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第二話 田舎娘
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第二話 田舎娘
王都の大広間は、やけに明るかった。
高い天井から吊るされた燭台がきらめき、磨き上げられた床は鏡のように光を返す。壁際には諸侯や商人、各地からの使節が並び、ささやかなざわめきが波のように広がっていた。
今夜は晩餐会。
そして――ハライト公国からの正式な使節団を迎える席でもある。
まだ婚約は成立していない。
あくまで「協議が進んでいる」という段階。
両国にとって重要な交渉の場であり、慎重さが求められるはずの夜だった。
ヴィエリチカ・ハライト公爵令嬢は、王太子の斜め前に立っていた。
薄い灰青色のドレスは、岩塩の結晶を思わせる透明な刺繍で縁取られている。飾りは控えめだが、どこか静かな威厳があった。
彼女は微笑んでいる。
それは礼儀としての微笑みだ。
「本日はお招きいただき、光栄でございます」
澄んだ声が響く。
王太子は軽く頷いた。
「遠路ご苦労」
そして、ふと笑う。
「しかし、我が国も奇妙な縁を持つものだな」
周囲がわずかに緊張する。
「岩を売る国と婚約とは」
空気が止まった。
ヴィエリチカの表情は変わらない。
ただ、まばたき一つ、静かに。
「……岩、でございますか」
「ああ。岩塩だろう? 灰色の塊を削って売るのだと聞く」
王太子はグラスを傾けながら続ける。
「正直に言おう。石ころを扱う田舎娘と婚約とは、我が国の格にふさわしいとは思えぬ」
誰かが息を呑んだ。
まだ婚約は成立していない。
正式な申し入れも、最終合意も交わされていない。
それでも、この場で口にしてよい言葉ではなかった。
「そのような婚約は、破棄だ」
王太子は言い切った。
成立していないものを、破棄と宣言する。
自分が上位であり、すでに決まっているはずだという思い込み。
大広間の空気が凍る。
ヴィエリチカは、ゆっくりと王太子を見上げた。
怒らない。
声も荒げない。
ただ、柔らかく微笑む。
「殿下」
その声音は澄んでいる。
「婚約は、まだ協議段階でございます」
穏やかな訂正。
「破棄も、成立後に可能なものでございましょう」
周囲に小さな波紋が広がる。
王太子の頬がわずかにこわばった。
「細かいことだ」
「細かいことではございませんわ」
ヴィエリチカの微笑みは崩れない。
「家と家を結ぶ話でございます。石ころの取引ではございません」
“石ころ”。
王太子の言葉をそのまま返す。
だが声は優しい。
「岩塩など、不純物の塊だ」
王太子は強引に話を進める。
「我が国は海洋国家と直接取引すべきだ。白く澄んだ海塩こそ、本物の塩であろう」
ヴィエリチカは一瞬だけ目を伏せた。
そして、再び顔を上げる。
「不純物、と仰いますが……」
場が静まる。
「美味しい水には、ミネラルが不可欠でございます」
さらりとした声音。
「美味しい塩にも、ミネラルが不可欠でございますわ」
貴族の何人かが視線を交わす。
王宮の料理人たちは、息を詰める。
「殿下がお召し上がりの白い塩も、大地から生まれたものでございます」
あくまで丁寧。
「海を越えて参る高級塩は、量も少なく、王宮の全需要を満たせるものではございません」
王太子の眉が動く。
「何が言いたい」
ヴィエリチカはにこりと笑う。
「我が国からの交易品は不要という……」
少しだけ間を置く。
「いえ、我が国も不要ということでございましょうか?」
静かな一撃。
外交席である。
記録係がいる。
証人もいる。
王太子は引けない。
「不要だと言ったらどうする」
「承りました」
ヴィエリチカは一礼する。
怒りは、ないように見える。
「不要なものは、お届けいたしません」
その言葉が落ちた瞬間、広間の温度が下がった。
塩はただの調味料ではない。
保存。
兵站。
冬越し。
治療。
それを知らぬ者は、この場にいない。
王太子だけを除いて。
「よろしい。ならば海塩を増やせばよい」
軽い一言。
だが、すでに遅い。
ヴィエリチカは最後にもう一度、丁寧に頭を下げた。
「本日は貴重なお時間をありがとうございました」
そして、振り返る。
その背筋は真っ直ぐで、揺るがない。
侍女が小声で囁く。
「お怒りでございますか」
ヴィエリチカは小さく首を振る。
「怒りませんわ」
唇に、かすかな笑み。
「我が領地を侮辱なさる方と、無理に縁を結ぶ必要はございませんもの」
そして、ほんの少しだけ声を落とす。
「石ころで目が覚める方なら、苦労はいたしませんわね」
冗談のように。
だが瞳は冷たい。
「供給は止めてください」
その一言で、歴史の歯車が動き出した。
王都の夜は、まだ白く輝いている。
