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エピローグ
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エピローグⅠ 春の、まだ名もなき風
王都セレヴェルドの冬は、ある朝突然に終わる。
前夜まで霜を噛んでいた石畳が、目覚めの鐘と同時にしっとりと光り出し、洗い立ての布のような柔い風が城壁をくぐってくる。
その日もそうだった。
レイフォード邸の東庭では、使用人たちが慌ただしく温室の扉を開け放っていた。蒸気を帯びた熱気が吐き出され、白い息のように空へ昇る。
「根を冷やさずに、空気だけ入れ替えるんだ。薔薇が目を覚ましちまう」
庭師長の指示に、新人の少年が赤い顔で頷いた。少し離れた藤棚の下では、侍女がほどけた蔓をほどき直し、春の陽差しを優しく透かした。
そんな光景を、露の残る芝の端から眺めている影がある。
厚手のカーディガンに包まれたアイリーンだ。
手には小さな木箱。箱の隙間から顔を出すのは、ルビー粒のようなローズヒップの種。峠へ向かう途中、雪解けの渓流沿いで見つけてこっそり持ち帰ったものだった。
「この子たち、都で根付くかしら」
彼女の独り言に、背後から低い声が応える。
「根付くさ。そのための肥沃な土を、ここで耕してきたのだからな」
振り返ると、レイフォード公爵フェルディナンドが執務帰りの軍装のまま立っていた。茶褐色の髪に春の埃が混じり、目尻に薄い疲れ。しかし唇は折りたたんだ手紙を咥え、どこか愉快そうである。
「王城からの書状かしら?」
アイリーンが問えば、公爵は手紙を外し、封蝋を指で弾いた。
「第一近衛騎士団より通達。“北東峠奪還戦”の正式な功績配分だそうだ。……英雄は“レイフォード公爵軍および協力騎士団”に、女勇者の名は空欄のまま」
「まあ。紙の上でもぼんやり、ですね」
彼女はくすりと笑い、ローズヒップの種を指先で転がした。
公爵は少しだけ声を落とす。
「だが、その“空欄”を埋めてほしいと書かれている。王は君の名を叙勲簿に載せたがっている」
「載ると、何か良いことが?」
「式典で宝冠がもらえる」
「重そうですわね」
「確かに」
どちらからともなく笑いがこぼれ、庭師が見ぬふりをして咳払いする。春の空気がふんわりと二人の間に宿った。
「アイリーン」
公爵は改まった声で名を呼んだ。
彼女が種を胸に抱いたまま見上げる。
「私はあの峠で誓った通り、強くなる。武人として、そして夫として。だが、それでも及ばぬ場面が来るやもしれん。その時は――」
言葉が途切れた。隠そうとした葛藤が、春の光で透かされるように立ち上る。
アイリーンは首を振り、そっと腕を伸ばし、彼の手を握った。
「及ぶとか及ばないとか、剣の長さで測るのはやめましょう。背中と背中を預け合う約束でしたでしょう?」
白い手のひらが温かい。
公爵の指が軽く震え、そして強く握り返す。
庭の隅で桃の蕾が割れ、早過ぎる花弁がこぼれた。
ふわりと風が流れ、二人の間の静寂を撫でる。
アイリーンは種箱を掲げ、庭師長へ声をかけた。
「この苗床をお借りできますか? 冬薔薇の傍にこの子たちを植えたいのです」
「承知しました、奥方さま」
木箱が黒土へ置かれ、丁寧に覆土される。
公爵が膝をつき、手伝いながらぽつりと呟く。
「この実が赤く熟す頃、峠の負傷兵は全快しているだろうか」
「ええ。彼らもまた、冬を越えられる力を証明しましたもの」
「ならば、その実で新しい茶を淹れよう。剣でなく茶杯で祝杯を」
アイリーンは土を払う手を止め、微笑む。
「お砂糖は一つですか? 二つですか?」
「その時は二つ。傷に沁みる甘さが欲しい」
ふたりは立ち上がり、木箱の前でそっと手を合わせた。
庭師も侍女も、その静かな祈りを邪魔しない。
雨上がりの庭土はしっとりと息づき、遠くで塔の鐘が“春支度の終わり”を告げて鳴った。
午後の陽が傾くにつれ、王都の通りでは瓦版売りの声が高まる。
《峠勝利の影に謎の剣士》
《英雄の空欄を巡る貴族院の攻防》
タイトルは煽るが、本文は曖昧だ。誰も確証を掴めないまま、物語は人々の口から口へと形を変えながら続いてゆく。
だがレイフォード邸の庭には静けさが張り付き、鳥の羽音だけが縁をかすめる。
蒔かれた種が芽を出すまで、誰も騒がぬのが一番。
英雄が英雄であることをやめて、ただ一つの家庭の影へ溶けていく――それもまた勝利の形である、とアイリーンは信じていた。
公爵が種箱の傍に小さな木札を立てる。
〈無名の薔薇〉
墨の二文字が濡れた土の匂いに揺れた。
名は重要ではない。そこに根があり、芽吹くという事実こそが宝物だ。
「……雨がもう一度、降りそうですわね」
「屋根の下へ戻ろうか?」
「いいえ。降ってきたら傘を差して、ふたりで芽を守りましょう」
空を見上げたアイリーンの瞳に、薄雲を透かす春光が映った。
隣で公爵が同じ空を見上げ、短く笑う。
雨でも晴れでも構わない――そう思える未来が、ようやく手の中に置かれたのだ。
石畳にポツリ、ポツリと水玉が落ちる。
