蝶の見た夢【完結】

竹比古

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二度目の夢

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 夢を、見た。
 さなぎが割れ、羽化が、始まる。
 自らが発光しているかのような、柔らかい羽根を徐々に伸ばし、風に、さらす。
 初めて見る羽化、であった。
 何という美しさ、だろうか。
 胸が苦しくなるほどの、刹那、であった。
 じっ、とその羽化を、見つめて、いた。
 飛ぶ姿を見たくもあり、また、ずっとこの静寂に浸っていたくも、あった。
 彼が、羽根を、広げた。
 そこで、夢は、醒めた。





「ん……」
 何とも心地良さそうな寝返りと共に、顔の上に、手が乗った。その手を払い退け、草間は、ベッドの中で目を醒ました。
 台中の日月潭リーユエタンにある、ホテルの一室である。
 窓からは、周囲二四キロ、水深三〇メートル、面積約九〇〇ヘクタールの台湾最大の自然湖、日月潭リーユエタンが一望できる。
 北半分が日輪、南西側が月輪に似ていることから、そう名付けられた湖は、山紫水明の頂点、ともいえる。
 昨日、台北から移った、台中の郊外であった。
 だが、顔に乗った手のことまでは、知らない。
 戸惑いながら体を起こすと、傍らには、昨日の少年が眠っていた。癖なのか、子供のように体を丸め、スゥスゥ、と寝息を立てている。――いや、実際、まだ子供である。草間が彼を歓迎していない、という事情を除けば、これ以上に愛らしい姿もなかったであろう。
 さっき、顔の上に乗った手も、彼のものであったことは、間違いない。
 草間は取り敢えず、ベッドから降りた。そして、シーツの端を握り締める。と――。
「誰のベッドで寝ているんだ――!」
 と、思いっきり、シーツを引っ張った。
「うわっ!」
 シーツと共に、少年が床へと転がり落ちる。
「イタタ……。何するんだよっ、人が寝てるのに!」
 と、迷惑そうに、且つ、腹立たしげに、痛みを訴えながら文句をタレる。
「こっちの台詞だ。――どうやってこの部屋に入った? レストランからホテルまで私の後を付けて来たのか?」
 昨日、レストランで食事をして、それっきり別れたはずであったのだ。
「貧乏だった頃は、色々と悪いこともしたさ。お陰で、こんな部屋に忍び込むことくらい、訳もない。もちろん、ボーっとした日本人の後を付けるのも」
 細い髪をかき揚げながら、少年は、まだ眠たげに言って、立ち上がった。
 一糸纏わぬ裸体、である。
 しなやかに伸びる手足も、華奢な腰も、少年らしい線の細さに似合って、瑞々しさを湛えて、いる。
「言っておくが、男の裸を見ても勃たないからな。そんな格好をして見せても無駄だ。君を買う積もりもなければ、ここに置く積もりもない」
 冷然たる表情で、草間は言った。
「ちぇっ。――ねェ、シャワー使っていい? 昨日、起こしちゃ悪いと思って、そのまま寝ちゃってさ」
 舌打ちをしてから、少年はバスルームを垣間見た。
「冗談じゃない。さっさと出て行け――」
「まあまあ、落ち着いて。先にお茶を入れてあげるからさ。ねっ?」
「結構だ」
「そう言わずに――。こう見えても、下積み長いんだから。あんたが入れるより、上手いって」
 などと言いながら、ポットで湯を沸かし、少年は、早速お茶の支度を始めている。
 屈託のない、無邪気な振る舞いであった。劇団に入り、舞台に立つまで、それなりの苦労をしたのだろう。目の前に、コトリ、と置かれたお茶は、彼の言葉通り、確かに草間が入れるよりも、おいしかった。
「じゃ、シャワー、使うねっ」
 そう言って、少年は悪びれた風もなく、バスルームへと消えて行った。
 すぐに水音が聞こえ始める。
 不思議な少年だった。夏の初めに見つけた蝶のように美しく、どこか心を和ませる。
「貧乏だった頃は悪いこともした、か……」
 彼の言葉を思い出しながら、草間はお茶を片手に、窓の外へと視線を向けた。
 ここ、台湾は、蝶の宝庫であり、年中咲き乱れる花の中、四一〇種もの蝶が群れ、舞い、緑美しいこの島に棲息している。
 中でも、雌雄同体ヘルマプロダイトの珍種、《陰陽蝶》の標本が見られることで、有名だ。
 美人、美酒、美蝶、と数え上げれば限がないほどに、美しいもので溢れる島……。
 だが、その《麗しの島イラフォルモサ》にいてさえ、草間には、全てを忘れて過ごせる、ということは、決して、なかった。かといって、他に行き場がある訳でも、ない。
 日本でなければ、どこでも良かったのだ。大学の研究室を出てから、もうどこにも行く当てなどなかったのだから……。
 しばらくすると、水音も止まり、バスルームから、雫を纏う蝶の化身が姿を、見せた。
「ねェ、今日は、どこに行く?」

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