「幼すぎる」と婚約破棄された公爵令嬢ですが、意識不明から目覚めたら絶世の美女になっていました

しおしお

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第二部 第3章:王太子との交流と、忍び寄る影

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1.「とにかく無理は禁物」と言われても

 エドワルド王太子の初来訪から数日後のこと。
 シルフィーネ・エルフィンベルクは、早朝の涼しい空気を吸い込みながら、館の広大な庭を散歩していた。体力回復を目的とした軽い運動も兼ねているが、心を落ち着かせるための大切な時間でもある。

 長い眠りの後遺症ゆえ、急な動きをすると眩暈や息切れに襲われることがあるが、最近は慣れてきて、歩くだけならそこまで苦にならなくなった。階段を上るのはまだ少し辛いが、それでも「一年前には想像もできなかったくらい動けるわ」と、小さな自信になっている。

「でも、まだまだ本調子とは言えないのよね……」

 誰に向けるでもなく、小さく呟く。実際、周囲の侍女や父母からは「とにかく無理は禁物」と釘を刺され続けていた。今のシルフィーネの身体は“バランス”が不安定らしく、一度大きく体調を崩すと、あの意識不明の状態に逆戻りしかねない可能性がある――そう医師にも言われている。

(でも、私は……。王太子閣下とちゃんとお話ししたい。もう子供扱いされて終わるなんて嫌だ。自分の足で、この人生を歩まないと)

 心の奥底でそう強く願う。ライオネルとの苦い思い出や、アメリアに負わされた深い傷は消えないが、その分、自分は以前よりも“誰かに翻弄されるまま”でいるのを許せなくなっていた。

「お嬢様。そろそろ朝食のお時間です。ご準備なさってくださいませ」

 フロランス夫人の穏やかな声が聞こえ、シルフィーネは庭の小径から館の建物へ視線を戻す。朝日が差し込み、白亜の壁が眩しく輝いている。かつてはここが閉塞感に満ちた世界だと感じていたが、いまは“自分を大切に迎えてくれる場所”でもあると実感できるようになった。

「ええ、分かったわ。すぐ戻るね」

 そうして館に戻った彼女は、その日の午前中に控えている行事の準備を思い出す。――今日はエドワルド王太子が「次の再訪」を約束しているのだ。短時間にはなるが、公爵家と王太子側が政治的な意見交換を行う場に、シルフィーネも同席することになっている。

2.二度目の来訪、そして近づく心

 朝食を済ませ、ドレスを整えたシルフィーネは、両親とともに応接室で待機していた。エドワルド王太子は王宮で早朝から会議を行い、その足で公爵家へ立ち寄るという。前回よりも少し慌ただしい訪問になりそうだ。

 やがて、使用人が「王太子閣下がお着きです」と報告し、館の奥深くまで衛兵とともに通される。入り口が開き、スラリとした長身が現れた瞬間、前回同様に空気が変わるのを感じた。エドワルド王太子は濃い灰色のジャケットを軽やかにまとい、深い青のケープを肩から垂らしている。その瞳には疲労の色も見えるが、決して覇気を失ってはいない。

「エルフィンベルク公爵殿、夫人、そしてシルフィーネ令嬢。お会いできて嬉しい。少々忙しい日程ではありますが、今日は短い時間ながらもお話できればと思って参りました」

 エドワルドが優雅に頭を下げると、ルドルフ公爵が「わざわざありがとうございます」と返す。続いて、シルフィーネに向き直ったエドワルドの瞳には、ほんのりと熱を帯びた光が宿っていた。

「シルフィーネ令嬢、具合はいかがですか? 先日の訪問で疲れが出ていないか、ずっと気になっていました」

「……ご心配いただき、ありがとうございます。私は大丈夫です。むしろ、あの後の方が調子がいいくらいで」

 最後の言葉に少し照れが混ざる。だが、エドワルドは「それは何より」と心底ほっとした顔を見せ、まるで至宝を愛でるかのような微笑みを浮かべる。その様子を見たマリア夫人は、もはや確信めいていた。「この方はシルフィーネに本気で惚れているのだ」と。

