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第二話 王子様の正体
「え? 若槻先生?」
三限目が終わるとすぐ、俺は林さんを探して声をかけた。彼女とは出席番号が近く、実習では大抵同じテーブルになる。話しやすいし、班ではいつもリーダーを務める積極派だ。色々なサークルに顔を出していて人脈も広く、俺なんか太刀打ちできないくらい情報通だったりする。
「食文化王子がどうかしたの?」
「お、王子!?」
若槻先生について訊ねて、最初に飛び出した単語――『王子』に、俺はギョッとした。
「あれ、藤宮くん知らないの? 教授たちより断トツに若いし、そのうえイケメンじゃん。それで『食文化王子』とか『食品学研究室の王子様』って呼ばれて、女子学生の間では有名なんだよ」
「そ、そうなんだ」
知りたい情報とは違った方向性の実情を知り、目の前に黒いカラスが飛んだ。思わず口元がひくついたが、それを見咎めた林さんは「チッチッ」と指を振った。
「くだらないと思ったでしょ、藤宮くん。でもこれって本当の話なんだけど。三年生の後期に所属する研究室を決めるじゃない? 食品学研究室って毎年、倍率がめっちゃくちゃに高いんだよ。もちろん本気で食品学を専攻したい子もいるけど、女子学生にとって『王子様を囲む会』に入るのは一種のステータスだからね」
「囲む会……」
男の俺には完全に理解不能な世界が、こんな身近に存在していたなんて。自分の研究室が『王子様を囲む会』などと呼ばれていることを、食品学の竹本教授は知っているのだろうか。
「それってもちろん、正式名称じゃない……よね?」
恐る恐る確認すると、林さんはくりっと目を見開いて、カラカラと笑った。
「あったりまえでしょ! でも学年問わずこれだけ有名なんだから、きっと先生の耳にも入ってるよ。もちろん竹本先生の本心は知らないけど、どんな理由であれ人気がないよりマシって思ってるんじゃない?」
「そっか……そうかも、ね?」
「そうよ!」
どっと汗が噴き出した俺の背中をバンバンと叩いて、林さんはさらに解説を続けた。
若槻先生の人気の理由は、まずはその見た目。俺は一目見て「え? あれが先生?」と驚いたが、あのフワッとした雰囲気が女子受けするそうだ。そして人格面も素晴らしいのだという。いつも笑顔で物腰が柔らかく、人当たりがすこぶる良い。学生からの相談を真摯に聞いてくれて、答えるときも否定ではなく肯定から入るというのだから……
(そっか……亜嵐さんを見慣れちゃったから感じなかっただけで、確かにイケメンの部類かも)
背も高かったし、一般的には好青年の部類だ。若槻先生が聞いたら苦笑しそうなことを考えて、俺はやっと納得した。なるほど、王子様と呼べなくもない。
「で? その食文化王子がどうかしたの?」
「あっ、ううん。食堂で見かけて、ちょっと気になっただけだよ」
好奇心を隠さない林さんにそう答えると、彼女は「ふーん?」と訝るような表情を浮かべた。まさか「それ以上に麗しい男と一緒だったから、そうは感じませんでした」なんて言えるはずがない。噂好きの女子をどう撒こうか考えていると、四限目の開始を告げるチャイムが鳴った。
「本当にそれだけ? 何かあるならケチケチしないで教えてよね?」
林さんは不完全燃焼と言わんばかりに顔をしかめ、渋々自分の席に戻っていった。
***
「は? 王子様!? ちょっ……どんな設定よ、それ!?」
赤く染まった住宅街を並んで歩きながら、白石さんは素っ頓狂な声を上げた。彼女の反応は至極真っ当だと思う、俺だってカラスが飛ぶほど驚き呆れたのだから。
