君と地獄におちたい

埴輪

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疑惑

1.招かれざる客

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 屋敷の中には張り詰めたような空気が満ちていた。

 侍女や使用人達に細かい指示を出しながらロゼは廊下を歩く。
 何人かの侍女がロゼの跡を追い、次々と出される指示に耳を傾けた。

 少しするとロゼは先ほど玄関ホールでエアハルトに噛みついていた侍女について聞いた。

「リリーは大丈夫かしら? 随分と興奮していたみたいだけど……」
「リリーは旦那様の命で仕置き室でしばらくの謹慎とのことです」
「そう…… リリーの無礼は確かに身に余るけど、それもきっと私を思ってしたことなのよね」
「それは……」
「……贔屓するわけではないけど、あまり重い懲罰にならないように旦那様に私も伝えとくわ」

 物憂げに顔を曇らす奥方の姿に、側に付き従っていた侍女達は胸が痛むような思いだった。
 彼女達も貴族の屋敷に仕えることの意味を知るプロであったが、今回の騒動には内心では悶々としていた。
 それこそ冷静に指示を出す幼な妻であるロゼよりも。

「……確か、『ルナ』と呼ばれていたわね」
「! ……は、はい」

 びくっと肩を震わす侍女達は一瞬お互いに視線を交え、なんとか気まずそうな雰囲気にならないようにいつも以上に優雅な笑みを心がけた。
 ロゼは灯りの灯された廊下をゆったりと歩きながら、雨粒が激しく窓を叩く嵐の様子を横目で伺った。
 一瞬、雷が廊下を照らした。
 鋭い光に当てられたロゼの黒い瞳に何が映っているのか知る者はいない。

「しばらく、止みそうにないわね……」

 ぽつりと零した呟きは雷の音に掻き消された。







 侍女達を下がらせたロゼは自身の部屋に置かれたソファーに座り込んだ。
 寝室とはまた別の豪華な部屋である。

 夫であるエアハルトの湯浴みはもう終わったのだろうか。
 あまり風呂には長時間入らない人だが、今日はだいぶ身体を冷やしていたため、長めに入らせるように指示している。
 料理長達にもすでに伝達しているため、食事の準備も心配ない。
 夫が連れて来た部下と例の謎の娘も含めてある程度の歓迎の準備をするように伝えてある。
 あとは執事長がなんとか取りなしてくれるだろう。

 今一番に片付けなくてはならない問題はロゼの心境だ。

 今のロゼの頭の中には繰り返し、似たような言葉がループしている。

 浮気、不倫、愛人……

 普通に考えれば裸同然の濡れた少女を屋敷に連れて帰るのは非常識だ。
 この嵐の被害者である少女を保護して連れて帰ってきた、というのも納得いかない。
 身分高い上級将官の屋敷にわざわざ連れ帰る必要はないし、庶民のための病院施設や保護施設があるのに一人だけ特別扱いするはずがない。
 そしてルナと呼ばれた少女と夫が今日初対面ではないだろうとロゼは予測している。
 女の勘もあるが、少女ルナのエアハルトに対する言動全てが意味深く見えるのだ。
 ロゼから見てもエアハルトは恐ろしい容姿をしている。
 初対面の娘なら確実に怯えるような威圧感を持っているし、眉間に皺を寄せた表情など慣れた今でも好んで見たいものではない。
 それに対してルナの行動はどうだろう。
 つい先ほど会ったばかりの男、おまけに強面の軍人にあんな風に縋りつくだろうか。
 下着も何もつけていない、無防備な恰好で?
 自分のものではない、他人のコートをあんなに大事そうに身を包むだろうか?
 他人ひとの夫のコートで……

 ロゼは誰もいない部屋で重い溜息を吐いた。
 ぐるぐる回る考えに頭が痛くなる。
 今、この屋敷にルナという少女がいることに不快感を抱く自分が一番厄介だと思いながら。

 コンコンッ

 慌ててノックする音が部屋に響いた。
 そしてロゼが反応を返す前に乱暴に扉が開かれる。

 そんなことができるのは夫のエアハルトのみである。

「ロゼっ 探したぞ」

 ノックの返事も待たず荒々しく室内に入るエアハルトは髪も満足に乾かさず濡れたままであった。
 エアハルトの髪も出会った当初に比べて随分伸びたなと場違いなことを一瞬思いながら、ロゼは大股でこちらに近づいてくるエアハルトを迎えた。

