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《その後》二人で見た海であなたを待つ

君を守るということ、君を愛するということ 12

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 昼の休憩から戻って来た時だった。

「春日井さんのことで話を聞きたいって、記者だっていう人が来てたんだけど、なんか心当たりある?」

同僚の男性が、心底不思議そうな顔で僕に聞く。

「あ……い、いえ」
「そうだよな。あの人、なんだろうなぁ」

独り言のように呟きながら、「ならいいんだ」と一人納得したように立ち去る。その背中を見送りながら、深く息を吐いた。
 あの記者だ。職場の同僚に声を掛けたのは、僕に対するあてつけなのか報復なのか。どちらにしても、ここにいられる時間も、もう、そう長くはないかもしれない。
 あの記者が現れてから、常に心の中に不安と怯えが居座っていた。こうなるかもしれないと簡単に予想出来ていたはずなのに、これまでとは比べ物にならないほどの苦しみが僕を襲う。
 脳裏に浮かぶのはただ一人。胸が鋭く痛み、思わず胸を押える。近くに感じた分だけ、深く知った分だけ、この胸を抉る。あまりの痛みに、僕は目を閉じる。もう、一方的に消えたりしたくない。

未雨の辛さを減らすには、一体どうしたらいい――?

未雨が、いっそ僕を嫌いになってくれたら。そんなことを思っても、そもそもどうしてそんなにも僕を想ってくれているのか分からないから、どうすれば嫌われるのかも分からない。

こんな男面倒だと、逃げて出してくれればいいのに――。

そう思いながら、増して行く痛みにやりきれなくなる。


 同僚の一言から、周囲の目が気になりはじめて。ここにいる同僚の中の誰かが、僕の隠し持つ事実をもう知っているのではないか。来館者がちらりと僕を見ただけで、その人は、もしかしたらあの記者から何か聞いたのではないか、すべてがそう思えて、身体全部が過敏になって。人に知れ渡ることの恐怖を身体が覚えている。感覚が刻み込まれている。忘れても忘れても、追いかけて来るみたいに。逃れられることはない。こんな感覚も恐怖も、知る必要ない。

未雨、君は知る必要ないんだよ――。

突然、眩暈に襲われて、慌てて書棚に手を付く。僕にまとわりついて離れない。何重にも巻き付いてほどけない鋼鉄の鎖は、僕の身体から外れることはない。

生きている限り、ずっと――。

 自分の身体ではないみたいな心許ない状態で、退勤時間になったら逃げるように図書館を出た。こういうことを絶望と言うのだろうか。それなら、これまで何度も味わっている。そのはずなのに、それを上回る絶望があることを知った。僕の人生これ以上辛いことはないだろうと思っていたけど、未雨の笑顔がちらつくたびに、身体を引き裂かれるみたいだ。

 通りかかった海岸に、無意識のうちに下りていた。冬の海は、既にほとんど日は落ちていて、当たりには夕焼けの残像が残っている。だからだろうか、波の音がより鮮明に聞こえる。強い風が僕をこれでもかと吹き付ける。暗くなって行く空と波に、吸い込まれそうになる。それでも、国道を走る車のライトが、そのたびに僕を我に返らせた。

「――春日井さん」

そんな僕に、どこからともなく声が届いて。かろうじて顔を判別できる薄暗さの中でおもむろに振り返ると、あの記者が立っていた。

「こんなところにいたんですか。図書館で待ってたのに、全然出て来ないと思ったら、さっさと出て行っちゃってたのか」

嫌味な表情を浮かべながら、波の真正面に座り込む僕へと近付いて来る。

「さて、春日井さん。次に、あんたがしようと思っていることを当てましょうか」

僕まであと二歩ほどという距離で立ち止まり、そんなことを言い出した。

「あの図書館を辞めて、またどこか別の地に行く。そして、あの彼女とは完全に別れる――そうでしょう?」
「……だから、僕と彼女はそういう関係じゃないと何度言えば分かるんですか。彼女には恋人がいたでしょう――」
「それが、春日井さんの守り方ですか」

人の話などまるで聞いていない。

「まあ、それが妥当な判断かな。普通の神経を持ち合わせていたら、別れるでしょう。でも、俺が現れなかったら、このままあわよくばと思っていたから彼女と過ごしていた。そう考えると、あんたも結構ずるい男だな」

