君と地獄におちたい

埴輪

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新婚

6.白い素足

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 低いはずのその声は吹き荒れる嵐の音をも通してその場に異様に響いた。
 身を隠すようにしても、気配に敏い夫にはもう気づかれている。
 先ほどばっちり目が合ってしまったのだから。
 ロゼは思わず肩を一瞬震わせたが、このままではどうしようもないと叱責覚悟で柱の影から姿を現した。
 まともに階下の玄関ホールを見て、まず一番に目に入ったのが軍服姿の夫だ。
 エアハルトは全身を濡らしていた。
 どこか苛立った雰囲気であり、出迎えを拒否されたロゼの姿を見て眉間に深い皺を刻ませている。
 これほどまでに強張ったエアハルトの表情は初めて見るものであり、心なしか少し焦っているようにも見える。
 覚悟を決めたロゼは驚くほどいつも通り優雅に階段を降りた。
 夫の鋭い視線に震え上がらないのが不思議なほどである。
 また、夫にそのような視線を向けられること自体稀であり、こんな風に凝視しつづけられたのも初めてだ。
 玄関ホールに集まった使用人達も初めて見る主人とその妻の異様な雰囲気に硬直していた。
 一人落ち着いている執事長はとにかくいつも通りを心がけようと急いで風呂とエアハルトの濡れた軍服の代わりの服を侍女に用意するように命じていた。
 本来なら奥方であるロゼが仕切らなければないのだが、事前に出迎え無用と断られた身では堂々と仕切ることは躊躇われた。
 階段を降り切ったロゼはそのまま夫の側に近づくことができなかった。

 夫の咎めるような視線に、目を逸らしてしまう。

「……ロゼには部屋にいるよう伝えなかったのか?」

 側にいた執事長を責めるエアハルトの苦々しい声にロゼは慌てた

「旦那様! 私が勝手に言いつけを破って隠れて様子を伺っていたのです! 一体何があったのか不安で……」
「ロゼ……」

 自分が夫の命を守らなかったせいで他の使用人達が仕置きされないようにロゼは急いでエアハルトの側に駆け寄った。
 近づけば近づくほどエアハルトの雰囲気が今までとは違い、苛立ちの色が濃いことが分かる。
 今度は目を逸らさずにその冷たい青い瞳を覗き込む。
 そうするとエアハルトの冷たい氷の瞳は少しずつ氷解し、今は少し戸惑っているような感情が見え隠れしていた。
 ロゼは弱弱しく謝罪の意を込めて頭を下げた。

「全ては私の軽薄な行動が招いたこと…… 夫の命に背いてしまったこの愚妻をどうかお許しください」
「ロゼ、頭を上げろ。お前に余計な不安を抱かせた俺にも責任がある……」

 項垂れるロゼの肩を抱こうとしてエアハルトは自分が今濡れたままなことに気づき、不本意ながら拳を握って誤魔化した。

「あー…… よろしいですか、閣下」

 緊張感漂う玄関ホールにどこか間の抜けた声が響いた。
 エアハルトの付き添いの軍人が寒そうに震えている。
 軍人にしては細いその身体は腕の中の荷物を重そうに抱えなおしていた。
 その荷物は見覚えのあるコートに包まれていた。
 黒い厚手のコートには見覚えがあった。
 上級階級の軍人にのみ支給されるコートであり、間違いなくエアハルトのものであった。
 何しろ今朝はロゼ本人がわざわざそれをエアハルトに羽織らせたのだから。

 ロゼはエアハルトにのみ視線を向けていたため、その飄々とした軍服姿の男の存在に気づくのが少し遅かった。
 周囲の状況を把握することに少しの自信があったのだが、どうやらロゼも相当混乱していたらしい。
 ロゼはそのとき初めて屋敷の使用人達の戸惑いの理由に気づいた。

