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番外章:モジュレーション:零れ落ちた七楽章
第二楽章:遁走曲(フーガ):共犯者という名の墜落,昏き執着、闇色の支配
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石小路家を去って以来、真翠は煌人を完全に拒絶していた。電話は繋がらず、Lineは既読のまま。煌人は自分が狂いそうだと感じていた。謝りたかった。あの時、彼女を失う恐怖で理性が焼き切れていたのだと、本当の心を伝えたかった。
しかし、この三日間の煌人は九条グループとの商談に忙殺されていた。相手は大学の二学年上の先輩であり、次期当主の九条遥。かつて九条は、煌人を直々にグループへ勧誘したことがある。当時は「スタートアップで経験を積みたい」と殊勝な顔で断ったが、本音は違った。あまりに高すぎる九条の門を、学生の身分で真翠を連れて越える自信がなかったのだ。
そして今、九条は煌人をプロジェクトの責任者に抜擢してくれた。九条は謙虚な人柄だが、何より「公私混同」を嫌う。商談を疎かにはできない。煌人は焦燥感に焼かれながら、わずかな合間を縫って真翠に連絡を入れ続けたが、梨の礫だった。
水曜日の昼前、資料の修正のために会社へ戻ると、技術部のリフレッシュルームから清らかな笑い声が漏れてきた。
少しだけ隙間の空いたドア。 そこから聞こえる真翠の声に、煌人はひび割れた心に水が染み込むような救いを感じた。「今の彼女なら、機嫌がいいのかもしれない」——そんな淡い期待を抱き、ドアノブに手をかけようとした、その時だ。
「……じゃあ、真翠先輩は星野組長と付き合ってるわけじゃないんですか?」
聞き覚えのある後輩の声が、煌人の動きを凍りつかせた。
「ええ、ただの同級生よ」
迷いのない、真翠のきっぱりとした声が、ドアを抜けて煌人の鼓膜を刺した。
「タイプ? そうね……。紳士的で、余裕があって、いざという時にちゃんと引っ張ってくれるような大人の男性かな。年齢も、二、三歳上が理想かも」
ドアノブに置かれた手から、一気に力が抜けていく。今の自分には、その扉を押し開ける勇気なんて一欠片も残っていなかった。
(……二、三歳上で、余裕のある、大人の男)
脳裏に、ある男の顔が鮮明に浮かび上がる。九条遥。 真翠が口にした理想をそのまま形にしたような、完璧な先輩。
(……絶対に、彼女を九条さんに引き合わせるわけにはいかない)
九条に対する尊敬の念は、一瞬でどす黒い危機感へと変貌した。煌人は逃げるように、音を殺してその場を去った。
一方、遠ざかっていく聞き慣れた足音を背中で聞きながら、真翠は心の中で静かに、そして冷徹に幕を下ろした。
(星野煌人。私たち、ここまでにしましょう)
彼女は、プライドの高い彼なら、今の言葉を聞いて潔く身を引くはずだと思っていた。だが、彼女は知らなかった。煌人の執着が、もはや狂気に近いほど深く、根深いものであることを。
終業時刻、真翠のスマホが震えた。届いたのは一通のメッセージ。
『駐車場に来い。来ないなら、今すぐお前の家に行って、両親に俺たちの関係をすべてぶちまける』
スマホを握りしめる手に力がこもる。なんて卑劣な男。両親を盾に取るなんて。真翠は苦い思いを呑み込み、重い足取りで駐車場へと向かった。
夕闇の中、ライラックブルーのSUVが、そこだけ異質に浮いて見えた。
真翠は怒りに震えながらドアに手をかけたが、運転席で目を閉じている煌人の姿を見て、言葉を失った。
彼の顔は幽霊のように蒼白で、唇は血の気が引いて青ざめている。
「……煌人、具合が悪いの?」
怒りよりも先に、心配が口をついて出た。
まさか、事ここに至ってもなお、真翠が自分を案じてくれるなんて。
煌人は不意を突かれたように目を開けた。その瞬間、胸の奥が焼けるように疼く。耳の奥で、十七歳の真翠の声がリフレインした。あの日も、彼女はこんなふうに自分を気遣ってくれた。すべては、彼女のその無意識の優しさから始まったのだ。
煌人は必死に意識を繋ぎ止め、震える声で唐突に問いかけた。
「……俺じゃ、ダメなのか? 真翠」
「……え?」
真翠の戸惑いに、煌人は自嘲気味な溜息をついて話題を切り替えた。
「真翠、もう俺を避けるな。責任は取る」
だが、その言葉は彼が期待したような救いにはならなかった。真翠は感情の消えた声で、突き放すように言った。
「いらない」
「……でも、お前、初めてだったんだろ?」
「そんなこと、あなたも同じでしょう? なかったことにしてください。お互い様なんですから」