僕に反論する余地はない。彼女の大きな想いを前に、自分の気持ちを隠すことに耐えられなくなって、手に入れたいと思ってしまった。そしてこの腕の中に抱いてしまったんだから。いずれ、こういうことが起こるかもしれないと心の奥底で思いながら。そもそも、二年前、偽装結婚なんて持ち出したことがすべての始まりだ。そのせいで、こんな未来が生まれた。それが、ずるくなければなんと言う。

「――まあ、いいです。あの彼女にはもう近付きませんよ。それは約束します。その代り、あなたは俺のどんな質問にも答えてくださいね。春日井さんが自分で言ったんだ。『僕のことならどんなことでも答える』ってね」

僕は、無言のまま、目の前の海に視線を戻した。

「あんたの、悲恋を書きたいんだ。どれだけあの人――いや、”恋人”ということにしておきましょう――その彼女のことを想っていたか、そして自分が背負う物のせいで一緒になれない苦しさ。その辺、経緯と一緒に詳しく聞かせてください」
「それは……っ」
「彼女とあんたが手を繋いでいる写真、後姿も撮影してあるんですよ。その写真は使わせてもらいます。これだと、彼女の顔はまったく見えない。誰かを特定することも出来ない。写真を使うだけで、彼女のところに行って取材したりもしない。全部、あんたの一方的な話だけ。これがこっちの妥協点だ」

僕は思わず、記者を睨み上げた。

「なんだよ、その目。俺を恨んでるの? 大事な大事な彼女と別れさせられて、そのうえ、傷口に塩でも塗り込むみたいなことしやがってって? ふざけるな!」

記者の怒号が、波の音にまみれながらも真っ直ぐに僕に届く。

「それが、加害者家族の宿命なんだよ。簡単に幸せになんかなっちゃいけないに決まってるだろ。なぜなら、命を奪われた人間は、その 先にあったであろう幸せを見ることもできないからだ」

 分かっている。そんなこと、分かっていた。

「自分が殺人を犯したわけでもない。やったのは弟だ。それなのにどうして、自分がこんなにも世の中から責められるのかと思だろう。でも、それは違う。重い罪を犯したら、自分だけじゃない、いや、自分以上に家族が辛い目に遭う。家族が辛い目に遭うという事実が、犯罪の抑止力にもなる。家族が責められ差別されるのは当然のことだ。それが社会の秩序だ」

分かっている。自分に固くそう言い聞かせ、そう思ってこれまで生きて来た。決して何も望まぬよう、そんな資格はないとそうやって生きて来た。

でも、そんな僕の前に、君が現れて。
孤独な君を放っておけなくて。
そして、君と見る幸せに触れたいと、思ってしまった。

それが、結局、どれだけ未雨を傷付けることになったのか。電話での悲痛な未雨の叫びが耳鳴りのように繰り返される。僕は結局、未雨を傷付けるためだけに存在していたのか。

「だから、俺は、あんたの苦しみを書いて世の中に出すんだよ。それが、俺の正義だ」

海岸の砂が冷たい。握りしめるみたいに掴んだ砂が爪の中に入り込んで行く。

ごめん、未雨――。

押し付けた額に、濡れた砂がじりじりと食い込んでいく。

 「加害者は少年法なんていう法律にまもられて、実名報道もされない。世間が忘れた頃に社会の中に戻ってる。あんたの弟にいたっては、罪を償うことさえせず勝手に死んで。遺族はどこに怒りをぶつけるんだ。誰を許すんだよ。いつ、その傷が癒えるんだよ! おい、聞いてるのか!」

その手が、僕のジャケットの襟を掴み上げた。

「あんたは、幸せになっちゃいけないんだよ――」
「やめてください!  何してるんですか!」

誰かが駆けつけて来て、僕の背中を身体で庇う。

「こんなことして、警察呼びますよ」

その声は――。

もう、身体のどこにも力が入らなくてなされるがままになる。ちっと舌打ちしてから、記者が僕を手から離した。そして立ち上がり、僕を見下ろす。

「――あんたも大層モテますねぇ。羨ましいかぎりだ」

そう吐き捨てた。

「じゃあ、また来ます。彼女を守るためですからね。ちゃんと、話してくださいよ」

記者は身を翻し、そこから立ち去って行った。

「春日井さん、大丈夫? ねえ、春日井さん」

必死な声が確かに聞こえているけれど、それに応える気力もない。

「春日井さん、図書館辞めちゃうんですか? 何もかも捨てて、一人でどこかに行くつもり?  だったら、私も一緒に行きます!」

彼女の声が、通り過ぎて行く車のライトとともに僕に覆いかぶさる。





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