に力を入れてそれを引く。

「舞子さん、おはようございます!」

 笑顔を咲かせてパレットの扉を開けると、鼻を掠めたコーヒーの香りに胸がほっこりと温かくなる。

 客は居ないが自分で飲むためだろうか、コーヒーを淹れていた舞子は手を止めずに顔を上げた。
その表情は相変わらず愛想の良い笑顔だ。

「マオ君、おはよう。今日の新聞はこっち。カウンターにあるから持って行ってくれる?」

「ありがとうございます、いつもすみません。あと、今日の昼食お願いできますか?」

「もちろん! 何が食べたい?」

「俺は何でも好きなので、舞子さんのお手間にならない物をお願いします。守樹サンは林檎タルトが良いそうで……お願い出来ますか?」

「ホントにあの子ったら林檎ばっかり。しかもタルトなんてご飯にならないでしょうに……。ま、でもいいわ、任せて!」

「ありがとうございます。じゃあ正午過ぎにまた伺いますので、お願いします」



 * * *



 事務所に戻ると守樹は誰かと電話をしている様だったので邪魔にならない様努めるが、その通話は直ぐに終わった。
 それを確認したマオが口を開く。

「依頼ですか?」

「……いや、日奈子からだ」

「あ、そうなんだ」

「今度京都へ行く事になった」

「日奈子さんのとこ?」

「ああ。だがヘラヘラ笑って済ます事の出来る用ではないからな。その伸びきった鼻の下は隠す事を勧める」

「え、別に俺は……」

「何だ?」

「……なんでも」

 何を言っても無駄で、何を言っても言い訳になるだろうと察したマオは真顔で首を振った。

「コーヒー。それと……弾け」

「え、でもまだ資料庫の掃除が残ってるんだけど……」

「後で良い」

「……わかりました」

 そっぽを向いた守樹はドサッと荒々しく音を立ててソファに身を沈めると、目を閉じて上を向き、鼻から長い息を吐く。そして閉じていた目をそっと開き、虚ろに宙に彷徨わせる。

そのままゆっくりとした動作で膝を立てると、まるで何かを祈るかの様に両手の指先を突き合わせ、薄く形の良い唇にそっと当てる。

 漂うコーヒーの香りと、ヴァイオリンの音色。

――あ、何か考えてる?

 難解な謎解きをする時や気持ちを落ち着かせたい時は、決まってこのポーズをすると舞子から聞いていたマオは、その様子を見てぼんやり考える。

 しかし、自身のかき鳴らすヴァイオリンの音色が更にその集中力を上げている事をマオは知る由もない。



 * * *



――十分前 香月探偵事務所

 マオがパレットに昼食を頼みに出て直ぐ、電話の音が事務所に響いた。

 普段なら無視を決め込むところだが、マオが出る前に掛けていった言葉を思い出して眉間に皺を寄せながら、守樹は重い腰を上げた。

『守樹サン、俺が居ない時に電話があったら必ず! 必ずですよ、出てくださいね!』

 有無を言わさないといった表情の助手の顔が脳裏を過り、守樹は自嘲的な笑みを浮かべた。

――上手く飼い慣らされたものだ……。

 そう思いながら電話に出ると、品の良い訛りが耳に柔らかく聞こえた。

『守樹ちゃん? おはようさん、日奈子どす』

「ああ」

『ベルダの事件、解決したそうやねぇ』

 ピクリと僅かに守樹の眉が動く。

「ああ。だ」

 情報屋なのだから、わざわざこうして聞かずとも事件の真相は当事者の守樹が知るより詳しく知っているだろう。
そんな皮肉を込めて言葉を返す。
すると電話越しに日奈子がクスリと笑うのが分かった。

『なんやえらい辛口やなぁ。……そう、ほんなら良かったわ。今日はそれだけの用どす。守樹ちゃんも元気そうで良かったわ、ほなまた……』

「待て」

『どないしたん?』

「本当にそれだけの用か?」

『……そうやけど、何か気になる事でもあるん?』

「いや、それならいい」

『……そう』

「情報が買いたい」

『ほんなら、京都こっちへ来てもろてもええやろか? ちょっと都合がつかへんさかい……』

「そうだな、私が行こう。だろうからな」

『……わかりました、ほんならいつ頃にしはります?』

「また連絡する」

『へえ。待っとります』



 * * *




――数日後 午前五時

「守樹サン! 早く起きて!」

 いつもの事ながらマオの声がまだ入眠中の守樹の頭に大きく響き、低血圧の守樹は低い唸り声と共に眉間に皺を寄せた。

「守樹サンってば! もう! 直ぐに準備しないと日奈子さんとの約束の時間に間に合わないよ!」

 痺れを切らしたマオが守樹の掛け布団を引き剥がす。
それでも守樹に起床の気配は無く、尚も小さくベッドに丸くなったままだ。
そんな守樹をお構い無しにマオは肩に担ぎ上げ、洗面所へ駆け込む。

「ほら守樹サン! いい加減起きて! せめて歯磨きと着替えは済ませてよ!」

 やはり守樹は起きないので、誤嚥に気を付けながらマオは守樹の口腔ケアを済ませると着替えを引っ掴み、事務所を後にした。

――……やっぱレンタカーにして良かった。電車にしたらこうはいかねぇもんな。

 後部座席に転がる守樹の寝顔をルームミラーで確認しながら、マオは安堵の溜め息を吐いた。

 今日は日奈子と約束の日。京都へ向かう。
 各サービスエリアでマオは守樹に声を掛けるが、暢気に閉じた目が開く事はなかった。



 * * *



――京都 祇園

 マオが日奈子に指定された茶屋の前に車を停めると丁度茶屋の扉が開き、中から姿を現した日奈子は淡藤色にカキツバタ柄のシンプルなデザインの着物姿だった。

 日奈子は目を伏せながら軒を跨ぎ、ゆっくりと顔を上げると少し笑って首を傾げる様にマオに会釈をした。
その美しい姿と優雅な動作に、鼓動を高鳴らせながらマオは車を下りて挨拶をすると、茶屋から伊鶴が出てきたのを見て固まる。

――え……男?

