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第九話 トライアングル
文系棟の出店をひと通り楽しんでから、俺たちは遊歩道を渡って理系棟に移動した。こちらは大々的な宣伝をしていないし、お祭り感が薄く人出も少ない。しかし学術系の展示が多いため、見学者の顔ぶれは実に様々だ。
その一人だろう、遊歩道脇の掲示板を、恰幅の良い初老の男性が眺めている。亜嵐さんはふとその男性に目を留めた。
「あれは確か……あぁ、あかつき出版の部長だったか」
出版社の部長――仕事の付き合いがあるということか。
「挨拶しますよね、俺たち離れたほうがいいですか?」
「いや、その必要はない。あの人物が手掛けるのはソーイング系の部門で、最近はパターンのサイトを運営しているはずだ。私の専門分野とは接点もないし、ビルのロビーで数回見かけた程度だからな」
あちらが気がつく様子もないのだしと、俺たちはそっと後ろを通り抜けた。
エントランスが見える位置まで来たところで、白石さんが亜嵐さんのジャケットの裾を摘まんだ。
「ねえ師匠、パターンって何?」
「布に当てて使う型紙のことだ。文化祭に顔を出すくらいだから、被服科の教授と繋がりでもあるんだろう」
「あーはいはい、裁縫ね。懐かしいな、中学の家庭科でやったっけ」
さほど懐かしんでもいない棒読みに、亜嵐さんが小さく突っ込む。
「出来は聞かん、武士の情けだ」
「そりゃどうも、ご配慮痛み入ります」
さっぱりとしたやり取りをしている間に、理系棟の入り口に到着した。開放された正面玄関には誰もおらず、平常時にはない机が置かれている。その上に建物の見取り図と、各研究室の概要が束になって置かれていた。
「やっとだな。私はこういう展示を期待していたのだ」
「ふ~んなるほどね。もしかしたら、ビジネスチャンスが見つかるかも?」
案内にザッと目を通した亜嵐さんとオリーさんは、瞬時に目の色を変えた。二人の唇が興味深そうに弧を描く。その様子を見ただけで、俺の心臓はドクドクと激しく脈打った。
(これがこの人たちの――本気の大人の顔なんだ)
「ねえ師匠、今日は翠さんも来るんですよね?」
白石さんの明るい声が、一瞬の緊張を破る。途端、俺は自分が今どこにいるかを思い出した。しなやかな指からピッとチラシを奪うと、白石さんは白皙の美貌を覗き込んだ。
「ああ。午後は店を閉めると言っていたから、もう展示室にいるんじゃないか?」
「そうなの!? じゃあ急がなきゃ、こんなところでグズグズしてらんない。ほらほらみんな、若槻センセの研究室にレッツ・ゴー!」
白石さんの言葉に、全員が頷く。なにはともあれ、翠さんと合流しなければ。亜嵐さんとオリーさんの手を引く白石さんに続いて、俺は通い慣れた栄養学部エリアに足を踏み入れた。
***
「えっと、二A四教室か。こっちだよ」
チラシの中から『食品学研究室』の文字を探す。二階の渡り廊下手前にある広めの教室だった。俺は三人を案内して、目当ての教室の扉を開けた。
「いらっしゃいませ――あ、藤宮くんだ!」
「こんにちは」
王子様を囲む会のリーダー格の先輩が、入ってすぐの場所でリーフレットを配っていた。翠さんのアップルパイ講座で、いろいろ話を聞かせてくれた人だ。若槻先生目当てのミーハーかと思いきや実は全然そんなんじゃなくて、俺はものすごくビックリした。
「元々料理が好きでね、じゃあ栄養士なんてどう? って単純な動機だったんだよね、この学部を選んだのは。でも勉強していくうちに、私には病院栄養士って向いてないなーって感じてきて。それよりも『食』そのものを文化的に掘ってみたくなったの。若槻先生はその辺りすごく詳しいから、四年生の今が一番大学生活を楽しんでるよ」
「じゃあ卒業後は栄養士以外の仕事を?」
「うん、食品会社から内定もらってるんだ。マーケティング部門への配属を希望してるけど、どうなるかな」
