公爵夫人はいつもぼんやり ―こっそり内助の功で勇者やってます―

しおしお

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第7章

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第7章‐1 都の噂
 王都セレヴェルドは、まだ冬の冷気を孕んだ朝靄の下で目覚めた。
 だが石畳の大通りには、いつものパン屋の呼び声や荷車の軋みより早く、ひそやかな囁きが駆け抜けていた。


---

■石工たちの早朝

「聞いたか? 北東峠を救った銀髪の女勇者――三度、魔王の腕を斬り落としたって」
「いやいや、盾を掲げて王家旗を立て直したのは蒼銀の公爵殿だとよ。女勇者は風のように姿を消したらしいぜ」

 石橋の欄干で休む石工たちが、斧より大げさに身振りを振るい合う。その噂の種は、早駆けの伝令が落とした一冊の報告書、そして隊商が運び込んだ誇張混じりの瓦版だ。
 瓦版の見出しには墨太字で《銀月の剣姫、峠を救う》とあるが、その下に描かれた挿絵は、どの職人の手でも顔立ちがまるで違う。古の精霊のように冷たい美女だったり、慈母のように微笑む女だったり――誰一人として本人の顔を見ていない証左だ。


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■香水店の開店準備

 王都一の流行を扱う香水店〈ル・パルファン〉の店先でも、女主人が瓶を磨きながら娘に囁く。

「『銀の女勇者』が身にまとっていた香りは、霜を溶かす白薔薇と月桂樹だって聞いたわ。ねえ、似た香油を調合して“剣姫の雫”と銘を打ったらどうかしら」
「お母さま、それ陛下の御用香調査の前に商標を取らないと!」

 商魂は噂より速く羽ばたく。店の奥で調香瓶が跳ねるたび、銀髪の勇者はさらに神秘のベールをまとった。


---

■下町酒場〈赤猫亭〉の昼

「よお、吟遊詩人! 峠の顛末を即興で唄ってみろ!」
「♪――蒼き王旗を影に背負い
  月光纏うは銀の乙女
  黒き瘴気を裂き往けども
  名を問われれば――」

 弦を鳴らす詩人は、最後の一節をわざと伏せる。
 客席の傭兵たちは息を詰め、やがて耐えきれずに足踏みでせがむが、詩人は盃を揺らして笑うだけだ。

「――名乗らず去るのが粋ってもんよ。銀の剣姫は、昼の影法師さ」

 誰もが真実を知りたくてたまらない。しかし誰もが“知らぬまま”に酔いしれる。それこそが英雄譚の甘い罠だと、酒場の主人は気付いている。


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■王城・執務の間

 朝議が終わる頃、若き国王アドルフ十二世は玉座の肘掛を軽く叩いた。宰相レムルスが髭を撫でながら進み出る。

「陛下、北東峠の報告――レイフォード公爵より文書がまいりました。魔王軍撃退、アクノ家の叛乱鎮圧。さらに“正体不明の白銀勇者”の活躍が記されております」
「正体不明? レイフォード公自身の配下に、そんな将がいたか?」

 国王は報告書を繰り、首を傾げた。そこには丁寧に功労の在り処が書かれながら、当の女勇者の姓名欄が空白のまま。
 「……噂が先走るのは構わぬ。だが虚像を英雄に祭り上げれば、十年前の混乱が再来する」
 「ご尤もで」
 宰相の眼光が一瞬鋭く光る。が、その内実を悟る者は少ない。


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■王都貴族たちのティーサロン

「奥さまったら、聞きまして? 銀髪の剣姫は実は亡国の姫らしいわ!」
「まあ! でも私は王家の密命を帯びた女騎士説を信じているの。ほら、この手紙を見て。『剣姫に謁見した者は慈悲の眼差しに射抜かれ、跪いた』と!」
 噂は雪だるまのように肥え太り、最後には「公爵夫人の影武者」説や「人造人間」説まで飛び出す。ティーカップの縁で踊る真珠より透き通った嘘が、真実を覆い隠す絹となる。


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■王都軍大学・閲覧室

 一方、軍大学の閲覧室では、若い士官候補生たちが書棚を引っくり返していた。
 「ベルゼと深淵王分霊を同時に破砕……常識では不可能だ。剣技と魔術の同時双演の記録を探せ!」
 「十年前の勇者隊……“白銀の星喰い”……まさか同一人物?」
 ページを繰る手に震えが走る。「伝説」が「実在」へ近づいた瞬間、少年の目は星のように輝く。若き英雄願望は、次なる剣を鍛える燃料だ。