花壇の薔薇はまだ眠ったままだが、その傍らで小さな無名の種が、静かに膨らみ始めていた。
――物語の幕は下り、かわりに新しい生活の扉が開く。
英雄譚は終わり、けれど日々の奇跡はこれからも続いていく。
雨音が再び優しく庭を包み、二つの傘の影が寄り添う。
その中心で芽吹く緑は、これから世界が必要とする“穏やかな強さ”の、まだ名もなき象(かたち)だった。
エピローグⅡ 白薔薇の手紙
北東峠の戦いから三ヶ月。
王都セレヴェルドでは、季節外れの南風が花粉を巻き上げ、石垣の隙間に早咲きの苔桃がほころび始めていた。
その午後、王城の文書局に勤める筆耕官セシリアは、一通の奇妙な小包を受け取る。
封筒は生成りの麻紙、宛名は「王都文書局・写本部御中」。
差出人は無名。ただ封口に、薔薇を横倒しにした形の封蝋が押されている。
――薔薇だが、茎にはいっさい棘がない。
局へ運び込まれる書状は日々千を超える。だが公印も貴族紋もない無名の封蝋は滅多にない。セシリアは興味半分、不審半分で封を切った。
中から現れたのは薄い綴りの冊子と、乾いた白薔薇一輪。
冊子の表紙には走り書きで題がある。
> 《冬薔薇が眠るあいだに》
> ——銀月峠戦記 抄録——
> “無名の従軍書記”
セシリアははっと息を呑んだ。銀月峠戦記――それは今なお噂の渦を呼び続ける“女勇者”の戦いを、公式報告よりはるかに詳しく記していると囁かれる幻の手記だ。いまだ誰も原本を確認しておらず、もっぱら瓦版の与太記事扱いだった。
ページを繰る。筆致は整い、戦況図の手描き墨線は軍大学の教官でも舌を巻く精度。
だがどの行にも、肝心の勇者の名が書かれていない。
代わりに「剣を執る影」「白銀の閃き」「背を守る者」と、詩文めいた呼称が散らされる。勇者の功績は克明でも、その素顔は徹底して覆われていた。
最終章を読み進め、セシリアの指が震えた。
> ――剣は英雄の名を欲せず。
> 名なくば、畏れもなく。
> 畏れなくば、人は剣を捧げすぎずに済む——
綴りはそこで唐突に終わり、続く余白にインクで一点だけ小さな星が描かれている。
星の真下に、白薔薇の押し花が糊で留められていた。棘は最初から刈り取られ、透ける花弁は月影のように淡い。
「……このまま架蔵庫へ送るのは惜しい」
セシリアは呟き、局長印の施錠箱ではなく、自分の羊皮カバーの手帖にそっと挟んだ。
(英雄の名前を追えば紙は増える。だが“名を隠す理由”を追えば、紙より深い物語に届くかもしれない)
彼女は無意識のうちに、胸元で星形の合図を小さく指先でなぞった。
◆ ◆ ◆
その頃、王都の外れ――レイフォード邸では、雨上がりの庭で初芽の摘み取りが行われていた。
アイリーンは色褪せた麦わら帽子をかぶり、ローズヒップの苗に日の当たり具合を確かめながら、苗床へ簡素な札を差し替える。札の裏には、今日の日付と小さな星印。
背後から近づく足音に振り向くと、侍女長ベアトリスが封筒を掲げた。
「文書局から依頼状です。『銀月峠戦記 抄録』という記録を、公爵家の協力で正式書庫に収めたいとか」
「まあ……」
アイリーンの瞳に、一瞬戸惑いの影。そして穏やかな笑み。
「お断りせずに、お引き受けいたしましょう。ですが名前は要りませんと、そっと添えてくださいませ」
「承知しました、ご夫人」
ベアトリスが下がり、庭に静けさが戻る。ローズヒップの新芽に朝陽が差し、緑が朱へ、朱が揺らぐ影へ変わる。
アイリーンは土を払うと、伸びた蔓先に口づけるように囁いた。
「芽が伸びるほど、剣は遠ざかるの。……それでいいのよ」
◆ ◆ ◆
夕刻、執務から戻ったレイフォード公爵は、玄関奥で封蝋を割った書状を妻から手渡された。
「文書局が協力を仰いでいる、と?」
「はい。でも英雄の名は、“どなたのものでもない”そうです」
公爵は手紙を読み、静かに笑った。
「それが世の平穏になるなら、賛同しよう。……ただし」
「ただし?」
「名を隠した英雄にも、庭の片隅に椅子を贈りたい。雨が降らない日は一緒に紅茶を飲むための」
アイリーンは帽子のつばを上げ、春らしく輝く眼差しを向けた。
「では庭師長に伝えますわ。椅子の材は、棘を落とした薔薇の枝でお願いすると」
公爵は片眉を上げ、そしてうなずいた。
「棘を抜かれた剣と同じだな。――触れても、もう痛くない」
◆ ◆ ◆
王都の夜。
文書局の書庫では、あの抄録が羊皮紙で写本に起こされ、無名のまま“歴史的戦闘資料”の棚に収まった。担当官がラベルを書き添える。
> 分類:北東峠戦
> 件名:女勇者に関する未確定記事
> 備考:識別子『白薔薇』
誰も、その備考欄の意味を問わない。
白薔薇は棘を持たず、香りも淡く、人の視線を呼びにくい。
けれど咲く場所を選ばず、根さえ張れば、どんな寒さにも静かに耐えて春を告げる。
石の街に灯がともる。瓦版売りが最後の声を張り上げ、真夜中の鐘が零時を打つと、王都は深い眠りへ滑り込んだ。
その静寂の中を、名前のない物語がそっと巡り続ける。
薪の爆ぜる音、屋根を撫でる風、遠くの犬の吠え声――
夜を裂いて剣を振るう音は、もうどこにもない。
