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壱ノ章:災いを継ぐ者
第6話 慣れって怖い
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街に来て三か月が経とうとしていた。早起きにも慣れ、筋肉のふくらみが皮膚を撫でただけで分かる程度に逞しさが身に付き始めていた龍人は、老師から最初に言われた目標である「開醒を維持した状態での町内マラソン三周」を目覚まし代わりに使う様になっていた。
あれほど無謀だと思われていた課題だというのに、今では眠たい目を覚ますにはちょうどいいとさえ感じるようになってしまっている。終わった後には汗だくになってへたり込みこそすれど、以前のように一歩も動けず他者の助力無しでは起き上がる事さえままならないという状態には陥らない。
少し重めの足取りでマンションに戻り、シャワーを浴びて服を着替える。そして朝食を心待ちにしながらちゃぶ台の前に並べられた座布団に座った直後、龍人はある事に気が付いた。
「……ああそうだ、老師いないんだ」
――――事の発端は昨日にまで遡る。その日の格闘訓練を終え、休憩がてら家に戻っておやつのきんつば焼きとコーヒーに舌つづみを打っていた時だった。
「え ? 暫くいない ?」
なぜ老師の入れるコーヒーは少し薄めなのだろうかと疑問に感じながらも啜っていた龍人が声を上げた。
「ええ。急遽ロンドンに用事が出来たの。おまけにその後は蘇州へ向かう事になっている」
「ええっと…ロンドンはイギリスでしょ…で…そしゅうは… ?」
「中国よ。イギリスの首都が分かるようになったのは褒めてあげるわ。勉強の成果が出てるわね」
食べ終わった佐那は自分のさらに少し残っていたきんつば焼きを龍人に渡しながら仕様が出来た事を伝える。親しい若者にやたらと食べ物を寄越して来る年寄りの悪い癖であった。
「じゃあ、トレーニングはどうするの ? それに勉強とか街の見回りとかは ?」
龍人は不安そうに訴えた。確かに一人というのは気楽ではあるが、まだ外出を心細く感じてしまう程度には仁豪町について無知である。そんな中でいきなりほっぽり出されるのは流石に嫌だった。
「暫くは自主学習と自主でのトレーニングをしてもらう。そしてあなたに留守を頼むわ。私が返ってくるまでの五日間、無事に過ごすように努めて欲しい」
「マジか、出来るかな俺…なんか仁豪町ってあんま治安良くないし」
「自分から厄介事に首を突っ込まなければ問題は無いわよ。やむを得ない場合は…そうね、あなたの判断に任せる」
「出たよ自己責任。勝手に動いたら怒る癖に」
「今日の夕飯あなただけ無糖の青汁でいいかしら ?」
「すんません、それは本当に勘弁して」
――――そして次の日の早朝に老師は出発したため、龍人は気づかずに静まり返った老師の自宅で待ちぼうけを食らってしまったという顛末である。
「マジか。冷蔵庫の中身は…何も無いな。自分で買えって事かな。てか漬物好きすぎだろあの人…」
高菜漬と胡瓜の浅漬け、そして梅干ししかない冷蔵庫を見て龍人は悪態を付いた。確かに昨日の夜に食材を使いきったとは言っていた記憶はあるが、我が子同然の愛弟子を置き去りにするのだからもう少し何かしらの食材を残しておいてくれても良かっただろうに。さらに台所を見れば、これ見よがしにレシピ本が数冊置かれている。
「肉か魚…が無いと。さて、金はどこに隠したのやら」
枯れ果てた年寄りならば白米と漬物だけで暮らしていけるのかもしれないが、霧島龍人は育ち盛りの二十歳に最近なったばかりである。やはり動物性たんぱく質に飢えていた。佐那に教わった通り印を結び、指先を垂らすように様に地面に向ける。やがて五本の指から光輝く糸が現れ、ミミズのように這いずり回りながら部屋のあちこちに張り巡って行った。
「幽生繋伐流・捕跡術…”蛇進索”だっけか。変な名前してるよな」