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■街角の孤児院

 夕映えの鐘が鳴るころ、孤児院の壁には粗末なチョーク画が増えていた。
 白い髪と大きな剣、小さな子どもが描いた稚拙な線だが、瞳だけが不思議と澄んでいる。
 「お姉ちゃんが来て、魔物をやっつけたんだって!」
 「ほんとに? いつか会える?」
 「ぜったい会えるよ。だって、ぼくたちがいい子にしてたら来てくれるんだもん!」
 子どもたちの“銀色のヒーロー”は、すでに絵本の騎士と同列に語られ始めていた。


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■夜更けの印刷工房

 活版印刷の鋳型を並べる老職人が、組版を見上げて呻く。
 「明日朝の号外は“峠の勝利”か“銀の剣姫”か、どっちを三段抜きにする?」
 弟子が紙束を抱えて答えた。
 「両方です! ……でも剣姫の肖像は?」
 「顔の分からん英雄ほど絵師が喜ぶんだ。好きに想像で描かせりゃいい」
 活字が版枠に嵌め込まれ、インクが光る。翌朝にはまた新しい“真実”が街へばら撒かれるだろう。


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■噂の潮流

 こうして王都の上層から下町、学術の書庫から子どもの落書きまで――
 「銀月の剣姫」、あるいは**「白銀の星喰い」**とも呼ばれる女勇者の噂は、雪どけ水のように複雑な水脈を辿って拡がっていった。
 だが核心――

* 彼女の本当の素顔が誰か*
* 何故名乗らず去ったのか*
* 次にいつ現れるのか*

 ――それだけは、どの口も言及できずにいる。
 まるで都そのものが、英雄をそっと寝かせておくための柔らかな毛布になったかのように。


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■峠からの帰還

 その頃、レイフォード公爵家の馬車列はまだ半日の距離を走っていた。
 御者台の脇、冬の日差しに霞む車窓で、アイリーンは首筋の包帯を隠すようにショールを合わせる。
 窓越しに遠く見える王都の石壁が、噂の奔流を想像もさせぬほど穏やかに輝いていた。

 「……噂が大きくなる前に、帰宅して庭の手入れをしませんと」
 彼女がそう呟くと、公爵が苦笑し――やがて真顔になる。
 「都は剣姫の話で持ち切りらしい。……隠し通すのは難しいかもしれんぞ」
 「でしたら、かわいいお茶会話題の一つに。“紅茶好きなぼんやり夫人が峠の噂を聞いて腰を抜かした”……そのくらいが丁度いいでしょう?」

 馬車は軽く揺れ、靴音一つ響かぬ雪解け道を進む。
 王都は、英雄の帰還を知らぬまま賑わい、英雄は、王都が沸き立つほど静かな帰り道を選んでいた。

 噂だけが空を舞い、銀色の羽根のように世界へ広がっていく――。

第7章‐2 妻の不思議

 冬の斜陽が王都セレヴェルドの石壁を朱に染めるころ、レイフォード公爵家の馬車列は南門を潜り、まっすぐメインストリートを進んでいた。道の左右に並ぶ露店や人混みは遠征軍の凱旋を歓迎するかのようにざわめき、子どもたちが青銀の家紋旗を振って駆け抜ける。
 だが喧噪の中心に座すべき当の公爵は、馬車の奥で小さく眉をひそめていた。

 向かいに座る妻――アイリーン。
 彼女は濃紺の外套の襟を両手で押さえ、いつも通り眠たげに瞬きを繰り返している。峠でともに剣を振るい、深淵王の分霊に止めを刺した“あの”凛烈な勇者の面影は、不思議なほど影を潜めていた。

 (本当に……同じ人物なのか?)

 ふとした瞬間に垣間見える。
 窓外に視線を遣る横顔が鋭く引き締まる刹那――その瞳は、かつて戦場で見た星のような蒼光を宿す。だが次の瞬間にはトロンと半月形のまぶたが覆い隠し、“ぼんやり夫人”が返ってくる。
 公爵は喉の奥で短く咳払いし、決然と問いかけた。

「……アイリーン。峠では、私は確かにお前と肩を並べ、剣を振った記憶がある。あれは夢でないな?」
 「え? あのときですか?」
 彼女は首を傾げ、くすりと笑った。
 「そうですわねえ……お館様のお背がとても頼もしくて、私、安心して目が回ってしまったくらいですもの。夢ならきっと素敵でしたわ」

