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ただ君が、どこかで笑って居てくれれば ※原爆の描写があります。

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 何があったかを詳しく書くのは止めておこう。アンソニーはそんな事を考えながらノートをリュックに仕舞った。もうじきカールがここに繋がったと言って飛び込んでくるはずだ。

 案の定、それから数分も経たないうちにカールがやってきた。いつも冷静なカールの頬は、緊張なのか興奮からか少しだけ紅潮している。

「父さん、準備が整いました」
「そうかい。それじゃあ行こうか」

 立ち上がったアンソニーの手にはしっかりと――。
 

 虹色の空間の中でノアからの手紙を予め読んでおいて良かった、と不思議な扉をくぐった瞬間に思った。何故なら、自分たちが放り出されたのはどこかの洞窟の中で、洞窟の奥に居た少女がアンソニー達を見るなり逃げるように洞窟のさらに奥へと走り去っていく。

 少女の神秘的な黒髪に黒い瞳を見て、何だかそれだけでアンソニーは泣きそうになってしまった。

「あんたら誰ね?」
「あ、僕ら人ば探しよって」

 突然現れた不審な二人を見て、あの少女が呼んできたのだろうか。一人の老婆が声をかけてきた。手には長い槍のような物を持っている。

 ノアからの手紙に書いてあった通り、二人はまず髪を黒く染めた。とは言っても黒いノリのような物を塗りたくっただけだが。そして顔も服もわざと汚した。こうしておかなければ、絶対に警戒されると書いてあったのだ。

「それは無理ばい。あんたら外人と?」

 トヨは警戒したようにアンソニーたちから距離を取る。

「混血ばい。父が日本人たい」

 言語の壁が無くて本当に良かった。心の底からアンソニーはそんな事を考えながら、ノアからの手紙に感謝していた。

 八重子が教えてくれた国の言葉も手伝って、ようやく老婆は納得したようにまた近寄ってきた。

「母ちゃんの血が濃ゆとか?」
「そうなんや。やけん、どけぇ行ってん追い出さるるったい」
「そりゃ可哀想になぁ」

 トヨは思っていた。確かにこの二人は見た目は完全に敵兵だ。

 けれどここまで流暢な日本語を、おまけに長崎弁を操るとなると元々ここらへんに住んでいたのだろうということが分かる。

 戦争が起こってからというもの皆がギスギスしていくが、本来ならば喧嘩をしている場合ではなく、助け合わなければいけないのだ。

 幸いな事にこの防空壕はとても小さく、老婆の一家しか居ない。

「それならこけぇおったらよかばい。人探しは今は難しかと思うけん」
「ありがとう!」

 アンソニーは躊躇うこと無く老婆の手を掴んで嬉しそうに上下に振った。そんなアンソニーに老婆は苦笑いを浮かべる。

「そがん振ったら手が千切るるばい。ところでおうち達はニコラん知り合いか?」
「ニコラ!? おばあさん、ニコラば知っとるんか!? ニコラは僕の身内たい!」
「そうと! 知っとうばい。今は八重と裏山に食べる物ば探しぎゃ行っとーばい」
「! ヤエ!?」
「!」
「なんや、八重も知っとうと?」
「知ってるも何も……」

 アンソニーとカールは老婆の言葉を聞いて思わず顔を見合わせた。観測者が新しく教えてくれたゲートの繋げ方はどうやらとても優秀だったようだ。まさかこんなにも早くに八重子が見つかるとは思ってもいなかった。もしかしたらこの老婆こそ、アンソニーとニコラの父、宗吾の祖母ではないのか! 確か名前は「トヨ」だ。

「おばあさん、もしかして宗吾ば知っとう?」

 アンソニーの言葉にトヨは顔を引きつらせ、アンソニーに掴みかかってきた。その力はとても強く、とても年老いた人の力だとは思えない。

「あんたも宗吾ば知っとうと!? 宗吾は孫たい!」
「やっぱり……」

 アンソニーは思わず潤む目をこすり、おもむろにトヨを抱きしめた。突然のアンソニーの行動にトヨは驚いたのか体を強張らせる。

「宗吾にはいじお世話になったんや。いじ良うしてくれた。僕は、彼ん事ば一生忘れんばい」

 本当の事を告げたい。宗吾は自分の父親なのだ、と。

 けれどそれをトヨに説明するには少し事情がややこしすぎた。

 宗吾が良く話してくれた「おばあちゃんのおはぎ」を作ったのはこの人だったのだ。そう思うとアンソニーの両目からとうとう涙が溢れた。そんなアンソニーを見てカールが驚いたような顔をしているが、それでも止める事は出来なかった。

「ありがとな、こがん風に宗吾ん為に泣いてくるる人がおるとが嬉しかばい。宗吾はきっと、良か人生ば送ったんやなあ。ニコラもそがん風に泣いてくれたとよ」

 トヨは大きな体を揺らしながら泣く男の背中をポンポンと叩いてやった。ニコラから宗吾の訃報を聞いた時、トヨは目の前が真っ暗になった。文字通り、本当に真っ暗になったのだ。


 戦争は色んな物を老婆から奪った。家族、思い出の品、そして理性や倫理。人としてとても大事な物を沢山失った。

「あんたら見ようとなしてか他人の気がせんとよ。落ち着くまでこけーおらんねえ」

 不思議な繋がりにトヨが言うと、二人の男は照れたように笑って頷いた。何だかその笑顔が、宗吾の笑顔にそっくりだと思った。
 
 それからアンソニーとカールはニコラと八重が戻るまで、トヨと宗吾の思い出話に花を咲かせた。気がつけば先程逃げてしまった少女もトヨの隣に座ってこちらをじっと伺っている。

 アンソニーが宗吾からよく聞いたおはぎの話しをすると、トヨは喜んで落ち着いたら作ってくれると約束してくれた。

「そう言えば宗吾ん両親はこけぇおると?」

 アンソニーにとっては祖母と祖父だ。是非とも会っておきたい人たちである。

「宗吾ん両親は島根におるばい」
「島根……」

 宗吾の両親とは手紙で一度やりとりをした事があるが、どこまで信じてくれたかは謎だ。

 アンソニーとカールが二人して考え込んでいると、そこへとても懐かしい声が聞こえてきた。忘れたくてもずっと耳の奥にこびりついて離れなかった、八重子の声だ。

「婆ちゃん、帰ったばい!」
「っ!」

 その声を聞いてアンソニーとカールは弾かれたように立ち上がり、入り口を見て息を飲んだ。

「ヤエ……」

 ポツリと呟いた声に八重子が気づいたかどうかは分からないけれど、八重子は防空壕の入り口で立ち尽くし、持っていたカゴを落とした。

「アン……ソニー……?」

 八重子は落ちたカゴも拾わず駆け出すと、アンソニーも長い足を縺れさせながら駆け寄ってくる。

「数百年だ! 君を探して、僕達は数百年の時を過ごしたんだ!」

 八重子を抱きしめてアンソニーは珍しく声を荒らげた。それはとても不思議な感情だった。不思議と何故か涙は出ない。

 嬉しい、寂しかった、会いたかった、ようやく会えた、辛かった、苦しかった、色んな感情がごちゃ混ぜになって、思わず八重子を潰してしまいそうになる。

 八重子はそんなアンソニーを少しだけ押しのけて、アンソニーの側に居た微動だにしない青年に目をやった。

「もしかして……あなた、カルロス?」
「……どうして……」

 カールの見た目はもうあの時のように子供の姿ではない。それなのに八重子はカールの事を間違えなかった。アンソニーと違ってカールの中の八重子の記憶は既に風化してしまう寸前だった。それでも忘れてしまいたくなくて、アンソニーとニコラの言葉を元に何枚も八重子の絵姿を描いてもらっていたのは懐かしい思い出だ。