 そのまま、父母とエドワルド王太子はテーブルを囲んで政治的な話を始める。ノルディア王国とこの国との軍事協力や文化交流の可能性、商人の行き来にまつわる問題など、やや難しい内容が飛び交うが、シルフィーネは意外にも飽きずに耳を傾けていた。――それは、ライオネル時代とはまったく異なる情景。かつては一方的に“子供扱い”されたうえ、ほとんど話し合いに加われない状況が続いたのだから。

「なるほど、貴国ではすでに税制改革が進んでいるのですね。こちらでも、同様の仕組みが取り入れられれば、相互に物産が流通しやすくなるかと」

 そんな会話の一端に触発され、シルフィーネは思わず口を開いた。

「あの……私、先日読んだ本で、ノルディア王国には“特産の薬草”があると書かれていました。輸出先をもっと広げたい、とも。もし、この国でも需要が高まるなら、お互いに利益を得られるのではないかと……」

 ルドルフ公爵とマリア夫人は驚いたように娘の方を見るが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべる。――シルフィーネがこうして外交の話題に自発的に加わるのは初めてのことだからだ。かつての“子供”はもういない。

「ほう、それは素晴らしい着眼点だ。実は、その薬草をめぐってはノルディア国内でも流通網が完全ではなく、やや困っている面もある。そこにこの国の貴族や商人が協力してくれれば、大きな相乗効果が見込めるはずです。公爵殿、いかがでしょう?」

 エドワルドが視線をルドルフ公爵へ向けると、公爵も頷く。

「ええ、もちろん。その分野は私も以前から興味がありました。もし王太子閣下がご賛同くださるなら、具体的な商人やルートの調整を進めたいところです。シルフィーネが案を出してくれたのも、偶然ではないのかもしれませんな」

 思わぬ形で“国益”に繋がりそうな話題が飛び出し、一同は活気づく。シルフィーネも「自分が役に立てるんだ」という自信を得て、多少胸を張ってしまう。
 そんな彼女を、エドワルド王太子はやわらかな目で見つめていた。まるで恋人を愛おしむかのような優しさと、誇らしげな光を宿している。

(まさか、“政略結婚”がこんな形でワクワクする話題を生むなんて)

 シルフィーネ自身も驚いていた。かつては結婚といえば「子供扱いされ、利用されるだけ」のイメージが強かった。しかし、エドワルドが示す態度は真逆だ。彼はシルフィーネを“一人のパートナー”として尊重し、彼女の意見を積極的に聞こうとしている。この違いが、彼女の胸に染み渡る。

 そうして1時間ほどの意見交換が終わった後、エドワルド王太子は「次の公務」があるとのことで、残念そうに腰を上げる。だが、その瞳はシルフィーネをまっすぐ見つめていた。

「シルフィーネ令嬢、また近いうちにゆっくりお話を聞かせてもらえますか? いずれ、ノルディア王国へも来ていただければ嬉しいのですが……。まだ無理をさせるわけにはいきませんし、こちらで少しずつでもお時間をいただければと思います」

 その申し出を、シルフィーネは微笑みながら受け入れる。

「私も、もっと閣下の国や文化について教えていただきたいです。できる範囲で、お会いできたら……」

「ありがとうございます」

 エドワルド王太子は満面の笑みを浮かべる。その笑顔は、周囲の使用人や騎士までも和ませるほどの温かさだった。
 一方、ルドルフ公爵とマリア夫人は内心ほっと胸を撫でおろす。自分たちの娘が、初対面や二度目の会合でここまで好意を得られるとは、思っていなかったのだ。これなら、本当に“結婚”も近い将来にあり得るのではないか――そう予感する。

3.さらに深まる溺愛? エドワルドからの招待状

 その翌日。早朝の散歩を終えたシルフィーネが、書斎で朝食後のひとときを過ごしていると、侍女の一人が慌てた様子でやってきた。

「お嬢様、王太子閣下からお手紙が届いています!」

「えっ……?」

 驚きながら受け取った封筒には、紺色の封蝋が押されている。紋章はノルディア王家のもの。文字どおり、エドワルドが直々に送ってきた書簡だ。昨日別れたばかりなのに、どうしてこんなに早く……?

