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第五章
希少種は大事にされている
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思えば約束もなく突然誰かの屋敷を訪ねるのははじめてだった。
エミーは勢いのままユリウスの屋敷まで走ってきたが、もちろん訪れる旨を伝えていなかったのだから、出迎える者もいない。ここまで来たものの、どうしたものかと屋敷の外をしばらくうろうろとした。
が、屋敷からは誰も出てくる気配はなく、時間だけが過ぎていく。このまま家まで引き返そうか。後ろ向きな自分が顔をのぞかせはじめ、エミーは意を決して玄関扉を開けた。
見慣れた吹き抜けの玄関ホール。そこに置かれたベンチで希少種があのシマリスと一緒に座っていた。希少種は驚いたようにエミーを見、慌てて立ち上がるとぺこりと頭を下げた。希少種は、またシンプルなワンピース姿だ。新緑の緑のような色鮮やかなワンピースで、色白の希少種によく似合っている。シンプルだが幅広の襟が上品さを出し、腰で結んだ大きなリボンが細い腰を際立たせる。考えつくされたワンピースひとつとっても、この屋敷で希少種が大事にされていることが伝わってきた。
エミーはにこっと希少種に笑いかけた。
ユリウスの妻になるには、この希少種と上手くやっていかなければいけない。そう思ったことを思い出した。
エミーが笑いかけると、希少種はほっとしたように肩の力を抜いた。
「あの、この間はごめんなさい。その、助け起こさなくて」
希少種はこの間のことを謝って、ぺこりと頭を下げる。短い真っ直ぐな黒髪がさらさらと流れる。きれいだった。色白のうなじも、ワンピースの裾からのぞく細い足首も、何もかもきれいだった。希少種は、この間屋敷で会った時と少し雰囲気が変わった。少年っぽい少女という雰囲気だったが、ちょっと女らしくなったように見える。
この間からさほど時間は経っていないのに不思議だ。
素直に頭を下げられて、エミーは「いいのよ」と返した。ここは寛大な女主人となれるところを見せないといけない。
「私が勝手に驚いて転んだだけだから。気にしないでちょうだい」
大きな心でそう言うと、希少種はほっとしたように息をついた。
なんだ。案外素直でいい子じゃないの。
これならば、上手くやっていけるかもしれない。
光明が見えた気がしてエミーは気を良くした。
でも、自分はあくまで女主人。この子は奴隷だ。上下関係はちゃんとしていなくてはいけない。
「ユリウス様はいらして?」
「あ、いえ、まだです。ユリウスに御用ですか?」
「ええ、そうね。それならカレルを呼んできてちょうだい」
「はい。ただいま」
受け答えは悪くない。ユリウスを呼び捨てにするのは直させないといけないが。
希少種はすぐにカレルを連れて戻ってきた。
「お約束されていらっしゃいましたでしょうか。寡聞にして存じ上げず、案内もせずご無礼いたしました」
カレルは「さっ、こちらへどうぞ」と奥の応接間へと案内する。
「約束はしていません。こちらこそ突然訪ねてごめんなさい」
カレルはユリウスの大事な執事だ。彼のことはちゃんとたてないと。そう思って丁寧に答えた。カレルは、「そうでございましたか」とエミーにソファをすすめ、すぐにリサがお茶を運んできた。希少種は側で突っ立ったままだ。
「そこのあなた。歩いてきたから靴が汚れましたの。拭いてくださる?」
靴拭きは奴隷の仕事だ。カレルとリサの手前、一応丁寧に頼むと、希少種はきょとんとした顔をした。聞こえなかったのかとエミーはもう一度言った。
「そう。希少種のあなたよ。お願いできて?」
希少種は自分に言われたと理解したようだ。どうしたらいい?というようにリサに助けを求める。
「失礼ながら」
カレルがさっと割って入った。
「ルカは靴拭きの仕事は致しません。お気になるようでしたら私が磨かせていただきます」
リサが希少種をかばうように後ろへ下がらせる。カレルは懐から布を取り出すと、「失礼いたします」とエミーの足元に跪いた。