 はぐらかされた。
 だが嘘をついている気配もない。本当に“戦った記憶”が霞んでいるのか、それとも何かしら強固な意志で真実を包んでいるのか――判別できない。公爵は半ば呆然としながら、彼女の手の甲をそっと取った。
 火傷のような古傷跡。鞘擦れで出来た硬い皮膚。そして剣を握る癖が染みついた指の節々。
 (剣を振らぬ者の手ではない……)

 その時、馬車が屋敷の石畳へ乗り上げ、微かな衝撃で会話が途切れた。扉が開き、侍女長ベアトリスと執事長が揃って出迎える。
 「お帰りなさいませ、閣下。ご夫人も」
 「ただいま戻りましたわ」
 アイリーンはふわりと立ち上がり、踵を滑らせそうになって執事に支えられた。公爵は思わず手を伸ばしかけるが、その小さな躓き方は彼女が何度も見せてきた“ドジ”そのもの。先ほど握った剣茹だつ指とはまるで結びつかない。

 屋敷へ足を踏み入れると、寂しげな静けさが迎えた。戦勝の宴を申し出る者も多かったはずだが、アイリーンの強い希望で、祝賀は後日に延期された。
 「遠征続きで使用人も疲労が溜まっております。皆が休める晩にしたくて」
 その言葉に異論はない。だが公爵は廊下を歩きながら、背後の妻の足音を無意識に数えていた。
 一、二、……八歩で壁の蝋燭に気を取られ、十歩目で裾を踏んで小さくよろめく。この“リズム”も屋敷での日常と何ら変わらない。

 やがて広間。冬仕舞いされていた暖炉に火が入り、テーブルには温かなキームンの香りが漂う。
 アイリーンは自らポットを傾け、カップへ琥珀色の細い流線を描いた。
 「お砂糖は一つですか? 二つですか?」
 「一つで頼む」
 まるで遠征前とまったく変わらぬ夫婦の茶会。だが公爵の胸には、重みのある別の思考がよどんでいる。

 ――このまま真実に触れず、見て見ぬふりをすれば、彼女はきっと“ぼんやり夫人”のまま穏やかに微笑んでくれるだろう。
 ――しかしそれでは、自分は再び彼女を独り戦場へ送り続ける“無知の夫”に戻ってしまう。

 匙が当たり、ティーカップの縁が澄んだ音を鳴らした。
 「アイリーン」
 「はい?」
 「……剣の手入れは、誰に教わった?」
 思わず口をついた問いに、アイリーンはキョトンと目を瞬かせる。
 「剣? まあ、子どもの頃に少しだけ。田舎の古武術ですわ。ほら、女の子でも身を守れるようにって」
 「少し、と言える腕ではなかった。峠での太刀筋――」

 言いかけて、彼女の瞳が一瞬だけ陰影を深めた。
 「お館様」
 ふわりと笑みが戻る。
 「剣の良し悪しは、見る人の見方次第ですわ。気のせいでございますよ」
 気のせいではない……と、公爵は喉元で押し返した。
 追及すれば彼女は言葉を返すだろう。しかしその言葉が真実とは限らない。いまの彼女は、少しでも問い詰めれば“ぼんやり夫人”としての仮面を厚くする気がした。

 カップの湯気が揺らぐ。
 やがて公爵は椅子を離れ、暖炉の前へ歩いた。炎の赤が鎧の継ぎ目を照らす。
 「……いずれ、詳しく話してくれる日も来よう。私は急がず待つとしよう」
 「お館様?」
 彼は振り向かずに続けた。
 「その日まで、私は己の剣を鍛え直す。妻の能力を嫉妬ではなく誇りに変えられるようにな」
 背を向けながらも、声は柔らかい。
 アイリーンはカップをそっと置き、小さく会釈をした。

 「はい。私も、お館様の剣を信じて待ちます」

 暖炉の薪がぱち、と弾けた。
 その火花が宙へ昇り、やがて闇へ融けてゆく。二人のあいだには相変わらず“謎”が横たわる。けれど公爵は確かに気づいた――妻を縛る秘密の鎖を急に断つより、互いに歩み寄るための時間を編む方がはるかに大切だと。

 そしてアイリーンもまた胸の内で誓う。
 ――いつか真実を語る日に備え、公爵の背にふさわしい“静かな剣”であり続けよう、と。

     ◆  ◆  ◆

 その夜遅く。
 屋敷の書斎で公爵は報告書を閉じ、窓の外に目を向けた。王都の街灯が遠く瞬き、路地からはまだ“銀の剣姫”を語る噂のかけらが跳ねて届く。
 窓硝子に映る自分の姿。その背後で、扉を半開きに立つ妻の影が重なる。