「そう、なんだ……」
次の言葉が見つからない俺に、先輩は優しく微笑んだ。
「藤宮くんはまだ二年生の後期が始まったばかりじゃない。専攻の授業、増えたよね。でもそんなもんじゃないよ? 三年になると実習がバンバン入って目が回って、でもその中でしか見えてこないものがある。だからね、先のことは先の自分に任せて。今からガチガチに考えをまとめなくていいと思うよ?」
「……そんなものですか?」
「そんなもの! だ~いじょうぶ、なるようになるって!」
そんな話をしてくれた先輩は、リーフレットをこちらへ渡すと、教室の奥に向かって声をかけた。
「若槻せんせーい! 藤宮くんたち来てくれましたよー!」
「はーい!」
教室奥のパネルの陰から、白衣を着た助教がぴょこっと頭を出した。他の誰かの声も聞こえるから、パネル裏の一角を歓談スペースにしているらしい。
「みんな、いらっしゃい」
とことこと教室を横切り、目尻を下げて人好きのする笑みを浮かべると、先生は教卓の前に立つ女生徒をちょいちょいと手招きした。
「取り置き分を渡してあげて」
「はい」
肩までの黒髪をピンでぴったりと留めた女生徒が、トレーを手に近づいてくる。調理の手順を動画に撮っていた研究生だ。リーダー格の先輩曰く「クールで卒のない、ミス・パーフェクトなんだよ」らしい。差し出されたトレーには、四つのアップルパイが乗っている。
「すごく好評で、午前中の早い時間に売り切れてしまったの。先に除けておいて正解だったわ」
「わぁい! ありがとうございま~す!」
白石さんが手に取ったパイは、リンゴのイラストがついたワックスペーパーに巻かれている。持ち歩くための工夫だ。そして肝心のパイはというと。
「この三角形が楽しいよね。端っこの生地はザクって食感がいいし、リンゴのところはバターの香りと甘酸っぱさがマッチして、ほっぺたが落ちそうんだもん」
そう、アップルパイは三角形に成形してあるのだ。表面は卵液でツヤツヤには仕上げず、牛乳を塗ることで軽く照りを出す程度に抑えてある。田舎風の見た目でありながら、白いアイシングを細く垂らしていて、ちょっとしたオシャレ感も演出しているのが心憎い。
「本当にローズメリーの皆さんには感謝だよ。僕が知る限り、こんなに早く完売したことはないからね」
若槻先生はムフン! と満足そうに胸を張った。先輩方も嬉しそうに頷き合っている。彼らの文化祭は大成功を収めたのだ。関わった者として、こんなに誇らしいことはない。
「センセ、ここで食べてもいいんだよね?」
「もちろん。どうぞ召し上がれ」
待ちきれないとばかりにパクついた白石さんに続き、俺もがぶりとパイをかじる。ラフパフほどの層はないが、ショートクラストよりパイらしい食感が出るようにと調整した生地は、適度に歯ごたえがあって口の中でホロホロと崩れていく。そして生地の中から出てきたリンゴのコンポートは、目にも鮮やかな赤色――皮と一緒に煮込むことで、秋映の色を存分に生かしたのだ。
「このアジアっぽい匂い、なんだったっけ?」
ひと口目をゴクリと飲み込んで、白石さんが首を傾げる。
「スターアニス、日本では八角とも呼ばれるな。中華料理で馴染みのスパイスだが、西洋では甘い香りを利用して焼き菓子にも使われる」
亜嵐さんの解説に、若槻先生はうんうんと頷いている。翠さんの試作品を先生が高く評価したのは、形だけでなくこの香りもあったからだ。
「シナモンじゃないところが洒落てるんですよねぇ。豚の角煮に使うあれが、アップルパイにこんなに合うなんて。僕、目からウロコがボロボロ落ちましたもん」
「とはいえ、利かせれば良いというものではありません。スターアニスは香りの強いスパイスです。微かに香る程度だから、リンゴの風味を損なわずに済んでいるのです。その辺りの塩梅は、さすが翠さんと言うべきでしょう」
「そうですとも、西園寺さんのおっしゃる通りです」
