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《その後》二人で見た海であなたを待つ
エピローグ 6
しおりを挟む十一月に入って、この街の気温は日に日に下がっている。
納期を終えた工場内は、どこかのんびりとした雰囲気に包まれていた。
今日は、いつもよりも早く帰れそうだ――。
そう思ったら、たまには僕の方から未雨の会社に迎えに行こうと思いついた。未雨の笑みが浮かんで、勝手に自分の頬が緩む。
次々と帰宅する工員たちと共に、僕も足早に工場を後にした。正門を出て、僕たちの住むアパートとは反対に歩き出そうとした時だった。反対側の歩道に、未雨の姿が見えた。
「未雨――」
そう声を掛けた言葉を飲み込む。未雨に近付く、黒いコートを羽織った見知らぬ男。見たことのない顔なのに、身体は強張り全身の血液が一斉に引いて行く感覚に襲われる。
「未雨!」
叫びにも似た声に、未雨が僕を見る。
ダメだ。未雨には近づかせない。
反対側の歩道に行くのには車の行き交う道路を渡らなくてはならないのに、僕にはまったく車が視界に入らなかった。
今すぐ、未雨のところに行かないと――。
僕が守らなければならない。じっとしていられずに駈け出した。
「太郎さん、危ないから止まって!」
未雨の声と同時に、僕の目の前に眩しいほどのライトが飛び込んで来る。激しいクラクションと共に、車が駆け抜けていった。
「太郎さん!」
道路を横切り未雨の元へと駆け寄ると、男は既に立ち去った後だった。
「太郎さん、危ないです――」
「あの男、誰だ? 何を言われた? 何を聞かれた!」
僕を案ずる言葉を無視して、未雨に問い掛ける。黒いコートを着たその背中はもう見えない。
「名乗っていませんでした。ただ、〇〇工場はここでいいのかって、聞かれたの」
それは、まさにここにある僕が勤務している工場だ。
「それだけか?」
「うん」
未雨が僕を見た。
「太郎さんは、あの人が記者だと思っているの?」
「分からない。分からないけど――」
十一月。弟の事件からちょうど十年――。
そういう節目の時は、何かある。僕の経験則がそうはじき出す。嫌な予感しかしないのだ。
ここに来て、まだ一年も経っていない。それなのに、もう探し出されたということなのか。
あの男は、どこまで把握して、聞いていたんだ――?
憶測は次の憶測を手繰り寄せ、それはもう既に憶測ではなくなっている。できることなら、未雨に辛い思いはさせたくない。
できることなら、この穏やかな生活をなるべく長くさせてやりたい――。
「太郎さん!」
未雨が僕の腕を強く掴んだ。
「あの人は記者かもしれないし、記者ではないかもしれない。本当にただ、工場の場所を知りたかっただけかもしれない」
未雨の鋭い眼差しが真っ直ぐに僕に向けられる。しっかりと掴まれた腕に、未雨の思いが伝わる。
「例え記者だったのだとしても、太郎さんのことを調べ上げてここにたどり着いたんだとしても、私たちは私たちのするべきことをしよう」
「未雨……」
未雨の目は少しの揺らぎもない。意思の固い真っ直ぐなものだった。
「もし、太郎さんのことが工場の人や近所の人たちに知れ渡って、それによって多くの人たちに迷惑がかかることになったら、その時はここを離れましょう。そんなこと、私は何ともないから。太郎さんと一緒だから平気です」
「でも、未雨――」
「太郎さん。私は、太郎さんの家族だよ。もう他人じゃない。あなたの困難は私の困難でもある。どんな時も支え助け合うって、この前誓い合ったばかりじゃないですか」
そう言って、こんな時でも未雨は微笑む。そして、僕に指輪を見せた。
「そうでしょう?」
「――そうだな」
未雨の強さに、僕は知らず知らずのうちにガチガチに固まっていた身体から力が抜けていく。
