雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

文字の大きさ
147 / 154
《その後》二人で見た海であなたを待つ

君を守るということ、君を愛するということ 17

しおりを挟む



 朝早くに未雨を駅に送り届けて、それから図書館へと向かった。昨日の今日で、清水さんに会うのは気まずいが、仕方がない。
 それよりも、これからどうするかを考えなければならない。このままここで働き続けることが出来るのか。未雨と生きて行くと決めたのに、ここにい続けることが可能なのかどうか。あの記者との関係が切れたわけじゃない。間違いなく、また僕を訪ねて来る。そうしたら、もうこれ以上、未雨のことを隠し通すことは難しいだろう。
 そんなことを考えながら事務所に入って行った。

「おはようございます――」
「春日井さん……」

一斉に向けられた目に、僕は思わず足が止まる。そこにいた数人の同僚たちが、これまで僕に向けて来たのと違う視線を僕に向けている。この感じを僕は知っている。

「すまないが、ちょっとこっちに来てくれるか……?」

僕の直属の上司に当たる北川さんが気まずそうに僕に目をやり、奥の部屋へと入って行く。僕は、一つの覚悟を決めて、その後に続いた。
 部屋の扉を閉めても、北川さんは僕の方に振り返ろうとしなかった。沈黙が数秒流れた後、北川さんがその重い口を開いた。

「春日井さんのことで、図書館の入り口のところにはり紙がされていてね。誰がこんなことしたのか分からないんだけれど、でも、来館者が来る前で良かったよ」

そう言って、一枚の紙きれを腕だけを僕に向けて差し出した。

”この図書館の職員、春日井氏の弟は、過去に殺人事件を起こしている”

黒いペンの手書きで、何の工夫もない、一枚の紙きれだった。

「――それ、事実?  最近、なんだか記者みたいな人間がここによく現れているらしいけど、それと関係ある?」

ようやく北川さんが僕に振り返った。その目はもう、明らかに以前一緒に酒を飲んだ時の顔ではない。ただ、冷たいだけのものじゃない。驚きと戸惑いと、そして信じたくないという、そんないろんな感情が見え隠れしている。僕は、真っ直ぐにその目に向き合った。

「はい」
「……そう」

それだけ発すると、また北川さんは黙りこくった。だから、僕から言わなければならないと思った。

「すみません――」
「春日井さんが犯した罪ではない。弟さんと春日井さんとでは別の人間だということも分かってる。春日井さんが真面目で勤務態度にも何の問題のないことも。でも、同僚たちはともかく、来館者の方たちはどう思うかと考えるとね。ここに君がいる以上、このはり紙がまたいつ貼られるとも分からないしなぁ……」

まいったなぁ、と繰り返すばかりで、北川さんは僕にはっきりとした言葉を言わない。言えないのだろう。誰だって、悪者になんかなりたくないのだ。

「分かっています。ここに僕がこのまま働き続けたら、関係ない職員にまで迷惑が及びます。僕は派遣の身ですし、手続きは北川さんの方で上手くやっていただければ今日にでもやめます」

クビを宣告されようともされなくとも、結論は同じなのだ。こんなものが貼り出されてしまった以上、ここにはいられない。あの記者以外にもかぎつけられる可能性もある。どこでどうやって知るのか、どこからともなく現れる。ここからは、時間との戦いになる。ここではもう、暮らせない。

「せっかく春日井さんを正職員に推薦しようと思っていたところなのになぁ……」

その言葉を今僕に告げることに何の意味があるのか分からないが、言わずにいられないくらいには同情と申し訳なさを感じているのかもしれない。

「いえ、こちらこそ、申し訳ございませんでした」

頭を下げる。そして、あとは事務的に告げた。

「この後の仕事は……大丈夫ですね。僕は、私物の片づけを済ませてから帰宅します。お世話になりました」

この後普通に働いてから辞めるなんてことを、期待していないことはこれまでの経験上分かっている。

「どうしてあげることも出来なくて、悪いな」
「いえ。それは北川さんだけじゃないですから」
「それは、これまでもそうだった……ということか?」

北川さんが神妙な目を僕に寄こす。

「仕方がないことです。誰にだって立場があり、それぞれに守らなければならないものがあります。明らかに否があるのはこちらですから。当然の判断です」

僕はもう一度頭を下げ、その部屋を出た。僕一人が辞めることなんて、あっけないほどに簡単なことだ。ほんのわずかな私物を鞄にしまう。それで終わる。
 好奇な目、怯える目、得体の知れないものを見る目、そんな目がただ僕の様子をじっとうかがっている。普通に生きている人間にとって、”殺人”なんてものは、一番遠い世界にあるものだ。せいぜいニュースで知って、それがたまたま自分の近所で起きようものなら、初めて身に迫る程度。まさか、殺人を犯した人間と同じ血が流れている人間を、間近で見ることになるなんて思っていない。
 始業前の忙しい時間を奪ってはいけない。手早く済ませて、そして事務所内にいる同僚たちに頭を下げた。