けれど誰かの背を守る決意は、白薔薇のように見えない根を張り、明日の土をわずかに持ち上げている。
そして夜明け前、ほんのりと甘い茶の香りが、レイフォード邸の窓から静かに立ち昇った。
エピローグⅢ 芽吹く剣、静かな星
北東峠の勝利からちょうど一年。
王都セレヴェルドの北隅、騎士団付属の初等兵舎では、新入団員たちがまだ硬い鎧をぎこちなく揺らしながら朝礼に並んでいた。
その列の末端で、十五歳の少年フェルクは胸に抱えた木剣を汗で濡らしつつ、教官の点呼を待っている。
「――十二番、フェルク=ヴォルテック!」
「は、はいッ!」
声は裏返り、列の仲間がくすりと笑う。
けれど誰も本気でからかわない。フェルクが孤児院出身でありながら、前年度の筆記首席として王都附属に推薦された“努力の塊”だと知っているからだ。
彼は昨夜ほとんど寝ていない。
布団に潜り込むなり、薄蝋の灯の下である写本を読み耽っていたのだ。
題は《冬薔薇が眠るあいだに》――文書局がこの春、公式に公開した“銀月峠戦記 抄録”。
無名の従軍書記が淡々と綴った戦況と、その行間から滲む「背を守る者」の静かな強さ。英雄の名は一度として現れないが、フェルクの想像力には十分すぎる熱量だった。
――剣は英雄の名を欲せず。
名なくば、畏れもなく。
畏れなくば、人は剣を捧げすぎずに済む――
その一節を脳裏で反芻するたび、胸の奥で何かが温かく膨らんだ。
「強くなること」と「誰かを守ること」が同じ線で結ばれる感覚。
孤児院で剣の真似事しか知らなかった少年にとって、それは自分にも手が届くかもしれない未来の形だった。
◆ ◆ ◆
午前の剣技稽古。
木剣を握る手の汗が乾く前に、フェルクは組み手相手の突きを見事に捌き、教官の口笛を引き出した。
「成長が早いな、ヴォルテック! 夜な夜な剣豪の亡霊でも憑いてるのか?」
「い、いえっ、書物で――」
「書物? どの流派だ」
「『背を守る』流……とでも申しましょうか」
周囲が「何だそれ」と笑い、教官も首を捻る。
だがフェルクは構わなかった。“名を持たぬ英雄”が自分の剣に宿り始めていると信じて疑わなかったからだ。
午後、座学の合間。
図書室の窓際で、フェルクは抄録のページをそっとめくる。
紙の片隅に押された小さな星印。行間の余白に、誰かの手で書き込まれた短い書き込みに気づく。
> 星は仰ぐもの、薔薇は屈むもの。
剣は両方の高さを繋ぐ架け橋である。
筆跡は細く、ゆるい。だが峠戦記の硬質な文体にはなかった柔らかさが滲んでいる。
(従軍書記本人の追記だろうか)
胸が高鳴る。誰とも知らぬ英雄の息遣いが、時を越えて紙の上に宿っている気がした。
「なあフェルク。夕方の自由時間、王家公園の試合に出ないか?」
友人が呼びに来る。
フェルクは写本を丁寧に閉じ、革紐でしっかり括ると立ち上がった。
「……行くよ。でも賭け試合はしない」
「なんでだ?」
「剣は畏れないために握るんだ。賭けて、誰かを畏れさせたくない」
友人は目を丸くし、肩をすくめて笑った。
「変わり者め。まあいいさ。勝ってジュースを奢らせてやる!」
剣を持って王家公園へ向かう石畳。
夕風が芽吹いたばかりの楡の若葉を甘く揺らし、遠く聖堂の鐘が放課後を告げる。
フェルクの胸ポケットには、写本から切り抜いて小瓶に収めた白薔薇の押し花。棘を落とされ、香りも薄い、小さな証。
けれど彼は知っている。
――棘がなくとも薔薇は薔薇であり、剣を掲げずとも人は英雄になれる日が来ると。
◆ ◆ ◆
その夜。
レイフォード邸の書斎で、アイリーンは月下のペンを走らせていた。
羊皮紙に綴るのは《冬薔薇が眠るあいだに》の続章。騎士団の若き訓練生が写本に走り書きを残したという報告を耳にし、思わず迎えにゆく手紙をしたためているのだ。
> *――あなたが仰ぎし星の名は問わず、
> 名もなき剣に灯した灯火を讃えます。
> 背を守る決意こそ剣の最初の刃、
> どうか折れぬように、と――*
書き終えると、窓を開けて深呼吸をした。
庭のローズヒップに小さな実がついている。
灯りを落としたガラスに映る自分は、もう戦場の閃光ではない。ただ夜風を受ける一人の婦人。
しかし胸の奥で、星喰い(アステリア)の柄飾りが細く微かな音を鳴らす。まだ終わらぬ旅の呼び声のように。
「静かにしていてね。今夜は手紙を書くだけだから」
そっと囁き、封筒には棘を落とした白薔薇の押し花を一輪滑り込ませる。
あて名は、《王都騎士団付属初等兵舎 フェルク=ヴォルテック殿》。
横に小さな星を描き添え、にじむインクが乾くのを待った。
やがて深夜。
封筒を届けに出た使い鴉が月夜をひときわ高く翔け、王都の屋根を越えて遠ざかる。
その姿を見送りながら、アイリーンは静かに微笑んだ。
英雄の名を隠す物語は、
その欠けた部分に未来の剣を差し込む鞘
まだ名もない若い剣士が、その鞘に己の光を収められるなら――
冬の峠で咲いた無名の白薔薇は、きっと真に報われるのだろうと思えた。
書斎の灯を落とし、彼女は廊下へ出た。
遠く客間から聞こえるのは、公爵が新しい剣技書と格闘するすれ違いのページ音。