そんな会話を聞きながら、最後のひと欠片までパイを味わう。食後は各々でパネルを見て回った。亜嵐さんとオリーさんはリンゴ生産地の風土記をメモし、俺は売り物にならないリンゴを使った料理についてじっくりと読んだ。白石さんは全体をさらっと眺めると、キョロキョロと辺りを見回した。
「あの、若槻センセ。翠さんはまだ来てないんですか?」
展示に興味津々な俺たちに目を細めていた先生は、「あぁ! いらっしゃってるよ」と言ってパチンと手を合わせた。そして歓談コーナーに両手の人差し指を向けた。
「今日はリンゴ農家さんも来てくれててね。アップルパイにいたく感動して、翠さんを放してくれないんだよ」
「えっ、何それ困るんですけど!?」
若槻先生の言葉に、白石さんが頬を膨らませる。対してビジネスモードの大人たちは、目の色を変えてそれに食いついた。
「農家さんが来場されているんですか?」
「ワォ! 私もお話したいな、紹介してくださいよ~!」
二人が慌ててジャケットの内ポケットを探り名刺入れを取り出すものだから、白石さんはますます顔を渋らせた。こうなってしまっては、ここから移動するのは難しい。加えて俺も、ちょっと話してみたくもある。
「翠さんもいるし、行こうよ白石さん」
「……もう、しょうがないなぁ~」
というわけで、全員で歓談コーナーにお邪魔することになった。
***
「うふふふふ~、良い人達でしたね!」
渋かった顔から一転。満面の笑みでポニーテールを揺らし、白石さんは農家さんを見送った。というのも。
「ええだに~、こんな可愛くて優しいお嬢ちゃんに看病されらぁ、病気なんて一発で治っちまうなぁ」
とか。
「リンゴは美容にもいいだに、いっぺ食べてくりょね?」
などと言われて、生産者ご夫婦から袋いっぱいのリンゴをもらったのだ。亜嵐さんは「お調子者め」と呆れていたが、翠さんはご夫婦と一緒になって「美緒ちゃんは本当にいい子だもの」と楽しそうにしていた。オリーさんはというと農場訪問の約束――もちろん亜嵐さんも同行だ――を取り付けて、早速スケジュールの調整を始めている。
「はー……すごい。ローズメリーはソーシャルおばけの集団だね。僕じゃ全然敵わないや」
「あはは、俺もそう思います。でもそれってただ図々しいんじゃなくて、努力して身に付けたものが魅力になって、相手を惹きつけてるんです」
そう返すと先生は弾かれたように顔を上げ、それから俺を――それこそ髪の一本から指先までを、まじまじと見た。
「……ふぅん、なるほどね。そういうこと、か」
「若槻先生?」
無遠慮に顔を寄せてきた若槻先生を避けようと、一歩後ずさる。けれど先生もそれに合わせて距離を詰めてくるものだから、俺はパネル際まで追いつめられた。
「ちょっ、何ですか!? 近いですって!」
背中がドン、とパネルに当たった。明日も展示があるのに、破損させてはいけないと焦って背後を確認する。その間も、先生の足は止まらない。
「先生っ!?」
「湊っ!!」
オリーさんとスケジューラーを見ていた亜嵐さんが、俺の声に気づいて慌てて駆け寄ってきてくれた。その声と足音に、獲物を狙う猫と化していた若槻先生はすっと背を伸ばした。けれどその顔はまだニヤついていて、顎に手を当ててこちらを見ている。
「大丈夫か、湊。……博士、なんの真似ですか?」
「ふふっ、いやなに。西園寺さんや翠さんが藤宮くんを気に入ってる理由、僕にもわかっちゃっただけです。すっごく興味深いなぁ~、なんて」
「……っ!」
俺の肩に置いていた亜嵐さんの手に、ギュッと力が入る。そして俺と若槻先生の間に体を割り込ませると、とげとげしい口調で食ってかかった。
「それが何だと言うんです!? 今回我々はあなたの文化祭展示に協力して、無事に成功を収めました。そしてこちらも大いに学びを得ました。めでたしめでたし、これにて解散、さようならです。それ以上でも以下でもないはずです!」
「ええ、あなたと僕はそうです。でも――藤宮くんはうちの学生なんですよ?」