 胸の高鳴りを押さえながら封を開けてみると、そこには流麗な筆跡でこう記されていた。

――「シルフィーネ令嬢、昨日は貴重なお時間をありがとうございました。ぜひ、もう少しゆっくりとお話をしたく、本日夕刻に王宮の庭園で催される小さな茶会にお越しいただきたく思います。無理のない範囲で構いません。あなたに負担をかけないよう、静かな場をご用意してお待ちしております」――

 要するに“王宮の庭園”へシルフィーネを招待し、二人きりか、あるいは最小限の随行だけでお茶を楽しもうという趣旨らしい。どうやら公式の行事ではなく、エドワルドが個人的に設けるプライベートな場だと読み取れる。

(あの人……こんな短期間で、二度も三度も私を呼ぼうとしているなんて。本当に積極的)

 書簡の最後には「あなたの健康を最優先に考えますので、もし体調が優れないようなら遠慮なくお断りください」という一文も添えられていた。彼なりの気遣いなのだろうが、そこまで配慮してくれるのかと感激に似た感情が湧き上がる。
 一方で、心のどこかで「これって、まさに“溺愛”の始まりなのでは?」と照れ混じりに思う自分がいる。まさか政略結婚相手から、こんなに直球の好意を示される日が来るとは夢にも思わなかった。

 しかし、同時に少しだけ不安もある。王宮の庭園に一人で出向くというのは、周囲の目があるとはいえ、実質的に“親密さ”を周囲にアピールする形になる。まだ婚約が正式に発表されたわけでもないのに、反発する者が出てくるのではないか――。

 シルフィーネは両親に相談しようと書斎へ向かう。そこではルドルフ公爵とマリア夫人が「今日の午後は面会の予定は入っていないが、夕刻に王宮へ出かけるとなると少々準備が必要だな」などと言い合っているところだった。どうやら既に侍女から報告を受けたらしい。

「シルフィーネ、どう思う? 無理せず断ってもいいんだよ」

 ルドルフ公爵は娘の健康を何より気にかけているから、少しでも負担を減らそうと促している。一方、マリア夫人は「でも、せっかく王太子閣下が私的な茶会に招いてくださっているのだから、あまりに塩対応も……」と迷う様子。

 シルフィーネは一瞬考え込んだ末、深呼吸して答える。

「……行きたいです。大丈夫、まだ歩いたり座ったりするくらいなら問題ないし、閣下も無理をさせるつもりはないって書いてあります。それに、やっぱり彼ともう少しお話してみたいので」

 両親はその決断に多少驚いたが、娘が自ら“積極的に会おうとしている”事実は嬉しく思ったようで、すぐに了承してくれた。あとは時間がないので急いでドレスを選び、夕刻までに王宮へ向かう準備を整えねばならない。

4.王宮の庭園での小さな茶会

 夕刻、橙色に染まる空を背景に、シルフィーネの乗った馬車が王宮の正門をくぐる。王宮の兵士たちは整然と並んで敬礼し、エドワルド王太子の側近が出迎えてくれた。とはいえ、大々的な行事ではないので、多くの人々が詰めかけているわけではなく、むしろ静かなものだ。

「閣下は、庭園の奥に設えたテーブルにお待ちです。令嬢お一人では不安でしょうし、お付きの方がいれば同伴していただいて構いません」

 そう案内されて、シルフィーネは侍女の一人と共に庭園へと足を進める。この庭園は大きな噴水や色とりどりの花壇が有名で、夕日の下では金色に輝くように美しい。まるで別世界のような静寂の中、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
 やがて、樹木の合間に小さなテーブルと椅子が見えてきた。その脇にはエドワルドが立ち、こちらを待ち受けている。気づいた彼は笑みを浮かべて手を振り、周囲の護衛らしき人々を下がらせた。