「とにかく女子人気がすごいんだってさ。昼もほら、女の人たちを引き連れてたし。それと研究室は『王子様を囲む会』って呼ばれてるらしいよ」
「囲む会……栄養学部の女子、童話の読みすぎじゃないの? それにしたって、うーん……そんなにキラキラしてたっけ?」
バッグを肩掛けにして腕を組む白石さんに、思わず苦笑する。感想も思考回路も俺と全く同じではないか。
「外見については、だって俺たち、亜嵐さんを見慣れちゃってるからさ。仕方ないんだよ、きっと」
「あぁ、まあそれは否定しないけど。でもでもっ! あのルックスじゃ、王子様っていうより雰囲気イケメンくらいが妥当じゃない?」
「プッ!」
雰囲気イケメン――なるほど、言い得て妙だ。ハンサムでないとまでは言わないが、少し垂れた目と柔和な笑顔が、容貌以上に好印象を与えているとは思う。人を外見で判断することの是非を抜きにしてぶっちゃければ、若槻晴人という人を王子様と呼ぶとしたら、それは亜嵐さんとは別方向の評価によるものだろう。
「ねえ、白石さん。王子様の話はともかく雰囲気イケメンなんて言ったこと、亜嵐さんには絶対内緒だよ?」
「モチロンよ! 師匠ってばあのセンセに心酔してるみたいだし、外見の話したなんて知られたら、もんのすごい軽蔑の目を向けてくるからね」
白石さんは両手の指で目をこじ開け、キュッと横へ引っ張った。どうやら亜嵐さんの睨みを再現しているらしい。その顔で周囲をキョロキョロ見回し、それから「ふん!」と息巻いた。
「さてさて、それで。その王子様との面会とやらは、どんなだったのやら、よね」
夕風にさやさやと葉を揺らすメタセコイアを見上げて、俺と白石さんはニッと笑った。
チリンチリン。
「翠さん、こんばんは~」
「美緒ちゃん、藤宮くん。いらっしゃい」
柔らかな笑みに迎えられた途端、モヤモヤしていた胸の内がストンと落ち着いた。店内に漂う紅茶の香りと、ゆったり流れる時間の感覚。この店と翠さんの存在は、常連客にとって一種の安定剤なのだ。
「こんばんは、翠さん。亜嵐さんは二階ですよね?」
「ええ。あなたたちが来るのを、首を長~くして待ってるわよ」
肩を竦めてクスクスと笑うと、翠さんは「すぐに紅茶とケーキを持っていきますからね」と言って厨房へ入っていった。俺と白石さんはその後をついてバックヤードに足を踏み入れ、最奥にひっそりと存在する二階への扉を開いた。
「亜嵐さん、失礼します」
重厚な木製のドアをノックすると、扉の向こうから「どうぞ」と返ってくる。部屋に入ると、亜嵐さんは窓の近くに立って暮れてゆく空を見ていた。その表情には普段にはない充足感が漂っていて、なぜだか胸がチクリとした。
「しっしょ~! 王子様との謁見はどうでしたか?」
「王子様? 何のことだ」
白石さんが努めて明るく声をかける。怪訝な表情でこちらを振り返った亜嵐さんに、俺は林さんから聞いた『王子様を囲む会』について説明した。すると亜嵐さんは興味があるのかないのかわからない様子で、「ほう」と呟いて口元に手を当てた。
「博士が王子様か。確かに話をしながら、印象操作に長けているのは感じたが……なるほどな」
「亜嵐さ……」
印象操作という言葉に引っ掛かりを感じて言い募ろうとすると、亜嵐さんは手を翳して俺の言葉を遮った。
「ところで湊。君たちの大学では、十月に学園祭が行われるそうだな」
「あ、はい。今年は二十三日と二十四日の二日間です」
窓から差す夕陽を受けて、榛色の瞳が深く色づく。その不思議な色に目を奪われつつ、急な話題転換に追いつけなくて、頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。白石さんも俺と同様らしく、大きく首を傾げている。
