地獄三番街

有山珠音

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1話 灰となりて地獄の門を開く【下】

門前雀羅

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 靴の裏が地面を擦る音が耳元でうるさく響く。
 身体中が燃えるように熱く、呼吸は荒れ、胸がヒュウヒュウと苦しげに鳴る。
 それでも、足を止めるわけにはいかない。

 時折すれ違う通行人が、ギョッと自分を見るのを視界の端で感じる。夕闇の中でも、猛然と住宅街を駆け抜ける遥人の姿は異様に映っただろう。しかし誰かに助けを求めるという発想は、この時の遥人にはまったく思い浮かばなかった。

 止まったら死ぬ。
 逃げなければ殺される。

 それ以外を考える余裕もなく、ひたすらに走り続ける。
 人目についてはいけないという本能が、なるべく暗い方へ、人気の無さそうな方へと足を進ませた。


 いつしか、見知らぬ通りに出ていた。
 途切れがちな街灯と古びた看板たちが廃墟のような空気を漂わせている。
 どこだ、ここ……。
 肩で大きく息をしながら辺りを見回す。商店街のシャッターはほとんど閉じられており、まるで廃墟のようだ。自動販売機の明かりだけが、うすぼんやりとこの場所の存在を主張している。

 笑いそうになる膝を叱咤しながら、歩き続ける。そうするうちに、また街の雰囲気が変わってきた。ネオンがちらちらと瞬き始め、遠くからは酔っ払いらしき大声が聞こえてくる。


 一体どのくらいの時間が経ったのだろう。肌に当たる空気と頭上の空の色が、すっかり夜になっていることを告げていた。家を出たのが夕方だったことを考えると、2時間近くも走り続けていたのかもしれない。
 まずい、こんなところうろついてたら……
 気持ちに反して、足が震えて上手く動かない。これ以上走ることなどできそうもなかった。
 
 誰もいなさそうな細い路地を見つけ、引き寄せられるように入り込む。追手の気配は、感じられない。
 酷使された肺が悲鳴を上げていた。どっと汗と疲労が吹き出してきて、遥人はヨロヨロとその場にへたり込んだ。乱れた呼吸を必死で整える。

 改めて自分の状態を見ると、ひどい有様だった。頬や膝、あらゆるところにべったりと血液が付着している。鉄臭いその匂いに、先程目の当たりにした陰惨な光景がフラッシュバックする。遥人は吐き気を覚え、頭を抱えてうずくまった。

 母は花那を庇うように倒れていた。生気を失った母の白い顔、薄く開かれたままの花那の手、そして最後に触れた父の腕の、冷えた感触。

 まざまざと思い出す。その記憶の全てが抗いようのない現実を突き付けてくるが、到底受け入れることはできなかった。
 悪い夢だと信じたかった。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 どうして、俺の家族が。

「……どうして……」

 弱々しく呟いたその時、突然背中を蹴られるような衝撃があった。


「あっぶねえな!何だコイツ」
「おいおい、道の真ん中で寝てんじゃねーよ。邪魔だろうが」

 のろのろと顔を上げると、いかにもチンピラといった風貌の2人組がこちらを睨みつけていた。しゃがみ込んでいた遥人に気付かず、躓いたらしい。何か言う気力もなく黙っていると、ぐいと胸倉を掴まれる。

「おい聞いてんのか、邪魔だって言ってんだよ……あ?何だガキじゃねえか」

 男はせせら笑うと突き飛ばすように手を離した。呆気なく尻もちを付く遥人に、追い討ちをかけるようにもう1人が言う。

「子どもはとっとと退いてお家帰んな。それともママとはぐれちゃったんでちゅか~?」

 瞬間、目の前が赤く染まった気がした。
 馬鹿にしたように寄越された台詞は、今の遥人には劇薬のような効果を発揮した。

「……関係ないだろ……」

 唸るように声を絞り出す。

「あ?」
「お前らには関係ないって言ってる!そっちがとっとと消えろよ!」 
 
 叫んだ直後、頬に熱さを感じた。殴られたのだと気付いたのは、冷たい地面に倒れ込んでからだった。間髪入れずに、横腹に蹴りが入る。

「このっ……生意気なガキが!ガキの分際で偉そうに物言うんじゃねえよ!」
「よっぽど死にてーらしいなあ!」

 寄ってたかって殴られながら、本当に死ぬのかもしれない、と思った。男たちの怒声も、殴られる痛みも、やけに遠く感じる。もういっそ、それでもいい気がした。このまま死ねるなら、それでも――。遥人は諦めたように目を閉じた。
 


「……おーい」

 暗闇の中、ふと瞼が開く。気絶していたようだ。埃っぽいコンクリートに薄汚れた壁、気を失う前と同じ路地裏の景色が相も変わらず広がっていた。
 それにしても、今誰かに呼ばれていた気がする。
 そう思っていると、再び声が響いた。

「おーい」

 今度こそはっきりと聞こえる。やけに気の抜けた声だ。ぼんやりと声がする方に視線を向ける。

「大丈夫ですかー、お坊ちゃーん」

 サングラスを掛けた若い男が、こちらを見下ろしていた。
 

             *


 誰だコイツ。
 上手く働かない思考の中で、遥人はただ茫然と男を見つめていた。また変なのに絡まれているらしい。
 遥人が意識を取り戻したのを見て、男はしゃがみ込んだ。こちらをまじまじと、無遠慮に観察してくる。

「うわ、血だらけじゃねーかお前……また派手にやられてんなあ」

 呆れたように言う。その声音に気遣いの色はまったく感じられなかったが、先程のチンピラたちのような揶揄する響きもなかった。
 そうするうち、思い出したように遥人の身体が傷み始めた。口の中も切れているのか、唾を飲み込むと血の味が広がる。自分は今一体どんな状態になっているのだろう。

 遠くで街の喧騒が微かに揺れている。静かな路地で、目の前の男と自分の息遣いだけが鮮明だった。
 不意に、ぐぅと音を立てて遥人の腹が鳴った。
 そういえば朝からほとんど何も食べていないな、と頭の片隅で思う。空腹なんて今の今まで忘れていたというのに。

「何だよ腹減ってんのか」
「……減って、ない……」

 遥人の虚勢を嘲笑うかのように、再び腹の音が辺りに響き渡る。しかも先程よりも長く大きく。

「いや減ってんだろ。この状況で腹鳴るって相当だぞ」

 男はいかにも面倒臭そうに眉を寄せる。もういいから、放っといてくれと言いたかったが、頬が腫れているせいで上手く言葉を発せない。黙ったまま唇を噛む。
 その時、唐突に視界が回った。

「ちょっと来な」
「!?」

 男が遥人の腕を掴み、強引に立たせたのだと思い至るまで一瞬時間がかかった。
 全身が軋むような痛みに思わず呻くが、男はまるでお構いなしだ。遥人の身体についた土や埃を乱暴に払うと、引きずるようにしながら路地をぐんぐん進んでいく。

「いや、お、俺は……」
「いいから」

 遥人の抵抗を短く制すると、男は親指で路地の右側にある建物を指差した。

「ここ、俺の家のすぐ傍な。お前がここで野垂れ死んで変な噂でも立てられたら困る。あと寝覚めも悪ぃし」

 路地裏を抜けると、月明かりが眩しく目に染みた。
 男の家だと言われた建物の側には、「スピード人材斡せん」という胡散臭すぎる看板が立っている。チカチカとしたネオンライトで彩られたそれは、やけに古風な家屋とは明らかにミスマッチだ。遥人は呆気に取られながら、なすすべもなくその建物の方へ引っ張られていった。




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