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《その後》二人で見た海であなたを待つ
エピローグ 1
しおりを挟む清廉な朝も好きだけれど、夕陽が降り注ぐ夕方も好きだ。空気も景色も、あの海に似ているからだろうか、僕はこの街をすぐに好きになった。
この海辺の街に来てそろそろ九ヶ月が経つ。七里ヶ浜を離れて最初の一ヶ月はいろんな土地を転々とし、そしてここに落ち着いた。僕は、あの海が本当に好きだったんだろう。
これから長い長い冬が始まろうとしている。この街が、今、僕が生きる場所だ。
電子部品を製造する工場の窓から見える空は、もう暗くなっている。目に沁みるほどの夕焼けが跡形もなく消えていることに名残惜しさを感じていると、終業を知らせるチャイムが工場内に鳴り響いた。
作業の片付けを終えて、持ち場から離れようとした時、工場長から声を掛けられた。工場長の顔がニヤニヤとしている。
「春日井さん、今日も外で待ってたよー。ここのとこ寒くなってるから、早く行ってやりな」
「はい、ありがとうございます」
素早く頭を下げて出て行こうとすると、「二人の仲の良さで、寒さも吹き飛ばすってか」と他の同僚たちが笑うのが聞こえた。僕はそれに曖昧に微笑んで「お先に失礼します」と頭を下げた。
ロッカーからコートをひったくり、工場の外へと飛び出す。
工場の門から道路を挟んで反対側の歩道に、街灯に照らされて立っている未雨をすぐに見つけた。北国のここでは、十月末とは言え、夕方を過ぎたこの時間はかなりの冷え込みになる。口元で手を合わせながら立っている彼女の元に、再び走り出す。
「寒いんだから、先に帰っていていいのに」
車が来ないのを確認して、横断歩道がない場所を走って渡ってしまった。僕の声に気付いて、その目が僕を捕らえる。そして、すぐに頬を緩ませた。
「少し仕事が長引いて。そうしたらちょうど太郎さんの終業時間にぴったりだったから。どうせ、ここは帰り道の途中だし」
そう言って、僕を見る。そしてどちらからともなく歩き出し、僕は未雨の手を取った。
そう言うわりには手が冷たいな――。
繋いだ手を、そのまま僕のコートのポケットに入れる。
「手がすごく冷たい。東京と同じ感覚じゃだめだよ。十月だって言っても、ここではもう冬の入り口。手袋くらいしないと」
「――うん。私はここで冬を迎えるの、初めてだから。ついつい、油断しちゃうんだ」
未雨が素直に頷く。ぎゅっと握りしめた手のひらに少しずつ熱が戻って来て、ほっとする。
事務職で働いている未雨の会社が、僕の工場から徒歩5分くらいのところにあって。未雨の会社から二人で暮らすアパートの途中に僕の勤務する工場が位置している。つまり、僕と未雨の職場はとても近い。
「未雨が外で待っているのを、また工場長に見られていたよ。おかげで、寒いから早く行ってやれって言ってもらえたけどね。でも、これからもっともっと寒くなる。無理しないで」
街灯が等間隔に並ぶ。その明かりの下を、二人並んで歩くのだ。
「無理はしてないよ。本当に、ちょうど時間が合ったから。でも、こうして仕事を終えた後、同じ家に二人で歩いて帰るのが、実はすごく楽しいの」
そう言って未雨がふふっと笑う。その柔らかな笑みが、不意に僕の胸を刺激した。
未雨は、結局、三月末まで東京に残り仕事を続けた。誰にも迷惑をかけないタイミングで、きちんと引継ぎを済ませて、これまで勤めた会社を退職した。世話になった先輩にも同僚にも、挨拶をして別れを告げることが出来たと言っていた。そして、僕のいるこの街に来てくれたのだ。あの婚姻届けを持って。
二人で暮らし始めた四月に、二人で二度目の婚姻届を提出した。その時、これまで何かと気にかけてくれていた、僕が高校生まで育った施設の園長とその娘の璃子のところに報告に行って。証人の欄の記入を頼んだら、長い間音信不通にしていた僕を叱りつつ喜んで引き受けてくれた。
僕は、そうして、本当に未雨を僕のものにしてしまった。でも未雨は、『ようやく本当に太郎さんを私のものに出来た』と言って笑った。
ただ手を繋ぎ、街灯の下を並んで歩く。そんな誰でも出来るような些細なことが、奇跡のようにも思える。そこが見慣れた歩道だろうが、寒かろうが、僕にとって、そしてきっと未雨にとってもかけがえのないものだ。
「……途中でスーパーに寄る? 夕飯、何にしようか」
こんな日常の会話さえ、いつにも増して胸に沁みて。僕はそれを誤魔化すように明るい声を出した。
「ポトフとか、どうですか? それでよければ家にある材料で出来るし、買い物は明日に回せますよ?」
「ポトフ……温かくていいね。明日はちょうど休みだ。明日なら、ゆっくり買い物ができるしな。じゃあ、今日はこのまま真っ直ぐに帰ろう」
「はい」
二人顔を見合わせて、家路へと急ぐ。
七里ヶ浜を飛び出してからすぐ、僕は携帯電話の番号を変えた。だから、あれからあの記者とは話もしていないし会ってもいない。未雨の前にも一度だけ現れたらしいが、僕が消えて未雨が「知らない」と言う以上、どうすることも出来なかったようだ。今のところは、まだ僕を探し出せていないということになる。出来れば、もう僕への関心はなくなっていてくれればいいのだけれど。あの記者が言っていた、『平成の少年犯罪』というテレビ番組の企画があるという話も、結局僕のところには何も取材は来なかった。弟の事件が起きてから、インターネットもテレビも、極力見ないようにしているからはっきりとは分からない。でも、あの記者から逃げたここまでの数か月、僕に何も起こらなかったのだから、弟の事件は取り上げられなかったか、結局、そんな番組自体放送されなかったのかもしれない。
気づけば既に、平成は終わっていた。
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