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溺れる魚

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克之の唇が、私からゆっくりと、離れた。

濡れた彼の唇が目の端にうつったが、気恥ずかしさのあまり、克之の顔を直視できない。

「すみません…強引なこと、してしまいました…」と克之が申し訳なさそうに、私に頭を下げる。ついさっきとは別人のようにシュンとしていて、なんだか可愛らしい。

「いえ… …」謝られた私もなんと言っていいかわからず、言葉を濁す。

そもそも、豆腐懐石の店で、克之を前に良からぬ妄想をしていたのは、むしろ私の方だった。
このことは絶対に、克之には言えない…。

私達は二人して、なんとなくいたたまれなくなり、バス停までの道を、ほぼ無言で歩いた。

克之に別れを告げ、バスに乗る。

…………………

帰宅してから、何度も思い出してしまう。

あんなキスは…私にとって、
        初めての経験だった。

熱い舌が、奥深くにまで侵入してきた…口内を探られ、克之の舌が私自身の舌に、執拗に絡みつき…一方で私は息をするのがやっとの状態で、まるで水中で溺れる落ちこぼれの魚のように、克之にスマートに応じることもできず、全く余裕がないまま…終わってしまった。

今更ながら、思い切って恥ずかしいことを白状してしまうと、私は学生時代に夫と出会い、人生で初めてのお付き合いをし、そのまま結婚したため…キスはもちろんそれ以上も、夫1人としか…経験がないのだ。

克之から私に与えられた、初めてのキスは、夫のそれとは全く…違った。

克之の唇の柔らかさ、舌の温かさ、熱さ…克之に逃げ場のないほど、執拗に求められるような感覚が、私の頭の芯を、ぼうっとさせた。
 
もっとして欲しい…まだ、やめないで欲しい。
 
私の中の、何か得体の知れないものが、初めて目覚めたような…そんな気がした。

それと同時に、克之と唇を重ねて、わかったこと。

克之にはきっとこれまでに、それなりの数の女性との付き合いと…経験がある。
 
私より年上で、大人の男性なのだ。
そしてずっと、独身なのだから…
  既婚者のような規制もなく、いつも自由。
さらに克之には魅力がある。

だから、そんなことは、当たり前、だ…
そう、わかってはいても、気持ちが沈んだ。

       本当に面倒な女。

もっとドライに考えねば、こんな関係はきっと続けられない…

私は自分自身の心のもろさに、深いため息をついた。

                 
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