悪役令嬢の天然メイドは壺といっしょに婚約者の侯爵家を壊してしまいました

しおしお

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第七話 まだ偶然だと言い張る男

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第七話 まだ偶然だと言い張る男

 侯爵家の廊下は、妙に磨き上げられていた。

 壺は元の位置に戻され、本棚は補強され、額縁は壁にしっかりと固定されている。

 まるで、

「何も起きていない」

 と主張しているかのように。

 若侯爵レオンハルトは、ゆっくりと廊下を歩いていた。

「事故は管理不足だ」

 低い声で執事に言う。

「公爵家のメイドが騒がしいだけのこと」

「はい、侯爵様」

「屋敷が揺らいでいるのではない」

 言い切る。

 ちょうどそのとき。

 前方からエルマがやってくる。

 両手に花瓶を抱えている。

「重いです……でも、ほこりがありました」

 真剣そのもの。

 レオンハルトは足を止める。

 ほんの一瞬だけ、壺事件がよぎる。

 だが、止まらない。

 堂々と進む。

「どきなさい」

「はい!」

 エルマが慌てて道を譲る。

 その拍子に、花瓶がぐらりと傾く。

「あ」

 花瓶が手から滑る。

 落ちる――

 が、途中で絨毯に当たり、勢いを殺す。

 ころん。

 床を転がる。

 レオンハルトの足元へ。

 壺の記憶が蘇る。

 しかし今回は違う。

 彼は落ち着いて一歩下がる。

 花瓶はそのまま止まる。

 割れない。

 はまらない。

 何も起きない。

 静寂。

 エルマが慌てて拾う。

「申し訳ありません!」

 レオンハルトは深く息を吸う。

「……問題ない」

 低く、しかし余裕を見せる声。

「注意しろ」

「はい!」

 エルマは深々と頭を下げる。

 レオンハルトは執事を見る。

「見たか」

「はい」

「些細な事故だ」

 言い聞かせるように。

「偶然が重なっただけだ」

 執事が頷く。

「屋敷は揺らいでおりません」

「当然だ」

 レオンハルトは歩き去る。

 背筋は伸びている。

 威厳も、まだある。

 廊下の柱の陰から、ヴィオレッタがそれを見ていた。

(今回は、避けましたわね)

 小さく微笑む。

 エルマが近づく。

「お嬢様、わたし、やらかしましたか?」

「いいえ」

「でも、落ちました」

「落ちただけ」

「壊れてません」

「ええ」

 一拍。

「侯爵様も、壊れていない」

 エルマは首をかしげる。

「侯爵様、壊れるのですか?」

「今のところは、いいえ」

 ヴィオレッタは廊下の奥を見る。

 レオンハルトは、何事もなかったように使用人へ指示を出している。

 堂々としている。

 まだ、恐れていない。

 まだ、“避ける”段階ではない。

「エルマ」

「はい?」

「今日は、よくできました」

「褒められてるの嬉しくありません」

「なぜ?」

「落としました」

「でも、割れなかった」

 ヴィオレッタは微笑む。

「大切なのはそこよ」

 エルマは真面目に考える。

「落ちても割れなければ、いいのですか?」

「ええ」

 一瞬、目が細くなる。

「割れるべきものが割れれば、それでいいの」

 エルマはわからないまま頷く。

 廊下の向こう。

 レオンハルトはもう一度だけ、花瓶のあった場所を振り返る。

 足元を確認する。

 そして自分に言い聞かせる。

(偶然だ)

 壺は偶然。

 本棚も偶然。

 塩も偶然。

 数字も偶然。

 そして今も、偶然。

 まだ屋敷は揺れていない。

 まだ自分は揺れていない。

 ヴィオレッタは静かに踵を返す。

 自室へ向かいながら、ふっと笑う。

(まだ、ですわね)

 測定は始まったばかり。

 重心は、まだ動かない。

 だが、わずかに軋み始めている。

 壊しているつもりはない。

 ただ、落ちただけ。

 そして侯爵は、まだ偶然だと言い張っている。
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