亜嵐さんの背中が、緊張でグッと強張る。一体どうしたというのか、俺がこの大学の学生であることに何の問題があるんだろう。急にいがみ合い出した二人に、大いに戸惑ってしまう。
「……だから?」
「僕は今後も藤宮くんとの関係が続きます、教師と生徒として。外で誰と何を学ぶかは口出ししませんけれど、ここでは僕こそが彼を導く立場なんです。そうだよね? 藤宮くん」
「は、あの……」
「湊っ! 返事をするんじゃない!」
肩越しにヘイゼルの瞳に睨まれて、俺はキュッと首を縮めた。
「博士――いや若槻さん。たとえそれが大学内であろうと、湊はあなたの所有物ではない。好奇心を満たすための行為は職権乱用、いや、アカデミックハラスメントに該当するものだ」
「その発想は乱暴すぎやしませんか? 僕は何も押し付けたりしませんよ、いつだって学生ファーストを心がけています。有望な生徒にはそれに見合った環境を用意してやりたい、そう考えるのは教育者としてむしろ正しい在り方じゃないですかねぇ? というわけで藤宮くん、四年生で所属する研究室はもう考えてる? もしまだならうちも選択肢のひとつに入れておいてよ。君が来てくれるなら、僕、大歓迎しちゃうよ?」
「このっ、淫魔もどきが……っ!」
一触即発――目を瞑った瞬間。
「あ~、楽しい文化祭だった! 藤宮くん、師匠、そろそろキャンドルショーの場所取りに行こうよ。良い席なくなっちゃったら嫌だし。それとその前に食料もたっぷり確保しないとね! 私、アメリカンドッグ食べたいなぁ」
カラッとした声が俺と亜嵐さんを明るい世界に引き戻した。そうだ、夕方から文系キャンパスの広場で、幻想的なキャンドルショーが見られるんだった。それから……アメリカンドッグだって? 頭の中で棒に刺さった少し甘めの生地と太いウィンナーがほわんと湯気を立てる。
(パイのあとだからかな、ケチャップ味、俺も食べたいかも)
亜嵐さんはというと、一気に脱力して頭をガシガシと掻き、長く息を吐いた。
「~~~~~っ、そうだな。美緒、よくやった。アメリカンドッグは何本でも買ってよろしい。他に食べたいものは?」
「えっ、いいの!? なら焼きそばと……あっ、グルグル巻きのソーセージ! あとキャラメル味のポップコーンも追加していい?」
「承知した、好きなだけ買え!」
「やった~!!」
ピョンピョンと飛び跳ねる白石さんを横目に、亜嵐さんは冷え冷えとした表情で若槻先生を睨みつけた。
「若槻さん、教育者として節度ある行動を取られることを期待します。それではこれにて」
亜嵐さんは俺の腕を引くと、急ぎ足で教室の出口に向かった。
(……どうしたんだろう、亜嵐さん。若槻先生のこと、あんなに慕ってたのに)
視線をわずかに背後に向ける。若槻先生は亜嵐さんと言い合っていたときとは別人のように人懐こい笑みを浮かべて、こちらに手を振っていた。空いている方の手を振ろうと思ったけれど、亜嵐さんが俺の腕を掴む力の強さに、そうしてはいけないような気がする。
ちょっとだけ申し訳ない気もしたけれど、俺は亜嵐さんと一緒に理系棟を後にした。
その一人だろう、遊歩道脇の掲示板を、恰幅の良い初老の男性が眺めている。亜嵐さんはふとその男性に目を留めた。
「あれは確か……あぁ、あかつき出版の部長だったか」
出版社の部長――仕事の付き合いがあるということか。
「挨拶しますよね、俺たち離れたほうがいいですか?」
「いや、その必要はない。あの人物が手掛けるのはソーイング系の部門で、最近はパターンのサイトを運営しているはずだ。私の専門分野とは接点もないし、ビルのロビーで数回見かけた程度だからな」
あちらが気がつく様子もないのだしと、俺たちはそっと後ろを通り抜けた。
エントランスが見える位置まで来たところで、白石さんが亜嵐さんのジャケットの裾を摘まんだ。
「ねえ師匠、パターンって何?」