 カールの言葉に八重子は絵姿と同じ笑みを浮かべて涙をこぼす。

「間違う訳ないわ。だって、私のたった一人の自慢の息子なんだから……」
「っ!」

 その言葉を聞いてとうとうカールの目からも涙がこぼれてしまった。アンソニーと一緒にずっと追っていた、幼い頃に眼の前で消えてしまった母親が今目の前に居る。

 カールは思わずその場に蹲って体を丸く縮こまらせて子供のように声を殺して泣いた。

「カルロスを褒めてやってくれ、ヤエ。彼はずっと、色んな事を我慢してくれていたんだよ、あの日からずっと……」
「そうなの……偉かったわね、カルロス……ありがとう、探しに来てくれて……あなたも、ありがとう……」

 八重子はそう言ってアンソニーの手をとり、カールの側まで行くと覆いかぶさるようにカールを抱きしめた。そんな二人をさらにアンソニーが抱きしめてくれる。

 八重子の記憶の中で異世界から戻ってきたのはつい昨日のようだ。その為さほど時が経ったとは思わないが、数日前にこちらにやってきたニコラの話では、既に異世界では数百年の時が過ぎていたのだという。

 そんな計り知れない年月を、この二人はずっと過ごしてきたのだ。八重子だけを思って――。

「ありがとう……ごめんなさい、勝手をして……ごめんなさい」

 こぼれ出る言葉はほとんどが謝罪だった。嗚咽を堪えながら言葉を紡ぐ八重子を、二人は何も言わずただ黙って聞いていた。

 
「あー……えっと、そろそろいいかな?」

 いつまでもいつまでも離れない三人を見て、業を煮やしたニコラがようやく声をかけると、三人はハッとした様子で互いの体を離した。

「すまない、つい……それよりもニコラ! 君も無事だったか!」
「遅いよ、兄さん」

 ようやく八重子から体を離したとおもったら、アンソニーは今度はニコラに飛びついてきた。それが今思い出したと言わんばかりで思わずニコラは頬を膨らませる。

「重ね重ねすまない」
「それよりも驚いたよ! 僕がここへ来たのは数週間前なんだ。よくこんな直近で来られたね!」

 自分を送った後に溜めたエネルギーで二人も送るなんて、一体どんな魔法を使ったのかとニコラが目を丸くしていると、ニコラが地球にやってきた後の話をアンソニーが教えてくれた。

「なるほど……やっぱりあの子達は僕たちが思うよりもずっと優秀だったみたいだ!」
「全くだよ。もう僕は彼らに頭が上がらないよ」

 そう言って笑うアンソニーを見て八重子とニコラも嬉しそうに微笑む。

「それで? 僕は今すぐに手紙を受信出来る装置を完成させればいいんだね?」
「戻るのかい?」
「もちろん。ノアの言う通り、今の星の惨状を聞く限り、僕たちは戻った方がいい。ヤエもだよ」
「……うん」

 当然だと言わんばかりのニコラの言葉に八重子は曖昧に頷いた。それを見てアンソニーが耳元でささやく。

「まだ時間はある。ゆっくり一緒にどうするかを考えよう」
「ええ……ありがとう」

 こちらの世界に心残りが全く無いかと言われれば、それは嘘になる。八重子は不思議そうにニコラと手を繋いでこちらを見上げてくる靖子を見て泣きそうな笑顔を浮かべた。

 異世界で起こった不思議な現象は八重子にとって信じられないほど幸せな時間だった。

 こちらに一人で戻ってしまった時、八重子は混乱してアンソニーとカールの姿を探した。自分でカールを突き飛ばしたということも忘れて、パニックに陥ったのだ。 そんな八重子を見つけてくれたのは幼なじみだったのだが、戦争は優しかった幼なじみを鬼に変えてしまっていた。

 八重子が着ていたドレスを剥ぎ取り、装飾品を奪ってそのままどこかへ立ち去ってしまったのだ。身ぐるみを剥がされて下着姿でポカンと座り込んでいた所に妹の靖子が通りかかり、放心する八重子をこの防空壕まで連れてきてくれた。

「やっちゃん、どっか行くと?」
「大丈夫、行かんばい」

 不安そうな顔で八重子を覗き込んできた靖子にそう言うと、靖子は安心したように笑う。そんな二人を見てアンソニーとカールが何か言いたげに視線を伏せたが、八重子にとってはどちらも大切な家族だ。どちらかを選ばなければならないのは辛すぎる。

「何か事情があるとじゃろう。靖子、こっちへおいで」

 それまで黙って八重子達を見ていたトヨが言った。

 一体何が何だかさっぱり分からないが、恐らく今しがたここに現れたアンソニーとカールというのが、八重子が帰ってきた時から毎晩魘されて名前を呼んでいる二人なのだろう。トヨに呼ばれて靖子は返事をして防空壕の奥に向かった。

「気を、使わせてしまったな」
「大丈夫よ、婆ちゃんは凄く勘の良い人だから、きっと何かに気付いたんだと思うわ。例えば、カルロスと私がそっくりな事とかね」

 そう言ってカールを見ると、カールは少しだけ恥ずかしそうにフイとそっぽを向いてしまう。

「ところで実際の話、どうやって僕たちは戻るか、なんだよ」
「それなら問題ありません。既にノアから帰り道の切符を預かっていますから」

 そう言ってカールは胸ポケットに大切に仕舞っている一枚の紙切れをニコラに渡した。

「これは?」
「妖精王を召喚する為の魔法陣です。今あの星にエネルギーを貯める訳にはいきません。あらかた片付いたら、戻るよう手紙が届く予定です」
「なるほど。ここであの装置を再現するのは難しい。だから最後は妖精王に頼むって事か。兄さん、今の妖精王は信頼出来るの?」
「ああ、それは大丈夫だよ。多分、歴代の妖精王の中でもダントツに我々側の妖精王だ。何せ星を守るために一時星の管理を退いたぐらいだからね」

 それを聞いた時、アンソニーは驚いた。力を存分に開放するため、妖精王は自ら管理者を下りたというのだ。妖精王で居たら色んな制限があって今回の作戦は上手くいかない。そう考えての事だったそうだが、そこまでした妖精王は彼が初めてだという。

「そんなに危ない橋渡るなんて……それは信頼出来そうだ。そう言えばディノは?」
「私も聞きたかったのよ! ディノはどうしているの? 無事なの?」

 ニコラから聞いた話では、ディノは未だに目覚めて居ないという。八重子はディノに命を助けてもらった恩がある。彼に何かあったらと思うと気が気ではなかった。

「そちらも大丈夫だよ。ディノの目、レックスがノアとアリスの子どもたちと共に居る。僕たちがこちらに来た事で彼らはディノを目覚めさせるはずだ」
「そうなの! 良かった……あの、私……」
「ヤエ、すぐに答えを出そうとしないで。僕たちは何百年も君を追ってきた。それをたった数分で無駄だったのだと思わされるのは、流石に辛いよ」

 普段は滅多にわがままを言わないアンソニーだけれど、流石にこれだけは言わせてほしい。家族を天秤にかけるのは不可能だ。それはアンソニーにも痛いほどよく分かっている。だからこそ、もう少し時間をかけて決めて欲しかった。最終的に八重子が選んだ道を、アンソニーは否定するつもりも無いのだから。