「師匠、うちの学園祭に興味なんてあるの?」
「興味というか、依頼――いや、簡単なお願いをされたんだ」
「お願い? 亜嵐さん、若槻先生と一体何を話したんですか?」
亜嵐さんは俺と白石さんにローテーブル脇のソファーを勧め、自分はデスクから引っ張ってきた執筆用チェアに陣取った。それから部屋をぐるりと見渡し小さく鼻を鳴らすと、ゆっくりと口を開いた。
***
「初めに博士に見せられたのは、長野県の鯉料理についての資料だった。ほら、先日私が書いた鮒ずしの記事が雑誌に掲載されただろう」
「あっ! あれ、面白かったですよね!」
鮒ずしは琵琶湖でとれるフナを塩漬けにして、ご飯と発酵させて作る郷土料理だ。亜嵐さんが連載している伝統料理コラムで取り上げることが決まり、俺も夏休みを利用して取材に同行させてもらったのだ。神奈川育ちで魚イコール海のイメージが強い俺にとって、淡水魚メインの食文化はとても珍しく、見るもの聞くもの食べるもの、全てが斬新だった。
「博士があの記事を読んでくださっていてな。同じ淡水魚である鯉について、まずは話をしたんだ」
「へぇ、鯉か。長野県ではどうやって食べるんですか?」
「うま煮、あらい、鯉こくあたりが主流だな。博士も召し上がられて、冬になると脂が乗って大層美味いそうだ。少々雪深いが、取材がてら行ってみるのも悪くない。湊も一緒にどうだ?」
「いいんですか!?」
亜嵐さんも俺も楽しくなって、一気に会話が弾み出す。と、膨れっ面な声がそれを止めた。
「はーい、質問! ねえ師匠、博士って若槻センセのことだよね? 鯉料理よりその呼び方の方が私は気になるんだけど」
「うん?」
白石さんに問われて、亜嵐さんは軽く目を見開いた。それから視線を俺の顔に送って「はて」と小首を傾げた。
「湊はもう知っているな?」
「何をですか?」
さっきまでクリアだった話題が、一転して濃い霧に包まれる。知っている? 俺が? 何を?
「まさか……あれからここに来るまでに、全く調べなかったのか? 若槻博士の経歴を」
全くもなにも、どうやって調べろというのか。食品学研究室の助教をやっている若い先生という認識しかないし、まさかネットを検索すれば華々しい経歴や論文が紹介されているとでも?
思ったままを口にすると、亜嵐さんは肩を落とし「……はぁ」とため息をついた。
「そういえば昼もそんなことを言っていたな。だがいくら二年生といえど、食品栄養を専攻する身であるのに、博士ほどの方を全く知らないというのも……」
「その言い方……すんごい有名人だったりする、とか?」
上目遣いの白石さんに即座に頷くと、亜嵐さんは瞳を爛々と輝かせて言葉を継いだ。
「若槻博士は――博士と呼ぶからにはもちろん博士号を取得しているわけだが、民俗学や郷土史にも造詣が深い食文化人類学の新星だ。今は日本文化をメインにしていらっしゃるが、今後は東アジアをひとつの食文化圏として研究することを希望しておられる。彼の志と進む道は、我々の業界にとって大いなる光となるだろう」
「は、はぁ」
(いや、亜嵐さん。圧がすごいです)
「論文の執筆も多く、私も新旧問わず全てに目を通しているとも。昨年発表された九州の郷土史と地方食の紐づけは、唸るほどの出来栄えだった。沖縄との文化的繋がりも細かく調べられ、本州には見られない食材や味付けに至る解説は胸のすく心地すらしたな。研究資料としても大変興味深いが、私の場合は執筆の参考文献としても」
「……えーっと、つまりすごい人なんだ。そのセンセが長野の鯉について、師匠に何を相談したの?」
「鯉?」