「布に当てて使う型紙のことだ。文化祭に顔を出すくらいだから、被服科の教授と繋がりでもあるんだろう」
「あーはいはい、裁縫ね。懐かしいな、中学の家庭科でやったっけ」
さほど懐かしんでもいない棒読みに、亜嵐さんが小さく突っ込む。
「出来は聞かん、武士の情けだ」
「そりゃどうも、ご配慮痛み入ります」
さっぱりとしたやり取りをしている間に、理系棟の入り口に到着した。開放された正面玄関には誰もおらず、平常時にはない机が置かれている。その上に建物の見取り図と、各研究室の概要が束になって置かれていた。
「やっとだな。私はこういう展示を期待していたのだ」
「ふ~んなるほどね。もしかしたら、ビジネスチャンスが見つかるかも?」
案内にザッと目を通した亜嵐さんとオリーさんは、瞬時に目の色を変えた。二人の唇が興味深そうに弧を描く。その様子を見ただけで、俺の心臓はドクドクと激しく脈打った。
(これがこの人たちの――本気の大人の顔なんだ)
「ねえ師匠、今日は翠さんも来るんですよね?」
白石さんの明るい声が、一瞬の緊張を破る。途端、俺は自分が今どこにいるかを思い出した。しなやかな指からピッとチラシを奪うと、白石さんは白皙の美貌を覗き込んだ。
「ああ。午後は店を閉めると言っていたから、もう展示室にいるんじゃないか?」
「そうなの!? じゃあ急がなきゃ、こんなところでグズグズしてらんない。ほらほらみんな、若槻センセの研究室にレッツ・ゴー!」
白石さんの言葉に、全員が頷く。なにはともあれ、翠さんと合流しなければ。亜嵐さんとオリーさんの手を引く白石さんに続いて、俺は通い慣れた栄養学部エリアに足を踏み入れた。
***
「えっと、二A四教室か。こっちだよ」
チラシの中から『食品学研究室』の文字を探す。二階の渡り廊下手前にある広めの教室だった。俺は三人を案内して、目当ての教室の扉を開けた。
「いらっしゃいませ――あ、藤宮くんだ!」
「こんにちは」
王子様を囲む会のリーダー格の先輩が、入ってすぐの場所でリーフレットを配っていた。翠さんのアップルパイ講座で、いろいろ話を聞かせてくれた人だ。若槻先生目当てのミーハーかと思いきや実は全然そんなんじゃなくて、俺はものすごくビックリした。
「元々料理が好きでね、じゃあ栄養士なんてどう? って単純な動機だったんだよね、この学部を選んだのは。でも勉強していくうちに、私には病院栄養士って向いてないなーって感じてきて。それよりも『食』そのものを文化的に掘ってみたくなったの。若槻先生はその辺りすごく詳しいから、四年生の今が一番大学生活を楽しんでるよ」
「じゃあ卒業後は栄養士以外の仕事を?」
「うん、食品会社から内定もらってるんだ。マーケティング部門への配属を希望してるけど、どうなるかな」
「そう、なんだ……」
次の言葉が見つからない俺に、先輩は優しく微笑んだ。
「藤宮くんはまだ二年生の後期が始まったばかりじゃない。専攻の授業、増えたよね。でもそんなもんじゃないよ? 三年になると実習がバンバン入って目が回って、でもその中でしか見えてこないものがある。だからね、先のことは先の自分に任せて。今からガチガチに考えをまとめなくていいと思うよ?」
「……そんなものですか?」
「そんなもの! だ~いじょうぶ、なるようになるって!」
そんな話をしてくれた先輩は、リーフレットをこちらへ渡すと、教室の奥に向かって声をかけた。
「若槻せんせーい! 藤宮くんたち来てくれましたよー!」
「はーい!」
教室奥のパネルの陰から、白衣を着た助教がぴょこっと頭を出した。他の誰かの声も聞こえるから、パネル裏の一角を歓談スペースにしているらしい。
「みんな、いらっしゃい」
とことこと教室を横切り、目尻を下げて人好きのする笑みを浮かべると、先生は教卓の前に立つ女生徒をちょいちょいと手招きした。
「取り置き分を渡してあげて」
「はい」