「でも、まだ知れ渡っているわけでもないし、誰にも迷惑はかけていない。やむを得なくなるまでは、これまで通り生活しよう。大丈夫。太郎さんは、何も間違っていない。あなたの生き方は間違っていないよ。だから――」
未雨が、その指輪をした手で僕の左手を握りしめた。
「この先、どこでどうやって暮らそうと、私たちは何も変わらない」
僕は独りではないと実感する。この世で、たった一人でも自分を認めてくれる人がいる。それが、どれだけ自分の支えになるのか。この手のひらの温もりが、僕にそれを何度も教えてくれる。
「大丈夫です」
この自分より小さな手が、僕に力をくれる。
――十一月末。
今年もこの日がやって来た。
不審な男が現れた日から、まだその姿は見ていない。何者だったのかは、分からずじまいだ。ただ、今のところ周囲の様子に変化はない。
「未雨、まだ、外を歩く時は気を付けて。いつどこで、突然現れるかは分からないから」
玄関先で靴を履き、未雨に向かい合ってそう告げた。
「分かってます。大丈夫」
未雨がいつにも増して大人びた笑みを僕に返した。
「うん――じゃあ、行って来る」
「そこまで行きます」
「寒いから、いいよ」
「いいの」
そんな押し問答の末、アパートの外まで未雨も出て来た。ここ数日曇りが続いていた空は、雲一つない晴れ間を見せていた。澄んだ空気が、頬を刺す。アパートの敷地から出るところで、未雨と向き合った。
「本当に、ここまででいいよ」
「……分かりました」
そう言った未雨が、僕のネクタイと襟元を正してくれる。そしてその手のひらがスーツのジャケットに置かれた。少し俯く未雨の頭を見つめる。
「――太郎さん。ここで太郎さんの帰りを待っているから」
「未雨」
僕の胸に置かれた未雨の手のひらに僕の手のひらを重ねる。
「待っていて。明日の午前中には帰るから」
「はい」
そして、きつく握りしめた。
「君のところに帰って来る」
未雨の、僕を案じるような包み込むような、複雑な笑みが胸に沁みる。
これから向かう場所は、一年に一度罪に真正面から向き合う場所。決して忘れてはならない罪だ。どれだけ責められようと、門前払いされようと、僕が逃げてはいけない。僕が受け止めずに、誰が受け止めるのか。一生消えることのない重い罪。それを背負い続けて行く果てしない道が続く。
それでも僕には、戻る場所がある。僕に寄り添うように傍にいてくれる人がいる。
僕の抜け出ることのない暗い闇の底に光をくれる君に、僕も光を与えられるように。君と共に生きる道を歩いて行く。僕のそばにいてくれる君を少しでも笑わせることが出来るように、僕は精一杯、生きて行く。
【完】
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Hikarukoさん、感想をくださってありがとうございます。
完結後に感想をいただけると、どのように感じてださったのかを知ることができて、作者にとって本当にありがたいのです。
大変、励みになりました。
二人の苦悩と葛藤を、最後まで見届けてくださってありがとうございました!!
コメント、ありがとうございます!
こちらのお話は、以前書いたものなので、もう結末まで書き終わっております。
この先も、ハラハラさせてしまう展開になっていくと思いますが、二人の行く末を見届けていただけたら幸です。
更新を追いかけてくださっていること、本当に感謝です。
そして、二人の幸せを願ってくださって、ありがとうございます。作者としても嬉しいです(^ ^)
更新待ってました!
楽しみにしてます。
二人が もっとハッピーになれますように、、と、願わずにはいられません。
もう、世間の皆様、、春日井さんには罪は無いのです。二人を暖かく 優しく見守ってあげて下さい!と、言いたいです。
コメント、ありがとうございます!
その後もお読みいただけて嬉しいです。
ここから、ある意味二人の恋愛が始まります。
甘さより切なさが上回ってしまうかもしれません💦
……ですが、楽しんでいただけたら幸いです!!