裸足のシンデレラ

綾月百花   

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第九章

11   疑心   錯乱

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 ノックの音がして、わたしは振り向いた。

 開いた扉の中に、小さめな黒いスーツケースとわたしのショルダーバッグを持った光輝さんが部屋の中に入って来た。


「もう起きていて大丈夫なのか?」

「……」


 わたしは頷いて、ベッドに戻った。

 光輝さんは部屋の奥まで入ってきて、応接セットがある所で荷物を置いて、小さなスーツケースを開けた。

 中から、マンションで使っていたマグカップやいろんな物が出てきて、胸がドキドキした。

 やはりあの部屋の存在は光輝さんにバレてしまった。

 逃げる場所は無くなってしまった。


「美緒と嘘の無い話をしたい」

「……離婚届を提出してくれればいいよ」


 蚊の鳴くような声でしか言葉が出ないのは情けない。

 光輝さんはフリースの寝間着を出してきた。


「寒かったら、これに着替えたらどうだ?」

「でも、洗濯が大変だから、上着だけカーディガン代わりにする」


「それなら、上着だけ羽織っていなさい」


 光輝さんはズボンを戻すと、上着だけ持ってきて、わたしの肩にかけてくれた。

 ちょっと肌寒かった体が温かくなる。



「まずは謝罪をしたい。俺は美緒に嘘をついた。美緒が家出をした日は、仕事を休んで葵の誕生会をした。最近できたイタリアンの店に連れて行って、ケーキもオーダーした。食事の後は葵の家に行って、美衣ちゃんと遊んだ。夜は葵の手作りの食事を食べてきた。夜遅くに帰宅した俺に、美緒が質問した答えは全て嘘だった。葵の香水の残り香を消したくて、早く風呂に入りたかった。だから美緒に近づけなかった」

「……鍋の出汁の匂いがしていた」

「ああ、鍋パーティーだったからな」

 せっかく体が温かくなったと思ったのに、心が寒い。

 温かな家庭の団欒の様子が、見に浮かぶ。


「葵さんの事が好きなら、葵さんと結婚したらいいのに。美衣ちゃんに父親ができて、幸せになれそうね?100年一緒に過ごしたいとプロポーズしたのなら、わたしはいつでも光輝さんと別れてあげる。余白を埋めて役所に提出するだけで済むようにしたでしょ?どうして提出しないの?」

 わたしはベッドの上で膝を抱えていた。

 光輝さんの目は見られない。

 足元のベッドの柵を、じっと見ていた。


「葵の事はなんとも思っていない。返済を2万にしたのは、美衣ちゃんを育てながら、返済できる金額だと思っただけだ。卓也君に指摘されるまで、100年葵を縛り付けたとは気付かなかった。俺が好きなのは美緒だけだよ」

「……その言葉も嘘かもしれない」


 わたしはベッドに横になった。カーディガン代わりのフリースの上着は枕の横に置いた。

 布団の中に潜ると、光輝さんに背を向けた。


「……嘘にしか聞こえない。……光輝さんだけはわたしを裏切らないって信じていたのに、……嘘ばっかりだったから、……何を信じていいのか、……わたしには分からない」

 もう涙はこぼれないと思っていたのに、勝手に涙が流れていく。

 その顔が見えないように、布団の中に潜り込む。


「美緒だけを愛している」

「……」

「葵とは今後、絶対に会わない」

「……嘘をついてまで、デートをしたなら、……これからもデートをすればいいよ。……もう関係ない」

「関係なくは無い。美緒は俺の妻だ」

「……嘘の妻なんていらないでしょ?」

「美緒に嘘をついたのは、あの日だけだ」

「それをどうしたら、信じられるの?うっわぁーん」


 怒りと悲しみと苦しさで、わたしは声を上げて泣いてしまった。

 心の中で感情のコントロールが利かない。

 わたしの中に住み着いている『誰にも愛されない子』という感情が大きく膨らんでいる。


(味方は誰も居ない)


 じっと椅子に座っていた光輝さんは、手を伸ばしてわたしの背中をさすった。


「いや、いやだ、うっ」

 わたしはその手から逃げ、ベッドから転げ落ちた。全身に衝撃を受けて全身が痛いけれど、逃げた。床を這いずって後退る。


「あの人を抱いた手で触らないで」


 体がブルブルと震えて、呼吸が苦しくなる。

 喘いでいるわたしを見て、光輝さんはナースコールを押した。


『はい、どうされましたか?』

「円城寺先生を至急お願いします」

『連絡してみます』


 光輝さんは、立ち上がると、わたしに近づいてきた。


「呼吸はゆっくりだ。興奮するな」

「はあ、はあ、はあ、はあ……こない、で」


 温かな手が、わたしを抱きしめて、床に座ったまま、ぎゅっと抱きしめてきて、わたしは光輝さんの腕の中で藻掻いて泣いた。


「嘘つき、嘘つき、うそつき……」


 泣いたら、余計に苦しくなって、呼吸ができなくなって、意識が遠くなっていった。



 …………………………*…………………………




「おまえなあ、あまり無茶な事をするな。ベッドから落ちて骨折でもしたら、どうするんだ?まず、焦るな。一度壊れた信頼関係を再構築するのは、恋愛を始めるのよりも難しいんだよ」