そのあまりにも事務的で冷徹な響きに、煌人の胸に鋭い痛みが走る。
「真翠……」
すがるようにその名を呼んだ彼を、彼女の鋭い言葉が遮った。
「呼ばないで」
星野煌人、という存在そのものを拒絶するような響き。
煌人は怒りと悲しみ、そして言いようのない焦燥感に突き動かされた。だが、今の自分に彼女を責める資格があるのかと自問し、かろうじて言葉を飲み込んだ。
「星野煌人、二度と私の親を脅さないで。次やったら、あなたが話す前に私から全てぶちまけてやるわ。私なら本当にやるってこと、分かっているでしょう?」
真翠の瞳には、かつてないほど鋭い拒絶の光が宿っていた。
「……ああ、分かっているよ」
これ以上の対話を拒むように、真翠がドアノブを引く。だが、その手を煌人の強引な力が遮った。
「じゃあ、あの三十人の見合い相手はどうするつもりだ?」
「自分で解決する」
「真翠、俺たちの関係をただの『取引』だと思っているのか? 違う……俺たちは共犯者だ」
「……何を言っているの?」
煌人は逃げ場を塞ぐように畳みかける。
「ここでお前が降りれば、お前は一人で三十人の男と向き合い、品定めされることになる。両親も心配し続けるだろう。……だが、俺と一緒に来れば、両親は安心するし、お前ももう誰かに振り回される必要はなくなる。……どっちを選ぶ?」
ドアノブにかけていた真翠の手が、ぴたりと止まった。
彼女はうつむいたまま、何も言わない。狭い車内に、エアコンの微かな音だけが冷たく響く。
……やがて、真翠は激しい葛藤を押し殺すように、ゆっくりとドアを閉め直した。
煌人はその音を聞き、望んでいた答えを得たことに満足げな笑みを浮かべた。彼は真翠の頭に手を伸ばし、慈しむように、けれどどこか支配的な手つきでその髪を撫でた。
「いい子だ」
エンジンが始動し、ライラックブルーの車体は夜の帳へと滑り出した。
マンションに着くなり、煌人は焦燥感に突き動かされるように真翠をベッドへ押し倒した。
「……お父様に、もう私には触れないって約束したはずよ」
真翠の冷ややかな拒絶が、煌人の胸を鋭く刺す。正式な誓いを立て、彼女を妻にしたいと心から願っているのは自分だ。だが、真翠は彼に「愛される資格」さえ与えてくれない。
煌人は彼女の両手首を封じ、逃げ場を奪うように組み伏せた。
「あれは石小路家が、お前の将来の夫や恋人と交わした約束だ。……真翠、今の俺はお前にとって誰なんだ?」
真翠は答えず、抵抗を止めた。その瞳はどこか虚ろで、彼女自身、その答えを見つけられずにいた。
沈黙を肯定と受け取った煌人は、さらなる苦痛と執着に突き動かされる。
(紳士的、成熟、余裕……?)
その理想を反芻するたび、煌人の瞳にはどす黒い悦楽にも似た決意が宿っていく。自分自身と、身体の下の真翠に、深く呪いをかけるように。
(……忘れさせてやる。そんな理想、二度と思い出せないくらいに。俺がお前のすべてを、俺の色で塗り潰してやる)
言葉には出さず、ただ暗い炎を灯した瞳で、煌人は真翠を侵食するように、その唇を塞いだ。
煌人は真翠を貪るように、一枚ずつ服を剥ぎ取っていく。相変わらず彼女の胸に執着し、耳元で低く囁いた。
「なあ、真翠……赤ん坊みたいに吸ってもいいか?」
「……好きにすればいいでしょ。いちいち聞かないで」
煌人は低く笑った。少なくともベッドの上では、彼女のすべては自分の意のままだ。
悪戯に、そして執拗に吸い付く。彼女が「痛い、優しくして」と抗議するまで、独占欲を隠そうともせず、その柔らかな果実を堪能し尽くした。
煌人は片手で彼女の胸を弄りながら、もう片方の手で、湿り気を帯びた場所へと指を滑らせる。下着はすでに、逃げ場のない熱に濡れそぼっていた。
「準備はいいか、真翠」
「……あれ、持ってるの? その……」
言葉に詰まる真翠に、煌人は意地悪く笑い、サイドテーブルの引き出しから小さな箱を取り出した。
父親から説教を受けていた時も、実は鞄の中にこれが入っていたという皮肉。もう使うことはないかもしれないと思いながらも、男としての本能が、いつかこれを使う日を夢見ていたのだ。
「これのことか?」
「……ええ」
「いい子だ。お前が着けてくれ」
「わ、私……やり方なんて知らないわよ」
「説明書、読むか?」
「嫌よ、恥ずかしい……!」
「じゃあ、身体で覚えるか」
包装を引き裂き、薄紫色のそれを取り出す。
「……あれ? この色……」
真翠が戸惑うように呟くと、煌人はわざとらしく真剣な表情を浮かべ、淡々と問い詰めた。
「ふん、珍しいか? 普通は何色がスタンダードだと思っているんだ。透明か? ……真翠、あんな知識、どこで学んできたんだ?」