肩までの黒髪をピンでぴったりと留めた女生徒が、トレーを手に近づいてくる。調理の手順を動画に撮っていた研究生だ。リーダー格の先輩曰く「クールで卒のない、ミス・パーフェクトなんだよ」らしい。差し出されたトレーには、四つのアップルパイが乗っている。
「すごく好評で、午前中の早い時間に売り切れてしまったの。先に除けておいて正解だったわ」
「わぁい! ありがとうございま~す!」
白石さんが手に取ったパイは、リンゴのイラストがついたワックスペーパーに巻かれている。持ち歩くための工夫だ。そして肝心のパイはというと。
「この三角形が楽しいよね。端っこの生地はザクって食感がいいし、リンゴのところはバターの香りと甘酸っぱさがマッチして、ほっぺたが落ちそうんだもん」
そう、アップルパイは三角形に成形してあるのだ。表面は卵液でツヤツヤには仕上げず、牛乳を塗ることで軽く照りを出す程度に抑えてある。田舎風の見た目でありながら、白いアイシングを細く垂らしていて、ちょっとしたオシャレ感も演出しているのが心憎い。
「本当にローズメリーの皆さんには感謝だよ。僕が知る限り、こんなに早く完売したことはないからね」
若槻先生はムフン! と満足そうに胸を張った。先輩方も嬉しそうに頷き合っている。彼らの文化祭は大成功を収めたのだ。関わった者として、こんなに誇らしいことはない。
「センセ、ここで食べてもいいんだよね?」
「もちろん。どうぞ召し上がれ」
待ちきれないとばかりにパクついた白石さんに続き、俺もがぶりとパイをかじる。ラフパフほどの層はないが、ショートクラストよりパイらしい食感が出るようにと調整した生地は、適度に歯ごたえがあって口の中でホロホロと崩れていく。そして生地の中から出てきたリンゴのコンポートは、目にも鮮やかな赤色――皮と一緒に煮込むことで、秋映の色を存分に生かしたのだ。
「このアジアっぽい匂い、なんだったっけ?」
ひと口目をゴクリと飲み込んで、白石さんが首を傾げる。
「スターアニス、日本では八角とも呼ばれるな。中華料理で馴染みのスパイスだが、西洋では甘い香りを利用して焼き菓子にも使われる」
亜嵐さんの解説に、若槻先生はうんうんと頷いている。翠さんの試作品を先生が高く評価したのは、形だけでなくこの香りもあったからだ。
「シナモンじゃないところが洒落てるんですよねぇ。豚の角煮に使うあれが、アップルパイにこんなに合うなんて。僕、目からウロコがボロボロ落ちましたもん」
「とはいえ、利かせれば良いというものではありません。スターアニスは香りの強いスパイスです。微かに香る程度だから、リンゴの風味を損なわずに済んでいるのです。その辺りの塩梅は、さすが翠さんと言うべきでしょう」
「そうですとも、西園寺さんのおっしゃる通りです」
そんな会話を聞きながら、最後のひと欠片までパイを味わう。食後は各々でパネルを見て回った。亜嵐さんとオリーさんはリンゴ生産地の風土記をメモし、俺は売り物にならないリンゴを使った料理についてじっくりと読んだ。白石さんは全体をさらっと眺めると、キョロキョロと辺りを見回した。
「あの、若槻センセ。翠さんはまだ来てないんですか?」
展示に興味津々な俺たちに目を細めていた先生は、「あぁ! いらっしゃってるよ」と言ってパチンと手を合わせた。そして歓談コーナーに両手の人差し指を向けた。
「今日はリンゴ農家さんも来てくれててね。アップルパイにいたく感動して、翠さんを放してくれないんだよ」
「えっ、何それ困るんですけど!?」
若槻先生の言葉に、白石さんが頬を膨らませる。対してビジネスモードの大人たちは、目の色を変えてそれに食いついた。
「農家さんが来場されているんですか?」
「ワォ! 私もお話したいな、紹介してくださいよ~!」
二人が慌ててジャケットの内ポケットを探り名刺入れを取り出すものだから、白石さんはますます顔を渋らせた。こうなってしまっては、ここから移動するのは難しい。加えて俺も、ちょっと話してみたくもある。