「そう……よね」

 あれほど会いたかったアンソニーとカールだ。このまますぐにでも本当はあちらに戻りたい。何もかもを捨てて、宗吾のように。

 けれど、どうしても家族の顔がチラつく。せめて戦争が終わるまでは、皆が無事に平和な世界を迎えるまでは――。そう思っていた矢先の事だ。

「そう言えばヤエ、一つだけ君に朗報だよ。この戦争はあと数日で終わるそうだ」
「え!?」

 突然のアンソニーの言葉に八重子は目を丸くして、思わずアンソニーを凝視した。

「カール、あれを」
「はい。母さん、これを」

 ノアから預かった手紙は一通ではなかった。一通はこちらについてすぐに取り掛かるべき事。それからもう一つは、これからこちらで何が起こるかが書かれていた。

 八重子はカールから受け取った手紙を食い入るように見つめている。

「こ、これは……どうしてこんな事が分かるの!?」
「僕たちの仲間にね、もう一人こちらの世界から来た人が居るんだ。その人はこの時代よりもずっとずっと後の時代の人なんだよ。だから未来の事を知っている。本当はこんな事をしてはいけないのだろうけれど、彼が僕達にこれを渡して来たということは、きっと上手く使えという事だと思ったんだよ」
「そんな……こんな事……ば、婆ちゃん! 今すぐここを出よう!」
「ヤエ?」

 手紙から顔を上げるなり八重子が立ち上がろうとしたのをアンソニーが止めた。

「ヤエ、慌てる気持ちは分かるけれど、何をそんなに焦っているのか教えてくれるかい?」
「あ、そ、そうね! ここ、この爆心地って言うのがまさにここなのよ! 私、こっちに戻ってきた時にこの防空壕に移ったの! でもこの手紙を見る限り爆心地に近づいてるわ! これじゃあまた被災してしまう!」

 早口でまくし立てる八重子の言葉を頭の中で紡ぎ直すかのようにアンソニーはじっと聞いていた。全てを話し終えると、アンソニーは大きなリュックの中からノートと鉛筆を取り出して八重子に渡してくる。

「ヤエ、ここに簡単でいいからこの近辺の地図を描いてほしい。それからニコラ、ノアからの手紙を元に落とされる爆弾の威力を計算してくれ。カール、君はすぐにここを出発するという事をお婆さんと靖子ちゃんに伝えてきてほしい」
「分かった!」
「分かりました」
「ええ! あなたは何をするの?」
「僕はアリスが持たせてくれたグッズの中から使えそうな物を探すよ」

 そう言ってアンソニーはその場に座り込んでアホほど大きいリュックを広げだした。
 

「これはなんね?」

 靖子はアンソニーの真正面に座って水色のブヨブヨした物を指先でつついた。

「これは防災頭巾だ。やっちゃん、ここらへんに綺麗な飲水はあるかい?」
「あるとよ」
「それじゃあこの頭巾をその水の中につけてきてくれ。これぐらいの大きさになったら水から出してくれるかい?」
「うん!」

 アンソニーの言う通り靖子は洞窟の奥まで進み、今朝汲んできたばかりの水に防災頭巾をつけてみた。するとどうだろう! みるみる間に防災頭巾が水を吸って膨らんでいくではないか!

「わぁぁぁ!」
「靖子、そがん大きな声出して! たまがったやなかか」

 突然の靖子の声にトヨは驚いて靖子の側により、水瓶に漬けられている不思議な物体を見て目を丸くした。

「靖子、それはなんね?」
「防災頭巾って言いよったばい」
「防災頭巾?」

 見たことも無い不思議な頭巾にトヨは首をひねるばかりだが、靖子は水瓶に手を突っ込んで防災頭巾を取り出し、嬉々としてアンソニー達の元へと戻っていく。やはりいつの時代も子供の適応能力には驚かされるばかりである。

 カールから今すぐにこの防空壕を離れようと聞いた時、トヨは最初は渋った。何故ならここには色んな思い出が詰まっていたからだ。八重子と靖子の両親の墓も近くにある。おいそれと離れる訳にはいかない。それを告げると、様子を見に来たアンソニーが言った。

『また戻ってくる事ができる。必ず。今は生きている命を最優先にした方がいい』

 真顔で、敵兵と同じ真っ青な目で言われたらトヨはもう頷くしか無かった。アンソニーの言う通りだったからだ。

 トヨだけであればここに残ったかもしれないが、ここには八重子も靖子もいるのだ。まだ若い二人をみすみす殺してしまっては、天国にいる二人の両親に顔向けが出来ない。

 トヨは心を決めた。突然消えた八重子。そしてまた突然戻ってきたと思ったらニコラがやってきて、それからアンソニーとカールだ。八重子はきっと、トヨには想像も出来ないような不思議な旅をしてきたのだろう。戻ってきた八重子は、トヨも驚くほどの成長を遂げていたのだから。

 そんな事を考えながらトヨが荷物を詰めていると、ニコラがやってきた。

「婆ちゃん、準備出来た?」
「出来たよ。どれぐらい歩くったい?」

 このニコラという青年は何にも物怖じせず、トヨに初めて出会った時からこんな風に馴れ馴れしい。最初は訝しんでいたトヨも、数週間もすればすっかり慣れてしまった。何だか今では本当に自分の孫かひ孫ぐらいに思っている。

「う~ん、20キロぐらいかな?」
「20キロ!? そりゃ無理や! 途中でうちば捨てていけ!」

 思わずトヨが言うと、それを聞いてニコラは苦笑いを浮かべる。

「捨てて行く訳ないでしょ? 大丈夫、ちゃんと連れて行くよ。最低でも4時間でゴールを目指さないと!」
「そ、それは無理ばい……」

 愕然とするトヨを見てニコラは今度は声を上げて笑った。

「大丈夫だってば! 婆ちゃんの一人や二人ぐらい、どうってことないよ! ほら、行こ!」

 ニコラが手を差し出すと、トヨは背中に背負った荷物をそっと置いてその手を取った。

「婆ちゃん? それ持っていく荷物でしょ?」
「よか。こりゃ置いていく。すこしでも軽か方がよかじゃろう?」
「婆ちゃん……」

 ニコラは知っていた。トヨの荷物には八重子達の両親の位牌や、家からどうにかして持ち出した嫁入り道具だった着物、それから先に病気で若くして亡くなった旦那さんの写真や宗吾の手紙などが入っていた事を。

 ニコラが何か言おうと口を開きかけたその時、後ろから様子を見に来たアンソニーが言う。
 

「置いていく事はない。トヨさん、僕たちはそこそこ動けるよ。カール、ニコラ」
「ええ。トヨさん、私の背中へ」
「え!?」

 そう言って目の前でしゃがみこんだカールを見てトヨは驚いて目を丸くする。

「やっちゃんは僕ね」
「うん!」

 靖子はぶよぶよの不思議な感触の防災頭巾を被ってニコラの背中に飛びついた。

「ヤエ、君はこれを背負って僕の背中に乗って」
「ええ!? 私は歩くわ!」
「いや、余裕を持ちたいから走るよ」
「は、走る!? 20キロを!?」

 アンソニーの言葉に思わず八重子が息を呑むと、アンソニーはコクリと頷いた。

「僕たちだって数百年の間にずっと研究だけをしていた訳じゃないんだ。それに最近じゃアリスに大分鍛えられたしね。ニコラ、君は無理をしないように」
「大丈夫。二人に比べれば少し遅いかもだけど」