またしてもキョトンとして、亜嵐さんは俺たちの顔を見比べた。そして手で膝をポンと打つと、フッと笑って「そうではない」と首を振った。
「博士からお願いされたのは、リンゴについてだ」
「リンゴ?」
鯉から九州、そしてリンゴ。俺も白石さんも訳がわからず、ポカンと口を開けて固まる。すると亜嵐さんはすっと立ち上がり、デスクの上に広げていた本を取り上げた。小さな横文字がびっしり並んでいて、どうやら料理書のようだ。煤けたページのそれは、俺が世話になっているレシピ本と比べると、写真がやけに小さい。
「いや師匠。そんなの出されても私、英語読めないんで」
白石さんが諸手を挙げて降参すると、亜嵐さんはムッと顔を顰めた。
「不勉強だぞ、美緒。看護学部とはいえ語学は必修だろう」
「だって医療英語がメインだもん!」
「あの、亜嵐さん……その古い本とリンゴに何の関係が?」
学生二人の言葉に「やれやれ」と首を振ると、亜嵐さんはページの上部を指差した。
「ほらここ、アップルパイだよ。博士が長野の郷土料理に明るいのは、今、長野県のリンゴ農家から資料の提供を受けて、研究室でその郷土史を追っていらっしゃるからだ。鯉はまあ、ちょっとした寄り道だ。そして研究の中間発表を兼ねて、文化祭で郷土史のパネル展示とアップルパイの提供をしたいとお考えなのだ」
亜嵐さんが示した写真には、いやにのっぺりとした菓子が写っていた。飾り気のないタルトのような見た目で、菓子の横にはミニサイズと思しきリンゴが並んでいる。俺が知っているアップルパイとはまるで違っていて、脳が軽いバグを起こす。
「えっと……これがアップルパイ、なんですか?」
「そうだ。これこそが――イギリス式のアップルパイなのだよ」
戸惑う俺に亜嵐さんは目を光らせて――まるで獲物を見つけた狩人のような視線を向けて、挑発するような笑みを浮かべた。
三限目が終わるとすぐ、俺は林さんを探して声をかけた。彼女とは出席番号が近く、実習では大抵同じテーブルになる。話しやすいし、班ではいつもリーダーを務める積極派だ。色々なサークルに顔を出していて人脈も広く、俺なんか太刀打ちできないくらい情報通だったりする。
「食文化王子がどうかしたの?」
「お、王子!?」
若槻先生について訊ねて、最初に飛び出した単語――『王子』に、俺はギョッとした。
「あれ、藤宮くん知らないの? 教授たちより断トツに若いし、そのうえイケメンじゃん。それで『食文化王子』とか『食品学研究室の王子様』って呼ばれて、女子学生の間では有名なんだよ」
「そ、そうなんだ」
知りたい情報とは違った方向性の実情を知り、目の前に黒いカラスが飛んだ。思わず口元がひくついたが、それを見咎めた林さんは「チッチッ」と指を振った。
「くだらないと思ったでしょ、藤宮くん。でもこれって本当の話なんだけど。三年生の後期に所属する研究室を決めるじゃない? 食品学研究室って毎年、倍率がめっちゃくちゃに高いんだよ。もちろん本気で食品学を専攻したい子もいるけど、女子学生にとって『王子様を囲む会』に入るのは一種のステータスだからね」
「囲む会……」
男の俺には完全に理解不能な世界が、こんな身近に存在していたなんて。自分の研究室が『王子様を囲む会』などと呼ばれていることを、食品学の竹本教授は知っているのだろうか。
「それってもちろん、正式名称じゃない……よね?」
恐る恐る確認すると、林さんはくりっと目を見開いて、カラカラと笑った。
「あったりまえでしょ! でも学年問わずこれだけ有名なんだから、きっと先生の耳にも入ってるよ。もちろん竹本先生の本心は知らないけど、どんな理由であれ人気がないよりマシって思ってるんじゃない?」