だが灰色の岩塩は、静かに王都へ向かう道を閉ざし始めていた。
王都の大広間は、やけに明るかった。
高い天井から吊るされた燭台がきらめき、磨き上げられた床は鏡のように光を返す。壁際には諸侯や商人、各地からの使節が並び、ささやかなざわめきが波のように広がっていた。
今夜は晩餐会。
そして――ハライト公国からの正式な使節団を迎える席でもある。
まだ婚約は成立していない。
あくまで「協議が進んでいる」という段階。
両国にとって重要な交渉の場であり、慎重さが求められるはずの夜だった。
ヴィエリチカ・ハライト公爵令嬢は、王太子の斜め前に立っていた。
薄い灰青色のドレスは、岩塩の結晶を思わせる透明な刺繍で縁取られている。飾りは控えめだが、どこか静かな威厳があった。
彼女は微笑んでいる。
それは礼儀としての微笑みだ。
「本日はお招きいただき、光栄でございます」
澄んだ声が響く。
王太子は軽く頷いた。
「遠路ご苦労」
そして、ふと笑う。
「しかし、我が国も奇妙な縁を持つものだな」
周囲がわずかに緊張する。
「岩を売る国と婚約とは」
空気が止まった。
ヴィエリチカの表情は変わらない。
ただ、まばたき一つ、静かに。
「……岩、でございますか」
「ああ。岩塩だろう? 灰色の塊を削って売るのだと聞く」
王太子はグラスを傾けながら続ける。
「正直に言おう。石ころを扱う田舎娘と婚約とは、我が国の格にふさわしいとは思えぬ」
誰かが息を呑んだ。
まだ婚約は成立していない。
正式な申し入れも、最終合意も交わされていない。
それでも、この場で口にしてよい言葉ではなかった。
「そのような婚約は、破棄だ」
王太子は言い切った。
成立していないものを、破棄と宣言する。
自分が上位であり、すでに決まっているはずだという思い込み。
大広間の空気が凍る。
ヴィエリチカは、ゆっくりと王太子を見上げた。
怒らない。
声も荒げない。
ただ、柔らかく微笑む。
「殿下」
その声音は澄んでいる。
「婚約は、まだ協議段階でございます」
穏やかな訂正。
「破棄も、成立後に可能なものでございましょう」
周囲に小さな波紋が広がる。
王太子の頬がわずかにこわばった。
「細かいことだ」
「細かいことではございませんわ」
ヴィエリチカの微笑みは崩れない。
「家と家を結ぶ話でございます。石ころの取引ではございません」
“石ころ”。
王太子の言葉をそのまま返す。
だが声は優しい。
「岩塩など、不純物の塊だ」
王太子は強引に話を進める。
「我が国は海洋国家と直接取引すべきだ。白く澄んだ海塩こそ、本物の塩であろう」
ヴィエリチカは一瞬だけ目を伏せた。
そして、再び顔を上げる。
「不純物、と仰いますが……」
場が静まる。
「美味しい水には、ミネラルが不可欠でございます」
さらりとした声音。
「美味しい塩にも、ミネラルが不可欠でございますわ」
貴族の何人かが視線を交わす。
王宮の料理人たちは、息を詰める。
「殿下がお召し上がりの白い塩も、大地から生まれたものでございます」
あくまで丁寧。
「海を越えて参る高級塩は、量も少なく、王宮の全需要を満たせるものではございません」
王太子の眉が動く。
「何が言いたい」
ヴィエリチカはにこりと笑う。
「我が国からの交易品は不要という……」
少しだけ間を置く。
「いえ、我が国も不要ということでございましょうか?」
静かな一撃。
外交席である。
記録係がいる。
証人もいる。
王太子は引けない。
「不要だと言ったらどうする」
「承りました」
ヴィエリチカは一礼する。
怒りは、ないように見える。
「不要なものは、お届けいたしません」
その言葉が落ちた瞬間、広間の温度が下がった。
塩はただの調味料ではない。
保存。
兵站。
冬越し。
治療。
それを知らぬ者は、この場にいない。
王太子だけを除いて。
「よろしい。ならば海塩を増やせばよい」
軽い一言。
だが、すでに遅い。
ヴィエリチカは最後にもう一度、丁寧に頭を下げた。
「本日は貴重なお時間をありがとうございました」
そして、振り返る。
その背筋は真っ直ぐで、揺るがない。
侍女が小声で囁く。
「お怒りでございますか」
ヴィエリチカは小さく首を振る。
「怒りませんわ」
唇に、かすかな笑み。
「我が領地を侮辱なさる方と、無理に縁を結ぶ必要はございませんもの」
そして、ほんの少しだけ声を落とす。
「石ころで目が覚める方なら、苦労はいたしませんわね」
冗談のように。
だが瞳は冷たい。
「供給は止めてください」
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王都の夜は、まだ白く輝いている。
だが灰色の岩塩は、静かに王都へ向かう道を閉ざし始めていた。
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