「翠さんもいるし、行こうよ白石さん」
「……もう、しょうがないなぁ~」
というわけで、全員で歓談コーナーにお邪魔することになった。
***
「うふふふふ~、良い人達でしたね!」
渋かった顔から一転。満面の笑みでポニーテールを揺らし、白石さんは農家さんを見送った。というのも。
「ええだに~、こんな可愛くて優しいお嬢ちゃんに看病されらぁ、病気なんて一発で治っちまうなぁ」
とか。
「リンゴは美容にもいいだに、いっぺ食べてくりょね?」
などと言われて、生産者ご夫婦から袋いっぱいのリンゴをもらったのだ。亜嵐さんは「お調子者め」と呆れていたが、翠さんはご夫婦と一緒になって「美緒ちゃんは本当にいい子だもの」と楽しそうにしていた。オリーさんはというと農場訪問の約束――もちろん亜嵐さんも同行だ――を取り付けて、早速スケジュールの調整を始めている。
「はー……すごい。ローズメリーはソーシャルおばけの集団だね。僕じゃ全然敵わないや」
「あはは、俺もそう思います。でもそれってただ図々しいんじゃなくて、努力して身に付けたものが魅力になって、相手を惹きつけてるんです」
そう返すと先生は弾かれたように顔を上げ、それから俺を――それこそ髪の一本から指先までを、まじまじと見た。
「……ふぅん、なるほどね。そういうこと、か」
「若槻先生?」
無遠慮に顔を寄せてきた若槻先生を避けようと、一歩後ずさる。けれど先生もそれに合わせて距離を詰めてくるものだから、俺はパネル際まで追いつめられた。
「ちょっ、何ですか!? 近いですって!」
背中がドン、とパネルに当たった。明日も展示があるのに、破損させてはいけないと焦って背後を確認する。その間も、先生の足は止まらない。
「先生っ!?」
「湊っ!!」
オリーさんとスケジューラーを見ていた亜嵐さんが、俺の声に気づいて慌てて駆け寄ってきてくれた。その声と足音に、獲物を狙う猫と化していた若槻先生はすっと背を伸ばした。けれどその顔はまだニヤついていて、顎に手を当ててこちらを見ている。
「大丈夫か、湊。……博士、なんの真似ですか?」
「ふふっ、いやなに。西園寺さんや翠さんが藤宮くんを気に入ってる理由、僕にもわかっちゃっただけです。すっごく興味深いなぁ~、なんて」
「……っ!」
俺の肩に置いていた亜嵐さんの手に、ギュッと力が入る。そして俺と若槻先生の間に体を割り込ませると、とげとげしい口調で食ってかかった。
「それが何だと言うんです!? 今回我々はあなたの文化祭展示に協力して、無事に成功を収めました。そしてこちらも大いに学びを得ました。めでたしめでたし、これにて解散、さようならです。それ以上でも以下でもないはずです!」
「ええ、あなたと僕はそうです。でも――藤宮くんはうちの学生なんですよ?」
亜嵐さんの背中が、緊張でグッと強張る。一体どうしたというのか、俺がこの大学の学生であることに何の問題があるんだろう。急にいがみ合い出した二人に、大いに戸惑ってしまう。
「……だから?」
「僕は今後も藤宮くんとの関係が続きます、教師と生徒として。外で誰と何を学ぶかは口出ししませんけれど、ここでは僕こそが彼を導く立場なんです。そうだよね? 藤宮くん」
「は、あの……」
「湊っ! 返事をするんじゃない!」
肩越しにヘイゼルの瞳に睨まれて、俺はキュッと首を縮めた。
「博士――いや若槻さん。たとえそれが大学内であろうと、湊はあなたの所有物ではない。好奇心を満たすための行為は職権乱用、いや、アカデミックハラスメントに該当するものだ」
「その発想は乱暴すぎやしませんか? 僕は何も押し付けたりしませんよ、いつだって学生ファーストを心がけています。有望な生徒にはそれに見合った環境を用意してやりたい、そう考えるのは教育者としてむしろ正しい在り方じゃないですかねぇ? というわけで藤宮くん、四年生で所属する研究室はもう考えてる? もしまだならうちも選択肢のひとつに入れておいてよ。君が来てくれるなら、僕、大歓迎しちゃうよ?」