「んっ……」

 付き添いの軍人が抱えていたエアハルトのコートがもぞもぞと動き出した。
 よく見るとエアハルトのコートからは細く、白い足がはみ出している。
 もぞもぞと身動きするそれは、徐々に暴れるように動き出した。

「こらこら、大人しくしろって」
「……ここ、どこ!? だんなさまは!?」

 ついにはエアハルトのコートから身を抜け出すようにしてその少女の姿が露になった。

 そう、少女だ。

 肩や足が丸見えの、薄着のワンピース一枚だけを羽織った少女だ。
 その場にいた者達の動作が一瞬止まった。

「……よ、浴室の準備を」
「かしこまりました、奥様」

 思わず震えそうになる自分をロゼは叱咤した。
 予想外の事態にどう対応すべきか一瞬悩む。
 エアハルトの険しさの増した顔を見れば、この事態は彼にとっても不本意なのだろう。
 少し身体が震えているのは寒さよりも怒りが原因かもしれない。
 一瞬、一度夫の命令を破った自分がこの場を仕切っていいのか悩んだが、執事長に湯浴みを頼むと恭しく頭を下げられた。
 どこかピリピリする侍女達や困惑する護衛達の心境が手に取るようにわかる。
 周りの慌てようと、夫が出迎えを拒否した理由もなんとか把握できた。
 理由が分かれば怖くない。
 もっと、とてつもない不幸なことが起きたのかと心配していた分、気は楽である。
 少し冷静さを欠いているような夫の代わりに自分が仕切るのが妥当だろう。

「旦那様も寒いでしょう。今湯浴みの用意をしておりますので、どうぞそのまま浴室へ。湯上りには身体が温まるものもご用意しますわ」
「あ、ああ」

 いつも通りの穏やかな笑みのまま、ロゼはエアハルトの冷たい手をとる。
 冷たく氷のように強張る手が哀れであり、早く温めてあげたい。
 両手を握って少しでも温まるようにはぁーっと息を吹きかける。

「ロゼ……! 俺は、」

 されるがままのエアハルトは冷たい指先に感じるロゼの温かい吐息と手の体温に、耐えがたい感情を抱いた。
 どこか少し困ったような曖昧なロゼの笑みに、エアハルトは衝動的に何か口走りそうになった。

 そのときエアハルトが何を言いたかったのか、残念だからそれは永遠に謎のままである。

 何故ならば、珍しくもエアハルトは周りの気配を察知することを怠り、飛びついて来たそれを反射的に抱きとめなければならなかったからだ。

「旦那様!」
「離れろ、ルナ」

 いつの間に側に近づいていたのか、エアハルトのコートに包まれた少女がエアハルトに必死に抱き着いていた。
 鬼のような形相のエアハルトにも気づかないのか、その少女は濡れたエアハルトの軍服に顔を押し付けるように懸命に全身でしがみついていた。
 ロゼはその光景に胸を刻まれたような痛みを感じた。
 だが、当のエアハルトは心底迷惑そうであり、今にも少女の身を引き離しそうである。
 屋敷の使用人もエアハルトのことを『旦那様』と呼ぶことが多いが、どうもその少女の発するニュアンスは使用人が主人を呼ぶのとは違う色を含んでいる気がする。
 それこそ、ロゼと同じようなニュアンスを秘めているような気がするのは、自分の嫉妬が成せる妄想なのだろうか。
 この場で唯一面白そうな表情で傍観するエアハルトの部下やロゼと執事長の命で急いで湯浴みや簡易の食事、その他の準備に奔走する使用人を除いて、屋敷の者達の顔は皆強張っていた。
 落ち着いているように見える執事長も無言でエアハルトを責めているような気がする。

「旦那様」

 外の激しい嵐の音が余計にその場の空気を不気味にしていた。
 異様な沈黙に覆われそうになったその場にロゼの声はよく響いた。
 エアハルトにしがみついてた少女はその声にびくっと肩を震わした。
 少し落ち着いたのか、エアハルトの服から顔を上げてロゼに視線を向けた。
 初めてまともに見た少女は全身を濡らしていた。
 そして彼女が大粒の涙を流していることにその場にいた者は皆気づいていた。