アイリーンは背に手を当て、そっと微笑む。
名を欲さぬ剣がすべての背を守り、
背を赦し合う人々の剣が国を織り上げる――
その静かな未来へ向け、窓外の星々が瞬く音が、確かに聞こえた気がした。
エピローグⅣ 風の城、薄暮の誓約
王国暦一二三八年・若草月二十日。
王都セレヴェルドでは年に一度の“風送り祭”が開幕した。
冬の名残を運び去る東風を祈念し、王城バルコニーの上で国王が一羽の銀鷹を放つ。その鷹が街を旋回するあいだ、住民は彩布を掲げ、護符を結んだ種子袋を互いに贈り合う――疫病や不作を鷹風とともに追い払う、古い民間起源の祝日だ。
夕刻。
王城北塔の石窓に、筆耕官セシリアが息を切らせて駆け込んだ。腕には局長印の緊急布袋、胸には極秘扱いの命令書。
「姫殿下、依頼された写本が完成いたしました!」
応接椅子に端座していたのは、国王の妹――第二王女キャサリン。ぬるい紅茶を弄んでいた彼女は、いそいそと布袋を受け取る。
「ありがとう。あなたには特別に閲覧許可を与えるわ」
布の中から現れた写本の背表紙には、銀箔押しでこう題された。
> 《春風と無名剣》
> ——背を守る者たちの記憶——
キャサリンはページを開くと、厚い睫の奥で瞳を揺らした。
「冬薔薇の続章……。やはり出自は不明のままね。けれど文章の温度が前より近い。……背を守られた者が、今度は誰かの背を守る番になった――そんな呼吸を感じるわ」
セシリアは頷く。
「院の若士官が自主的に綴り、それを別の筆跡で補正し直していました。名前はありません。でも途中の余白に星印が何度も……」
「星は“剣姫”の符丁。つまり無名の勇者が読み、添削した証。……面白い。英雄伝説が静かに連鎖する」
窓外では銀鷹が最後の旋回を終え、王城の尖塔へ戻りつつあった。その翼が薄明の空気を切る音を耳に、キャサリンはふと立ち上がる。
「私もこの連鎖に参加しよう。〈王家学術文庫〉の名でこの写本を匿名出版し、売上を戦災孤児の学資に回すのはどうかしら」
「素晴らしい御提案です、殿下!」
セシリアの瞳が輝く。キャサリンは頷き、写本を抱いて窓辺へ歩いた。
「英雄の名は伝えずとも、英雄の善意は育てられる。――それが“背を守る”という生き方の、真の伝染よね」
◆ ◆ ◆
一方その頃、王都の南縁。
レイフォード邸の温室では、アイリーンが早咲きのローズヒップに霧水をかけ、ふと遠雷のような祭囃子に耳を澄ました。
「今日は風送り祭……もう一年」
種から育てた若木はシーズンを越え、細い枝に朱色の実をつけている。
公爵フェルディナンドが温室へ入ってきた。旅塵を落としたばかりなのか、外套の肩がうっすら白いが、顔には朗らかな疲労が浮かぶ。
「王城から律義な書簡が届いた」
「まあ。どなたから?」
「第二王女殿下だ。『春風と無名剣』なる冊子を慈善出版するらしく、我が家のローズヒップ茶を“序文の献辞”に添えたいと」
アイリーンは驚きで目を丸くし、そして穏やかに笑った。
「無名の輪が、思いがけず大きく……。お館様、茶葉を増やさねばなりませんね」
公爵は彼女に寄り添い、若木の実をそっと指で弾いた。
「背を守る者が増えるほど、剣の出番は減る。良い循環だ。――だが、万一必要になれば、私も剣を抜ける男でありたい」
「その剣は、もう十分に研がれておりますわ。芽吹きと同じ速さで」
頬に春風が触れる。温室の屋根を打つ小雨の音が、かすかな祝祭の太鼓と重なった。
アイリーンはローズヒップの実を一粒摘み取り、公爵の手に乗せる。
「宰相府が言うには、来年から風送り祭は“ローズヒップ茶の無銭配布”を行うそうです。貴族も平民も列を作り、同じカップで春を祝う――素敵だと思いません?」
「素敵だ。だが生産量が追いつかんな」
「庭を倍に広げましょうか?」
「いや、手伝いに来る若者がいる。……騎士団付属の首席生が“背を守る流”とかいう妙な剣術を広めていてな」
アイリーンはふわりと笑った。
「それは頼もしい騎士さまですこと」
ふたりは並んで若木を見守る。
棘を持たない薔薇の枝。その先端に宿る朱は、燃える炎というより、夜空でひそかに瞬く星のようだった。
◆ ◆ ◆
夜。
王都の高台で焚かれた最後の篝火が風送り祭の終わりを告げ、群衆が家路へ散っていく。その薄闇を縫って、一羽の鷹が静かに翼を休めた。
鷹の足には小さな革筒。筒の中には二枚の羊皮紙。
一枚目はキャサリン王女の署名入りで慈善出版の正式許可。
もう一枚には、星印を添えて簡潔な手紙。
> ――剣に名は不要、善意に棘は不要。
けれど翼に風が要るなら、どうか王家が東風になってください。
無名の庭より、白薔薇の加護をこめて。
誰が書いたのか、宛名は書かれていない。
けれど受け取る側には、それが何より確かな署名に思えた。
星は夜空に多すぎて誰のものでもなく、白薔薇は棘を落とした途端に誰の庭にも咲く。――それが“背を守る剣”の流儀。
こうして、名もなき英雄の物語は王都の風に乗り、これから芽吹く無数の剣へ静かな誓いを送り続ける。
一陣の風が城壁を越え、遠く郊外のローズヒップ畑を撫でた。若木は小さく揺れ、夜空の星がひとつ、雲間で瞬いた。