違う。エミーはうろたえた。ユリウスの大事な執事に、そんなことさせたいわけではない。
「やめてください。私は奴隷に頼んだのです。カレルにしていただくわけにはいきません」
さっと足を引くと、カレルは心底困ったようにエミーを見上げた。
「しかしお足元が気になるのでは?」
「だからそこの奴隷に磨かせればいいでしょう。あなたがなさる必要はないわ」
「そういうわけにはまいりません。ルカは確かにユリウス様の奴隷としてここにおりますが、ユリウス様にとって大事なお方。靴磨きをさせるわけにはまいりません」
「大事なって、そんなたかが―――」
ユリウス様の欲を受け止めるだけの性奴隷のくせに。
喉元まででかかった言葉はなんとか飲み込んだ。
でも、寛大な女主人を気取ることや、希少種と上手くやっていけるところをみせることも、この瞬間頭から吹き飛んだ。カレルとリサ、この屋敷の者が一丸となって希少種を守ろうとしている。こんな、たかが性奴隷のために。
頭にかぁっと血がのぼった。こんなに屈辱的なことはない。いつだってエミーは一番だった。兄のコーバスも、年老いた両親も、みんなエミーを一番に考えて大事にしてくれる。みんなみんなエミーエミーと可愛がってくれる。それが、この屋敷では通らない。通らないばかりか、今エミーは、この性奴隷の希少種よりも下に見られたのだ。
「下がりなさい、カレル」
エミーは厳しくカレルをはねのけた。エミーは男爵家の令嬢、カレルとリサはたかが無爵位の使用人だ。立場はエミーの方が圧倒的に上だ。
エミーが強く出ると、カレルはさっと身を引いた。
「ご無礼いたしました」
「そこの希少種。カレルから布を受け取って早く来なさい。私の靴を磨くんですのよ」
「エミー様」
カレルはなおも食い下がったが、エミーは構わず「早くなさい」と希少種に命じた。
希少種はきょときょとしながらも、エミーの命じた通りカレルの握りしめた布を取るとエミーの足元に跪いた。
「したことがないので、上手くできるかわかりませんが」
希少種はそう前置いてエミーの靴を拭き始めた。
なんだ。やればできるじゃないの。
自分の足元に跪いて靴を磨く希少種を見下ろすのは気分がよかった。少し溜飲が下がる。でも、黒髪の間からのぞいた白いうなじに、情事のあとと思われる赤い痕を見つけて、エミーはまた抑えがたい怒りが沸き起こった。
やっぱり。この子は本当にユリウス様と。
わかってはいたけれど、現実を突きつけられたようで愕然とした。
ああ、この子は本当にユリウス様とベッドを共にし、睦み合う関係なのだ。そして、カレルやリサまで籠絡して、この屋敷に居座っているのだ。これではエミーがユリウスの妻になっても、この希少種はこの屋敷で大きな顔をし続ける。
もっともっと貶めて立場をわからせなければいけない。自分は奴隷であり、ただの性欲処理の道具なのだと知らしめなければいけない。そうでなければ、エミーの妻としての立場が成り立たなくなる。
一心に靴を磨く希少種を見下ろしていると、一旦は収まりかけた怒りが膨れ上がり、エミーは足をあげると希少種の胸に靴底をつけた。新緑のワンピース。こんなものを着て、生意気だ。
エミーは靴底の泥をそのワンピースの胸元になすりつけた。希少種は驚いたような顔をしてエミーを見上げる。その黒い瞳にもエミーは苛立ち、目を見たまま靴底で希少種の胸を思い切り押した。
希少種はあっけないほど簡単に後ろへ転がった。ガシャンっと派手な音を立て、ローテーブルの上に希少種の上半身がのけぞり、並べられていた茶器が割れて散らばる。
「ルカっ!」
リサが慌てて駆け寄り、希少種を助け起こした。割れた茶器で切れたのだろう。希少種の頬に線となって血が滲んでいる。いい気味だ。
「ルカ。血が」
希少種は切れた頬を触り、指についた血を見て弱々しく笑った。
「大丈夫。そんなに痛くないから」
「いけません。早くノルデンに手当てしてもらいましょう」
リサがそう言うそばから、カレルは部屋を飛び出していった。リサは希少種を立たせると胸についた泥を払い、スカートと髪を整え、「さぁ行きましょう」と希少種の手を引く。するとカレルが慌ただしく戻ってきて、侍医のノルデンを連れてきた。