「どうされましたか? 髪も濡れたままで……」
「ロゼ、俺の話を聞いてくれ」

 慌てたようにタオルを持っている侍女が入ってくるのを横目に見ながら、エアハルトは眉間の皺を深く刻ませて、眼光鋭くロゼを見つめた。
 もはや睨まれているのではないかというその視線を受け入れながら、ロゼはとりあえずエアハルトをソファーに座らせた。

「まず、髪を拭きましょう。風邪をひいてしまいますよ」

 侍女を下がらせ、そのとき受け取った厚手のタオルでエアハルトの髪を優しく拭った。
 いつも侍女達がやっているのを思い出しながらの見よう見まねだが。
 ロゼに初めてされる行為に驚くエアハルトを尻目にやさしく頭皮をマッサージしながら髪を拭く。
 いつの間にか恐る恐るエアハルトは目の前に立つロゼの細い腰を両手で掴んで、頭を下げてされるがままになっていた。
 素直な夫の姿勢にロゼは心が少し落ち着くのを感じた。

「ロゼ…… このままでいい、聞いてくれ」
「はい……」

 ごしごしとされるがままのエアハルトは頭を下げたまま言葉を紡ぐ。
 いつの間にか腰に腕を回されていたロゼはそう返事するしかなかった。

「あの娘のことなんだが……」
「……はい」
「お前が、誤解するかもしれないと、爺が言っていた。誤解しないで、聞いてほしい」
「執事長がそんなことを……」

 屋敷に来てから執事長には本当に世話になっている。
 今回もどうやら大いに迷惑をかけたようだが、正直ありがたい。
 タオル越しで少しくぐもって聞こえるエアハルトの声にロゼは耳を傾けた。
 ロゼの手つきが着心地なくなるのを敏感に感じながらエアハルトは内心で舌打ちしそうなほど現状に苛立っていた。
 だが、それをロゼに見せる訳にはいかない。
 腸が煮え返りたくなるような怒りや苛立ち、戸惑いを抑えなければいけないのだ。
 万が一にでもロゼが誤解してしまったらと思うと、今までに経験したことのないような焦燥感に身が焦がれる思いだ。
 だが、全てを馬鹿正直に告げるわけにもいかない。

「あいつは…… 貧民街の生まれで、色々あって俺とライナスが保護して世話をしている」
「そうですか……」
「名は、一応ルナと言う。歳は多分お前と同じだ」
「一応……ですか?」
「ああ。孤児らしくてな。最初名前がなかったから俺が名付けた」
「…………綺麗なお名前ですね」

 無骨なエアハルトだが、貴族の子息らしく高い教養を身に着けている。
 だがあまりにもイメージの違う可愛らしい名前をあの痩せ細った少女に与えたと思うと、胸に小さな棘が刺さったような痛みを覚えてしまう。
 そういえば以前ロゼが嵌った恋愛小説の主人公がそんな名前だったなと思いながら、誤魔化すようにゆっくりエアハルトの頭皮をマッサージする。

「出会ったのは、一年以上前だ。今は一応部屋を借りて住まわせている」
「一年、ですか……」

 一年以上前。
 ロゼが知らぬ間にエアハルトはルナに出会い、世話をして来たという知らなかった事実にちくちくと胸が痛んで仕方がない。
 わざわざ部屋を借りて住まわせる理由とは何なんだろうか。
 孤児を憐れんだだけなら里親や国が支援する孤児院に預ける選択もあったろうに。
 なんの誤解を解きたいのかはっきりしないが、エアハルトが一言一言考えて発言する間の間にロゼの表情はどんどん暗くなる。
 聞けば聞くほど、聞きたくなくなってくる。

「……とにかく、色々あって、世話をしている」
「はい……」
「だが、それだけだ! 使用人達は何か勘違いしているようだが、あれとは一年前にある取引をした。その代わりとして給金と衣食住を世話しているだけだ」

 がばっと、乱暴にタオルを剥ぎ取ったエアハルトはそのままロゼの腰を抱き寄せて激しい口調で捲し立てた。
 エアハルトのこんな慌てた様子は初めてであり、ロゼは悲鳴を上げる隙すら与えられずにそのままエアハルトの膝の上に載せられた。