新しい時代の背を守る者たちが、静かに目を覚ました合図だった。
王都セレヴェルドの冬は、ある朝突然に終わる。
前夜まで霜を噛んでいた石畳が、目覚めの鐘と同時にしっとりと光り出し、洗い立ての布のような柔い風が城壁をくぐってくる。
その日もそうだった。
レイフォード邸の東庭では、使用人たちが慌ただしく温室の扉を開け放っていた。蒸気を帯びた熱気が吐き出され、白い息のように空へ昇る。
「根を冷やさずに、空気だけ入れ替えるんだ。薔薇が目を覚ましちまう」
庭師長の指示に、新人の少年が赤い顔で頷いた。少し離れた藤棚の下では、侍女がほどけた蔓をほどき直し、春の陽差しを優しく透かした。
そんな光景を、露の残る芝の端から眺めている影がある。
厚手のカーディガンに包まれたアイリーンだ。
手には小さな木箱。箱の隙間から顔を出すのは、ルビー粒のようなローズヒップの種。峠へ向かう途中、雪解けの渓流沿いで見つけてこっそり持ち帰ったものだった。
「この子たち、都で根付くかしら」
彼女の独り言に、背後から低い声が応える。
「根付くさ。そのための肥沃な土を、ここで耕してきたのだからな」
振り返ると、レイフォード公爵フェルディナンドが執務帰りの軍装のまま立っていた。茶褐色の髪に春の埃が混じり、目尻に薄い疲れ。しかし唇は折りたたんだ手紙を咥え、どこか愉快そうである。
「王城からの書状かしら?」
アイリーンが問えば、公爵は手紙を外し、封蝋を指で弾いた。
「第一近衛騎士団より通達。“北東峠奪還戦”の正式な功績配分だそうだ。……英雄は“レイフォード公爵軍および協力騎士団”に、女勇者の名は空欄のまま」
「まあ。紙の上でもぼんやり、ですね」
彼女はくすりと笑い、ローズヒップの種を指先で転がした。
公爵は少しだけ声を落とす。
「だが、その“空欄”を埋めてほしいと書かれている。王は君の名を叙勲簿に載せたがっている」
「載ると、何か良いことが?」
「式典で宝冠がもらえる」
「重そうですわね」
「確かに」
どちらからともなく笑いがこぼれ、庭師が見ぬふりをして咳払いする。春の空気がふんわりと二人の間に宿った。
「アイリーン」
公爵は改まった声で名を呼んだ。
彼女が種を胸に抱いたまま見上げる。
「私はあの峠で誓った通り、強くなる。武人として、そして夫として。だが、それでも及ばぬ場面が来るやもしれん。その時は――」
言葉が途切れた。隠そうとした葛藤が、春の光で透かされるように立ち上る。
アイリーンは首を振り、そっと腕を伸ばし、彼の手を握った。
「及ぶとか及ばないとか、剣の長さで測るのはやめましょう。背中と背中を預け合う約束でしたでしょう?」
白い手のひらが温かい。
公爵の指が軽く震え、そして強く握り返す。
庭の隅で桃の蕾が割れ、早過ぎる花弁がこぼれた。
ふわりと風が流れ、二人の間の静寂を撫でる。
アイリーンは種箱を掲げ、庭師長へ声をかけた。
「この苗床をお借りできますか? 冬薔薇の傍にこの子たちを植えたいのです」
「承知しました、奥方さま」
木箱が黒土へ置かれ、丁寧に覆土される。
公爵が膝をつき、手伝いながらぽつりと呟く。
「この実が赤く熟す頃、峠の負傷兵は全快しているだろうか」
「ええ。彼らもまた、冬を越えられる力を証明しましたもの」
「ならば、その実で新しい茶を淹れよう。剣でなく茶杯で祝杯を」
アイリーンは土を払う手を止め、微笑む。
「お砂糖は一つですか? 二つですか?」
「その時は二つ。傷に沁みる甘さが欲しい」
ふたりは立ち上がり、木箱の前でそっと手を合わせた。
庭師も侍女も、その静かな祈りを邪魔しない。
雨上がりの庭土はしっとりと息づき、遠くで塔の鐘が“春支度の終わり”を告げて鳴った。
午後の陽が傾くにつれ、王都の通りでは瓦版売りの声が高まる。
《峠勝利の影に謎の剣士》
《英雄の空欄を巡る貴族院の攻防》
タイトルは煽るが、本文は曖昧だ。誰も確証を掴めないまま、物語は人々の口から口へと形を変えながら続いてゆく。
だがレイフォード邸の庭には静けさが張り付き、鳥の羽音だけが縁をかすめる。
蒔かれた種が芽を出すまで、誰も騒がぬのが一番。
英雄が英雄であることをやめて、ただ一つの家庭の影へ溶けていく――それもまた勝利の形である、とアイリーンは信じていた。
公爵が種箱の傍に小さな木札を立てる。
〈無名の薔薇〉
墨の二文字が濡れた土の匂いに揺れた。
名は重要ではない。そこに根があり、芽吹くという事実こそが宝物だ。
「……雨がもう一度、降りそうですわね」
「屋根の下へ戻ろうか?」
「いいえ。降ってきたら傘を差して、ふたりで芽を守りましょう」
空を見上げたアイリーンの瞳に、薄雲を透かす春光が映った。
隣で公爵が同じ空を見上げ、短く笑う。
雨でも晴れでも構わない――そう思える未来が、ようやく手の中に置かれたのだ。
石畳にポツリ、ポツリと水玉が落ちる。
花壇の薔薇はまだ眠ったままだが、その傍らで小さな無名の種が、静かに膨らみ始めていた。
――物語の幕は下り、かわりに新しい生活の扉が開く。
英雄譚は終わり、けれど日々の奇跡はこれからも続いていく。