ノルデンはテーブル上の惨状に眉をしかめ、ルカの顔の傷を見るとエミーの向かいのソファに座らせた。
消毒液やガーゼなど、ノルデンは手早く取り出すと傷の手当をはじめる。
「ノルデン、傷は残りますか?」
リサが心配そうに聞く。たかが奴隷の怪我に大げさだ。ノルデンは、「いや、大丈夫ですよ」と傷を確かめ答える。
「ごく浅い傷ですからな。傷跡の心配は無用です」
それを聞いてリサだけではなくカレルまでほっとしたように息を吐き出した。
「よかった。万が一顔に傷跡が残るようなら、留守を預かる身としてユリウス様に申し訳が立たないところでした」
カレルが言えばリサも
「本当ですわ。でもこの傷を見たらなんとおっしゃることか。ユリウス様はめったに怒らない方ですが」
「わたし、大丈夫だよ?」
カレルとリサの言葉に、希少種は元気なところを見せようとしたのだろう。ばっと立ち上がった。そしてエミーにぺこりと頭を下げる。完全に蚊帳の外に置かれていたエミーは、希少種の行動に戸惑った。蹴りつけた相手に頭を下げるってどういう意味なのかしら。
混乱するエミーをよそに、希少種は倒れた時の衝撃で落とした布を拾い上げると
「まだ途中でしたので、続けさせていただきます」
とまたエミーの靴を磨こうとする。呆気に取られるエミーを前に、そんな希少種をカレルが断固とした口調で止めた。
「なりません、ルカ。もうしなくてよいのです」
「そうなの? だってカレルもリサも困ってたから」
「申し訳ございません。ルカ。私の対応が間違っておりました。エミー様には私からもっときちんとお断りすべきでした」
そしてカレルはエミーに向き直り、腰を九十度折って頭を下げた。
「ご無礼は承知で申し上げます。ルカはエミー様の奴隷ではございません。申し付けるならば私かリサにお願いいたします。ユリウス様の執事として、私にはユリウス様の大事なお方を守る義務がございます。これ以上のご無理をお聞きすることはできません」
カレルの口からはっきりきっぱり告げられた時、開いたままだった応接間の扉からユリウスが顔を出した。
エミーは勢いのままユリウスの屋敷まで走ってきたが、もちろん訪れる旨を伝えていなかったのだから、出迎える者もいない。ここまで来たものの、どうしたものかと屋敷の外をしばらくうろうろとした。
が、屋敷からは誰も出てくる気配はなく、時間だけが過ぎていく。このまま家まで引き返そうか。後ろ向きな自分が顔をのぞかせはじめ、エミーは意を決して玄関扉を開けた。
見慣れた吹き抜けの玄関ホール。そこに置かれたベンチで希少種があのシマリスと一緒に座っていた。希少種は驚いたようにエミーを見、慌てて立ち上がるとぺこりと頭を下げた。希少種は、またシンプルなワンピース姿だ。新緑の緑のような色鮮やかなワンピースで、色白の希少種によく似合っている。シンプルだが幅広の襟が上品さを出し、腰で結んだ大きなリボンが細い腰を際立たせる。考えつくされたワンピースひとつとっても、この屋敷で希少種が大事にされていることが伝わってきた。
エミーはにこっと希少種に笑いかけた。
ユリウスの妻になるには、この希少種と上手くやっていかなければいけない。そう思ったことを思い出した。
エミーが笑いかけると、希少種はほっとしたように肩の力を抜いた。
「あの、この間はごめんなさい。その、助け起こさなくて」
希少種はこの間のことを謝って、ぺこりと頭を下げる。短い真っ直ぐな黒髪がさらさらと流れる。きれいだった。色白のうなじも、ワンピースの裾からのぞく細い足首も、何もかもきれいだった。希少種は、この間屋敷で会った時と少し雰囲気が変わった。少年っぽい少女という雰囲気だったが、ちょっと女らしくなったように見える。
この間からさほど時間は経っていないのに不思議だ。
素直に頭を下げられて、エミーは「いいのよ」と返した。ここは寛大な女主人となれるところを見せないといけない。
「私が勝手に驚いて転んだだけだから。気にしないでちょうだい」
大きな心でそう言うと、希少種はほっとしたように息をついた。