 「お休みのご用意ができました」
 「……すぐ行く。ありがとう」
 公爵は振り返らず、ただ影越しに呟く。
 「アイリーン。いずれ真実を打ち明ける気になったら……私はきっと、笑って聞こう」
 扉の向こうで、彼女は静かに微笑んだことを、背中越しでも感じた。

 「はい。その時は、どうか紅茶をおかわりしてくださいませ」

 そこに剣戟の緊張はない。ただ淡く甘い葉の香りが、夜更けの空気に溶けていった。

 都の噂は明日も賑やかに渦巻くだろう。
 だが公爵邸の灯は静かで、この夫妻の小さな“謎”は、焔の揺らぎとともに深い夜へゆっくり溶けていった――。

第7章‐3 騎士団長の訪問

 王都が昼下がりの鐘を打ったころ、レイフォード邸の表門に重厚な軍馬が一騎、蹄を止めた。
 銀縁の軍用外套、胸甲に刻まれた三頭狼――王国第一近衛騎士団を率いる団長ユーリス・フォン・グラナートその人である。玄関前に並んだ従僕が慌てて最敬礼を取ると、ユーリスは馬を降り、手綱を若い舎弟に渡した。

 「公爵殿はご在宅か?」
 「はっ、あいにくただ今は軍務院へ。奥方さまはサロンにてお茶のご用意を」
 「ならば夫人にご挨拶を。案内を頼む」

 執事長ベアトリスが戸口を開き、ユーリスをサロンへと通した。
 冬の陽差しの柔らかな室内で、アイリーンは青いポットを傾けていた。白磁のカップが二つ、湯気を揺らす。彼女は客の影に気づき、椅子から立ち上がる。

 「まあ、騎士団長どの。遠征帰りでお疲れでしょうに――お茶はいかがですか?」
 「ありがたく頂戴しよう」

 礼儀正しく腰を折る騎士団長の直立姿勢は、戦場そのままの緊張感を帯びている。しかし目元はどこか柔らかく、銀髪の夫人を測量するように細められた。

 カップを受け取ると、ユーリスは一口啜り、低く息を吐いた。
 「……キームンの焙煎が少し深い。前より香りが豊かだ」
 「旅の間、煮詰まるほど淹れる癖がついてしまって」
 アイリーンはふわりと笑い、菓子皿を滑らせた。

 会話は一見穏やかだが、空気に僅かな張りが混じる。
 ユーリスはカップを置き、指を組むと、真剣な色で切り出した。

 「公爵夫人。北東峠での手柄について、王都は喧しい。――いや、手柄ではなく“奇跡”と言うべきか」
 「噂は尾ひれがつきやすいものですわ。ほら、伯爵令嬢が龍を飼っているという作り話まで飛び交っておりますもの」
 「だが、私は実見した。“白銀の剣姫”と呼ばれる勇者が十年前にいたことを。……そして峠報告書の戦術記述は、当時の勇者隊作戦と酷似している」

 アイリーンの睫がわずかに伏せられる。その影を乗り越えるように、ユーリスはさらに進んだ。

 「もしや――公爵夫人、あなたが“白銀の星喰い”では?」

 部屋が静まる。
 外では木枯らしが枯葉を転がしているが、硝子窓越しの音さえ遠い。
 アイリーンはカップをとんと受け皿に戻した。両手を膝に揃え、穏やかに首を傾げる。

 「騎士団長どの。私は“ぼんやり”の名で呼ばれ、紅茶と草花だけが取り柄の公爵夫人です。……戦場の凱歌など、畏れ多いことでしょう?」
 「否、私の眼は誤魔化せぬ。魔王戦役で共に戦った戦友の背中は忘れようもない」
 声が震え、熱を帯びていた。十年の年月が削り切れぬ敬意と親愛。
 アイリーンは瞳を細め、卓上の花瓶に視線を落とす。冬薔薇の白が淡く香る。沈黙はほんの二拍。やがて顔を上げた彼女の笑みは、眠たげでも怯えでもなかった。

 「ユーリス。あなたは良き指揮官であり、聡明な友人でした。――でも今は、王都が混乱から立ち直りかけた微妙な時。英雄の名は、国を二つにも三つにも裂く鋏となり得ます」
 「それでも真実を隠すのは……」
 「隠すのではなく、“眠らせる”のですわ」
 軽やかに差し出された手が、騎士団長の篭手をそっと包む。
 「どうか思い出だけを胸に留めてください。私は夫と小さな庭を守り、あなたは騎士団を率いて若き剣士に道を示す。――それでこそ、十年前に誓った“ひとつの未来”になると、私は信じています」