佐那から教わった術の名前を龍人は鼻で笑った。聞けば開醒もこの幽生繋伐流と呼ばれる流派に伝わる術の一つらしい。しかし変な術とはいえ、もはや怪しげな手品か何かだと疑うつもりはない。現に自分の手から放たれた糸は部屋中を這いずり回り、やがて五本の糸全てが押入れの方へと伸びると、魚が食い付いたかのようにピンと張った。
かつて平安時代に活動していた僧侶、三善大隣は「魂とそれを収める肉体には独特な気配、そして熱が宿るのだ」と語っていたという。蛇進索はその生物が持つ熱を探り、使用者の脳に視覚的記憶として検知させる。いわばレーダーの様な技術であった。
生物には否応なく反応してしまい、使用範囲内における情報量が多すぎれば使用者にも相応の負担が来ることになるというデメリットもあるが、幸いにも現時点ではこの自宅には龍人ともう一匹しかいないのだ。
「そこか」
ニヤリと笑い、ズカズカと押入れに近づいて乱暴に開ける。中には傘を被り、小ぎれいに毛並みが整った狸のような生物が狼狽えていた。ムジナと呼ばれる妖怪であり、背中には少々重そうな金属製の箱を背負っている。
「ほーら見つけた ! また老師に言われて隠れてたんだろ。おらっ出すもん出せ」
そして掴んで抱きかかえながら押入れから引っ張り出し、床に寝そべらせてくすぐると陽気に笑い出した。佐那は術の使い方や印の結び方に体を慣れさせるためという名目で、このようないたずらを仕込んでおくことが度々ある。尤も無茶なことはやらせず、あくまで学ばせた範疇の知識でどうにかなるような物しか寄越してこないため割と楽しめるのだ。
ようやくムジナも降参し、背中の箱を龍人に差し出す。差し出された箱についていた暗証番号付きシリンダーを回して解除し、箱を開けると横長の黒皮の財布が入っていた。佐那曰くペットとして保護した子供のムジナらしいが、今ではすっかり金庫番になっているとの事らしい。
「後でキャラメルかグミ買ってきてやるよ。ちょっと待っててな」
中の残高を確認した後、ムジナに龍人が笑いかけると宙返りをして喜んだ。その姿を見た龍人は上着のスカジャンを羽織って町へと出かけて行った。それが波乱の幕開けとも知らずに。
あれほど無謀だと思われていた課題だというのに、今では眠たい目を覚ますにはちょうどいいとさえ感じるようになってしまっている。終わった後には汗だくになってへたり込みこそすれど、以前のように一歩も動けず他者の助力無しでは起き上がる事さえままならないという状態には陥らない。
少し重めの足取りでマンションに戻り、シャワーを浴びて服を着替える。そして朝食を心待ちにしながらちゃぶ台の前に並べられた座布団に座った直後、龍人はある事に気が付いた。
「……ああそうだ、老師いないんだ」
――――事の発端は昨日にまで遡る。その日の格闘訓練を終え、休憩がてら家に戻っておやつのきんつば焼きとコーヒーに舌つづみを打っていた時だった。
「え ? 暫くいない ?」
なぜ老師の入れるコーヒーは少し薄めなのだろうかと疑問に感じながらも啜っていた龍人が声を上げた。
「ええ。急遽ロンドンに用事が出来たの。おまけにその後は蘇州へ向かう事になっている」
「ええっと…ロンドンはイギリスでしょ…で…そしゅうは… ?」
「中国よ。イギリスの首都が分かるようになったのは褒めてあげるわ。勉強の成果が出てるわね」
食べ終わった佐那は自分のさらに少し残っていたきんつば焼きを龍人に渡しながら仕様が出来た事を伝える。親しい若者にやたらと食べ物を寄越して来る年寄りの悪い癖であった。
「じゃあ、トレーニングはどうするの ? それに勉強とか街の見回りとかは ?」
龍人は不安そうに訴えた。確かに一人というのは気楽ではあるが、まだ外出を心細く感じてしまう程度には仁豪町について無知である。そんな中でいきなりほっぽり出されるのは流石に嫌だった。