 日奈子は伊鶴の手にそっと自分のそれを重ねると、二人は目を合わせてふんわりと口角を上げた。
まるで恋人同士の様な優しい眼差しで互いを見つめ合う二人に、マオは一瞬たじろいだ。

「ほんなら伊鶴はん、行ってきます」

「ウン。気ぃ付けてな、

 日奈子は少しはにかむ様に笑うと、優しく細められた目をマオに向け「お願いします」と静かに告げた。
マオはぎこちなく笑って応えるとチラリと目線を伊鶴に投げ、狐を思わせる細い目が僅かに見開かれたのを見て、背筋に冷たい感覚を覚えると同時にすぐさま目を逸らして後部座席の扉を開けた。

「ひ、日奈子さん、どうぞ」

「おおきに」

「久しぶりだな、日奈子」

「へえ。守樹ちゃんもお元気そうで」

「守樹サンッ!」

――おま……起きてたならお前、起きてたなら!

 伊鶴との対面に萎縮してしまったマオは助けて欲しかったという思いで守樹を呼び、拳を震わせるが守樹はしれっと「何だ」と小首を傾げるだけだった。



 * * *



「ああ、ここどす。もう少し先に駐車場が……」

 日奈子の指示に従い車を停め、茶屋に入ると個室に通された。
どうやら他に客は居ないらしく、店内に小さな音量で流れている琴の優しい音色が耳に入った。

 それぞれが着席すると「失礼します」という落ち着いた声の後、個室の襖障子が静かに開いた。
着物姿の若い女性がホットコーヒーをそっと置く。

 マオは会釈をしながら小さく礼を述べると、女性は少し微笑んでから日奈子を見やる。
日奈子が同じ様に微笑み返し「三十分したらお茶お願いね」と伝えると、女性は「へえ」と応え個室を後にした。

 摺り足の様な独特の足音が遠ざかるのを確認した日奈子は伏せていた目をゆっくりと上げて守樹とマオを見据えると、柔らかく口角を上げた。

「ここはどす。はウチの唯一信頼する舞妓。今日は稽古を休ませてここで商売させとります。

……ああ、そうや、因みにの事は知りまへんえ。……京の芸者は口が堅い。せやからこそ、ウチはが出来るんどす」

 日奈子が言い終わるや否や、守樹は咎める様に鋭い目を向けた。

「私達にとってそれはどうでもいい事だ。があるのは日奈子、お前の方だろう」

 日奈子がぐっと押し黙った事に気付かず、守樹の言葉の意味を理解しきれないマオが声を上げた。

「ちょ、ちょっと守樹サン、何言ってるの?」

 普段感じた事のない、守樹の纏うピリピリとした雰囲気にマオの瞳が不安げに揺れる。
そんなマオを一瞥した守樹は、日奈子に目を戻す。

「ベルダの事件が解決した後、何故お前は私に連絡を寄越したんだ?」

「それは、で買わはった情報おはなしがお役に立てたんか気になって……」

「日奈子、私をたばかるか。お前はあの時電話で私に『元気か』と聞き、最後は『それだけの用だ』と言った……。覚えているか?」

「……せやったやろか? あきまへんなぁ、昨日のお酒が……まだ、残ってるんやろか?」

 目を伏せながらそう言った日奈子は一筋の冷や汗を流したが、構わず守樹は続ける。

「更にお前は私が情報を買いたいと告げると、いつもはお前から出向いてくるにも関わらず、この京都を指定した。

はお前自身が私達に確認したい事があるからか……何にせよ、があったからだろう」

 マオは最早相槌すら打たない日奈子を心配そうに見つめながら、守樹の言葉を待つ。

「日奈子、『何故あんな電話を掛けてきたのか』『何故京都を指定したのか』『カロスの子供について』全て話せ、今日買いたいと言った情報はお前の言葉それだ」

 それから数分、口を開かなかった日奈子だったががやってきたらしく、運ばれてきた温かい緑茶を一口含むと「今日はお上がりよし」と舞妓の女性に伝え、店には守樹、マオ、日奈子の三人だけとなった。

 やがて静かに息を吐いた日奈子が、ゆっくりと顔を上げて口を開いた。

「ウチが守樹ちゃんに電話を掛けたのは、舞子が守樹ちゃんと今まで通り仲良う出来てはるか心配やったからどす。
京都ここを指定した理由は、守樹ちゃんがもしかしたら気付いてもうてるかもしれへんと、勘繰ったから……」

 一度下を向いた日奈子だったが、覚悟を決めた様に真っ直ぐな強い目で、はっきりと言葉を紡いだ。

「舞子が……」

































――……カロスの娘やと。
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