 ニコラの足はあの時の怪我のせいで少し引きずるようになってしまった。

 けれど数百年の間にそれも大分改善された。むしろ今はそこらへんの人よりも早く走れると自負している。

「そうです。あの地獄の日々に比べれば、トヨさんなど紙切れのように軽いです」

 石を引っ張って走れとアリスに言われた時の事を思い出しながらカールが言うと、やはり同じことを思い出したアンソニーが苦笑いを浮かべる。

「幸いまだ深夜だ。逃げるには十分な時間がある」

 そう言ってアンソニーは持っていた紙の束を背中の八重子に渡した。

「ヤエ、これを走っている途中にバラ撒いてくれるかい? それから出来れば今すぐここから離れろ、と皆に聞こえるように叫ぶんだ」
「い、いいの?」
「少しでも犠牲者は少ない方がいい。違うかい?」
「……違わない」

 八重子は何だか逞しくなったアンソニーの首に腕を回すと、その項に顔を埋めた。そしてポツリと言う。

「ありがと……アンソニー」
「どういたしまして。それじゃあ行こうか」

 アンソニーはそう言ってトヨの荷物を持って洞窟を飛び出した。

 
 深夜4時。まだ外は真っ暗だ。月明かりだけを頼りにアンソニー一行はヤエが描いた簡単な地図を頼りに町中を走っていた。

「皆ー! 今すぐにここを離れて! 明日の朝、爆弾が落ちてくるわー!」

 八重子はアンソニーの背中から一生懸命声を張り上げた。それを真似するかのように靖子も後ろで「逃げてー」と叫んでいる。

「こがん時間にひっちゃかましか! あら! 誰かと思うたらトヨさんやなかと! こがん時間にどこ行くと?」
「早うここから逃げんねえ! 最低でも20キロは離るるんばい!」
「20キロ!? 一体何があると!?」
「広島んごとなるんばい!」
「ええ!?」

 誰かに追われて走り去って行くトヨを見て、隣人のツネはポカンと口を開いた。そしてすぐにハッとして防空壕に駆け込み家族を叩き起こす。

「早う逃げるばい!」
「なんね?」
「早う!」

 子どもたちは眠い目をこすりながら尋ねてくるが、ツネはそれを無視してすぐさま着替えさせて、いつでも逃げられるように準備してあった荷物を背負う。そんな母親を見て子どもたちは慌てて飛び起きて自分たちも用意しだした。

 ツネはトヨがしたように移動しながら近所の人たちに声をかけた。トヨが嘘を言う訳がない。こんな時間に、それも誰か見知らぬ人に背負われて逃げ出すなんて尋常ではない。もちろん、馬鹿にして出て来ない人たちも居た。

「母ちゃん、これ拾うた」

 歩いていると一番下の子が手書きのビラを拾った。そこには長崎の大まかな地図、そして円が描かれている。これはトヨ達がまいたのだろう。この円の外に逃げろという事だと判断したツネは、それを握りしめて家族を連れて真っ直ぐに歩き出したのだった。
 

 やがて空が白み始めた。アンソニー達は途中幾度か休みながらもニコラが計算した距離を元に、どうにか爆心地から遠く離れた場所まで来ていた。

「どれぐらいの人が逃げてくれただろう……」

 八重子がポツリと言うと、アンソニーは少しだけ俯いて首を振る。

「分からない。罵声も結構あったからね、信じてくれなかった人も多いかもしれないね」
「一人でも助かればそれでよか。うちらは出来ることはやったばい」
「そうだね……トヨさんの言う通りだ。やはりアリスのように全員を助けるのは難しいね」
「この世界には妖精王も居ません。それは仕方のない事です、父さん」

 アリスの思い描く世界は皆が平等で誰も苦しまない世界だ。そんな世界がどれほど難しいか、身に沁みてカールは感じている。

 規模は違えど、いくつもの戦争を乗り越えて沢山の仲間や友人を失った。どこの世界でも同じように争いは絶えない。

「二人共、顔を上げて。婆ちゃんの言う通り、私達みたいに逃げた人たちもきっと居る。それに、私達の言葉を信じて他の人達に声をかけてくれた人たちもきっといる。世界はそこまで捨てたものじゃないよ。あなた達が私をずっと思ってくれていたみたいに」
「ヤエ……」
「母さん……」
 

 しばらくして日が完全に昇り、手近な誰も居ない防空壕を見つけたので、アンソニー達はそこに避難する事に決めた。徐々に運命のあの時間が近づいてくる。

「ヤエ、君が被爆した時間は、あの時間なのかい?」
「そうだと思うわ。詳しい時間は見ていなかったけど、空襲が激しくなってきたから最初の防空壕から移動してたの。その時に靖子が転んで、それを助けようとした瞬間だったわ」
「なるほど。それを覚えていたから先にあの場所に移動したのかい?」
「ええ。でもまさかより爆心地に近づいているなんて思ってもいなかった。あそこに居たら、きっと靖子も助からなかったわ」

 もしもアンソニーとカールがノアという人からの手紙を持って来なければ、きっと今もあそこに居たに違いない。そうしたら多分、全員が犠牲になっていたのではないだろうか。そう考えるとゾッとする。

 青ざめてそんな事を言う八重子にアンソニーは静かに言った。

「運命はそう簡単には変わらない。それは多分、どこの星へ行っても同じこと。僕たちの運命は本来ならあそこで終えていたのかもしれないけれど、それを彼らが捻じ曲げてくれたんだろう」
「彼ら?」
「ああ。とても頼りになる仲間たちだ。いつか、ヤエにも紹介したいよ」

 アリスを始めとする新しい仲間たちの顔を思い出してアンソニーが笑うと、ヤエも困ったように微笑んだ。

 八重子がこちらの世界を愛している事はアンソニーも理解しているけれど、それはアンソニーも同じだ。もしも八重子があちらに戻るという選択肢をしなかったとしても、アンソニーはもうひとりでも向こうに戻るつもりでいた。

 アンソニーが一番ショックだったのは、八重子がアンソニー達の眼の前から消えた事ではなく、八重子が助からなかった事だ。長い年月を過ごすうちに、八重子がたとえ地球に戻ったとしても、どこかで幸せに暮らしてくれていたらそれでいいと思っていたけれど、それすら叶わなかったのだという事実がアンソニーをより必死にさせた。
 

 やがて、その時はやってきた。

 靖子とニコラが外で野草を摘んでいたその時、空が白く光った。ニコラはそれに気付いた瞬間、靖子を抱えて防空壕目指して全力疾走して滑り込む。

「兄ちゃん? どがんしたと?」
「やっちゃん、早く奥へ!」

 ニコラがそう言った瞬間、地響きのような地鳴りのような低くて重い破裂音のような音が二回、立て続けに聞こえてきた。

「なん!?」
「あれがヤエちゃんが言ってた爆弾だよ。ほら、外を見てごらん」

 そう言ってニコラが防空壕の外を指差すと、先程まで風も吹いていなかったというのに、今は木々が大きく揺れている。

 爆心地からこれほど離れてもこの威力なのかとニコラはゾッとした。そこへ防空壕の奥に居た皆がニコラ達の元へ青ざめながらやってきた。

「ニコラ! やっちゃん! 二人共無事かい!?」
「叔父さん! 靖子さん!」
「ニコラ! 靖子! 今ん音はなんね!?」
「やっちゃん! ニコラ! ああ……ちゃんと帰ってきてる……」