「このっ、淫魔もどきが……っ!」
一触即発――目を瞑った瞬間。
「あ~、楽しい文化祭だった! 藤宮くん、師匠、そろそろキャンドルショーの場所取りに行こうよ。良い席なくなっちゃったら嫌だし。それとその前に食料もたっぷり確保しないとね! 私、アメリカンドッグ食べたいなぁ」
カラッとした声が俺と亜嵐さんを明るい世界に引き戻した。そうだ、夕方から文系キャンパスの広場で、幻想的なキャンドルショーが見られるんだった。それから……アメリカンドッグだって? 頭の中で棒に刺さった少し甘めの生地と太いウィンナーがほわんと湯気を立てる。
(パイのあとだからかな、ケチャップ味、俺も食べたいかも)
亜嵐さんはというと、一気に脱力して頭をガシガシと掻き、長く息を吐いた。
「~~~~~っ、そうだな。美緒、よくやった。アメリカンドッグは何本でも買ってよろしい。他に食べたいものは?」
「えっ、いいの!? なら焼きそばと……あっ、グルグル巻きのソーセージ! あとキャラメル味のポップコーンも追加していい?」
「承知した、好きなだけ買え!」
「やった~!!」
ピョンピョンと飛び跳ねる白石さんを横目に、亜嵐さんは冷え冷えとした表情で若槻先生を睨みつけた。
「若槻さん、教育者として節度ある行動を取られることを期待します。それではこれにて」
亜嵐さんは俺の腕を引くと、急ぎ足で教室の出口に向かった。
(……どうしたんだろう、亜嵐さん。若槻先生のこと、あんなに慕ってたのに)
視線をわずかに背後に向ける。若槻先生は亜嵐さんと言い合っていたときとは別人のように人懐こい笑みを浮かべて、こちらに手を振っていた。空いている方の手を振ろうと思ったけれど、亜嵐さんが俺の腕を掴む力の強さに、そうしてはいけないような気がする。
ちょっとだけ申し訳ない気もしたけれど、俺は亜嵐さんと一緒に理系棟を後にした。
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写真の女は、たしかに目を引いた。オートクチュールのドレスをまとい、フロアの中央で水蛇みたいに身をくねらせている。周りでは二世の坊ちゃんたちがグラスを掲げ、面白がってはやし立てていた。
私はバーカウンターでロングアイランド・アイスティーを頼み、静かに見物するつもりで腰を下ろした。ところが彼女は赤ワインのグラスを手に、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「あなたが佳奈さん? 藤堂家が地方から見つけ出した、本当の娘さんなんですってね。蓮司さんに頼まれて、あれを届けに来たんでしょう? 品物は? どうしてここでお酒なんか飲んでいるの?」
私は一瞬、反応が遅れた。人違いだと手を振ろうとした瞬間、彼女はいきなり私の手首をつかみ、そのまま自分から床へ崩れ落ちた。
がつん、と乾いた音がした。彼女の腕につけられていたパテックフィリップの文字盤がテーブルの角にぶつかり、見事にひび割れる。
顔を上げた彼女の目には、もう涙が浮かんでいた。ラウンジの照明より早い演技だった。
「佳奈さん……私のことが気に入らないのはわかっています。でも、どうして時計まで壊すんですか。蓮司さんが誕生日のために、わざわざスイスから取り寄せてくれたものなのに。どうしても私が邪魔なら、私が身を引きます」
あまりの展開に、私は言葉を失った。手元のグラスから酒がこぼれ、床に広がる。
深夜に避妊具を届けに来た、哀れな正妻?
冗談じゃない。
私は昨日、日本有数の財閥会長、神崎清隆と入籍したばかりだ。立場でいえば、神崎蓮司の継母である。
あなた専属になります~借金OLは副社長の「専属」にされた~【オリジナル】
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。