香月探偵事務所

山本記代 (元:青瀬 理央)

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第三章 色褪せた記憶

case10. 守樹と舞子

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 ベルダの事件が一段落し、漸く香月探偵事務所が平穏を取り戻した事を舞子が実感したのは、軽やかな足取りで階段を駆け下りてきたマオを視界の端に捉えた時だった。

 マオは取りに来た新聞片手に昼食を注文すると来た時同様、まるで鼻歌でも聞こえそうなステップを踏みながら事務所へ戻っていった。
 マオが来店した様子を思い出す。

――私があんな風にこの扉を開けたら、きっとこのフレアスカートがふんわり空気を含むのかしら?

 マオの姿を自分に置き換えて想像した舞子は小さく笑った。

――今度真似してみよう。

 しかし直ぐに笑顔は薄れ、ティーカップを磨く手も止まった。
そして窓の方に目をやり、いつかと同じ様にぼんやりと雲ひとつない青空に目を細めた。



 * * *



 舞子が守樹と初めて出会ったのは十五年前の事だ。

当時六歳だった舞子は幼稚園に通っていたが帰宅するや否や家に上がる事もせず遊びに出てしまう、活発で好奇心旺盛な性格だった。
持ち前の明るさで、いつも多くの友人に囲まれ充実した毎日を送っていた。

 ある日、いつものように近所の公園に駆け足で向かうと誰も居らず、ガランとしている事に気づいた舞子は足を止め、乱れた呼吸を整えながら辺りを見渡す。

――今日は誰も来ない日なんだ。

 そう結論付けて踵を返そうとした時、空色のベンチに小さな影を見つけた。

「あなたはだあれ?」

 小さな手に似つかわしくない大きくて重たそうな本に目を落としていた、当時四歳の守樹はその声に顔を上げた。

「…………」

 大きなクリクリとした紫色の瞳を揺らすばかりで、何も答えない守樹に舞子はとびきりの笑顔を見せる。

「私はね、舞子よ! いつもここで遊んでるの。あなたは?」

 守樹は気まずそうに目を伏せながら小さく答える。

「……こーづき」

「コーヅキ?」

 守樹は頷く。

「いくつ? 私六歳」

「……四歳」

「いつもここに来るの?」

「……お母さんがお買い物に行く時だけ」

「ここで待ってるの?」

 守樹はまた頷いた。
どうやらあまり口数の多い子ではないらしい事を悟った舞子は「ふうん」と返すとそれ以上は何も言わずに守樹の隣に座り、今度は静かに声を掛ける。

「ねぇコーヅキ、その本何が書いてあるの?」

「……いろいろ」

「面白い?」

「……まだ読めない字があるから、見てるのは絵だけ」

「そうなの」

 そう言って舞子は大きな本を覗き込むと「わあ!」と声を上げた。
至近距離で大声を聞いた守樹は不機嫌そうに睨む。

「……なに」

「これってお月さま? すっごく綺麗だね!」

「……うん」

 決して笑ってはいないが、目元を赤らめて恥ずかしそうに目を泳がせる守樹はどこか嬉しそうだ。

「コーヅキはここに来る日はいつもこの本を見てるの?」

「……うん」

「そっか! じゃあ今度会ったらまた見せてくれる?」

「……いいよ」

「ありがとう!」

 その時、女性の声が守樹を呼んだ。

「お待たせー」

「お母さん」

 守樹はその声に顔を上げると、買い物袋を下げながら公園に入ってきた母親の元に駆け寄った。なんとなく舞子もベンチから降りる。
 守樹の母親は優しそうな笑顔で舞子に近づくと、舞子の目線に合うようにその場にしゃがみ込む。

「こんにちは、お姉さん。守樹と遊んでくれてたの?」

「……?」

 首を傾げた舞子を見て「あらあら」と困った様に笑った。

「またこの子ったら、下の名前を言わなかったのね」

 そう言われた守樹は母親の腕にグイグイと顔を押し付けながら、バツが悪そうに唇を尖らせる。

「だって……」

 そんな守樹を気にも留めず、舞子はケロリと言い放つ。

「コーヅキは、スナっていうの?」

「…………」

 何故か拗ねてしまった本人の代わりに母親が謝りながら答える。

「そう、守樹よ。香月守樹」

で呼んでほしい?」

 舞子が問うと、チラリと目を覗かせたかと思えば直ぐに逸らされる。
しかし、小さな声で「守樹」と聞こえたのを舞子の耳は逃がさなかった。

最初に声を掛けた時と同様に満面の笑みを浮かべた舞子は、大切そうに本を抱き締める守樹の手に自分の手をそっと重ね、元気な笑顔とは裏腹に「よろしくね」と静かに優しく伝えると守樹は恥ずかしそうに少し俯きながら小さく頷いた。

 これが二人の出会いだった。

 それから舞子は他の友人達と遊ぶよりも守樹とベンチで本を眺めながら静かに過ごす事が多くなり、その中には会話のない日もあったが不思議とそれは居心地の悪いものではなく、寧ろ一番居心地が良く落ち着く時間だった。