「お騒がせして申し訳ありませんでした。それから、数か月でしたが、お世話になりました」

それだけを告げて、部屋を後にしようとした。

「がっ……頑張れよ!」

じっと僕を見るだけの同僚たちの中で、北川さんが最後にそう僕に言った。僕は、深く頭を下げる。

 足早に図書館を出る。通い慣れた図書館を振り返ったりはしない。いつもの駐輪場にただ真っ直ぐに向かう。鍵を差し込み、ハンドルに手を置く。

「春日井さん――っ」

ここでこうやって呼び止められるのは何度目だろうか。僕は、ゆっくりとその声の方に振り向く。

「私です。私が、あの紙を貼りました」

そう言った清水さんの表情は、どう説明すればいいだろう。苦悩なのか後悔なのか、困惑なのか。そのすべてか。

「僕はもう辞めるんだ。そんなことわざわざ打ち明けなくていいのに」

淡々とそう告げた。

「――私は、どうしても春日井さんが欲しかった」

清水さんが声を張り上げる。職員専用の駐輪場で、僕は、清水さんとの間に少しの距離を挟んで向き合った。

「春日井さんのような人にこれまで出会ったことなくて。私の周りにいた男たちと春日井さんは、全然違った。それだけじゃなく、春日井さんも私と同じ影を持っていると知ったら、もっともっと欲しくなった。春日井さんみたいな人が一緒にいてくれたら、私は初めて寂しさから逃れられるかもしれないと思った。だから、どうしても欲しかった」

僕はただ、清水さんを第三者のような立場で見ていた。

「これまでの私は、寂しくてたまらない時、誰かの温もりが欲しくてすぐに身体を許してた。そんな私を見透かした男たちは、私をいいように利用する。私も、抱いてくれればそれで良かったし。私みたいな人間は、そんな扱いでちょうどいいんだって思った。春日井さんも男だから、そんな風に迫れば、身体だけでも手に入れられるって思った」

ただ、哀しいと思う。寂しさは時に、人を闇に堕として行く。人間は誰もが同じ出発点から始まるはずなのに。誰だって幸せになりたくて生まれて来るはずなのに。どこかで分岐するみたいに、この地球上の無数の人生は様々に広がって行く。

「でも、春日井さんは違ったね。そういう人だったから、私は初めて好きになったのかな。だから余計に苦しくて。結局、春日井さんもああいう何もかもが綺麗な人を選ぶんだって思ったら、やっぱり私みたいな人間はダメなんだって、どうやったって私のそばにはいてくれないんだって思ったら、めちゃくちゃにしてやりたくなった」

その歪んだ思考を、半分は理解できる。出来てしまう。それは、きっと、彼女の言う”同じ影を持っている”からだろう。

「――清水さんがあのはり紙を貼っても貼らなくても、どのみち僕は、近いうちにここを離れなければならなくなっていただろう。だから、もう、そんなことをした理由とかどうでもいいです。でも、これだけは言わせてほしい」

今頃になって、清水さんが震え出す。自分のしたことが、そのまま自分の心を突き刺しているはずだ。清水さんは、僕にしたことと同じようなことをされて苦しんだことがあるはずだから。他の誰よりも、自分のしたことの意味を理解している。

「そんな風に僕を手に入れたとしても、清水さんは結局寂しさからは逃れられなかったよ。ただ、誰かといればいいわけじゃない。一緒にいるから余計に寂しいということだってある。自分の方を向いていない人間と抱き合っても、寂しくて虚しいだけだ。そのことは、君が一番知っているんじゃないの?」

俯いているから表情は分からない。でも、その肩は震え続けていた。

「それに――。清水さんは彼女のことを、ごくごく普通の何もかもが綺麗な人だと言うけれど、どんな人にだって触れたら痛い古傷の一つや二つはあるよ。他人には見えないだけだ。結局、自分の人生からは逃れられない。自分の人生を歩き続けるしかない」

今が終着点じゃない――。

その意味を込める。未雨には未雨の寂しさがあった。あまりの孤独から闇を見て、その闇と闘って、傷付いて来た。それでも未雨は、ひたむきに前を見た。

 僕はもう一度ハンドルを握り直し、もう前だけを見る。



しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

私たちの離婚幸福論

桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。 しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。 彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。 信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。 だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。 それは救済か、あるいは—— 真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-

設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt 夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや 出張に行くようになって……あまりいい気はしないから やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀ 気にし過ぎだと一笑に伏された。 それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない 言わんこっちゃないという結果になっていて 私は逃走したよ……。 あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン? ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 初回公開日時 2019.01.25 22:29 初回完結日時 2019.08.16 21:21 再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結 ❦イラストは有償画像になります。 2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

処理中です...