 防空壕の入り口から外を覗いている二人を見て、八重子は気が抜けたかのようにその場に座り込んだ。どれほど助けたくても助けられなかった靖子が、無事でいる。それだけが八重子の心残りだった。ホッとしすぎて思わず意識を失いそうになった八重子を支えたのはアンソニーだ。

「ヤエ、大丈夫かい?」
「ええ……ありがとう……本当に……ありがとう……」

 思わず涙を零す八重子を見て、アンソニーは懐かしい笑顔を浮かべて頷く。

「僕も、ようやく君を救えた……生きていてくれてありがとう、ヤエ。これでもう、思い残すことは何もないよ」

 この後八重子がどんな決断をしても、アンソニーにはもう思い残す事は何もない。ワガママを言えば八重子をこのままあちらに連れて帰りたいけれど、八重子がそれを望まないのであればアンソニーはその決断を受け入れようと思っている。

 そんなアンソニーの心を知ってか知らずか、八重子は涙を零しながらアンソニーの胸にしがみついてきた。

「私も……私も、もう何も思い残すことはないわ……」

 いつまでも抱き合って離れない二人を見兼ねたのか、トヨが小さく咳払いをする。

「こがん所ではしたなかばい。こん後、もう戻ってん大丈夫なんかい?」
「はっ! ば、ばあちゃん! ご、ごめんなさい。えっと……この後はどうなるの?」
「この後は雨が降るようだよ。その雨には決して触れないように、と書いてあるね。それから準備していた遮蔽物でこの防空壕を埋めよう」
「埋める!? そがん事して大丈夫と? 食事は? 水は?」
「それは大丈夫。大体24時間はその場に留まらなければいけないようだ。三人は奥に居て。僕たちは入り口を塞ぐから。やっちゃん、昨日言った事を覚えているかい? 二人に僕のリュックの中身を説明してやってほしいんだ」
「分かった! 二人とも早うおいで」

 アンソニーの言葉に靖子は意気揚々と二人の手を掴んで防空壕の奥へと向かう。

「行こう、ばあちゃん」
「あ、ああ」

 アンソニー達が何を言っているのかイマイチよく分からないが、トヨは靖子に引っ張られるように防空壕の奥へと向かう。
 

「兄さん、このノアからの情報は本当にありがたいね」
「全くだ。しかし凄い威力だね……これがこちらの戦争か」

 アンソニーは入り口を土のうで埋めながらため息を落とした。メモには30分が勝負だと書いてあった。そしてそれから数日間は絶対に川などの水を飲むな、とも。

「あちらには無い技術ですが、もしかしたらリセット時には起こった事かもしれませんね……。そう思うと、あの魂達の苦しみがより辛く感じます」

 あちらの世界に残してきた人たちや放り出してきた魂達を思い思わずカールが呟くと、そんなカールにアンソニーが笑って言った。

「大丈夫だよ、カール。僕はヤエがどんな選択をしてもあちらに戻るつもりだ」
「え!? に、兄さん、それは……本気?」

 あれほど八重子を探していたのに? ニコラが思わず驚いて言うと、アンソニーは慈悲深い笑みを浮かべて頷いた。

「もちろん。君がこちらへ来た後、僕たちにも色々な事が起こったんだ。そして彼らはどうにかして僕たち全員をあちらに戻す算段までつけてくれた。本当に……彼らは良くしてくれたんだ。そして自然と思えたんだよ。僕はヤエを助けられればそれで良い、とね。彼女がどこかで幸せで居てくれる。それこそが僕の幸せなんだって」
「……父さん」
「兄さん……いつの間にかそんな達観しちゃって……」

 それはまるでおじいちゃんのようではないか! 心の中でニコラはそんな事を思ったのだが、流石にそれは伏せておいた。
 

 ノアの言う通り土のうで入り口を塞ぎ防空壕の奥へ行くと、そこでは靖子が意気揚々とアンソニーのリュックの中身を披露していた。

「こりゃ凄か! どうなっとーとじゃろう?」
「絞ったら水が出るばい!」
「はぁぁぁ……凄かねぇ」

 トヨと八重子は靖子が水瓶の上で防災頭巾を絞り水を貯めるのを見てポカンとしている。

「世界は進歩したんねぇ」
「ははは、それが出来たのはつい最近の事なんだよ。ノアからのメモでは一日とあったけれど、一応2日はこうしていようか。外がどうなっているかは分からないけれど、ノアは手紙が届くまではどこかに隠れているように、と言っていたから」
「そうなの? でも2日も食べ物が無いなんて……」
「それは大丈夫です、母さん。アリスがレトルトを沢山入れてくれていたので、下手をしたら一週間分の食料はありますよ」
「一週間!? このリュックにそんなに沢山の食料が入っているの!?」
「ええ。だからそんなに心配しないでください。水も全員分の防災頭巾の水があれば恐らく大丈夫でしょう」

 アリスの作った防災頭巾のもう一つの使い方。それは災害時に水を鮮度を保ったまま貯めておけるという事だ。ここにたどり着いた時、一番初めにしたことはこの防災頭巾に水を大量に貯める事だった。

「はぁ……アリスさん、凄い人なんだね……流石未来人」
「いや、アリスはそれ以上に破天荒なので……」
「そうだね……アリスはね……」

 言いながら何かを思い出すように表情を曇らせた二人を見て、それまで感心していたトヨがふと口を開いた。

「まずは、ありがとう。それで、おうち達は一体何と?」

 不思議な言動に不思議な食べ物や物。トヨにはこの3人の正体が全く分からなくて、問いかける隙をずっと待っていた。どのみちここからまる二日は動けないという。それならば丁度良い機会である。そう簡単に思ったのだが――。

 
「そうか……宗吾は生きとったんやなあ……それで八重子は歳ば取っとったんか」

 全ての説明を聞き終えたトヨは、涙を拭いながら呟いた。

「黙っていてすみませんでした、トヨさん」
「トヨさんやなんて他人行儀な。八重子ん子供やと言うんなら、おうちはうちん玄孫やろう?」
「っ……はい」

 その言葉にカールは涙を堪えた。思わず息を呑んだカールを慰めるように靖子がカールの手を撫でてくれる。

「ありがとうございます、靖子さん」
「うん!」
「それで、八重子はどがんすると? あちらに戻ると?」
「それは……」

 トヨの言葉に八重子は言葉を濁して靖子を見る。さっきは心残りはもう無いなどと言ったが、靖子の事は心残りだ。早くに両親を亡くした自分たちだ。それからずっと祖母の元で世話になっているが、靖子はまだ幼く、突然八重子が消えた時の事を今でもたまに思い出したかのように甘えてくる。

「まだ時間はあるよ。ゆっくり決めるといい」
「うん……アンソニーは? あなたはどうするの?」
「僕はあちらに戻るよ。何せこう見えて一国の王だからね。全てを放り出してしまいたいけれど、やっぱりそうはいかないみたいだ」

 そう言って苦笑いを浮かべたアンソニーを見て、八重子は真剣な顔をして頷いた。八重子も一時は一国の王妃だったのだ。その責務の重さを十分理解しているだろう。だからこそ八重子の意志を尊重したかったアンソニーだ。自分と戻れば、また八重子は国という大きな責任を負わなければならなくなるのだから。