なんだ。案外素直でいい子じゃないの。
これならば、上手くやっていけるかもしれない。
光明が見えた気がしてエミーは気を良くした。
でも、自分はあくまで女主人。この子は奴隷だ。上下関係はちゃんとしていなくてはいけない。
「ユリウス様はいらして?」
「あ、いえ、まだです。ユリウスに御用ですか?」
「ええ、そうね。それならカレルを呼んできてちょうだい」
「はい。ただいま」
受け答えは悪くない。ユリウスを呼び捨てにするのは直させないといけないが。
希少種はすぐにカレルを連れて戻ってきた。
「お約束されていらっしゃいましたでしょうか。寡聞にして存じ上げず、案内もせずご無礼いたしました」
カレルは「さっ、こちらへどうぞ」と奥の応接間へと案内する。
「約束はしていません。こちらこそ突然訪ねてごめんなさい」
カレルはユリウスの大事な執事だ。彼のことはちゃんとたてないと。そう思って丁寧に答えた。カレルは、「そうでございましたか」とエミーにソファをすすめ、すぐにリサがお茶を運んできた。希少種は側で突っ立ったままだ。
「そこのあなた。歩いてきたから靴が汚れましたの。拭いてくださる?」
靴拭きは奴隷の仕事だ。カレルとリサの手前、一応丁寧に頼むと、希少種はきょとんとした顔をした。聞こえなかったのかとエミーはもう一度言った。
「そう。希少種のあなたよ。お願いできて?」
希少種は自分に言われたと理解したようだ。どうしたらいい?というようにリサに助けを求める。
「失礼ながら」
カレルがさっと割って入った。
「ルカは靴拭きの仕事は致しません。お気になるようでしたら私が磨かせていただきます」
リサが希少種をかばうように後ろへ下がらせる。カレルは懐から布を取り出すと、「失礼いたします」とエミーの足元に跪いた。
違う。エミーはうろたえた。ユリウスの大事な執事に、そんなことさせたいわけではない。
「やめてください。私は奴隷に頼んだのです。カレルにしていただくわけにはいきません」
さっと足を引くと、カレルは心底困ったようにエミーを見上げた。
「しかしお足元が気になるのでは?」
「だからそこの奴隷に磨かせればいいでしょう。あなたがなさる必要はないわ」
「そういうわけにはまいりません。ルカは確かにユリウス様の奴隷としてここにおりますが、ユリウス様にとって大事なお方。靴磨きをさせるわけにはまいりません」
「大事なって、そんなたかが―――」
ユリウス様の欲を受け止めるだけの性奴隷のくせに。
喉元まででかかった言葉はなんとか飲み込んだ。
でも、寛大な女主人を気取ることや、希少種と上手くやっていけるところをみせることも、この瞬間頭から吹き飛んだ。カレルとリサ、この屋敷の者が一丸となって希少種を守ろうとしている。こんな、たかが性奴隷のために。
頭にかぁっと血がのぼった。こんなに屈辱的なことはない。いつだってエミーは一番だった。兄のコーバスも、年老いた両親も、みんなエミーを一番に考えて大事にしてくれる。みんなみんなエミーエミーと可愛がってくれる。それが、この屋敷では通らない。通らないばかりか、今エミーは、この性奴隷の希少種よりも下に見られたのだ。
「下がりなさい、カレル」
エミーは厳しくカレルをはねのけた。エミーは男爵家の令嬢、カレルとリサはたかが無爵位の使用人だ。立場はエミーの方が圧倒的に上だ。
エミーが強く出ると、カレルはさっと身を引いた。
「ご無礼いたしました」
「そこの希少種。カレルから布を受け取って早く来なさい。私の靴を磨くんですのよ」
「エミー様」
カレルはなおも食い下がったが、エミーは構わず「早くなさい」と希少種に命じた。
希少種はきょときょとしながらも、エミーの命じた通りカレルの握りしめた布を取るとエミーの足元に跪いた。
「したことがないので、上手くできるかわかりませんが」
希少種はそう前置いてエミーの靴を拭き始めた。
なんだ。やればできるじゃないの。
自分の足元に跪いて靴を磨く希少種を見下ろすのは気分がよかった。少し溜飲が下がる。でも、黒髪の間からのぞいた白いうなじに、情事のあとと思われる赤い痕を見つけて、エミーはまた抑えがたい怒りが沸き起こった。