「来てくださって嬉しい、シルフィーネ令嬢。今日はこちらの都合で急なお誘いになってしまい、申し訳ありません」

「いえ、閣下こそお忙しい中ありがとうございます。私も、もう少しお話したいと思っていましたから」

 互いに礼を交わし、椅子に腰掛ける。そばには王太子付の侍女がいて、丁寧に紅茶を注いでくれた。テーブルの上には焼き菓子や果物が並んでおり、軽いティータイムを楽しめるよう準備されている。
 エドワルドはシルフィーネの表情を伺い、「体調はいかが?」と真っ先に問いかける。

「ええ、問題ないです。ありがとうございました。こうして王宮へ来るなんて久しぶりなので、少し新鮮ですね」

「そう言っていただけると安心です。無理はしていないでしょうか。もし何かあれば、すぐにでも休んでくださって構いませんからね」

 相変わらずの気遣いぶりに、シルフィーネは胸が温かくなる。政略結婚の相手にこんな柔らかな優しさを向けられる日が来るとは思わなかった――ライオネルとの決定的な違いを、また一つ感じる瞬間だ。

 そこからしばらくは、雑談のような会話が続いた。エドワルドが昨晩出席した宮廷晩餐会の話や、シルフィーネが最近読んだというノルディア王国の歴史書についての感想など、互いに自然な形で盛り上がる。視線を交わすたび、微妙なときめきがシルフィーネの胸を刺激する。

 そんな中、ふとエドワルドが真剣な表情になり、声を少し落として言った。

「シルフィーネ令嬢、あなたのご体調が許す限り、近いうちに正式な形で“婚約”の儀式を執り行うことを、私は強く望んでいます。……もちろん、あなたの意思が最も大切です。嫌であれば、私はどんなに周囲から急かされても、あなたを追い詰めるようなことはしたくありません」

「……え?」

 まさかここで“婚約”の話が出るとは思っていなかったシルフィーネは、一瞬声を失う。確かに“政略結婚”がゴールにあるのは分かっているが、あまりにも早すぎないだろうか。

「ごめんなさい、驚かせてしまいましたね。けれど、私も時期を急いでいるわけではありません。ただ、私ははっきりと“あなたが欲しい”と思っている。国や政治のことを抜きにしても、私はあなたが好きだ――」

 息をのむシルフィーネの前で、エドワルドは言葉を切り、少し照れたように苦笑する。

「こんなこと、初対面から二度三度会っただけで言うなんて、軽率かもしれません。でも、あなたとお話ししていると、すごく自然な気持ちになれるんです。私も王太子である前に、一人の男性ですから。あなたを見ていると、胸の奥が熱くなる。これが“恋”というものだと知ったのは、生まれて初めてかもしれません」

 “溺愛”とも言えるほどの強烈なアプローチが、シルフィーネの心を大きく揺さぶる。言葉に詰まっている彼女を見て、エドワルドはさらに言い足した。

「急がなくていい。あなたに迷いがあるなら、ゆっくり考えてもらって構わない。――ただ、私はあなたを心から尊敬し、愛おしく思っている。それだけは、どうか覚えていてください」

 政略結婚の域をはるかに越えた“愛の告白”とも受け取れる言葉。シルフィーネは顔が熱くなるのを感じ、テーブルに置かれたティーカップを思わず手に取るが、震えて少しこぼれてしまう。
 慌てて侍女が拭き取り、エドワルドも「大丈夫か?」と声をかける。その時、シルフィーネはようやく「落ち着かないと」と深呼吸し、目を閉じる。

(本当に……こんな形で。私はまだ、心の準備ができていない。だけど、彼が真摯に想いを向けてくれるのは、すごく……嬉しい)

 いつか、ライオネルが当初見せていた優しさとはまったく別の重みを感じる。ライオネルは“子供っぽいお人形”としてしか自分を見なかった。だが、エドワルドは“自分という人間”を見つめ、尊重している。それがわずか数度の対面でそこまで強く芽生えてしまうとは、今でも信じ難いが、彼の瞳は嘘をついていない。
 おそるおそる口を開き、シルフィーネは低い声で答える。

「……ありがとうございます。私も、エドワルド閣下と話していると、胸が温かくなるのを感じます。だけど、正直なところ、まだ恐いんです。以前の婚約破棄で傷ついたことや、意識不明だった時のことが、心にしこりのように残っていて……」