「そうよね……。もう少しだけ時間をくれる?」
「もちろん」

 不安げにこちらを見上げる八重子にアンソニーが頷くと、八重子はホッとした様子で頷いた。
 

 あの爆発から2日が経った。アンソニー達はそろそろ外へ出てもいいだろうと土のうを全て撤去して、表に出て息を呑む。まだ遠くに煙が見えたのだ。

「どれほどの人が犠牲になったんだ……」

 ポツリとアンソニーは呟いて、そっと目を閉じた。

「ばあちゃん、戻る?」

 八重子が尋ねると、外へ出てまだ煙が燻る方を見てトヨがゆっくりと首を振った。

「止めとこう。きっと、今行ってん辛か思いばするだけや」

 それまでの空襲で何人もの知り合いを亡くした。今度の爆弾はあの時の比ではない。きっともっと凄惨な事になっているだろう。

 八重子は頷いて靖子の手を引いて防空壕に戻っていく。そんな後ろ姿を見つめていたアンソニーに、トヨが言った。

「アンソニー、八重子ば連れて行ってやってほしか。それから、出来れば靖子もお願いできんかね?」
「……あなたは?」
「うちゃこけぇ残るばい。こん惨状ばちゃんと後世に伝えてやらんば」
「それは……きっとヤエは許さないと思うけどね。後世に伝える事は素晴らしいけれど、せめて父さんの両親の元へは行けないのかな? それに、僕もあなたをここに一人残して行くことは出来ないよ。僕からしたらあなたは曾祖母なんだから」
「あんたもニコラも宗吾に似て優しか子やなあ」
「そうかな? 本当はね、自由にあちらとこちらが行き来出来るようになればいいんだけど、流石にそれは少し難しそうなんだ」

 それこそ管理者のような権限が無ければきっと叶わないだろう。視線を伏せたアンソニーを見てトヨは笑った。

「そうやなあ、それが一番うれしかばってん、あちらでも戦争があるとじゃろう? やったらこがん所でグズグズしとらんで、おうちはあっちに戻らんねえ」
「……そうだね……」

 優しいトヨの言葉にアンソニーは微笑むが、その顔があまりにも寂しそうだったのか、トヨが苦笑いを浮かべた。
 

 そんな話をトヨとアンソニーがしている事も知らず、八重子は楽しそうにカールと遊ぶ靖子を遠巻きにぼんやりと見つめていた。

 ちなみにニコラはノアという青年から届く予定の手紙の受信装置を作っていて忙しそうだ。

「出来た!」
「出来たの!? 相変わらずニコラは凄いのね!」
「いやいや、これはカール達があちらから必要なパーツを持ってきてくれたからだよ。これで受信は出来るはずだよ」

 そう言ってニコラは寄木細工が取り付けられた機械を自慢気に見せると、八重子はどこか複雑そうな笑顔を浮かべる。

「僕たちにあちらに戻ってほしくない?」
「ううん、そんな事! ……って言ったら、きっと嘘になると思う」
「うん」
「ニコラはどうしてこっちに来る事を決める事が出来たの? だって、もしかしたら戻れなかったかもしれないのに」
「う~ん、そうだな。僕はどうしても父さんの遺言を守りたかったんだ。その為に人生のほとんどを費やした。だからあまり深くは考えなかったんだ。実は」
「そう……なの?」
「うん。深く考えると今のヤエみたいになるって分かってたんだよ。だから勢いでこっちに来た感じだったよ。もし戻れなくても、僕はこの装置を作る事が出来る。だったら、もしかしたらいつかは戻れるかもしれないじゃないか」
「凄いのね、ニコラは。あなたのそういう所は本当に尊敬するわ」
「ははは! ありがとう。でもね、ヤエ。兄さんは君の意志を尊重したいみたいだよ。だから心のままに決めればいい。僕たちは君の決定を決して否定しないよ」
「それは分かってるんだ。あの人は本当に……とても優しい人だから……」

 どれだけ考えても八重子には出来すぎた旦那である。だからこそ本当に自分が相応しいのかと不安になる事があるのだ。それも、もしかしたら足枷になっているのかもしれない。そんな八重子の心を察したかのようにニコラが真剣な顔をして言った。

「ヤエに一つ昔話をしてあげる。ヤエが消えたあの日、兄さんは国民に王妃が不慮の事故で亡くなったと告げたんだ。それから国はまるで火が消えたみたいに暗くなった。兄さんも人が変わったように冷たくなり、国王の座をまだ幼かったカールに譲ると言い出したんだ。兄さんは研究室にこもり、それからずっと、ひたすら君を迎えに行く方法を探していた。国の事なんて顧みずにね。それぐらい、兄さんにとって君の損失は大きな物だった。そしてそれは兄さんだけじゃなかったんだ。王妃を亡くしたという事実は、国民達にとっても大きな打撃になっていた。ヤエはね、本当に皆に愛されていたんだよ。僕たちは、その時初めて君の存在の大きさに気付かされたんだ。その後、高位貴族達は誰一人として兄さんに再婚を薦めなかった。何故なら皆、君が姉妹星から来た事を知っていたし、そこへ戻ってしまった事も知っていた。だからいつか戻ってくるかもしれないと考えていたんだ。そういう時は大抵誰かしら付け込んで来そうなものなのに、誰しもが王妃は君しか居ないって思ってたんだよ」
「……」

 ニコラの言葉に八重子は思わず息を呑んだ。アンソニーに釣り合うように毎日頑張っていた。それは決して無駄ではなかったのだ!

「ヤエが毎日頑張っていた事は皆知ってる。君の頑張る姿は皆に色んな物を与えていたんだ。それだけは……忘れないでね」

 どこに居ても八重子には自信を持って胸を張って生きてほしい。ニコラはそんな願いを込めながら話した。向かいから靖子の楽しそうな声が聞こえてくる。

「靖子があんなにも楽しそうなの、久しぶりに見たかも」
「戦争中だからね、きっとやっちゃんも色んな事我慢してたと思うよ」
「そうだよね。私も、ばあちゃんも皆も、色んな事我慢してた。それももうじき終わるんだよね?」
「うん。あと少しで終わる。そうしたら今度は復興だよ。未来を皆でまた作り上げるんだ」
「そっか……皆で。あっちも今戦争中なんだよね?」
「そう……あっちはもっと大変な事になってる。神様と神様の戦争だよ。星の命運がかかってる。もしも負けたら、それこそ僕たちは星と共に消え去る」
「! それじゃあ――」
「それでも、僕たちは戻る。だって、途中で投げ出してきたら、それこそずっと気になってしまうでしょ?」

 困ったように笑うニコラに八重子はそれ以上は告げずに口をつぐんだ。きっと、あちらに戻るなと言いたかったのだろう。

「アンソニーはあんな性格だものね。きっと、それを良しとしない」
「うん、そうだね」
「私……私は……」

 八重子が何か言いかけたその時だ。トヨとアンソニーが戻ってきた。

「カール? 何してるんだい?」
「これですか? アリスがどうやらオセロを入れてくれていたようで、靖子さんと遊んでいるんですよ」
「いいね。やっちゃん、面白いかい?」
「うん! こうやって挟むとひっくり返るっさ!」

