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第26話 静かな包囲
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第26話 静かな包囲
侯爵家の朝は、いつも通りに始まった。
庭師は庭を整え、
料理人は厨房で火を入れ、
執事は廊下を忙しなく歩く。
だが――どこか、噛み合わない。
「……まだ届いておりません」
執事の声が、低く響く。
「何がだ」
レオンハルト侯爵は苛立たしげに問う。
「王宮からの定例送金でございます。本日が入金日ですが……」
侯爵の手が、わずかに止まる。
「遅れているだけだろう」
「はい。しかし、王宮の会計局に問い合わせたところ――」
執事は言い淀む。
「――確認中、との返答でございます」
確認中。
その一言が、空気を重くした。
侯爵は立ち上がる。
「確認中とは何だ。こちらに非はない」
その声は強い。
だが、強すぎる。
執事は視線を伏せたまま、続ける。
「商会の方にも、照会が入っているようでございます」
侯爵の表情が固まった。
「……どの商会だ」
「西街区の、例の商会です」
一瞬の沈黙。
「偶然だ」
侯爵は言い切る。
「王宮の気まぐれだ。問題はない」
そう言いながら、指先が机を叩く。
規則的に。
速く。
苛立ちが、音になっている。
---
その頃、西棟。
エルマは床を磨いていた。
ごし、ごし。
磨きながら、ふと顔を上げる。
「なんか、今日は皆さん忙しそうですね」
ヴィオレッタは窓辺に立ち、庭を見ている。
侯爵が何度も中庭を往復しているのが見える。
「忙しいのでしょう」
「大掃除ですか?」
「ええ。そうですわね」
ヴィオレッタは微笑む。
「大きな掃除ですわ」
エルマは真顔になる。
「わたし、何かやりますか?」
「もう十分働きましたわ」
「ええ?」
ぽかんとするエルマ。
ヴィオレッタは机の上に並べた書類を、静かに整える。
写し。
原本はすでに王宮。
ここにあるのは控え。
だが、それで十分。
「お嬢様」
エルマが声を潜める。
「さっき、執事さんが走ってました」
「転びませんでした?」
「今回は大丈夫でした」
「残念ですわね」
エルマは目を丸くする。
「え?」
ヴィオレッタはくすりと笑った。
「冗談ですわ」
だが、その目は冷静だ。
廊下の向こうで、再び足音。
使用人同士のひそひそ声。
「王宮から問い合わせだって」
「監査だと……?」
「まさか……」
不安は、音より速く広がる。
レオンハルトは大広間に立ち、使用人を一瞥した。
「騒ぐな」
一言で黙らせる。
だが、黙っただけだ。
消えてはいない。
侯爵は、ふと遠くを見た。
そこにエルマの姿が見える。
ぞくり、と背筋が冷える。
無意識に、進路を変える。
反対側へ歩き出す。
そして――
絨毯の端に足を取られ、よろめく。
壁に手をついて持ち直す。
誰も見ていないか、素早く確認。
視線の先。
二階の回廊。
カーテンの陰に、ヴィオレッタ。
肩が震えている。
(無理……まだ、我慢……)
彼女は踵を返し、自室へ戻る。
扉を閉める。
三秒。
沈黙。
そして。
「……自滅……」
小さな笑い。
「まだ何もしておりませんのに……」
笑いを飲み込みながら、椅子に腰を下ろす。
包囲は、まだ始まったばかり。
焦るほど、侯爵は自ら動く。
動けば、痕跡は増える。
王宮の監査官は、今頃、商会の帳簿を照合している。
数字は嘘をつかない。
つくのは、人間だ。
そして人間は、追い詰められると、必ず間違える。
ヴィオレッタは紅茶を一口飲む。
「エルマ」
「はい?」
「壺の破片、全部まとめました?」
「はい。きれいに包みました」
「結構ですわ」
窓の外で、侯爵が再び執事に怒鳴っている。
風が変わる。
「お嬢様」
エルマが不安そうに言う。
「なんか、嵐来ます?」
ヴィオレッタは静かに微笑む。
「ええ」
そして、はっきりと告げる。
「もう来ておりますわ」
侯爵家はまだ知らない。
それが、雨ではなく――