雨音が再び優しく庭を包み、二つの傘の影が寄り添う。
その中心で芽吹く緑は、これから世界が必要とする“穏やかな強さ”の、まだ名もなき象(かたち)だった。
エピローグⅡ 白薔薇の手紙
北東峠の戦いから三ヶ月。
王都セレヴェルドでは、季節外れの南風が花粉を巻き上げ、石垣の隙間に早咲きの苔桃がほころび始めていた。
その午後、王城の文書局に勤める筆耕官セシリアは、一通の奇妙な小包を受け取る。
封筒は生成りの麻紙、宛名は「王都文書局・写本部御中」。
差出人は無名。ただ封口に、薔薇を横倒しにした形の封蝋が押されている。
――薔薇だが、茎にはいっさい棘がない。
局へ運び込まれる書状は日々千を超える。だが公印も貴族紋もない無名の封蝋は滅多にない。セシリアは興味半分、不審半分で封を切った。
中から現れたのは薄い綴りの冊子と、乾いた白薔薇一輪。
冊子の表紙には走り書きで題がある。
> 《冬薔薇が眠るあいだに》
> ——銀月峠戦記 抄録——
> “無名の従軍書記”
セシリアははっと息を呑んだ。銀月峠戦記――それは今なお噂の渦を呼び続ける“女勇者”の戦いを、公式報告よりはるかに詳しく記していると囁かれる幻の手記だ。いまだ誰も原本を確認しておらず、もっぱら瓦版の与太記事扱いだった。
ページを繰る。筆致は整い、戦況図の手描き墨線は軍大学の教官でも舌を巻く精度。
だがどの行にも、肝心の勇者の名が書かれていない。
代わりに「剣を執る影」「白銀の閃き」「背を守る者」と、詩文めいた呼称が散らされる。勇者の功績は克明でも、その素顔は徹底して覆われていた。
最終章を読み進め、セシリアの指が震えた。
> ――剣は英雄の名を欲せず。
> 名なくば、畏れもなく。
> 畏れなくば、人は剣を捧げすぎずに済む——
綴りはそこで唐突に終わり、続く余白にインクで一点だけ小さな星が描かれている。
星の真下に、白薔薇の押し花が糊で留められていた。棘は最初から刈り取られ、透ける花弁は月影のように淡い。
「……このまま架蔵庫へ送るのは惜しい」
セシリアは呟き、局長印の施錠箱ではなく、自分の羊皮カバーの手帖にそっと挟んだ。
(英雄の名前を追えば紙は増える。だが“名を隠す理由”を追えば、紙より深い物語に届くかもしれない)
彼女は無意識のうちに、胸元で星形の合図を小さく指先でなぞった。
◆ ◆ ◆
その頃、王都の外れ――レイフォード邸では、雨上がりの庭で初芽の摘み取りが行われていた。
アイリーンは色褪せた麦わら帽子をかぶり、ローズヒップの苗に日の当たり具合を確かめながら、苗床へ簡素な札を差し替える。札の裏には、今日の日付と小さな星印。
背後から近づく足音に振り向くと、侍女長ベアトリスが封筒を掲げた。
「文書局から依頼状です。『銀月峠戦記 抄録』という記録を、公爵家の協力で正式書庫に収めたいとか」
「まあ……」
アイリーンの瞳に、一瞬戸惑いの影。そして穏やかな笑み。
「お断りせずに、お引き受けいたしましょう。ですが名前は要りませんと、そっと添えてくださいませ」
「承知しました、ご夫人」
ベアトリスが下がり、庭に静けさが戻る。ローズヒップの新芽に朝陽が差し、緑が朱へ、朱が揺らぐ影へ変わる。
アイリーンは土を払うと、伸びた蔓先に口づけるように囁いた。
「芽が伸びるほど、剣は遠ざかるの。……それでいいのよ」
◆ ◆ ◆
夕刻、執務から戻ったレイフォード公爵は、玄関奥で封蝋を割った書状を妻から手渡された。
「文書局が協力を仰いでいる、と?」
「はい。でも英雄の名は、“どなたのものでもない”そうです」
公爵は手紙を読み、静かに笑った。
「それが世の平穏になるなら、賛同しよう。……ただし」
「ただし?」
「名を隠した英雄にも、庭の片隅に椅子を贈りたい。雨が降らない日は一緒に紅茶を飲むための」
アイリーンは帽子のつばを上げ、春らしく輝く眼差しを向けた。
「では庭師長に伝えますわ。椅子の材は、棘を落とした薔薇の枝でお願いすると」
公爵は片眉を上げ、そしてうなずいた。
「棘を抜かれた剣と同じだな。――触れても、もう痛くない」
◆ ◆ ◆
王都の夜。
文書局の書庫では、あの抄録が羊皮紙で写本に起こされ、無名のまま“歴史的戦闘資料”の棚に収まった。担当官がラベルを書き添える。
> 分類:北東峠戦
> 件名:女勇者に関する未確定記事
> 備考:識別子『白薔薇』
誰も、その備考欄の意味を問わない。
白薔薇は棘を持たず、香りも淡く、人の視線を呼びにくい。
けれど咲く場所を選ばず、根さえ張れば、どんな寒さにも静かに耐えて春を告げる。
石の街に灯がともる。瓦版売りが最後の声を張り上げ、真夜中の鐘が零時を打つと、王都は深い眠りへ滑り込んだ。
その静寂の中を、名前のない物語がそっと巡り続ける。
薪の爆ぜる音、屋根を撫でる風、遠くの犬の吠え声――
夜を裂いて剣を振るう音は、もうどこにもない。
けれど誰かの背を守る決意は、白薔薇のように見えない根を張り、明日の土をわずかに持ち上げている。
そして夜明け前、ほんのりと甘い茶の香りが、レイフォード邸の窓から静かに立ち昇った。