やっぱり。この子は本当にユリウス様と。
わかってはいたけれど、現実を突きつけられたようで愕然とした。
ああ、この子は本当にユリウス様とベッドを共にし、睦み合う関係なのだ。そして、カレルやリサまで籠絡して、この屋敷に居座っているのだ。これではエミーがユリウスの妻になっても、この希少種はこの屋敷で大きな顔をし続ける。
もっともっと貶めて立場をわからせなければいけない。自分は奴隷であり、ただの性欲処理の道具なのだと知らしめなければいけない。そうでなければ、エミーの妻としての立場が成り立たなくなる。
一心に靴を磨く希少種を見下ろしていると、一旦は収まりかけた怒りが膨れ上がり、エミーは足をあげると希少種の胸に靴底をつけた。新緑のワンピース。こんなものを着て、生意気だ。
エミーは靴底の泥をそのワンピースの胸元になすりつけた。希少種は驚いたような顔をしてエミーを見上げる。その黒い瞳にもエミーは苛立ち、目を見たまま靴底で希少種の胸を思い切り押した。
希少種はあっけないほど簡単に後ろへ転がった。ガシャンっと派手な音を立て、ローテーブルの上に希少種の上半身がのけぞり、並べられていた茶器が割れて散らばる。
「ルカっ!」
リサが慌てて駆け寄り、希少種を助け起こした。割れた茶器で切れたのだろう。希少種の頬に線となって血が滲んでいる。いい気味だ。
「ルカ。血が」
希少種は切れた頬を触り、指についた血を見て弱々しく笑った。
「大丈夫。そんなに痛くないから」
「いけません。早くノルデンに手当てしてもらいましょう」
リサがそう言うそばから、カレルは部屋を飛び出していった。リサは希少種を立たせると胸についた泥を払い、スカートと髪を整え、「さぁ行きましょう」と希少種の手を引く。するとカレルが慌ただしく戻ってきて、侍医のノルデンを連れてきた。
ノルデンはテーブル上の惨状に眉をしかめ、ルカの顔の傷を見るとエミーの向かいのソファに座らせた。
消毒液やガーゼなど、ノルデンは手早く取り出すと傷の手当をはじめる。
「ノルデン、傷は残りますか?」
リサが心配そうに聞く。たかが奴隷の怪我に大げさだ。ノルデンは、「いや、大丈夫ですよ」と傷を確かめ答える。
「ごく浅い傷ですからな。傷跡の心配は無用です」
それを聞いてリサだけではなくカレルまでほっとしたように息を吐き出した。
「よかった。万が一顔に傷跡が残るようなら、留守を預かる身としてユリウス様に申し訳が立たないところでした」
カレルが言えばリサも
「本当ですわ。でもこの傷を見たらなんとおっしゃることか。ユリウス様はめったに怒らない方ですが」
「わたし、大丈夫だよ?」
カレルとリサの言葉に、希少種は元気なところを見せようとしたのだろう。ばっと立ち上がった。そしてエミーにぺこりと頭を下げる。完全に蚊帳の外に置かれていたエミーは、希少種の行動に戸惑った。蹴りつけた相手に頭を下げるってどういう意味なのかしら。
混乱するエミーをよそに、希少種は倒れた時の衝撃で落とした布を拾い上げると
「まだ途中でしたので、続けさせていただきます」
とまたエミーの靴を磨こうとする。呆気に取られるエミーを前に、そんな希少種をカレルが断固とした口調で止めた。
「なりません、ルカ。もうしなくてよいのです」
「そうなの? だってカレルもリサも困ってたから」
「申し訳ございません。ルカ。私の対応が間違っておりました。エミー様には私からもっときちんとお断りすべきでした」
そしてカレルはエミーに向き直り、腰を九十度折って頭を下げた。
「ご無礼は承知で申し上げます。ルカはエミー様の奴隷ではございません。申し付けるならば私かリサにお願いいたします。ユリウス様の執事として、私にはユリウス様の大事なお方を守る義務がございます。これ以上のご無理をお聞きすることはできません」
カレルの口からはっきりきっぱり告げられた時、開いたままだった応接間の扉からユリウスが顔を出した。
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