「そちらのお嬢様がどなたかは存じませんが、そのままでは寒いでしょう。濡れていますし、侍女達の浴室でよければ湯浴みの準備をしましょう。服やお食事もご用意します」

 ロゼはどこか他人事のような気分でその場の状況を観察した。
 エアハルトが無暗に女子供に手をあげる人でないことは知っている。
 今も怯えるようにエアハルトの後ろに隠れようとする少女を乱暴に引き離そうとはしない。

 複雑で憂鬱な気持ちがため息となって出そうだ。
 だが、今は自重するしかない。
 何か言いたげなエアハルトをロゼは無視するように周りの侍女達に少女のための服の用意などを命じた。
 その今までにないロゼの態度に、エアハルトは衝撃を受けながらもその場でどう話をするべきか分からないでいた。
 もちろん話とは自分の後ろに隠れる少女についてのことだ。
 疚しいことがなければ簡単に一言二言で片付くのだが。

 先ほどまでのエアハルトとロゼの立場が完全に逆になったのを興味深く見ていたもう一人の濡れ鼠にロゼは視線を向けた。

「それと…… 貴方は旦那様の副官のライナス様で間違いないかしら?」
「おっと! まさか、小官のような小物を覚えていただけたとは、身に余る光栄です」

 わざとらしく大仰な動作で貴族の礼をするライナスは披露宴の席でエアハルトに紹介された男である。
 軍服の群れの中では浮いていたこともあり、ロゼは彼のことをよく覚えていた。
 どことなく自分に対して含みのある言動も記憶に新しい。
 上官の妻、それも公爵家出身のロゼに対して声をかけるまで挨拶の一つもしない不作法にはこの際目をつぶろう。
 あとでそれとなく彼からも事情を聴かなければならないかもしれないのだから。

「貴方も随分と濡れているみたいですし、湯浴みの準備をしておきましょう」
「ありがたき幸せ。さすがは閣下の奥方だ。我々のような下々の者に対しても誠、寛大であられる」

 役者のような整った笑みでライナスは恭しく頭を下げた。
 そして今だ隠れている少女に近づき、強引にエアハルトから引き離した。

「ほら、ルナ。優しい奥様にお礼と、ご挨拶を」
「お、おくさま……?」

 そのあまりにも乱暴な手つきをロゼは不愉快な気持ちで見ていた。
 エアハルトは特に咎めもせず、むしろ肩の荷が少し降りたとばかりに無視している。
 ロゼは少女の濡れた唇から紡ぎだされた言葉を聞き逃さないように注意した。

「旦那様の、奥様……?」

 感情の読めない酷く弱弱しい声だ。
 目を合わせようとするとすぐに逸らされた。
 しかし一瞬だけこちらに向けた視線には色んな感情が含まれているようだ。
 あまりにも一瞬だったため読み取ることはできなかったが。

 少女はロゼが今まで見たことがないタイプの者だった。
 まず目につくのは黒くのばした髪と涙で可哀相なぐらい濡れた黒目だろうか。
 この国で黒髪も黒い目も珍しい。
 ロゼもよく珍しがられていたので、その希少さは理解していた。