「俺は美緒に触れたい」

「美緒さんを裏切っておいて、身勝手な事を言うな!」



 美緒はベッドで眠っている。

 真希さんが駆けつけた時には、美緒は意識を手放して、俺の腕の中でぐったりとしていた。

 美緒をベッドに寝かせて、バイタルチェックをすると、真希さんはまた美緒に点滴して、眠らせた。

 熱はまた上がり、氷枕をされて眠っている。

 手の包帯を外すと、真希さんは指の診察をしている。


「この熱は風邪か?それとも手指の感染症か?何かのアレルギー反応か?」


 美緒の指は、赤くなって腫れている。指先はひび割れて、かなり痛そうだ。

 血液検査の結果を見ながら、真希さんは考えている。

 看護師に指示を出して、消毒をして薬を塗ると、また包帯で保護した。



「良くないのか?」

「治療を間違えれば、手指は壊死するかもしれない」

「なんだと?」

「採血もした。詳しいアレルギーの検査もしてみよう。簡単に指を落とさせるつもりはない」



 真希さんは脅しているのか?それとも安心させようとしているのか、よく分からない態度をする。



「ここに居たければ、好きなだけ居てもいいが、興奮はさせるな、納得させるような押しつけの言葉はまだ早い」

「ああ、分かったよ」



 真希さんと看護師は、病室から出て行った。

 俺は美緒がよく見えるベッドサイドの椅子に座った。





 …………………………*…………………………




『あの人を抱いた手で触らないで』


 美緒は俺を嫌悪している。

 高校時代の荒れた生活の話をしたときは、過去の話と割り切って話を聞いてくれたが、今回は美緒と関係を深めた後だ。裏切られたと思ったら、これほど拒絶されるのだと実感した。


(嫉妬か……)


 美緒は激しく言葉を発する事はないけれど、これまでも何度も嫉妬心を見せていた。

 ティファが来た時も不安そうにしていた。

 桜子の時は、未だに傷を受けているほど激しく嫉妬をしていた。

 葵の時もいつも不安そうな顔をしていた。

 それでも、心の中で俺を信じて堪えていてくれていた。


『嘘つき、嘘つき、うそつき……』


 意識を失う前に、消えそうな声で俺を責めた。

 葵と会うことを正直に話していれば、こうはならなかったかもしれない。

 どうして正直に話さなかった?

 今更悔やんでもどうにもならないが、自分の愚かさに呆れる。

 包帯を巻かれた手をそっと握った。




 …………………………*…………………………





 ノックの音がして、扉が開いた。


「こんにちは」

「美緒さん、大丈夫?」


 部屋の中に入って来たのは、卓也君と恵麻君だった。

 美緒の姿を見て、二人とも息を飲む。


「今、眠っているんだ。午前中に興奮させてしまってね。すまない」


 一端、足を止めた二人はベッドサイドまで近づいてきた。


「話し合いはできたのですか?総帥」

「全て嘘だと言われてしまったよ。どうしたら信じてもらえるだろうか?」


 俺は年下の彼らに助言を求めていた。


「どうして嘘などついたのですか?」


 卓也君は容赦が無い。



「俺にもよく分からない」

「後ろめたさがあったのではありませんか?」

「どうだろう?」

「お店で見た総帥は、ずいぶん楽しそうにしていらっしゃいましたよ。お酒も飲んではいないのに、女にベタベタされて鼻の下を伸ばしていましたね。よく美緒さんが我慢できたと思うほど、親しげで」


 卓也君に言われると、あの日の記憶を抹殺してしまいたくなる。そんな姿を美緒に見せていたなんて、ずいぶん残酷な事をしてしまったとただただ反省する。



「情けないな。いい歳をして」

「そうですね」


 恵麻くんが反対側に回って、美緒の手をそっと握った。



「手が熱いですね?熱は高いのですか?」

「ああ、昼に計った時は39度だった。あれから下がった感じはしない」

「ただの風邪ですか?」

「今はまだ検査中だ」

「朝は元気そうな声をしていたのに」


 卓也君は恵麻君の横に並び、美緒の髪を撫でる。


「またずいぶん頬が腫れてしまったね」

「そうだね、やっと腫れが引いてきていたのに。可哀想」

「こんなに熱を出していたら、親睦会には出られないな?」

「残念だな。俺、今回は行くのは止めようかな。美緒さんの傍に居てあげたい」

「恵麻は残るか?俺はさすがに就職先の上司に挨拶に行かないと礼儀知らずだと思われる。だが、親睦会明けから出かける予定だった海外旅行はキャンセルしようかと思っている。このまま美緒さんを置いては行けない。心配で楽しめないと思うから」


 二人とも、美緒のために予定を変更しようとしている姿を見て、このままでは駄目だと思った。

 美緒はもう俺と結婚している。卓也君や恵麻君の彼女ではない。



「二人とも美緒を気遣ってくれてありがとう。だが、俺が美緒を守る。美緒の夫は俺だ。予定を変更しないで出かけてくれ」



 俺は誠実に頭を下げた。

 この二人の存在で、美緒はずいぶん助けられているが、美緒との関係を取り戻すのは、自分の力でしなくてはならない。

 美緒の夫として、譲れない場所だ。


「総帥に任せていて、本当に大丈夫なのか?」

「信じて欲しい」


 二人は顔を見合わせて「「分かりました」」と答えた。



「恵麻、今日は帰ろう。美緒さんはゆっくり寝た方がいいと思う」

「そうだね」

「では、総帥、今日は帰ります。美緒さんは俺たちにとっても大切な人なので、お願いします」

「美緒さんと一緒に食べるつもりで買ってきたケーキです。クリスマスに食べられなかったので、クリスマスパーティーができたらと思って用意したんです。起きたら食べさせてあげてください」


 恵麻君は白いケーキの箱を冷蔵庫に入れた。



「二人ともありがとう」

「「いいえ、それでは」」


 二人は部屋から出て行った。

 美緒の熱が下がらないので、真希さんが数人の医師を連れて来て、美緒の診察をした。

 熱の原因が分からないと言われた。


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