 そう言って靖子はカールのコマを挟んでひっくり返す。

「案外強いのですよ、靖子さんは」
「へぇ。それじゃあ後で僕とも対戦してくれるかい?」
「よかばい!」

 自信満々に頷いた靖子を見てアンソニーは微笑んだ。

 その時のもうすっかり取れてしまった髪の黒い粉から所々見える綺麗な金色の髪と青い目は、靖子の心に強く印象に残った。
 

 原爆が長崎に落ちてから6日。ノアのメモ通り、戦争がようやく終わりを告げた。

 けれど山を下りても誰も喜んでいる様子は無かった。戦争が終わった事を、ほとんどの人が知らなかったのだ。

 八重子は街から防空壕に戻り様子を伝えると、アンソニー達はしばらく考えて言った。

「それは当然かも知れないね。この時代はまだ情報伝達がそこまで発達していないのだろう?」
「うん、そうかも。ラジオも皆が持ってる訳じゃないし」
「だとしたら、まだ終戦を知らない人が多いのは仕方のない事だ。もう少しだけここに居た方が良さそうだね。いつ頃ノアから手紙が来るか分からない。カールはいつでも向こうに戻れるように今から準備をしておいてくれるかい?」

 その言葉に皆、納得したように頷いた。それからそれぞれの用事をするべく、皆が散り散りになる。

 アンソニーは久しぶりにノートを開いた。観測者からこちらで起こった事を詳細に教えてくれと言われていたのを思い出したのだ。

 最初は起きた事を細かく書いていたアンソニーだったが、しばらくして書いたページのほとんどを破り捨てた。

「破っちゃうの?」
「ヤエ」

 後ろから声が聞こえて振り返ると、そこにはアンソニーが破り捨てたノートの残骸を拾い集めるヤエが居た。

 アンソニーはそんなヤエに手招きすると、自分の足の間を指差す。一緒に住んでいた頃、二人はよくそうして一緒に本を読み、音楽を聞き、色んな事を話し合った。

 それを思い出したのか、ヤエは少しだけ恥ずかしそうに指をすり合わせながら俯くと、意を決したようにアンソニーの足の間に腰を下ろす。

「懐かしい」
「君からしたらさほどの時間は経っていないだろう?」
「そうだけど……何だかとても長かったの。それこそ、あなたと離れてからまるで時が止まっていたみたいだった」
「僕にとっても永遠のような時間だったよ」
「そうよね……数百年?」
「うん。ゾッとする程長かった。もう君に会う事は無いんじゃないかって、何度も諦めかけた」

 そう言ってアンソニーは八重子の小さな体を抱きしめる。本当はもう二度と離したくない。どうか一緒に来てほしい。そんな事を心の中で呟きながら。

「私も諦めてた。きっとあれは夢だったんだ。とても幸せな夢を見てただけだったんだ、って。でもね、毎日どれだけ忙しくてもあなた達の事を毎日毎日思い出してた。会いたくて、戻りたくて」

 八重子は言いながらそっとアンソニーの腕を撫でると、顔だけで振り返る。そんな八重子を見てアンソニーは泣き出しそうに表情を歪めた。

「……うん」
「アンソニー、私……あなたと一緒に戻ってもいい?」
「え……?」
「元々ね、靖子を無事に助ける事が出来たら戻ろうって思ってたの。あなたの顔を見た瞬間、本当は心は決まってた」

 それでもそれをすぐに告げる事が出来なかったのは、心のどこかに迷いがあったからだ。

 けれど、今一緒に戻らないと、きっと後悔する。八重子はノートを破り捨てるアンソニーの寂しそうな背中を見て強く思った。

 この人はとても優しいし強いけれど、それ以上に寂しがりやで不器用な人だ。いつだって自分の事は後回しにして、周りの人の事ばかり考える、そんな人なのだ。

「いいの……かい?」
「うん。ばあちゃんにも靖子にもさっき話してきた。ばあちゃんは賛成してくれたよ。やっちゃんは……泣いてたけど、ニコラが手紙の受信装置を置いて行ってくれるって!」
「受信装置を? でもあれはエネルギーを貯めるのが大変ではない?」
「それがね、そちらの仲間たちがエネルギー充填装置も入れてくれていたんだって。きっと、こうなる事が分かってたんじゃないかってカルロスが言ってたわ」
「ああ、なるほど……ノアとアランかな」

 きっとそうだ。八重子が姉妹星を離れる時、きっと迷いが出る事が分かっていたに違いない。特にノアなど元々こちらの人間なのだ。それを考慮して予めエネルギー爆速充電装置を入れておいてくれたのだろう。

「はは、随分と僕は気遣われているね」
「それは当然だわ。あなたという人を知れば知るほど力を貸したくなるもの。あなたは今まで私が出会ってきたどんな人よりも魅力的」
「それは君もだ、ヤエ。だから僕は僕の人生全てを賭けて、今、ここに居る」

 アンソニーは溢れそうになる涙を堪えながら八重子を強く抱きしめた。そんなアンソニーの腕を、八重子も強く抱きしめてくる。

「もう……会えないと思っていたんだ、ずっと。心の何処かで君を諦めようとしてた。でもずっと……ずっと諦められなかった……どうかお願いだ、ヤエ。僕と一緒に、あちらに戻って欲しい」
「戻るって言ったわよ?」
「ああ。でも、どうしても本音を聞いて欲しかったんだよ。表では君の意志を認めようとしてたけれど、本音はずっと、君にまた会えた瞬間からすぐにでもあちらに連れ去ってしまいたかった」
「相変わらず困った人! もちろん、喜んで!」

 アンソニーの本音が聞けて八重子はようやく笑うことが出来た。一番の心残りだった戦争が終わり、これでもう本当に思い残すことはない。
 

 それから一週間が過ぎた頃、アンソニーは書きかけのノートをパタンと閉じた。 やっぱり何があったかを詳しく書くのは止めておこう。そんな事を考えながらノートをリュックに仕舞う。

 もうじきカールがあちらの世界と繋がったと言ってここに飛び込んでくるはずだ。

 案の定、それから数分も経たないうちにカールがやってきた。いつも冷静なカールの頬は、緊張なのか興奮からか少しだけ紅潮している。

「父さん、準備が整いました」
「そうかい。それじゃあ行こうか」
「ええ」

 立ち上がったアンソニーの手にはしっかりと八重子の手が握られている。八重子もアンソニーの手を強く握りしめた。

「ばあちゃん、これから会うのはあちらの世界の神様なんだ。ばあちゃんを父さんの両親の所へ送ってもらうよう頼んでみるからね!」
「神様? あちらん世界では神様が普通にそこらへんば歩きよっと?」
「んー……いや、僕も会うのは初めてなんだけど、兄さんたちは会ったことあるんだよね?」
「ああ。会うどころか今では一緒に戦っているよ」
「そうですね。信じられないかもしれませんが、妖精王は今や仲間の一人です」
「だってさ!」
「はぁ、よう分からんばってん、凄かばいなぁ」

 トヨにはよく分からないが、神様に会うと言うのなら手土産の一つも用意した方がいいのではないかと申し出てみたが、それはアンソニーとニコラに断られてしまった。

「ばあちゃんは生き抜く事だけを考えてよ。妖精王への手土産は僕たちがちゃんと用意しておくから」
「そうかい? それじゃあお言葉に甘えようか。落ち着いたらおはぎば送っちゃるばい」

 トヨが言うと、アンソニーとニコラは嬉しそうに顔を綻ばせて頷く。少し前にとうとうノアから手紙が届き、その時に不思議な箱の説明をニコラがしてくれた。この箱が唯一、あちらの世界と繋がるのだという。