「……お前を、先ほど遠ざけようとしたのも、あらぬ誤解を与えないためだ」

 どうやら執事長からきつく言われたらしい。
 確かに突然のエアハルトの拒絶には驚いたし、胸が痛かった。
 その後の一連の流れがあまりにも衝撃的ですっかり忘れていたが。

 この新婚生活中に二人の肉体的距離は随分近くなった。
 お互いの裸も見慣れて来た頃合いで、エアハルトはたまに寝室以外の場所でもロゼとの距離を無意識に縮めようとする。
 その無自覚な独占欲にロゼは擽ったいような恥ずかしいような、怖いような気持ちでいつも受け入れて来た。
 今もぎゅっと胸元に引き寄せられ、シャツ一枚羽織っただけのエアハルトの体温が伝わってくる。

「……あらぬ誤解ですか?」
「ああ…… 例えばの話だが…… 俺が娼婦を連れ込んできた、などという、そういった誤解だ」

 娼婦ではなくそれこそ愛人や妾かと思ったのだが、どうやら違うらしい。
 冷静に考えていつもきっぱりとした口調で話すエアハルトがこんなに言いずらそうに、歯に物が挟まったような物言いをしている時点で怪しいのだが。

 それなのに、ロゼは自分でも驚くほどその信用できない言い訳にほっとした。
 あまりにも自分が安易に安心したことが逆に苦しかった。
 これでは夫の女関係にやきもちする妻そのものではないか。
 まだまだ未熟な自分の心を苦々しく思いながらも、仕方がないという思いもあった。

 自分はそれほどまでに夫を愛しているのだから。
 認めれば楽になるどころか苦しいだけの愛だが。

 無言のままのロゼにエアハルトは更に言い訳するように言葉を紡ぐ。

「帰りの道中だ…… あいつが、突然現れてな。 ……色々しでかして、そのままでは死んでしまうとライナスの奴が半ば無理やりこの屋敷に連れて帰れと押し付けて来た」
「そんな言い方は…… 帰りの道中といえば、この屋敷の近辺ということでしょう…… 他に民家もございませんもの」

 あまりにも苦々しく答えるエアハルトにロゼは窘めるように胸元を撫でた。
 少しだけそれにほっとしている自分の醜さに呆れながら。
 エアハルトの話はやはり少し要領を得ないが、一応嘘はついていないらしい。
 そもそもこの実直な夫が仕事関係以外のことでロゼを騙すようなことをするはずがなかった。
 ただ、全部を言っていないだけで。

「これから、どうなさいますの? その、ルナという娘のことを」
「……仕方がないが、嵐がやむまでは屋敷に置いとく。嵐がやむまでだ。……その間、少し辛抱してくれるか? ロゼ」

 ずるい言い方だと思いながらも、この嵐の中外に放り出すわけにはいかない。
 ロゼもその案には賛成だし、そこまで心が狭いわけではない。
 ただ、理性と裏腹に問い詰めたいことはたくさんあった。

 まず、貧民街の孤児の娘と知り合ったきっかけ。
 そして何故そこから名付けをして、衣食住の面倒をみているのか。
 年端もいかない、痩せっぽちな少女との取引の内容は一体なんなのか。

(旦那様は少し、私を子ども扱いしすぎですわ)

 すっきりしない物言いや、ルナという娘が見せた行動の数々。
 怪しすぎて、逆にこれは無言で察しろということなのかと勘ぐってしまうほどだ。
 エアハルトの性格なら愛人だったら愛人として堂々と宣言しそうだが。

 悶々とするが、何も不貞を暴きたいのではない。
 屋敷の主は夫であり、妻であるロゼが口出しすることではないと自分を戒める。
 嵐がやむまで屋敷に置くのなら、それは立派な客人だ。
 女主人として歓迎するしかないだろう。

「では、嵐がやむまでの間…… 私が彼女の面倒を看てもよろしいですか?」
「な、」
「旦那様がお世話した方ですもの。私も妻として一度ご挨拶したいと思いますわ」
「いや、そこまでするほどのことでは……」
「旦那様」