 突然の嵐にも屋敷の全体に暖房が行きわたるように使用人達が急いで準備をしていたため、外に比べて屋敷内は驚くほど暖かい。
 それでも全身を濡らした少女は随分と寒そうだ。
 その濡れ方は嵐に巻き込まれたというよりも池か川にでも落ちたかのように見えた。
 少女の全身からは異様な匂いも漂っていた。
 ロゼには嗅ぎ慣れない生臭いような悪臭であり、白いワンピースにも汚れが目立っていた。
 そしてロゼの目を一番にひいたのは痩せ細った小枝のような手足だろう。
 異様に白い肌なども相まって薄幸そうな独特の雰囲気を持っている。
 小柄だが歳はロゼと近そうだった。
 靴は履いていないため裸足である。
 下着もつけていないのか、濡れたワンピースからは薄い胸や異様に艶めかしい脚の曲線が透けて見えた。
 ロゼの視線が怖かったのか、少女はエアハルトのコートを命綱とばかりに必死に握りしめて、身を隠そうとコートを抱き寄せた。
 エアハルトのコートに包まれるような、抱きしめられるようなその様子に周りにいた侍女達の目に更なる険が宿った。
 少女を包み込んだエアハルトのコートからはみ出る細い脚。
 そこから滴がぽたぽたと垂れ、水たまりをつくっている。
 そこまで観察したところで、ロゼはこれ以上少女のあられもない姿を大勢の目に晒すわけにはいかないと思った。

「皆さん。急いで彼らを浴室へ!」

 いつもと違い動作の遅い使用人達を叱咤するように強めに命じる。
 はっと自分達の仕事を思い出した使用人達は無心でその後働いた。
 状況がよく分からない少女とライナスを無言で無理やりそれぞれの浴室に連れて行く。
 残ったエアハルトも執事長に任せば大丈夫だろうと、ロゼは急な客人達を歓迎するための準備に取り掛かろうとした。
 その場ではなんとも言えない顔をしていたエアハルトは無意識にロゼの手首を掴んで引き寄せた。

「ロゼ……! 話があるんだ」
「ええ。それは後で。今は先に身体を温めてください」

 ロゼは冷え切った夫の身体に眉を寄せた。
 そのロゼの心配を自分に対して怒っているのかとエアハルトは情けないぐらいに動揺した。

「……怒っているのか?」
「何をでしょう? むしろ怒られるのは旦那様の命を破った私の方ですわ」
「お前は何も悪くないと言っただろう?」
「……旦那様はロゼに優しすぎます。これ以上甘えさせないでください」

 軍隊でも上位につく夫が全身ずぶ濡れの幼い少女を屋敷に連れて来た。

 言葉にすると一層生々しいが、貴族の妻として落ち着いた対応をしなければならない。
 エアハルトには言いたいことや聞きたいことがあったが、それよりも早くその身体を温めてあげたいとロゼは思った。
 それと同時に早くこの場から離れて荒れ狂う自身の感情を整理したかった。

 ロゼが濡れないように身体を離すエアハルトにロゼは近づいて少し背伸びした。

 ちゅっ

「おかえりなさいませ、旦那様」
「……ただいま、ロゼ」

 今日もキスは返してくれなかったが、眉間の皺を緩ませたエアハルトに安心する。
 挨拶のキスをすると夫は恥ずかしそうにその場を慌てて退散しようとする悪い癖があるのだが、今回は大いに役に立った。

 自意識過剰でなければ、エアハルトはロゼを愛している。
 婚約中に短い逢瀬を何度か繰り返したが、エアハルトはいつも戸惑うように自分に接する。
 最初は婚約に乗り気ではないからかと思ったが、人の感情に敏感なロゼはすぐにそれが不器用なエアハルトの好意であることに気づいた。
 結婚するなら夫に愛されたいと思うのは当然のことであり、ロゼも初めはその感情に喜んだ。
 初めてエアハルトを将軍義父から紹介されたとき。
 その頃からロゼはエアハルトに惹かれていた。
 エアハルト自身にもまだ話したことはないし、結婚した今では逆に照れ臭いとも思っていた。
 お互いに愛していると伝える前に結婚し、生活も上手くいっている。
 これは非常に幸運なことだ。
 ロゼはこれ以上の幸せを望むつもりはなかった。
 これ以上の幸せ、あるいはこれ以上の愛も必要としていなかった。
 エアハルトがロゼの予想以上に不器用で、愛に鈍くて助かったとロゼは思っている。
 万が一にエアハルトがロゼへの愛を自覚し、それを言葉にし、今以上に大事にされてしまったら……

 ロゼはきっと、困ってしまうから。

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