『婚約もしていないのに婚約破棄ですか? 〜岩塩で殴れば目が覚めます?〜』

しおしお

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第十五話 誇り

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第十五話 誇り

 赤字という言葉が、城内で囁かれ始めていた。

 市場は落ち着き、塩漬け肉は再び吊るされ、干物は風に揺れている。王都の暮らしは、表面上は何も変わらない。

 だが王城の奥、分厚い帳簿の中では、静かに赤い線が増えていた。

 

「今月も補填額は増加しております」

 財務官の声は、もはや驚きを含まない。

「想定の範囲内か」

「……範囲内ではございますが、楽観はできません」

 王太子は頷く。

 机の上には、私有地の整理報告、宝飾品の売却目録、そして十倍契約の写し。

 自らの署名が、黒々と残っている。

 

「市場は安定しているか」

「はい」

「軍備は」

「塩漬けの生産、平常に戻りました」

 それを聞き、王太子は小さく息を吐く。

「ならば、よい」

 財務官は、言葉を選ぶ。

「殿下、赤字は事実でございます」

「承知している」

「今なら、まだ見直しも――」

「見直さぬ」

 即答だった。

 

 室内が静まる。

「契約は守る」

 短い言葉。

「価格を下げる交渉を」

「侮辱した側が、再び条件を変えろと?」

 王太子は視線を上げる。

「それは誇りではない」

 

 財務官は黙る。

 理解している。

 誇りとは強がりではない。

 責任を投げぬことだ。

 

 午後、王太子は城壁の上に立った。

 遠くに見える市場。

 人々の笑い声。

 塩を削る音。

 あの音が止まった数日間を、思い出す。

 

「民は守れた」

 再び、呟く。

 今度は、はっきりと。

 赤字はある。

 負担もある。

 だが民は塩を手にしている。

 それが最優先だ。

 

 側近がそっと言う。

「殿下は後悔しておられますか」

「軽率であったことは、後悔している」

 一拍。

「だが、今の選択は後悔していない」

 声は静かだが揺らがない。

 

 北方、ハライト公国。

 ヴィエリチカは坑道の視察を終え、岩肌に手を触れる。

「王都は安定しております」

 報告を受け、彼女は頷く。

「それでよろしい」

「赤字が続いているとの噂も」

 彼女はわずかに目を細める。

「契約は守られておりますか」

「はい」

「では、それが答えですわ」

 

 彼女は空を見上げる。

 灰色の岩の国。

 誇りは、声高に叫ぶものではない。

 守り続けるものだ。

 

 王城では、再び帳簿が開かれる。

 数字は増える。

 赤い線も増える。

 だが、王太子は背を伸ばす。

「続ける」

 それだけを言う。

 

 塩は今日も届く。

 白い粉は変わらず、民の食卓に乗る。

 その裏で、王太子の誇りが削られているわけではない。

 むしろ、磨かれている。

 

 赤字は事実だ。

 だが逃げぬ。

 それが、今の彼の選んだ道だった。
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