一方の守樹も母親と買い物に行かない日でも本を抱えて公園に足を向ける事が増え、兄の大樹は最初こそ心配でこっそりと後を尾けていたが、やがてそれは可愛い妹分二人の手を引いて送迎するものに変わっていった。

 後に舞子が『何故コーヅキと名乗ったのか』と尋ねると、『スナ』にあやかり、保育所で砂をかけられた事が何度もあったからだと答えた。


 * * *



 そうして、四年の月日が流れたある時、舞子がぼんやりと空を眺めながら言った。

「……ねぇ守樹、私引っ越すの。何処かはわからない……お父さんの居ないところ」

 いつも通り活字もそこそこに眺めるだけの読書をしていた守樹は、その言葉に応えるより先に舞子の視線を追い、同じように雲ひとつない空を仰いだ。

「…………」

「…………」

 会話はない。

 守樹はせめて何か声を掛けてやりたかったが気の利いた言葉が浮かばず、結局その日は何も話さないまま、閉じた本を開く事も無く空を見て過ごした。

 次の日、読むかわからない本を抱えて公園に向かった守樹だったが、隣に舞子が腰を下ろす事はなかった。
そっと本を膝に伏せ、昨日と同じ様に空を見上げる。

――せっかく、舞子の座る場所を空けておいたのに……。

 涙が一粒、守樹の頬を伝った。
言葉こそ交わしはしなかったが、きっともうこの公園に舞子が来る事はないんだと確信した。

――せめてこの涙を、見せてやれれば良かった。

 守樹の名前を笑わなかったのは舞子が初めてだった。



 * * *



 それから六年間、守樹は舞子が公園に来なくなってからも毎日通い、あの頃と変わらずベンチに腰かけていた。
空色だったベンチは少しだけ色褪せている。
十四歳になった守樹は本に並ぶ活字を読み、意味を理解出来るようになっていた。

 ザリ、という砂の擦れる音と共に視界の端に映ったのは焦げ茶色のローファーだ。

――あなたはだあれ?

 そう聞かれた気がして勢い良く守樹が顔を上げると、目を細めながら昔を懐かしむ様に僅かに唇を震わせながら、六年前の面影を残した変わらない笑顔の舞子が其処に居た。

「…………」

「…………」

 まるで昨日まで会っていたかのように自然に守樹の隣に腰を下ろした舞子は、最後に会った日と同じく空を見上げた。
ただ少し違うのは、それは空を見た訳ではなく涙を堪える為のものだという事。

「帰ったのか」

 相変わらず落ち着いた声色の守樹の言葉に舞子は頷く。

「そうか」

 また流れた沈黙。しかしやはり心地が良い。

「それ」

 口を開いたのは舞子。

「?」

 守樹が舞子の方を見ると、舞子の目は守樹の持つボロボロの本に落とされていた。
初めて二人が出会った日から飽きもせず守樹が毎日読んでいた本だ。舞子が顔を上げる。

「読めるようになった?」

「……流石にな」

「そう」

 ふんわりと笑った舞子に、顔には出ていないが守樹の心が綻んだ。

 暫く二人で過ごしていると、守樹を呼ぶ声が聞こえた。

「ばあちゃん!」

 守樹はベンチから飛び降りると駆け足で祖母の元へ向かう。
慌てていたのだろうか、本をベンチに置いたままだと気付いた舞子が後を追った。

「守樹、忘れ物よ」

「ああ。悪いな」

 守樹の祖母は背が低くふくよかで、どこか愛おしさを感じさせる人物だと舞子は思った。

「守樹のおばあちゃん?」

「ああ。カロスを知ってるか? 舞子が引っ越してすぐ、そいつに母さんが殺されたんだ。元々父親はいなかったから今は母方の祖母の家に世話になってる」

『母さん』という大人びた呼び方と衝撃の事実に反応出来ないでいた舞子に、守樹の祖母はゆっくりと頭を下げた。

「はて、どこのお嬢さんかな? 守樹と遊んでくれてありがとうね」

――あ、守樹のお母さんと同じだ。

 舞子も頭を下げて挨拶を済ませると、守樹が焦った様に祖母に言う。

「ばあちゃん、もう夕方だ。外は冷えるし帰ろう」

「ああ、そうだねぇ。お嬢さんも気を付けてね」

「はい、ありがとうございます。さようなら」



――ふうん、守樹っておばあちゃんの前だとあんななんだ。
それに、お母さん亡くなってたんだ……。優しくて良いお母さんだったのにな……。
守樹、泣いたのかな?
守樹のおばあちゃんの家ってどこなんだろう?
近いのかな?
今中学生だよね、何処の学校なんだろう?
友達いるのかな?

――舞子の制服、何処の学校のだ?
いつ帰ってきたんだ?
今は何処に住んでるんだ?
何故またこの公園に来たんだ?
父親とはどうなったんだ?



――私達は一緒に居る事が多かったのに、知らない事だらけだ……。

――でも、私にとってあなたは唯一の光で、道標。

――また、この優しい木漏れ日の差す静かなベンチで過ごそう。



「舞子、お前に聞きたい事がある」

 ゆっくりと顔を上げた舞子の顔には、悲しそうな儚い笑みが浮かんでいた。









――私の場所を、空けておいて……。
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