「暫くは自主学習と自主でのトレーニングをしてもらう。そしてあなたに留守を頼むわ。私が返ってくるまでの五日間、無事に過ごすように努めて欲しい」
「マジか、出来るかな俺…なんか仁豪町ってあんま治安良くないし」
「自分から厄介事に首を突っ込まなければ問題は無いわよ。やむを得ない場合は…そうね、あなたの判断に任せる」
「出たよ自己責任。勝手に動いたら怒る癖に」
「今日の夕飯あなただけ無糖の青汁でいいかしら ?」
「すんません、それは本当に勘弁して」
――――そして次の日の早朝に老師は出発したため、龍人は気づかずに静まり返った老師の自宅で待ちぼうけを食らってしまったという顛末である。
「マジか。冷蔵庫の中身は…何も無いな。自分で買えって事かな。てか漬物好きすぎだろあの人…」
高菜漬と胡瓜の浅漬け、そして梅干ししかない冷蔵庫を見て龍人は悪態を付いた。確かに昨日の夜に食材を使いきったとは言っていた記憶はあるが、我が子同然の愛弟子を置き去りにするのだからもう少し何かしらの食材を残しておいてくれても良かっただろうに。さらに台所を見れば、これ見よがしにレシピ本が数冊置かれている。
「肉か魚…が無いと。さて、金はどこに隠したのやら」
枯れ果てた年寄りならば白米と漬物だけで暮らしていけるのかもしれないが、霧島龍人は育ち盛りの二十歳に最近なったばかりである。やはり動物性たんぱく質に飢えていた。佐那に教わった通り印を結び、指先を垂らすように様に地面に向ける。やがて五本の指から光輝く糸が現れ、ミミズのように這いずり回りながら部屋のあちこちに張り巡って行った。
「幽生繋伐流・捕跡術…”蛇進索”だっけか。変な名前してるよな」
佐那から教わった術の名前を龍人は鼻で笑った。聞けば開醒もこの幽生繋伐流と呼ばれる流派に伝わる術の一つらしい。しかし変な術とはいえ、もはや怪しげな手品か何かだと疑うつもりはない。現に自分の手から放たれた糸は部屋中を這いずり回り、やがて五本の糸全てが押入れの方へと伸びると、魚が食い付いたかのようにピンと張った。
かつて平安時代に活動していた僧侶、三善大隣は「魂とそれを収める肉体には独特な気配、そして熱が宿るのだ」と語っていたという。蛇進索はその生物が持つ熱を探り、使用者の脳に視覚的記憶として検知させる。いわばレーダーの様な技術であった。
生物には否応なく反応してしまい、使用範囲内における情報量が多すぎれば使用者にも相応の負担が来ることになるというデメリットもあるが、幸いにも現時点ではこの自宅には龍人ともう一匹しかいないのだ。
「そこか」
ニヤリと笑い、ズカズカと押入れに近づいて乱暴に開ける。中には傘を被り、小ぎれいに毛並みが整った狸のような生物が狼狽えていた。ムジナと呼ばれる妖怪であり、背中には少々重そうな金属製の箱を背負っている。
「ほーら見つけた ! また老師に言われて隠れてたんだろ。おらっ出すもん出せ」
そして掴んで抱きかかえながら押入れから引っ張り出し、床に寝そべらせてくすぐると陽気に笑い出した。佐那は術の使い方や印の結び方に体を慣れさせるためという名目で、このようないたずらを仕込んでおくことが度々ある。尤も無茶なことはやらせず、あくまで学ばせた範疇の知識でどうにかなるような物しか寄越してこないため割と楽しめるのだ。
ようやくムジナも降参し、背中の箱を龍人に差し出す。差し出された箱についていた暗証番号付きシリンダーを回して解除し、箱を開けると横長の黒皮の財布が入っていた。佐那曰くペットとして保護した子供のムジナらしいが、今ではすっかり金庫番になっているとの事らしい。
「後でキャラメルかグミ買ってきてやるよ。ちょっと待っててな」
中の残高を確認した後、ムジナに龍人が笑いかけると宙返りをして喜んだ。その姿を見た龍人は上着のスカジャンを羽織って町へと出かけて行った。それが波乱の幕開けとも知らずに。
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