『婚約もしていないのに婚約破棄ですか? 〜岩塩で殴れば目が覚めます?〜』

しおしお

文字の大きさ
2 / 32

第二話 田舎娘

しおりを挟む
第二話 田舎娘

 王都の大広間は、やけに明るかった。

 高い天井から吊るされた燭台がきらめき、磨き上げられた床は鏡のように光を返す。壁際には諸侯や商人、各地からの使節が並び、ささやかなざわめきが波のように広がっていた。

 今夜は晩餐会。

 そして――ハライト公国からの正式な使節団を迎える席でもある。

 まだ婚約は成立していない。

 あくまで「協議が進んでいる」という段階。

 両国にとって重要な交渉の場であり、慎重さが求められるはずの夜だった。

 ヴィエリチカ・ハライト公爵令嬢は、王太子の斜め前に立っていた。

 薄い灰青色のドレスは、岩塩の結晶を思わせる透明な刺繍で縁取られている。飾りは控えめだが、どこか静かな威厳があった。

 彼女は微笑んでいる。

 それは礼儀としての微笑みだ。

「本日はお招きいただき、光栄でございます」

 澄んだ声が響く。

 王太子は軽く頷いた。

「遠路ご苦労」

 そして、ふと笑う。

「しかし、我が国も奇妙な縁を持つものだな」

 周囲がわずかに緊張する。

「岩を売る国と婚約とは」

 空気が止まった。

 ヴィエリチカの表情は変わらない。

 ただ、まばたき一つ、静かに。

「……岩、でございますか」

「ああ。岩塩だろう? 灰色の塊を削って売るのだと聞く」

 王太子はグラスを傾けながら続ける。

「正直に言おう。石ころを扱う田舎娘と婚約とは、我が国の格にふさわしいとは思えぬ」

 誰かが息を呑んだ。

 まだ婚約は成立していない。

 正式な申し入れも、最終合意も交わされていない。

 それでも、この場で口にしてよい言葉ではなかった。

「そのような婚約は、破棄だ」

 王太子は言い切った。

 成立していないものを、破棄と宣言する。

 自分が上位であり、すでに決まっているはずだという思い込み。

 大広間の空気が凍る。

 ヴィエリチカは、ゆっくりと王太子を見上げた。

 怒らない。

 声も荒げない。

 ただ、柔らかく微笑む。

「殿下」

 その声音は澄んでいる。

「婚約は、まだ協議段階でございます」

 穏やかな訂正。

「破棄も、成立後に可能なものでございましょう」

 周囲に小さな波紋が広がる。

 王太子の頬がわずかにこわばった。

「細かいことだ」

「細かいことではございませんわ」

 ヴィエリチカの微笑みは崩れない。

「家と家を結ぶ話でございます。石ころの取引ではございません」

 “石ころ”。

 王太子の言葉をそのまま返す。

 だが声は優しい。

「岩塩など、不純物の塊だ」

 王太子は強引に話を進める。

「我が国は海洋国家と直接取引すべきだ。白く澄んだ海塩こそ、本物の塩であろう」

 ヴィエリチカは一瞬だけ目を伏せた。

 そして、再び顔を上げる。

「不純物、と仰いますが……」

 場が静まる。

「美味しい水には、ミネラルが不可欠でございます」

 さらりとした声音。

「美味しい塩にも、ミネラルが不可欠でございますわ」

 貴族の何人かが視線を交わす。

 王宮の料理人たちは、息を詰める。

「殿下がお召し上がりの白い塩も、大地から生まれたものでございます」

 あくまで丁寧。

「海を越えて参る高級塩は、量も少なく、王宮の全需要を満たせるものではございません」

 王太子の眉が動く。

「何が言いたい」

 ヴィエリチカはにこりと笑う。

「我が国からの交易品は不要という……」

 少しだけ間を置く。

「いえ、我が国も不要ということでございましょうか?」

 静かな一撃。

 外交席である。

 記録係がいる。

 証人もいる。

 王太子は引けない。

「不要だと言ったらどうする」

「承りました」

 ヴィエリチカは一礼する。

 怒りは、ないように見える。

「不要なものは、お届けいたしません」

 その言葉が落ちた瞬間、広間の温度が下がった。

 塩はただの調味料ではない。

 保存。

 兵站。

 冬越し。

 治療。

 それを知らぬ者は、この場にいない。

 王太子だけを除いて。

「よろしい。ならば海塩を増やせばよい」

 軽い一言。

 だが、すでに遅い。

 ヴィエリチカは最後にもう一度、丁寧に頭を下げた。

「本日は貴重なお時間をありがとうございました」

 そして、振り返る。

 その背筋は真っ直ぐで、揺るがない。

 侍女が小声で囁く。

「お怒りでございますか」

 ヴィエリチカは小さく首を振る。