エピローグⅢ 芽吹く剣、静かな星
北東峠の勝利からちょうど一年。
王都セレヴェルドの北隅、騎士団付属の初等兵舎では、新入団員たちがまだ硬い鎧をぎこちなく揺らしながら朝礼に並んでいた。
その列の末端で、十五歳の少年フェルクは胸に抱えた木剣を汗で濡らしつつ、教官の点呼を待っている。
「――十二番、フェルク=ヴォルテック!」
「は、はいッ!」
声は裏返り、列の仲間がくすりと笑う。
けれど誰も本気でからかわない。フェルクが孤児院出身でありながら、前年度の筆記首席として王都附属に推薦された“努力の塊”だと知っているからだ。
彼は昨夜ほとんど寝ていない。
布団に潜り込むなり、薄蝋の灯の下である写本を読み耽っていたのだ。
題は《冬薔薇が眠るあいだに》――文書局がこの春、公式に公開した“銀月峠戦記 抄録”。
無名の従軍書記が淡々と綴った戦況と、その行間から滲む「背を守る者」の静かな強さ。英雄の名は一度として現れないが、フェルクの想像力には十分すぎる熱量だった。
――剣は英雄の名を欲せず。
名なくば、畏れもなく。
畏れなくば、人は剣を捧げすぎずに済む――
その一節を脳裏で反芻するたび、胸の奥で何かが温かく膨らんだ。
「強くなること」と「誰かを守ること」が同じ線で結ばれる感覚。
孤児院で剣の真似事しか知らなかった少年にとって、それは自分にも手が届くかもしれない未来の形だった。
◆ ◆ ◆
午前の剣技稽古。
木剣を握る手の汗が乾く前に、フェルクは組み手相手の突きを見事に捌き、教官の口笛を引き出した。
「成長が早いな、ヴォルテック! 夜な夜な剣豪の亡霊でも憑いてるのか?」
「い、いえっ、書物で――」
「書物? どの流派だ」
「『背を守る』流……とでも申しましょうか」
周囲が「何だそれ」と笑い、教官も首を捻る。
だがフェルクは構わなかった。“名を持たぬ英雄”が自分の剣に宿り始めていると信じて疑わなかったからだ。
午後、座学の合間。
図書室の窓際で、フェルクは抄録のページをそっとめくる。
紙の片隅に押された小さな星印。行間の余白に、誰かの手で書き込まれた短い書き込みに気づく。
> 星は仰ぐもの、薔薇は屈むもの。
剣は両方の高さを繋ぐ架け橋である。
筆跡は細く、ゆるい。だが峠戦記の硬質な文体にはなかった柔らかさが滲んでいる。
(従軍書記本人の追記だろうか)
胸が高鳴る。誰とも知らぬ英雄の息遣いが、時を越えて紙の上に宿っている気がした。
「なあフェルク。夕方の自由時間、王家公園の試合に出ないか?」
友人が呼びに来る。
フェルクは写本を丁寧に閉じ、革紐でしっかり括ると立ち上がった。
「……行くよ。でも賭け試合はしない」
「なんでだ?」
「剣は畏れないために握るんだ。賭けて、誰かを畏れさせたくない」
友人は目を丸くし、肩をすくめて笑った。
「変わり者め。まあいいさ。勝ってジュースを奢らせてやる!」
剣を持って王家公園へ向かう石畳。
夕風が芽吹いたばかりの楡の若葉を甘く揺らし、遠く聖堂の鐘が放課後を告げる。
フェルクの胸ポケットには、写本から切り抜いて小瓶に収めた白薔薇の押し花。棘を落とされ、香りも薄い、小さな証。
けれど彼は知っている。
――棘がなくとも薔薇は薔薇であり、剣を掲げずとも人は英雄になれる日が来ると。
◆ ◆ ◆
その夜。
レイフォード邸の書斎で、アイリーンは月下のペンを走らせていた。
羊皮紙に綴るのは《冬薔薇が眠るあいだに》の続章。騎士団の若き訓練生が写本に走り書きを残したという報告を耳にし、思わず迎えにゆく手紙をしたためているのだ。
> *――あなたが仰ぎし星の名は問わず、
> 名もなき剣に灯した灯火を讃えます。
> 背を守る決意こそ剣の最初の刃、
> どうか折れぬように、と――*
書き終えると、窓を開けて深呼吸をした。
庭のローズヒップに小さな実がついている。
灯りを落としたガラスに映る自分は、もう戦場の閃光ではない。ただ夜風を受ける一人の婦人。
しかし胸の奥で、星喰い(アステリア)の柄飾りが細く微かな音を鳴らす。まだ終わらぬ旅の呼び声のように。
「静かにしていてね。今夜は手紙を書くだけだから」
そっと囁き、封筒には棘を落とした白薔薇の押し花を一輪滑り込ませる。
あて名は、《王都騎士団付属初等兵舎 フェルク=ヴォルテック殿》。
横に小さな星を描き添え、にじむインクが乾くのを待った。
やがて深夜。
封筒を届けに出た使い鴉が月夜をひときわ高く翔け、王都の屋根を越えて遠ざかる。
その姿を見送りながら、アイリーンは静かに微笑んだ。
英雄の名を隠す物語は、
その欠けた部分に未来の剣を差し込む鞘
まだ名もない若い剣士が、その鞘に己の光を収められるなら――
冬の峠で咲いた無名の白薔薇は、きっと真に報われるのだろうと思えた。
書斎の灯を落とし、彼女は廊下へ出た。
遠く客間から聞こえるのは、公爵が新しい剣技書と格闘するすれ違いのページ音。
アイリーンは背に手を当て、そっと微笑む。
名を欲さぬ剣がすべての背を守り、
背を赦し合う人々の剣が国を織り上げる――
その静かな未来へ向け、窓外の星々が瞬く音が、確かに聞こえた気がした。