「そっか……そうかも、ね?」
「そうよ!」
どっと汗が噴き出した俺の背中をバンバンと叩いて、林さんはさらに解説を続けた。
若槻先生の人気の理由は、まずはその見た目。俺は一目見て「え? あれが先生?」と驚いたが、あのフワッとした雰囲気が女子受けするそうだ。そして人格面も素晴らしいのだという。いつも笑顔で物腰が柔らかく、人当たりがすこぶる良い。学生からの相談を真摯に聞いてくれて、答えるときも否定ではなく肯定から入るというのだから……
(そっか……亜嵐さんを見慣れちゃったから感じなかっただけで、確かにイケメンの部類かも)
背も高かったし、一般的には好青年の部類だ。若槻先生が聞いたら苦笑しそうなことを考えて、俺はやっと納得した。なるほど、王子様と呼べなくもない。
「で? その食文化王子がどうかしたの?」
「あっ、ううん。食堂で見かけて、ちょっと気になっただけだよ」
好奇心を隠さない林さんにそう答えると、彼女は「ふーん?」と訝るような表情を浮かべた。まさか「それ以上に麗しい男と一緒だったから、そうは感じませんでした」なんて言えるはずがない。噂好きの女子をどう撒こうか考えていると、四限目の開始を告げるチャイムが鳴った。
「本当にそれだけ? 何かあるならケチケチしないで教えてよね?」
林さんは不完全燃焼と言わんばかりに顔をしかめ、渋々自分の席に戻っていった。
***
「は? 王子様!? ちょっ……どんな設定よ、それ!?」
赤く染まった住宅街を並んで歩きながら、白石さんは素っ頓狂な声を上げた。彼女の反応は至極真っ当だと思う、俺だってカラスが飛ぶほど驚き呆れたのだから。
「とにかく女子人気がすごいんだってさ。昼もほら、女の人たちを引き連れてたし。それと研究室は『王子様を囲む会』って呼ばれてるらしいよ」
「囲む会……栄養学部の女子、童話の読みすぎじゃないの? それにしたって、うーん……そんなにキラキラしてたっけ?」
バッグを肩掛けにして腕を組む白石さんに、思わず苦笑する。感想も思考回路も俺と全く同じではないか。
「外見については、だって俺たち、亜嵐さんを見慣れちゃってるからさ。仕方ないんだよ、きっと」
「あぁ、まあそれは否定しないけど。でもでもっ! あのルックスじゃ、王子様っていうより雰囲気イケメンくらいが妥当じゃない?」
「プッ!」
雰囲気イケメン――なるほど、言い得て妙だ。ハンサムでないとまでは言わないが、少し垂れた目と柔和な笑顔が、容貌以上に好印象を与えているとは思う。人を外見で判断することの是非を抜きにしてぶっちゃければ、若槻晴人という人を王子様と呼ぶとしたら、それは亜嵐さんとは別方向の評価によるものだろう。
「ねえ、白石さん。王子様の話はともかく雰囲気イケメンなんて言ったこと、亜嵐さんには絶対内緒だよ?」
「モチロンよ! 師匠ってばあのセンセに心酔してるみたいだし、外見の話したなんて知られたら、もんのすごい軽蔑の目を向けてくるからね」
白石さんは両手の指で目をこじ開け、キュッと横へ引っ張った。どうやら亜嵐さんの睨みを再現しているらしい。その顔で周囲をキョロキョロ見回し、それから「ふん!」と息巻いた。
「さてさて、それで。その王子様との面会とやらは、どんなだったのやら、よね」
夕風にさやさやと葉を揺らすメタセコイアを見上げて、俺と白石さんはニッと笑った。
チリンチリン。
「翠さん、こんばんは~」
「美緒ちゃん、藤宮くん。いらっしゃい」
柔らかな笑みに迎えられた途端、モヤモヤしていた胸の内がストンと落ち着いた。店内に漂う紅茶の香りと、ゆったり流れる時間の感覚。この店と翠さんの存在は、常連客にとって一種の安定剤なのだ。