 言葉が詰まると、エドワルドは静かに手を伸ばし、テーブル越しに彼女の手の甲に触れそうになる。だが、ギリギリで止め、そうっと微笑む。

「分かります。無理はさせません。ですから、焦らず、私をもっと知ってください。それから、もしあなたの中で“私なら大丈夫”と思ってもらえたら、その時に婚約を受けてくれれば……」

 シルフィーネはこくんと頷く。ここで「はい、喜んで」と言えるほど大胆ではないが、拒否する気持ちもなかった。――自分に対してここまで誠実に向き合う王太子がいるという現実に、まだ頭が追いついていないだけだ。

5.渦巻く嫉妬と陰謀の予兆

 二人の静かな茶会は、一見穏やかに進んでいる。だが、その裏側では確実に“波紋”が広がりつつあった。
 まず、王宮内部でも「エドワルド王太子がエルフィンベルク令嬢に強く惹かれているらしい」という噂が急速に広まっている。その結果、「王太子に近づこうとしていた他の貴族令嬢」たちが面白くない顔をし、あるいは「今度はエルフィンベルク家が王家に影響力を持つのか」と警戒する貴族派閥が生まれつつある。

 さらに、グラント侯爵家の残党や、かつてロドリゲス公爵派だった者たちが密かに息を潜めており、シルフィーネを“新たなターゲット”として狙う可能性が指摘されていた。ライオネルとアメリアの一件は終わったとはいえ、根こそぎ消滅したわけではないからだ。
 彼らは直接的な謀反こそ難しくとも、“嫌がらせ”や“陰謀”でシルフィーネを再び追い詰める手段を模索しているという。

(また、何か悪意が私に向かってくるのかもしれない。でも、今度こそ負けたくない)

 シルフィーネは漠然とそんな危機感を抱きながらも、エドワルドという大きな後ろ盾があることを自覚していた。彼が自分を“溺愛”してくれるなら、少なくとも前回のように“子供扱いされて捨てられる”展開にはならないだろう。むしろ、自分が彼の支えとなってともに歩む未来を想像できるかもしれない……。

6.初めての“ふたりきり”の帰り道

 夕方の茶会を終え、シルフィーネは帰りの馬車を待っていたが、エドワルド王太子が「よろしければ私の馬車で送らせていただきたい」と申し出てきた。最初は公爵家の侍女たちが戸惑い、シルフィーネ自身も「そんな、そこまでしていただくなんて……」と戸惑ったが、エドワルドは強い意志で「あなたの体を少しでも楽にしたい」と微笑む。

「大丈夫。護衛がついていますし、あなたの家の近くまで私が責任をもってお送りいたします。何かあれば、すぐに医師を手配することも可能ですしね」

 その言葉に、シルフィーネは心を揺さぶられる。確かに彼の用意した馬車は広くゆったりしていて、体への負担も少ないだろう。家までの道のり、彼ともう少し言葉を交わすチャンスでもある。

(政略結婚だというのに、こんな甘やかな雰囲気で進んでいいのかしら……)

 少しだけ自嘲しつつ、最終的には彼の提案を受け入れることにした。侍女は「お嬢様……くれぐれもお気をつけて」と不安そうに送り出すが、エドワルドは「そこはお任せを」と頼もしげに笑う。

 こうして、シルフィーネはエドワルドと同じ馬車に乗り込み、王宮を後にした。車内には二人きり――とはいえ、御者台や護衛はいるので完全に無防備というわけではないが、やはり空気が近く、独特の緊張感が漂う。

 走り出してしばらく、エドワルドは窓から外の景色を眺めていたが、やがて彼女に向き直り、静かに口を開く。

「こうして馬車を並んでいると、不思議な気分ですね。まるで恋人同士のような……いえ、失礼。まだそんな関係をお認めいただいたわけではないのに」

「い、いえ、そんな……」

 シルフィーネは思わずうろたえる。エドワルドは苦笑しつつも、どこか真剣さを失わない眼差しで続ける。

「私は、もしあなたが望むなら、もっとあなたを大切にしていきたい。王太子としての地位や責務はもちろんあるし、政略という側面も認めざるを得ない。でも、それとは別に、私はあなたを心から愛したいと思っている。――これって、わがままでしょうか」