「怒りませんわ」

 唇に、かすかな笑み。

「我が領地を侮辱なさる方と、無理に縁を結ぶ必要はございませんもの」

 そして、ほんの少しだけ声を落とす。

「石ころで目が覚める方なら、苦労はいたしませんわね」

 冗談のように。

 だが瞳は冷たい。

「供給は止めてください」

 その一言で、歴史の歯車が動き出した。

 王都の夜は、まだ白く輝いている。

 だが灰色の岩塩は、静かに王都へ向かう道を閉ざし始めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

善人ぶった姉に奪われ続けてきましたが、逃げた先で溺愛されて私のスキルで領地は豊作です

しろこねこ
ファンタジー
「あなたのためを思って」という一見優しい伯爵家の姉ジュリナに虐げられている妹セリナ。醜いセリナの言うことを家族は誰も聞いてくれない。そんな中、唯一差別しない家庭教師に貴族子女にははしたないとされる魔法を教わるが、親切ぶってセリナを孤立させる姉。植物魔法に目覚めたセリナはペット?のヴィリオをともに家を出て南の辺境を目指す。

虚弱で大人しい姉のことが、婚約者のあの方はお好きなようで……

くわっと
恋愛
21.05.23完結 ーー 「ごめんなさい、姉が私の帰りを待っていますのでーー」 差し伸べられた手をするりとかわす。 これが、公爵家令嬢リトアの婚約者『でも』あるカストリアの決まり文句である。 決まり文句、というだけで、その言葉には嘘偽りはない。 彼の最愛の姉であるイデアは本当に彼の帰りを待っているし、婚約者の一人でもあるリトアとの甘い時間を終わらせたくないのも本当である。 だが、本当であるからこそ、余計にタチが悪い。 地位も名誉も権力も。 武力も知力も財力も。 全て、とは言わないにしろ、そのほとんどを所有しているこの男のことが。 月並みに好きな自分が、ただただみっともない。 けれど、それでも。 一緒にいられるならば。 婚約者という、その他大勢とは違う立場にいられるならば。 それだけで良かった。 少なくとも、その時は。

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

君のためだと言われても、少しも嬉しくありません

みみぢあん
恋愛
子爵家令嬢マリオンの婚約者アルフレッド卿が王族の護衛で隣国へ行くが、任期がながびき帰国できなくなり婚約を解消することになった。 すぐにノエル卿と2度目の婚約が決まったが、結婚を目前にして家庭の事情で2人は……    暗い流れがつづきます。 ざまぁでスカッ… とされたい方には不向きのお話です。ご注意を😓

「不細工なお前とは婚約破棄したい」と言ってみたら、秒で破棄されました。

桜乃
ファンタジー
ロイ王子の婚約者は、不細工と言われているテレーゼ・ハイウォール公爵令嬢。彼女からの愛を確かめたくて、思ってもいない事を言ってしまう。 「不細工なお前とは婚約破棄したい」 この一言が重要な言葉だなんて思いもよらずに。 ※短編です。11/21に完結いたします。 ※1回の投稿文字数は少な目です。 ※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。 表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。 ❇❇❇❇❇❇❇❇❇ 2024年10月追記 お読みいただき、ありがとうございます。 こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。 1ページの文字数は少な目です。 約4800文字程度の番外編です。 バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`) ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑) ※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。

愚かな者たちは国を滅ぼす【完結】

春の小径
ファンタジー
婚約破棄から始まる国の崩壊 『知らなかったから許される』なんて思わないでください。 それ自体、罪ですよ。 ⭐︎他社でも公開します

どうぞお好きに

音無砂月
ファンタジー
公爵家に生まれたスカーレット・ミレイユ。 王命で第二王子であるセルフと婚約することになったけれど彼が商家の娘であるシャーベットを囲っているのはとても有名な話だった。そのせいか、なかなか婚約話が進まず、あまり野心のない公爵家にまで縁談話が来てしまった。

処理中です...