 ユーリスは目を閉じた。脳裏に蘇る血煙と雷光、そして背中を預け合った仲間の記憶。
 やがて深く息を吐き、篭手の手を引いた。
 「了解した、……アイリーン。私は何も見ていない。聞いてもいない。ただ公爵夫人の紅茶を飲みに来ただけだ」

 その瞬間、張り詰めていた空気がほどけ、暖炉の火がぱちっと小さく弾けた。
 アイリーンは安堵の笑みで礼を言い、ポットから新しい茶を注ぐ。湯気が二人のあいだを揺れ、銀匙が柔らかな音を立てた。

     ◆  ◆  ◆

 応接を終えて玄関へ向かう廊下、ユーリスは赤い絨毯の上で足を止めた。背後には誰もいない。だが壁の鏡が、遠くサロンの窓辺に立つアイリーンの横顔を映している。
 月影のように儚い微笑。けれど鏡面越しの視線は、かつて戦場で山を砕いた剣姫と同じ鋼を宿している。

 (……眠らせたままにしておくには、惜しい力だ)

 ユーリスは微かに頭を振り、外套の襟を立てた。
 「英雄は、ただ在るだけで国を動かす。動かさせぬためにこそ、私が壁になる」

 扉が開き、外気が軍外套を揺らす。
 騎士団長は馬に跨がると、従者へひと言だけ命じた。

 「レイフォード邸の噂について、何も報告するな。……ただ“郊外の冬薔薇が咲き始めた”とだけ伝えよ」

 従者は訳も聞かず頷き、手綱を引いた。
 蹄の音が遠ざかり、屋敷はふたたび静けさに包まれる。

     ◆  ◆  ◆

 サロンへ戻ったアイリーンは、窓硝子を指でなぞりながら、かすかな笑みを浮かべた。
 ――剣を抜かずとも守れるものが増えた。
 暖炉の火は穏やかに揺れ、キームンの甘い香りが部屋に残っている。彼女はポットを片付け、壊れた茶漉しを見つめた。

 (次は、もっと小さな戦い方を覚えないとね)

 そう呟き、道具箱から修理具を取り出す。その仕種はまるで、傷ついた世界の小さな綻びを繕う針仕事のようだった。

 窓の外では、王都の空を銀の噂がまだ舞っている。
 けれどレイフォード邸の庭には、静かな冬薔薇が深紅の蕾を結び始めていた――。

第7章‐4 雨音の誓い(約2,300字)

 王都に夜の帳が降りるころ、レイフォード邸の屋根を早春の雨が叩いていた。
 灰いろの雲が月を隠し、石畳を濡らす雨足は細く、それでいて途切れを知らない。昼間の喧騒を洗い流すように静かな音だけが続き、街灯の明かりが水膜に揺れている。

 食後の執務を終えたレイフォード公爵は、書斎から灯の落ちた回廊へ出た。
 足音が絨毯に吸われる。重い鎧を脱いだ肩に、旅帰りの疲労がいまさら沈み込む。――だが心は軽かった。
 妻が笑っている。屋敷が笑っている。
 それだけで、峠で負った無数の傷が鈍い痺れへ変わる気がした。

 窓際を通りかかり、雨粒の軌跡を目で追った瞬間、開け放たれたテラスの扉から灯が漏れた。
 雨除けの庇の下、アイリーンが一人、夜空を見上げている。
 薄いカシミヤショールを肩に掛け、髪は栗色のまま――だが微かに揺れる銀の光が、月の裏面のように彼女の輪郭に沿っていた。

 「冷えるぞ」
 声を掛けると、彼女は振り向き、眠たげな笑みを見せる。
 「雨音を聞くと、庭の土が喜ぶ気がして」
 「庭師が聞いたら感涙ものだな」

 公爵が並んで立つと、雨粒が庇の縁を越えて跳ね、彼の肩に落ちた。
 アイリーンはそっと手を伸ばし、水滴を払う。
 その仕草に重なる形で、ふいに公爵は問いを落とした。

 「……ユーリス団長が来てから、屋敷への訪問が増えた」
 「ええ」
 「誰もあなたの名を呼ばない。だが皆、あなたを見ている」
 「見つめることと語ることは、似ているようで違いますわ」
 彼女は目を細め、雨が跳ねる花壇へ視線を落とす。
 「語れば重くなり、重ければ人はそれを担げる誰かに預けたくなる。……だから黙って見守るのでしょう。勇者の名も、剣の秘密も」