終わりだということを。
侯爵家の朝は、いつも通りに始まった。
庭師は庭を整え、
料理人は厨房で火を入れ、
執事は廊下を忙しなく歩く。
だが――どこか、噛み合わない。
「……まだ届いておりません」
執事の声が、低く響く。
「何がだ」
レオンハルト侯爵は苛立たしげに問う。
「王宮からの定例送金でございます。本日が入金日ですが……」
侯爵の手が、わずかに止まる。
「遅れているだけだろう」
「はい。しかし、王宮の会計局に問い合わせたところ――」
執事は言い淀む。
「――確認中、との返答でございます」
確認中。
その一言が、空気を重くした。
侯爵は立ち上がる。
「確認中とは何だ。こちらに非はない」
その声は強い。
だが、強すぎる。
執事は視線を伏せたまま、続ける。
「商会の方にも、照会が入っているようでございます」
侯爵の表情が固まった。
「……どの商会だ」
「西街区の、例の商会です」
一瞬の沈黙。
「偶然だ」
侯爵は言い切る。
「王宮の気まぐれだ。問題はない」
そう言いながら、指先が机を叩く。
規則的に。
速く。
苛立ちが、音になっている。
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その頃、西棟。
エルマは床を磨いていた。
ごし、ごし。
磨きながら、ふと顔を上げる。
「なんか、今日は皆さん忙しそうですね」
ヴィオレッタは窓辺に立ち、庭を見ている。
侯爵が何度も中庭を往復しているのが見える。
「忙しいのでしょう」
「大掃除ですか?」
「ええ。そうですわね」
ヴィオレッタは微笑む。
「大きな掃除ですわ」
エルマは真顔になる。
「わたし、何かやりますか?」
「もう十分働きましたわ」
「ええ?」
ぽかんとするエルマ。
ヴィオレッタは机の上に並べた書類を、静かに整える。
写し。
原本はすでに王宮。
ここにあるのは控え。
だが、それで十分。
「お嬢様」
エルマが声を潜める。
「さっき、執事さんが走ってました」
「転びませんでした?」
「今回は大丈夫でした」
「残念ですわね」
エルマは目を丸くする。
「え?」
ヴィオレッタはくすりと笑った。
「冗談ですわ」
だが、その目は冷静だ。
廊下の向こうで、再び足音。
使用人同士のひそひそ声。
「王宮から問い合わせだって」
「監査だと……?」
「まさか……」
不安は、音より速く広がる。
レオンハルトは大広間に立ち、使用人を一瞥した。
「騒ぐな」
一言で黙らせる。
だが、黙っただけだ。
消えてはいない。
侯爵は、ふと遠くを見た。
そこにエルマの姿が見える。
ぞくり、と背筋が冷える。
無意識に、進路を変える。
反対側へ歩き出す。
そして――
絨毯の端に足を取られ、よろめく。
壁に手をついて持ち直す。
誰も見ていないか、素早く確認。
視線の先。
二階の回廊。
カーテンの陰に、ヴィオレッタ。
肩が震えている。
(無理……まだ、我慢……)
彼女は踵を返し、自室へ戻る。
扉を閉める。
三秒。
沈黙。
そして。
「……自滅……」
小さな笑い。
「まだ何もしておりませんのに……」
笑いを飲み込みながら、椅子に腰を下ろす。
包囲は、まだ始まったばかり。
焦るほど、侯爵は自ら動く。
動けば、痕跡は増える。
王宮の監査官は、今頃、商会の帳簿を照合している。
数字は嘘をつかない。
つくのは、人間だ。
そして人間は、追い詰められると、必ず間違える。
ヴィオレッタは紅茶を一口飲む。
「エルマ」
「はい?」
「壺の破片、全部まとめました?」
「はい。きれいに包みました」
「結構ですわ」
窓の外で、侯爵が再び執事に怒鳴っている。
風が変わる。
「お嬢様」
エルマが不安そうに言う。
「なんか、嵐来ます?」
ヴィオレッタは静かに微笑む。
「ええ」
そして、はっきりと告げる。
「もう来ておりますわ」
侯爵家はまだ知らない。
それが、雨ではなく――
終わりだということを。
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