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第六章 秋雨
十六
しおりを挟むそれから数日経った頃だった。スマホに、非通知の番号からの着信が表示された。
もしかして――。
その呼び出し音が消えてしまう前にと、ひったくるようにその電話に出た。
「もしもし――っ」
(……未雨、俺)
失望と怒りで、そのまま通話を切ろうとした。
(頼むから切らないで! 本当にこれが最後だ。どうしても最後に未雨と話をしたかった。未雨は何も言わなくていい、ただ聞いてくれるだけでいい)
無言のままスマホを耳に当てる。
(未雨があんな風に感情のままに怒ったの、初めてだったよな。まさか殴られるとは思わなくて驚いたけど、自分が虚しくなった。俺、何やってたんだろうなって……)
樹がふっと息を吐く。
(誰かが俺をいらないと思うようになることが怖かった。絶対の感情が欲しかったんだ。だから、家の中で孤独だった未雨を俺に縛り付けて俺だけを見るように仕向けた。そうやって無理矢理に俺の方を向かせていたからこそ、毎日毎日怖かった。いつ、未雨が自分の気持ちに気付いて違うところを向くのかって)
樹の声が揺れる。
(初めて未雨に気持ちを打ちあけた時、俺は焦っていたんだ。未雨が、誰かに恋をしてるかもって感じて)
恋――?
(自分じゃ気付いていなかったみたいだけど、あの頃、それまで見たことないくらい目をきらきらとさせてた。明らかに様子が違っていた。誰かに完全に取られてしまう前にって、優しい未雨を無理やり俺の方に向かせた)
あの気持ちが恋だと気付く前に、春日井さんは私の前からいなくなった。恋なんてしたことがなかったから、あれが恋だと分からなかった。
(俺は分かっていた。俺に対する未雨の気持ちが恋じゃないこと。だから余計に必死だった。身体で思い込ませるしかないってね。でも、身体の関係なんて何の意味もないって俺が一番分かっていたはずなのにな……)
言葉が途切れる。次の言葉を口にするのに躊躇いがあるのだということが、スマホ越しでも伝わる。
(糸原の家に来る前、俺の本当の父さんが出て行って母さんと二人で暮らしていた頃。俺が小六になった時からだったと思う。母さんが俺を父さんの身代わりにするようになった。父さんがいなくなって抜け殻になった母さんは、父さんにそっくりな僕を息子として見なくなった。俺は全部受け入れたよ。毎日泣く母さんが可哀想だったから。他の人に父さんを取られた母さんが可哀想で。訳が分からなくて本当は嫌だったけど、母さんがしたいようにさせてあげた)
それって――。
樹が言っていることの本当の意味を考えると、言いようのない恐ろしさが襲う。まさかと思いたい。そんな恐ろしくておぞましいことをするのだろうか。
(それで母さんが笑えるなら、俺はいいと思ってた。僕の身体を好きにした後、母さんは決まって幸せそうな顔をするから。そうやって二人で生きて行って俺が母さんを守ればいい。俺さえ母さんの傍にいれば幸せにやっていけるってそう思っていた)
淡々と話す樹の声が痛々しくて聞いているのが辛い。
(なのに、今の父さんを連れて来た。新しい夫になるって。俺は一体何だったんだろうと思ったよ。俺の身体を自分のものにしておいて、簡単に息子に戻れと言う母さんに絶望したんだ。俺は、母さんに捨てられたんだよ)
振り返ってみても、樹はいつだって継母の前で非の打ちどころがないほどにいい息子だった。優秀で礼儀正しくて。そんな目に遭ってもそう振舞っていた樹は、ずっと継母のためにと生きていたということだ。憎しみと同じくらい強い想いがあった。
継母だって――。
父親と結婚したのはお金のため。それは全部樹のためだと言っていた。
(もう誰かに捨てられるのは嫌だった。絶対に俺だけを見てくれる誰かが欲しかった。でも、俺が未雨にしてきたことを許される理由にはならないよな)
樹は、ごめんと、息を吐くように言った。私は、本当に何も分かっていなかった。ただ流されて、現実から目を背け、何も考えずにいた。
(あの人にも謝りたいけど、もう未雨のところにはいないんだろう?)
「どうしてそれを……?」
思わず声が出る。
(あの人が、俺のところに来たから)
樹の言葉に、身体中がざわつく。スマホを掴む手に力が込められる。
「春日井さんがなんで樹のところに? それからどこに行ったの?」
捲し立てるように言葉を吐いてしまう。
(ごめん、どこに行くのかは聞いてない。でも、もう未雨を苦しめるようなことはするなって言われたよ。この先、未雨には笑っていてほしいって。それほどまでに想っているのに未雨の側から離れるなんて。俺とは正反対だな)
樹が「俺が言える筋合いじゃないけど」と弱々しく言った。
(あの人は自分の人生よりも何よりも未雨のことが大切なんだな。あの人が俺に言ったことは、全部未雨のことだった)
私を庇って樹からナイフで襲われた時、『君を犯罪者の家族にしたくない』と春日井さんは言った。あの時の春日井さんの気持ちを思う。私に自分のような人生を歩ませたくない――だから、自分のそばに私をいさせたくない。春日井さんはきっとそれを望んでる。
(俺もいい加減目が覚めた。家を出て誰も頼る人がいないところで生きてみる。いつか糸原に戻って立て直せたらいいと思ってるけど、それまでに糸原が持ちこたえられなかったら、その時はごめん。じゃあ、未雨、元気で――)
「お母さんが――」
会話を終えようとした樹に、咄嗟に言葉を掛ける。
「お父さんと再婚したのは、樹にいい生活をさせるためだって聞いたことがある。もしかしたら、樹とのその歪んだ関係をどうにかして断ち切らなきゃって考えたんじゃないの? きっと、樹は捨てられたわけじゃない。だからってあの人がしたことは許されることじゃないけど」
私がそう言うと、樹がふっと笑った。
(だから未雨は、俺みたいなのに付け込まれるんだよ。敵を励ましてどうする)
「励ましてるつもりもないし、樹が春日井さんにしたことを許すつもりはないから」
幼い樹が母親から受けた仕打ちは、確実に樹を歪ませてしまったんだと思う。私自身も樹を傷付けた。でも、もう樹に寄り添うことはできない。私が守りたい人は、ただ一人だ。
(分かってる。自分のしたことは忘れないで生きていくつもりだよ。あの人に会ったら、申し訳なかったと伝えてくれ)
樹からの電話は切れた。
春日井さん。あなたへの伝言、たくさん預かっているんです。どうすればいい――?
通話の切れたスマホを手に、縁側から空を見上げた。春日井さんの気持ちは分かる。でも、やっぱり私は会いたい。会いたくてたまらない。
スマホの中に残る、唯一の思い出。二人で肩寄せ合った写真を見る。その時の私の笑顔は、自分で見ても本物の笑顔だと分かる。こんな笑顔、これまでの人生で一度もしたことないと断言できる。紛れもなく、心から幸せだと感じられた。春日井さんの輪郭を指でなぞる。離婚届けを一刻も早く提出してくれと、そう言った春日井さんの気持ち。私の幸せだけを願ってくれた気持ち。春日井さんの想いを受け止めなければならないとも思う。春日井さんが人生を懸けて願ってくれたことを。
私を待ってくれていた庭の真ん中で、ただ春日井さんのことを思う。切なさも苦しさも、春日井さんが感じた感情すべてを、私も知らなければならない。
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