「こんばんは、翠さん。亜嵐さんは二階ですよね?」
「ええ。あなたたちが来るのを、首を長~くして待ってるわよ」
肩を竦めてクスクスと笑うと、翠さんは「すぐに紅茶とケーキを持っていきますからね」と言って厨房へ入っていった。俺と白石さんはその後をついてバックヤードに足を踏み入れ、最奥にひっそりと存在する二階への扉を開いた。
「亜嵐さん、失礼します」
重厚な木製のドアをノックすると、扉の向こうから「どうぞ」と返ってくる。部屋に入ると、亜嵐さんは窓の近くに立って暮れてゆく空を見ていた。その表情には普段にはない充足感が漂っていて、なぜだか胸がチクリとした。
「しっしょ~! 王子様との謁見はどうでしたか?」
「王子様? 何のことだ」
白石さんが努めて明るく声をかける。怪訝な表情でこちらを振り返った亜嵐さんに、俺は林さんから聞いた『王子様を囲む会』について説明した。すると亜嵐さんは興味があるのかないのかわからない様子で、「ほう」と呟いて口元に手を当てた。
「博士が王子様か。確かに話をしながら、印象操作に長けているのは感じたが……なるほどな」
「亜嵐さ……」
印象操作という言葉に引っ掛かりを感じて言い募ろうとすると、亜嵐さんは手を翳して俺の言葉を遮った。
「ところで湊。君たちの大学では、十月に学園祭が行われるそうだな」
「あ、はい。今年は二十三日と二十四日の二日間です」
窓から差す夕陽を受けて、榛色の瞳が深く色づく。その不思議な色に目を奪われつつ、急な話題転換に追いつけなくて、頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。白石さんも俺と同様らしく、大きく首を傾げている。
「師匠、うちの学園祭に興味なんてあるの?」
「興味というか、依頼――いや、簡単なお願いをされたんだ」
「お願い? 亜嵐さん、若槻先生と一体何を話したんですか?」
亜嵐さんは俺と白石さんにローテーブル脇のソファーを勧め、自分はデスクから引っ張ってきた執筆用チェアに陣取った。それから部屋をぐるりと見渡し小さく鼻を鳴らすと、ゆっくりと口を開いた。
***
「初めに博士に見せられたのは、長野県の鯉料理についての資料だった。ほら、先日私が書いた鮒ずしの記事が雑誌に掲載されただろう」
「あっ! あれ、面白かったですよね!」
鮒ずしは琵琶湖でとれるフナを塩漬けにして、ご飯と発酵させて作る郷土料理だ。亜嵐さんが連載している伝統料理コラムで取り上げることが決まり、俺も夏休みを利用して取材に同行させてもらったのだ。神奈川育ちで魚イコール海のイメージが強い俺にとって、淡水魚メインの食文化はとても珍しく、見るもの聞くもの食べるもの、全てが斬新だった。
「博士があの記事を読んでくださっていてな。同じ淡水魚である鯉について、まずは話をしたんだ」
「へぇ、鯉か。長野県ではどうやって食べるんですか?」
「うま煮、あらい、鯉こくあたりが主流だな。博士も召し上がられて、冬になると脂が乗って大層美味いそうだ。少々雪深いが、取材がてら行ってみるのも悪くない。湊も一緒にどうだ?」
「いいんですか!?」
亜嵐さんも俺も楽しくなって、一気に会話が弾み出す。と、膨れっ面な声がそれを止めた。
「はーい、質問! ねえ師匠、博士って若槻センセのことだよね? 鯉料理よりその呼び方の方が私は気になるんだけど」
「うん?」
白石さんに問われて、亜嵐さんは軽く目を見開いた。それから視線を俺の顔に送って「はて」と小首を傾げた。
「湊はもう知っているな?」
「何をですか?」
さっきまでクリアだった話題が、一転して濃い霧に包まれる。知っている? 俺が? 何を?