「やっちゃんは本当にいいのかい? もう二度と会えなくなるかもしれないよ?」

 アンソニーがカールと手を繋ぐ靖子に問いかけると、靖子は涙を浮かべながらもしっかりと頷く。その小さな手には、トヨから預かった両親の位牌が握られていた。

「それじゃあ、開きますね」

 カールはそう言って描いた魔法陣の上に手を翳した。

 すると、途端に辺りが光り、あの虹色の空間に放り出される。

「こ、ここは一体……?」

 八重子が思わずアンソニーの背中に隠れながら言うと、アンソニーは笑って言う。

「ここがあちらの世界とこちらの世界の境目なんだ」

 アンソニーがこの場所の説明をしようとしたその時、よく聞き慣れた声が聞こえてくる。

『お前たち! 無事だったか! なんだ、聞いていたよりも多いな。ほう、その娘がアンソニーの嫁か! なかなか可愛らしいではないか!』
「妖精王!」
「え!? こ、この声が妖精王のお声!?」

 想像していたよりもずっと若い、むしろ少年のような声に八重子が目を丸くするが、生憎姿はどこにも見えない。声だけだ。

 そっと振り返ると、靖子は目を輝かせてキョロキョロと辺りを見渡しているし、トヨに至っては今にも腰を抜かしそうだ。

『すまぬな、嫁よ。本来なら我もそこへ行きたいのだが、今こちらも混乱していてな。そなたへの挨拶はまた今度にとっておこう。それで、そこの者達を皆運べば良いのか?』
「いえ、妖精王。この人だけは島根の出雲大社という場所に送って欲しいのです」
『ふむ、その者はこちらへは来ぬのか』
「ええ。彼女は僕の曾祖母なんです。そして、出雲には僕の祖父母が居ます」
『なるほど。ではそこへ送ろう。そなた、名は何と言う?』

 突然の妖精王の声に、トヨは一瞬キョトンとしたが、すぐに自分の事だと気づいて早口で言った。

「うちん名はトヨと申します」
『そうか。ではトヨよ、達者でな。こいつらの事は何も心配しなくていい。我が必ず守ると約束しよう』
「は、はい! よろしゅうお願いします」

 神様などとアンソニーが言っていたが、実のところあまり信じていなかったトヨは、姿の見えない声に恐れ慄きながらも頭を下げた。少年の声というのが何だか妙に信憑性があったのかもしれない。

『うむ。こちらの神にお前達一家への加護を要請しておく。何も心配するな』
「は……はい! こん子達ば、どうかよろしゅうお願いします。あんた達も、いつまでも元気でな」

 トヨはそう言って振り返ると、涙を拭いながら一人ひとりの顔を見渡した。

「ばあちゃんも! 手紙書くからね!」
「私も書きます。どうか、お元気で」
「僕からも手紙と絵姿を送るよ。手紙も待っているよ」

 アンソニー達の言葉にトヨは泣きながら頷いた。そんなトヨに八重子と靖子が飛びつく。

「ばあちゃん、元気で。それから……今までありがとう!」
「八重子もな。幸せになれ。愛想つかされんごとせんねえ」
「もう! うん……幸せになるよ、今度こそ」

 八重子はそう言ってトヨに抱きついて子供のように泣いた。両親を失ってからずっとトヨが一緒に居てくれた。だから八重子は笑えるようになったのだ。寂しくなかったのだ。

 そんな八重子の下では靖子もトヨに抱きついて離れない。

「ば、ばあちゃんもやっぱり一緒に行かん?」
「そりゃ無理ばい。ばあちゃんが行ってん何も出来んし、皆おらんくなったら心配するじゃろう?」
「で、でも……」
「やっちゃん、ここに残ってもいいんだよ?」

 ニコラが声をかけると、靖子はそれを聞いてすぐさま首を振った。

「嫌や! ヤエちゃんと行く!」
『ん? なんだ、お前たち。もしかしてもう会えないと思っているのか?』

 しばらく話しを聞いていた妖精王は、不思議そうに尋ねた。

「え?」

 その声に今度はアンソニー達が首を傾げる。

『別にそういう契約にすればいいだけの事だろう! そりゃ毎日は無理だぞ? だが一年に一度ぐらい里帰りするのは別に構わんぞ?』
「さ、里……帰り?」
『しないのか? お前たちは』
「いや、そりゃ同じ星であればするかもしれないけれど……星同士の里帰りは流石に……」
『何故? 別にそれで歴史が変わる訳でもあるまい。それにノアを見てみろ! あいつなど我ら妖精王を騙してこちらに転生してきたのだぞ! おかげで一部の歴史が変わってしまったのだ! それを思えば年に一度の姉妹星への里帰りなど可愛いものだ!』
「で、ですがその場合の対価は?」
『対価か、ふむ……では、何か我の食べた事の無い菓子を所望するぞ!』
「か、菓子……」
「そ、それはおはぎでもかんまんか?」
『おお、かんまんぞ! では決まりだな。お前たちには一年に一度、星間里帰りをさせてやろう。皆、一年に一度、揃ってトヨに元気な姿を見せに行くが良い。そしてその時に必ずおはぎを持って帰れ。良いな?』

 妖精王がまだ見ぬおはぎというお菓子に心躍らせながら言うと、その場にいた者たちは皆顔を見合わせてポカンとした。

「えっと……そういう訳だから、皆、それでいいかな?」
「え、ええ。異論はありません」
「僕も、ちょっと混乱してるけど大丈夫」
「一年に一回、ばあちゃんに会える……って、事?」
「また会えると!?」
「はぁぁ……ありがたやありがたや……」

 口々に話す人達を見てアンソニーは苦笑いを浮かべて言った。

「では妖精王、その条件で契約をお願いします」
『うむ。細かい制限はまた追って書面で交わそう。ではこれにて契約成立だ。トヨ、達者でな』
「ありがたやありがたや……」

 トヨは妖精王の声にいつまでもいつまでも手を合わせて拝んでいた。そんなトヨの耳に皆の別れを惜しむ声が聞こえてくるが、それでもトヨは目を開けず妖精王を拝み続けた。目を開けて皆の顔を見たら、きっと堪えられなくて泣いてしまいそうだったのだ。
 

 ふと周りが静かになりトヨがそっと目を開けると、目の前には大きな出雲大社の社がある。

 そこから宗吾の両親が住む場所はすぐだった。宗吾の両親には既に手紙を出してある。

 トヨは一人、荷物を背負って出雲大社の前の道をてくてくと歩く。

「母さん!」
「ん? ああ、迎えぎゃ来てくれたんかい」

 聞き慣れた声に顔を上げると、そこには宗吾の父でトヨの息子、豊が焦ったような顔をしてこちらに向かって駆け寄ってくるのが見えた。

「そりゃ来るばい! いつ来るか分からんけん、毎日ここば行ったり来たりしよったんだ!」
「そうか、そりゃ悪かったね。ありがとう」
「よかばい! 皆家で母さんが来るん待っとーばい。それより母さんに話したか事があるったい! 不思議な話ばってん、ニコラっていう外人がちょっと前に来て――それより八重子と靖子は? まさか……」

 豊はそこまで言ってハッとして青ざめた。まさか八重子と靖子は戦争で? そう思って視線を伏せようとした豊は、何故かトヨが嬉しそうな顔をしている事に気付いた。

「母さん?」
「そうやなぁ、わいに負けず劣らずいじ不思議だばってん、いじ素敵な話があるんばい。帰ったらゆっくりお茶でも飲みながら話すばい」

 そう言って、トヨはニコラから渡された不思議な小箱を愛おしそうに撫でた。

 その箱は、間違いなく宗吾があちらの世界で作った物だった。
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