『婚約もしていないのに婚約破棄ですか? 〜岩塩で殴れば目が覚めます?〜』

しおしお

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第一話 白と灰

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第一話 白と灰

 王都の朝は、白から始まる。

 王宮の厨房では、磨き上げられた銀の器が並び、真白な布がかけられ、真白な粉が静かに振りかけられる。

「殿下、本日の卵料理でございます」

 料理長が恭しく差し出した皿に、王太子は満足げに頷いた。

「うむ。やはり我が国の塩は上質だな。遠く海を越えて運ばれてくるだけはある」

 さらりと言いながら、指先でつまんだ白い粉をぱらりと落とす。

 透き通るように白い結晶。さらさらと軽く、舌の上で瞬時に溶けるそれは、王宮専用に納められている精製塩だ。

 王太子は疑ったことがない。これは遠方の海洋国家から取り寄せた“本物の海塩”。だからこそ、この透明な純白なのだと。

「岩塩などとは違うからな」

 ふと漏らした一言に、料理長の手がわずかに止まる。

「……岩塩、でございますか」

「ああ。あの灰色の石ころだろう? 庶民が削って使うという」

 王太子は鼻で笑う。

「不純物だらけの岩など、口にできたものではない」

 厨房にいる者たちは視線を伏せる。

 王宮の塩も、もとは岩から生まれたものであることを、誰もが知っているからだ。

 だが、その事実を王太子が知らぬことも、また知っている。

 白い粉だけを見て育った者は、灰色の塊を想像できない。

 それだけの話だ。

 王都の市場では、朝から岩塩を砕く音が響いている。

 灰色がかった塊を金槌で割り、小さくし、袋に詰める。手は白く粉を帯びるが、指先にはざらりとした粒子が残る。

「今年は質がいいね」

「ハライト産はやっぱり違う」

 商人たちはそう言い合う。

 内陸のこの国にとって、塩は命綱だ。

 肉を保存し、魚を漬け、冬を越す。傷口を洗い、病を防ぐ。軍が動くにも、商隊が進むにも、塩は欠かせない。

 それを支えているのが、北方に位置するハライト公国。

 岩塩の産出国。

 灰色の岩の国。

 王都の貴族の多くは、その岩塩を見たことがない。

 王宮に届くのは、白く精製された塩だけだからだ。

 そして、その白は“海から来た”と、いつの間にか誰かが言い出し、いつの間にか常識になった。

 王太子も、その常識の上に立っている。

「ハライトとの婚約話が進んでいるそうですね」

 側近が控えめに口にした。

「婚約?」

「はい。ハライト公爵令嬢、ヴィエリチカ様と」

 王太子は眉をひそめる。

「岩を売る国の娘か?」

「……岩塩の産出で知られる公国でございます」

「同じことだ」

 白い粉を指先でつまみながら、王太子は笑った。

「岩を削って売る田舎者だろう。石ころで財を成した国など、いずれ枯れる」

 側近は言葉を選ぶ。

「しかし、我が国の塩供給は、その“石ころ”に支えられております」

「だからこそだ」

 王太子は皿を置く。

「我が国はもっと高貴な供給先を持つべきだ。海洋国家との直接取引に切り替えればよい」

「……海塩は高級品でございます。量も限られており――」

「王宮には足りているではないか」

 白い粉が、朝日を受けて輝く。

「見よ、この透明さ。この純白。あの灰色の岩と同じだとでも言うのか?」

 側近は黙るしかない。

 王太子の中では、白は高貴で、灰は下等だ。

 そして、白は海から来るもの。

 灰は大地の汚れ。

 その単純な図式が、何の疑問もなく成立している。

 同じ頃、北方のハライト公国では。

 ヴィエリチカ・ハライト公爵令嬢が、坑道から運び出された岩塩を見下ろしていた。

 灰色の塊。ところどころに透明な結晶が光る。

「今年も良い層ですわね」

「はい、姫様。深部の層は特に純度が高く」

「不純物、と呼ばれる部分も?」

 従者が苦笑する。

「ミネラルでございます」

 ヴィエリチカはくすりと笑った。

「ええ。不純物と申しますと、少々乱暴ですもの」

 岩塩の表面をそっと撫でる。

 大地の時間が閉じ込められた石。

 この国の誇り。

 それを“石ころ”と呼ぶ者がいると、報告はすでに届いている。

 王都での会話。

 王太子の発言。

 彼女は怒鳴らない。

 泣きもしない。

 ただ、微笑む。

「婚約の件、進んでいるそうですね」

 侍女が小声で言う。

「協議段階でございます」

「そう」

 ヴィエリチカは軽く頷く。

「まだ、決まっておりませんのね」

 視線は岩塩に向いたまま。

「我が領地を侮辱なさる方と、家を結ぶ理由はございませんわ」

 声は柔らかい。

 だが、坑道よりも深い冷たさを含んでいる。

「岩塩がいらない、と仰るのでしょう?」

 侍女は困惑する。

「噂でございます」

「噂でも、言葉は言葉」

 ヴィエリチカは岩塩から手を離す。

「では、不要なものはお届けしないだけのこと」

 にこり。

 可憐な笑顔。

「大地の恵みを石ころとお呼びになるのなら、石ころは引き取りますわ」

 王都の王太子は、まだ知らない。

 白は灰から生まれることを。

 海よりも古い塩が、大地の奥に眠っていることを。

 そして、自らが軽んじたその灰色が、王国の命脈であることを。

 白と灰。

 ただの色の違いが、やがて国の形を変える。

 朝の白い食卓は、まだ穏やかだ。

 だがその下で、灰色の沈黙が、静かに動き始めていた。
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