「まさか……あれからここに来るまでに、全く調べなかったのか? 若槻博士の経歴を」
全くもなにも、どうやって調べろというのか。食品学研究室の助教をやっている若い先生という認識しかないし、まさかネットを検索すれば華々しい経歴や論文が紹介されているとでも?
思ったままを口にすると、亜嵐さんは肩を落とし「……はぁ」とため息をついた。
「そういえば昼もそんなことを言っていたな。だがいくら二年生といえど、食品栄養を専攻する身であるのに、博士ほどの方を全く知らないというのも……」
「その言い方……すんごい有名人だったりする、とか?」
上目遣いの白石さんに即座に頷くと、亜嵐さんは瞳を爛々と輝かせて言葉を継いだ。
「若槻博士は――博士と呼ぶからにはもちろん博士号を取得しているわけだが、民俗学や郷土史にも造詣が深い食文化人類学の新星だ。今は日本文化をメインにしていらっしゃるが、今後は東アジアをひとつの食文化圏として研究することを希望しておられる。彼の志と進む道は、我々の業界にとって大いなる光となるだろう」
「は、はぁ」
(いや、亜嵐さん。圧がすごいです)
「論文の執筆も多く、私も新旧問わず全てに目を通しているとも。昨年発表された九州の郷土史と地方食の紐づけは、唸るほどの出来栄えだった。沖縄との文化的繋がりも細かく調べられ、本州には見られない食材や味付けに至る解説は胸のすく心地すらしたな。研究資料としても大変興味深いが、私の場合は執筆の参考文献としても」
「……えーっと、つまりすごい人なんだ。そのセンセが長野の鯉について、師匠に何を相談したの?」
「鯉?」
またしてもキョトンとして、亜嵐さんは俺たちの顔を見比べた。そして手で膝をポンと打つと、フッと笑って「そうではない」と首を振った。
「博士からお願いされたのは、リンゴについてだ」
「リンゴ?」
鯉から九州、そしてリンゴ。俺も白石さんも訳がわからず、ポカンと口を開けて固まる。すると亜嵐さんはすっと立ち上がり、デスクの上に広げていた本を取り上げた。小さな横文字がびっしり並んでいて、どうやら料理書のようだ。煤けたページのそれは、俺が世話になっているレシピ本と比べると、写真がやけに小さい。
「いや師匠。そんなの出されても私、英語読めないんで」
白石さんが諸手を挙げて降参すると、亜嵐さんはムッと顔を顰めた。
「不勉強だぞ、美緒。看護学部とはいえ語学は必修だろう」
「だって医療英語がメインだもん!」
「あの、亜嵐さん……その古い本とリンゴに何の関係が?」
学生二人の言葉に「やれやれ」と首を振ると、亜嵐さんはページの上部を指差した。
「ほらここ、アップルパイだよ。博士が長野の郷土料理に明るいのは、今、長野県のリンゴ農家から資料の提供を受けて、研究室でその郷土史を追っていらっしゃるからだ。鯉はまあ、ちょっとした寄り道だ。そして研究の中間発表を兼ねて、文化祭で郷土史のパネル展示とアップルパイの提供をしたいとお考えなのだ」
亜嵐さんが示した写真には、いやにのっぺりとした菓子が写っていた。飾り気のないタルトのような見た目で、菓子の横にはミニサイズと思しきリンゴが並んでいる。俺が知っているアップルパイとはまるで違っていて、脳が軽いバグを起こす。
「えっと……これがアップルパイ、なんですか?」
「そうだ。これこそが――イギリス式のアップルパイなのだよ」
戸惑う俺に亜嵐さんは目を光らせて――まるで獲物を見つけた狩人のような視線を向けて、挑発するような笑みを浮かべた。
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