 シルフィーネは胸がきゅっと締めつけられる感覚を覚える。政略結婚に“愛”を持ち込むなど、ある意味では理想論にすぎない。しかし、彼は本気でそれを望んでいるのだ。
 自分も、本当ならば“愛”に満ちた結婚をしたいと思っていた。ライオネルに裏切られた悲しみはまだ癒えてはいないが、こうして再び誰かを信じられる可能性を提示されると、不思議な安心感が生まれてくる。

 答えに窮したシルフィーネは、小声で「わがままだとは思いません……」とだけ返す。するとエドワルドは嬉しそうに微笑み、彼女の手にそっと触れようとする。が、まだ正式に許可を得ているわけでもないので、ぎりぎりで手を止める。

「ありがとうございます。無理に急かしたりしません。ただ、あなたが少しでも私を受け入れてくれるのなら、それが今の私にとって何よりの喜びだ」

 その言葉にシルフィーネは頷くことしかできなかった。頬が熱く、心の中は“幸せ”という言葉に近い感情でいっぱいになる。まさに“溺愛”が始まっているのだと感じずにはいられない。

7.新たな波乱への幕開け

 やがて馬車はエルフィンベルク公爵家に到着し、シルフィーネはエドワルドに見送られて降車する。館の玄関までエスコートされた彼女は、最後に軽く礼を述べた。

「今日はありがとうございました。おかげで、疲れもそれほどではありません」

「それなら何より。どうかゆっくり休んでください。また近いうちにお会いしましょう」

 エドワルドが名残惜しそうに微笑む。そこに余計な照れもなく、まるで“すでに自分の大切な存在である”と確信しているような、優しく揺るぎない表情。シルフィーネの胸は再びときめきで満たされる。
 こうして二人は別れ、エドワルドは馬車を走らせて王宮へ戻っていった。エルフィンベルク家の使用人たちが「お嬢様、お帰りなさいませ」と迎えてくれる中、シルフィーネはまだ夢心地のようだった。

「まさか……こんなにあっさりと、私が“溺愛”されるなんて。嬉しいけど、まだ信じられない」

 心の声が思わず唇をすり抜ける。だが、ここからが本番とも言えよう。もし本当に彼と結婚するとなれば、この国とノルディア王国の関係も一変するし、シルフィーネ自身も遠い異国へ嫁ぐことになる。ライオネルと違ってエドワルドは誠実な人に見えるが、周囲の妬みや陰謀に巻き込まれる可能性は大いにある。

(それでも、きっと私は大丈夫。……こんなに大切にされるのなら、今度こそ幸せになれるかもしれない)

 自らを鼓舞しながら、シルフィーネは奥の部屋へ向かう。その足取りは以前よりもしっかりしており、何より背筋を伸ばして歩く姿に迷いがない。
 だが、彼女が気づかないところで、暗い影が蠢いていた。グラント侯爵家の生き残りや、ロドリゲス公爵の派閥だった者たちが密かに集い、新たな計略を練っている――“あの公爵令嬢を再び陥れる手段”を模索しているのだ。
 同時に、“自分の娘を王太子に嫁がせたい”と望む貴族夫人たちも、水面下でエドワルドとの面会を狙っている。シルフィーネ一人にエドワルドの関心が集中する状況を、面白く思わない勢力は少なくない。

 果たして、シルフィーネはこれらの陰謀を乗り越え、真の幸せを掴めるのか。
 彼女を守ろうとするエドワルド王太子の“溺愛”が、今後どのように発揮されるのか――そしてそれが、どのような“ざまぁ”展開をもたらすのか。まだ物語は序盤と言える。
 しかし、シルフィーネは確かにライオネル時代の“悲劇”とは違う世界を見始めている。第二部が進むにつれ、彼女は自分の意志で幸福を選び取り、かつての痛みを糧にさらなる強さを手に入れるだろう。運命の歯車は回り続け、遠くノルディアへ続く道も開かれようとしている――。


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