 こんなに挙動不審な夫の姿は初めてであり、正直あまり見たい光景ではなかったため、ロゼは無意識にどこか冷めたような視線をエアハルトに向けた。
 間近で見る、いつも素直で癒される妻の見たことがないような視線にエアハルトは何故か口を動かすことができなかった。

「一年も、どんな取引かは存じませんが、大事な取引をなさった相手でしょう? それなら旦那様にとっても非常に大事な方だと思います。妻として、この屋敷の女主人としておもてなしをして差し上げたいのです」

 鈴を転がすような愛らしい声で、ロゼは話を続ける。
 悪意はないのだ、本当に。
 ある意味純粋にもてなしたいとロゼは思っていた。
 だからこそ余計にエアハルトは苦しい。

「旦那様の大事にしていた方なら、私にとっても大事な人ですわ。どうか、私のこの我儘をお許しください」

 上目遣いでのお願い事でロゼが負けたことは一度もない。
 実家にいたころも含めて連戦連勝だったのだ。

「………………わかった」

 長い沈黙を得て、エアハルトは呻くように返事をした。
 何かを考えるような真剣な眼差しを向けてくるエアハルトに感謝しながら、ロゼは早速歓迎の準備をしようと膝から立ち上がった。

「では早速、準備してきますわ。まずは着替えと夕食…… 旦那様もまだご夕食は召し上がっていないのですよね?」
「ああ…… ロゼもまだ食べていないのか?」
「ええ。旦那様と一緒に召し上がろうと思いましたので」

 ロゼの正直な言葉に少し機嫌を良くするエアハルトだが、すぐにまた苦々しい顔で黙り込んだ。

「……先に、食堂で待ってくれ。着替えの類は俺から伝えとく。古着ぐらい侍女達が持ってるだろう」
「……分かりましたわ。お先に食堂でお待ちしております。あ、それとリリーのことですけど……」
「ああ…… あいつならもう頭が冷えているはずだ。明日ぐらいには通常の仕事に戻ってもらう」
「本当ですか! よかった……」

 ロゼの嬉しそうな表情に少しほっとしながら、エアハルトはすぐさまベルで外の使用人を呼んだ。
 そのまま侍女達に連れられて食堂に向かうロゼを見送る。

 ロゼが食堂にいる間に釘を刺さなければならない輩がいた。

「ちっ…… 面倒なことを」

 今だ自覚せずに無意識で溺愛している妻には決して向けない憎々し気な表情で舌打ちする。
 頭を乱暴にかくと、先ほど妻が丁寧に拭いてくれたときのリラックスした空間を懐かしく思った。
 早くあの穏やかな空間を取り戻したい。
 ロゼにはああ言ったが、自分でも意味の分からない説明だと思った。
 嘘はついていない。
 ただ本当のことも言っていない。
 疚しいことがあるからこそ、全てを白状するわけにはいかないのだ。
 だが、並の使用人ではないミュラー家の一部の侍女や執事長はもう何か勘づいているかもしれない。
 ロゼも、正直自分を疑っていることには気づいていた。
 普段は穏やかで争いごとを好まないロゼだが、頭はキレるし、勘も悪くない。
 エアハルトの情けない姿を見て、何も気づかない方がおかしいのだ。
 それでも、問いただすことなく、感情を乱すことなくエアハルトに微笑みかける。
 慌てるエアハルトよりもずっと大人であり、むしろ自分にはまったく興味がないのではないかと思うほど……

 ガッ! 

 気づけば乱暴に壁を殴っていた。
 誤魔化しきれない盛大に空いた穴を忌々し気に睨むエアハルトに余裕はない。

 だが、こんなことをしている場合ではないのだ。
 くずくずしている暇はないと、重大な任務についたときのように足早に移動する。

 廊下の各処で番をしている兵達はその鬼気迫る表情とオーラに凍り付いた。

 早く、あの面倒事しか成さない愉快犯の副官と、存在そのものが爆弾の女ルナに特大の釘を刺さなければ。
 もしも、あの二人のどちらかが、一言でもロゼに何か話したら…………

「……塵にしてくれる」

 ぼそっと呟いた狂気めいた屋敷の主の台詞に、不幸にも聞いてしまった護衛兵達の背筋は凍りついた。

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