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第六章 秋雨

十五

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 胸が詰まってどうしようもない。くしゃくしゃで継ぎはぎだらけの紙の束に顔を埋める。抑えても込み上げる嗚咽が、喉をヒリヒリとさせて。それでも、泣くのをやめることができなかった。

「――その手紙ってさ、太郎君からの熱烈なるラブレターだよね」

柱にもたれたままでいる璃子さんが、泣く私を見てぽつりと言った。

「人を好きになると、最初のうちはこの気持ちがバレないようにってそう思うでしょう? それなのに、気持ちが大きくなって行くほどに、この気持ちを知ってもらいたいって思うようになる。不思議だよね。太郎君、その手紙の最後の最後なんて、これまで押し殺して来た感情叫んじゃってるし」

そう言って璃子さんが涙を浮かべて笑う。

「でも、太郎君はその手紙をあなたに渡さなかった。書くだけ書いて破り捨てて。あなたに本当の気持ちを伝えないという選択をしたんだね」

そうだ。春日井さんは、私に伝えなかった。この手紙は捨てられたものだ。

「好きになればなるほど、この気持ちを知ってほしいと思うけど、それ以上に誰かを大切に思う時、自分の気持ちはどうでもよくなるんだろうね」

璃子さんは、すぐ傍にあるソファに腰を下ろした。

「どうしてあなたにその手紙を渡さなかったのか、その気持ちが分かる」

そう言って、おもむろに庭へと視線を向ける。

「あなたと過ごして、あなたという人間を見ていて、あなたがどんな人かなんてことは太郎君は分かっていた。こんな状況になって、自分の気持ちまで伝えてしまったら、あなたはきっとがんじがらめになる。同情して憐れんで、責任を感じてしまうかもしれない。この先ずっと、あなたの心に残ってしまうかも。そんなことさせられなかった。あなたを苦しめるくらいなら、自分の気持ちなんてどうでもよかったんじゃないかな」
「同情して憐れむなんて、そんなんじゃない。だって、私は――」

璃子さんの言葉に、感情のままに叫んでいた。でも、すぐさま言葉を重ねられた。

「太郎君のことが好きなんだもんね? でも、太郎君はあなたの気持ちを知らない。あなたには大切な人がいると思って、ここで暮らしていたんでしょう?」

私を見つめて、璃子さんがふっと息を吐く。

「でも、多分。太郎君があなたの気持ちを知ったとしても、この結論は変わらなかったと思う。太郎君って、そういう人だもん」

この家の中で見て来た春日井さんの笑みが、スライドのように次々浮かんで来る。いつもそっと私を見守ってくれていた。樹との関係に悩んでいる時も、いつも励まし背中を押して。私は何も知らずに、その優しさを受けていた。

「私も少しは知ってるから。これまで太郎君が、言葉に出来ないほどの苦しみを背負って来たこと。太郎君が犯した罪じゃないのに、世間はそう見てくれない。一たび事実を知れば、哀しいくらいに周りの人は見る目を変えるの。そっと離れて行くくらいならまだいい。酷い言葉を投げかけたり、居場所を奪われたり。だから、常に怯えてる。どこか別の場所に行っても、いつまた誰に知られてしまうかってその繰り返し。だから親しい人も作らない、必要以上に人と関わらない、そうやって生きてる。そんな人生にあなたを道連れにしようと思うはずがない」
「璃子さんの言いたいことも分かる。でも、それじゃあ私の気持ちは? 私は春日井さんが好きです。辛いことがあったとしても、そばにいたいって思います」
「――だからでしょ? あなたがそんな風に軽はずみなことを思うと困るから、太郎君は何も告げずに姿を消したんでしょう」
「軽はずみなんかじゃないです!」
「軽はずみだよ」

璃子さんの鋭い口調が、私の言葉を押し止めた。

「知らないからそんなこと言えるの。簡単なことじゃないんだよ? 一生続くかもしれないこと。一生人の目を気にして生きて行くっていうことがどういうことか分かる?」

何も言葉を返せない。本当の意味で、春日井さんの苦悩を理解することなんて出来ないのかもしれない。

「軽はずみだなんて言ってごめんなさい。でもね、太郎君は、本当にあなたのこと好きなんだと思うんだ。好きな人には幸せでいてほしいじゃない? だから、あの手紙も破り捨てた。あなたのこと好きでたまらないのに、何も言わずに消えた。それって凄いことだよ。誰だって何かを残したいって思う」

――ただ、幸せでいてほしい。

春日井さんは何度か言っていた。その時知らなかった、春日井さんの”好きな人”のことを。

「太郎君だってそうだったはず。でも、寸でのところで思いとどまった。ただ、あなたに幸せな人生を歩んでほしい一心で」

私の手のひらの中にあるくしゃくしゃの紙。この皺と継ぎはぎの数だけ、春日井さんの苦悩と葛藤を感じる。

あなたは、優しすぎます――。

胸の痛みがさっきからずっとおさまらない。これでもかと痛みが増すのだ。

「私は太郎君の意思を尊重してあげたいと思うの。でもその一方で、こんなにも想っているのに知られないままで終わるなんて、それも耐えられなかった。糸原さんに知ってほしいって思っちゃった。もう、矛盾だらけだよね」

璃子さんの表情も、もう涙で滲んでよく分からない。

「糸原さんは、もう知っちゃった。知らなかったことには出来ない。これからどうするのか、後はあなたが決めるしかないんじゃない?」

璃子さんがソファから立ち上がり、私の前に歩いて来る。

「つまり、丸投げってこと」

そう言って、璃子さんが冗談ぽく笑った。でも、間近で見た彼女の目に涙は浮かんだままだった。


 それから、璃子さんは手早く片づけを済ませると帰り支度を始めた。

「――この家のことだけど」

玄関先で、靴を履くと璃子さんは私に振り返った。

「父から伝言なんだけど、もし糸原さんがこの家にそのまま住みたかったら住んでも構わないって。人の噂が広まる前に太郎君は出て行ったから、この家にいても大丈夫だと思うの。その話をするために今日は来たんだった!」

すっかり忘れていたと言って璃子さんが笑った。

「引っ越して来てまだ数ヶ月でしょう? すぐに家を探すのは大変だろうし、この家は特に使う予定もないから何の問題もない。今週末に父も来ると思うので、それまでに考えてみてください。じゃあ」
「いろいろと、ありがとうございます」

慌てて頭を下げる。そんな私を見て、璃子さんが向き合うように立って言った。

「太郎君は多分、一生あなたに会うつもりはない。その覚悟だと思う。だから、私たちのところにも連絡して来ないんじゃないかなって私は予測してる。でも、それは太郎君の覚悟であってあなたの覚悟じゃないもんね」

――僕のことは忘れて。

そう言った春日井さんの心はもう決まっている。でも、私は――。

「もし太郎君に会うことがあったら、糸原さんから言っておいてよ。『勝手に手紙読んでごめん。勝手に手紙を糸原さんに渡してごめん。でも、本当に見られて困るなら持って行け!』ってね」

彼女の優しさに、私はまた性懲りもなく涙を溢れさせる。

「私、ちゃんと考えます。この先の事、春日井さんのこと、自分で考えます」

私がそう言うと、璃子さんがもう一度笑ってくれた。

「世間が許してくれなくても、やっぱり太郎君には幸せになってほしいんだ。あなたもそれは一緒だよね」
「はい」

そのために、私が出来ることは何なのか。どうするべきなのか、考えなければならない。衝動でも勢いでもなく、春日井さんの想いと自分の想いに真正面から向き合おう。

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