エピローグⅣ 風の城、薄暮の誓約
王国暦一二三八年・若草月二十日。
王都セレヴェルドでは年に一度の“風送り祭”が開幕した。
冬の名残を運び去る東風を祈念し、王城バルコニーの上で国王が一羽の銀鷹を放つ。その鷹が街を旋回するあいだ、住民は彩布を掲げ、護符を結んだ種子袋を互いに贈り合う――疫病や不作を鷹風とともに追い払う、古い民間起源の祝日だ。
夕刻。
王城北塔の石窓に、筆耕官セシリアが息を切らせて駆け込んだ。腕には局長印の緊急布袋、胸には極秘扱いの命令書。
「姫殿下、依頼された写本が完成いたしました!」
応接椅子に端座していたのは、国王の妹――第二王女キャサリン。ぬるい紅茶を弄んでいた彼女は、いそいそと布袋を受け取る。
「ありがとう。あなたには特別に閲覧許可を与えるわ」
布の中から現れた写本の背表紙には、銀箔押しでこう題された。
> 《春風と無名剣》
> ——背を守る者たちの記憶——
キャサリンはページを開くと、厚い睫の奥で瞳を揺らした。
「冬薔薇の続章……。やはり出自は不明のままね。けれど文章の温度が前より近い。……背を守られた者が、今度は誰かの背を守る番になった――そんな呼吸を感じるわ」
セシリアは頷く。
「院の若士官が自主的に綴り、それを別の筆跡で補正し直していました。名前はありません。でも途中の余白に星印が何度も……」
「星は“剣姫”の符丁。つまり無名の勇者が読み、添削した証。……面白い。英雄伝説が静かに連鎖する」
窓外では銀鷹が最後の旋回を終え、王城の尖塔へ戻りつつあった。その翼が薄明の空気を切る音を耳に、キャサリンはふと立ち上がる。
「私もこの連鎖に参加しよう。〈王家学術文庫〉の名でこの写本を匿名出版し、売上を戦災孤児の学資に回すのはどうかしら」
「素晴らしい御提案です、殿下!」
セシリアの瞳が輝く。キャサリンは頷き、写本を抱いて窓辺へ歩いた。
「英雄の名は伝えずとも、英雄の善意は育てられる。――それが“背を守る”という生き方の、真の伝染よね」
◆ ◆ ◆
一方その頃、王都の南縁。
レイフォード邸の温室では、アイリーンが早咲きのローズヒップに霧水をかけ、ふと遠雷のような祭囃子に耳を澄ました。
「今日は風送り祭……もう一年」
種から育てた若木はシーズンを越え、細い枝に朱色の実をつけている。
公爵フェルディナンドが温室へ入ってきた。旅塵を落としたばかりなのか、外套の肩がうっすら白いが、顔には朗らかな疲労が浮かぶ。
「王城から律義な書簡が届いた」
「まあ。どなたから?」
「第二王女殿下だ。『春風と無名剣』なる冊子を慈善出版するらしく、我が家のローズヒップ茶を“序文の献辞”に添えたいと」
アイリーンは驚きで目を丸くし、そして穏やかに笑った。
「無名の輪が、思いがけず大きく……。お館様、茶葉を増やさねばなりませんね」
公爵は彼女に寄り添い、若木の実をそっと指で弾いた。
「背を守る者が増えるほど、剣の出番は減る。良い循環だ。――だが、万一必要になれば、私も剣を抜ける男でありたい」
「その剣は、もう十分に研がれておりますわ。芽吹きと同じ速さで」
頬に春風が触れる。温室の屋根を打つ小雨の音が、かすかな祝祭の太鼓と重なった。
アイリーンはローズヒップの実を一粒摘み取り、公爵の手に乗せる。
「宰相府が言うには、来年から風送り祭は“ローズヒップ茶の無銭配布”を行うそうです。貴族も平民も列を作り、同じカップで春を祝う――素敵だと思いません?」
「素敵だ。だが生産量が追いつかんな」
「庭を倍に広げましょうか?」
「いや、手伝いに来る若者がいる。……騎士団付属の首席生が“背を守る流”とかいう妙な剣術を広めていてな」
アイリーンはふわりと笑った。
「それは頼もしい騎士さまですこと」
ふたりは並んで若木を見守る。
棘を持たない薔薇の枝。その先端に宿る朱は、燃える炎というより、夜空でひそかに瞬く星のようだった。
◆ ◆ ◆
夜。
王都の高台で焚かれた最後の篝火が風送り祭の終わりを告げ、群衆が家路へ散っていく。その薄闇を縫って、一羽の鷹が静かに翼を休めた。
鷹の足には小さな革筒。筒の中には二枚の羊皮紙。
一枚目はキャサリン王女の署名入りで慈善出版の正式許可。
もう一枚には、星印を添えて簡潔な手紙。
> ――剣に名は不要、善意に棘は不要。
けれど翼に風が要るなら、どうか王家が東風になってください。
無名の庭より、白薔薇の加護をこめて。
誰が書いたのか、宛名は書かれていない。
けれど受け取る側には、それが何より確かな署名に思えた。
星は夜空に多すぎて誰のものでもなく、白薔薇は棘を落とした途端に誰の庭にも咲く。――それが“背を守る剣”の流儀。
こうして、名もなき英雄の物語は王都の風に乗り、これから芽吹く無数の剣へ静かな誓いを送り続ける。
一陣の風が城壁を越え、遠く郊外のローズヒップ畑を撫でた。若木は小さく揺れ、夜空の星がひとつ、雲間で瞬いた。
新しい時代の背を守る者たちが、静かに目を覚ました合図だった。
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