 公爵は頷き、懐から小さな革袋を取り出した。
 中には砕けた黒い結晶――アクノの混淆核の残骸を封じた護符。
 「王城調査局に送る前に、お前に見せたかった。終わった戦の亡霊をどうすべきか、教えを乞いたくてな」
 アイリーンは指先で革袋を撫で、雨の匂いを深く吸った。
 「燃やせば跡形もなく消えます。でも――」
 「でも?」
 「敢えて残す価値もあります。脅威の証拠としてではなく、『奢れば人は闇に堕ちる』という戒めの石として」
 静かな声に、公爵は苦笑する。
 「その役目なら、私の胸の傷跡が担いそうだ。……剣を磨くたびに痛むからな」
 「お優しいお館様。傷が疼くときは、この雨音を思い出してください。痛みも、きっと柔らぎますわ」

 ふと、遠くの鐘楼が十時を告げた。
 アイリーンは庇から一歩外へ出て、掌を差し出す。雨粒が指先を叩き、冷たい線となって滑る。
 「この雨が止めば、王都に春が来ます。噂も、きっと芽吹きを終えて静かになるでしょう」
 「噂が静かでも、心の剣は錆びさせぬさ」
 公爵の言葉に、彼女は顔だけを傾け、まぶたをとろんと下げた。

 ――その刹那、闇を裂いた閃き。
 否――ただの稲光が遠くの雲間を縦に走っただけだ。
 だが公爵の眼は見逃さない。アイリーンの瞳が瞬間、戦場の星光を宿したことを。
 次の瞬間には、もう穏やかな眠たげが戻る。
 公爵は深く息を吐き、雨音にまぎれるほど小さく告げた。

 「私は、お前が何者であっても構わない。……ただ、隣にいてくれればいい」
 言い終えると同時に、頬がわずかに熱くなる。
 アイリーンは驚いたように目を丸くし、ゆっくりと微笑んだ。
 「はい。わたくしの剣も、わたくしのぼんやりも……ぜんぶ隣に置いてくださいませ」

 雨脚が弱まり、雲がほどけ始める。
 庇から離れた二人の肩に残り雨が降り注ぎ、それでも足取りは玄関の灯へ向かって揃う。
 扉を閉める前、アイリーンは振り返り、雨上がりの街を眺めた。

 石畳が星のように反射し、遠い通りでは誰かが笛を吹いている。
 英雄譚は笛の音色より儚い。だが“妻の不思議”は、雨粒より静かに続いていく――確かな約束とともに。

 翌朝、王都に春一番が届く。
 銀の噂はやがて風に薄れ、冬薔薇の根もとに新芽が顔を出すだろう。
 そしてレイフォード邸の庭先では、紅茶の湯気と草いきれの中、ぼんやりと微笑む夫人が土に指を埋め、芽吹いた緑をそっと撫でているに違いない。

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【「愛さない」と言ったのはあなたです。私はもっとハイスペックな次(夫)と幸せになりますので、どうぞお構いなく!】 侯爵令嬢リディアは、建国記念舞踏会の最中に、婚約者である王太子レオンハルトから婚約破棄を宣言される。 「君を愛することはない!」という王太子の言葉は、国中に響く『公的拒絶誓約』となってしまった。 しかし、リディアは泣かなかった。 「承知しました。私も愛しません。次いきます」 彼女は即座に撤退し、その場で慰謝料請求と名誉回復の手続きを開始する。その潔さと有能さに目をつけたのは、国の行政を牛耳る『氷の宰相』アシュ・ヴァレンシュタインだった。 「私の政治的盾になれ。条件は『恋愛感情の禁止』と『嘘がつけない契約』だ」 利害の一致した二人は、愛のない契約結婚を結ぶ。 はずだったのだが――『嘘がつけない契約』のせいで、冷徹なはずの宰相の本音が暴走! 「君を失うのは非合理だ(=大好きだ)」「君は私の光だ(=愛してる)」 隠せない溺愛と、最強の夫婦による論理的で容赦のない『ざまぁ』。 一方、リディアを捨てた王太子は「愛さない誓約」の呪いに苦しみ、自滅していく。 これは、悪役令嬢と呼ばれた女が、嘘のない真実の愛を手に入れ、国中を巻き込んで幸せになるまでの物語。

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