「っ、聞かないで……! ほら、着けるから、早くして!」
真翠は顔を真っ赤に染め、震える手で彼の熱りへとそれを被せていく。サイズが合っていないのか、それとも彼の存在が大きすぎるのか。指先から伝わる圧倒的な熱と硬さに、真翠は否が応でも圧倒されていく。
「くっ……きついな」
ようやく準備が整い、煌人は真翠を再びベッドに沈めた。
「次はもっと大きいサイズを買っておくよ。ハニー、知ってるか? これでもXLなんだぜ」
「そんなこと言わないで!」
「俺のサイズを身体が覚えたら、他の男じゃ満足できなくなるぞ」
「……関係ないわ。他に人なんていないもの」
「そうだ。お前は俺だけのものだ」
前回のような荒々しさはなかった。
彼は極めて緩やかに、一ミリずつ、慈しむように内側へと進んでいった。きつい抵抗感が彼に汗を滲ませるが、執拗にその速度を保つ。
「あ……っ、んん……」
真翠は細い喉を反らせた。一寸ずつ広げられ、熱い異物感に支配されていく感覚に、魂が震える。紫色の薄膜が第二の皮膚のように、二人の摩擦の中で「ギュチ、……ギチッ」と、微かな、それでいて羞恥を煽る音を立てる。
「真翠、中がすごく熱い……お前も、俺を歓迎してるんだろ?」
最奥まで達した時、真翠は壊れたような声を漏らした。
「深い……煌人、深すぎるわ……っ」
煌人はすぐには動かなかった。彼女の体温を、内壁が痙攣しながら自分を吸い込む感覚を、噛みしめるように感じていた。やがて、彼は動き始める。それは衝動的なピストンではなく、執拗な「研磨」だった。
彼女の肉体の一寸一寸(いっすんいっすん)を記憶に焼き付けるような偏執的な動き。引き抜くたびに極限まで焦らし、「ズブ、……チュルリ」と卑猥な水音を立てながら、抜け落ちる直前で、より重く、深く、容赦なく突き立てる。「ドスッ」という重い衝撃が、彼女の奥を突き上げる。
「煌人……やめて……もっと、早く……お願い……っ」
じれったいほどのスローテンポに、真翠の理性は崩壊寸前だった。彼女は自ら彼の首にしがみつき、支えを求めた。
「お願いって、何をだ?」
煌人は彼女の唇を塞ぎ、角度を変えながら、逃れられない聖域を的確に抉る。
「早く壊してほしいのか? それとも……一生、止めないでほしいのか?」
「優しさ」という名の網の中で、彼女が完全に壊れていく。清冷だった瞳は絶望的なまでに緋色に染まる。煌人は速度を上げた。
「パンッ、パンッ!」「グチュ、……ジュブッ!」
水音が激しく響き、二人の間で紫の薄膜が狂ったように引き絞られる。それはまるで、逃れられない宿命の鎖のように。
「真翠、この感覚を刻み込め」
腰を叩きつけるたび、肉体が激しくぶつかり合う。
「俺にしか与えられない……死ぬほどの快楽をな!」
「あ……あぁっ! ……きらと……っ!!」
「ここにいる。真翠、俺はここにいる……。呼べ、もっと俺の名前を。続けろ」
「……っ、煌人……あぁっ、……煌人……っ! ぁ……あぁっ!! ……きらと……っ!!」
理性の欠片も残っていない真翠は、言われるがままに彼の名前を連呼し、泣き叫ぶように縋り付いた。最後の一突き、煌人は彼女の腰を抱き上げ、すべての執念と熱を、紫色の余韻の中へと注ぎ込んだ。
乱れたベッドの上で、真翠はぐったりと横たわりながら、暗闇の中でなおも自分を見つめる煌人の瞳を見た。
分かっていた。
一生、この「共犯者」という名の牢獄から逃げることはできないのだと。
煌人は真翠を壊れ物を扱うように抱きしめ、二人の呼吸が整うのを待った。
「……煌人、シャワー浴びてきて」
「嫌だ。俺が中に入っている間に、お前、また逃げるだろ」
図星だった。真翠は彼が席を外した隙に、服を着て立ち去るつもりだったのだ。
「真翠、今日はもう遅い。泊まっていけ……いいだろ?」
「でも……お母様が……」
「前と同じでいい。俺からおばさんに話しておく」
真翠が渋々頷くのを見て、煌人はスマホを取り出し、手慣れた様子で番号をタップした。彼は一度、わざとらしく喉を鳴らして声を整えると、非の打ち所のない「好青年」の声で語りかけた。
「……あ、もしもし。おばさん、煌人です。夜遅くにすみません。はい、そうなんです……真翠さんたち技術部の仕事が、どうしても今日中に終わらなくて。ええ……。はい、ご安心ください。僕がちゃんと付いてますから」
煌人は電話を耳に当てたまま、もう片方の手で真翠の裸の肩を抱き寄せた。真翠は彼の胸に顔を埋めている。受話器の向こうの母親には決して見えない、あまりにも背徳的で幸福な光景。
「……あはは、分かってます。俺……礼儀は、……絶対に守りますから。 ……ええ、大丈夫です。週末にお邪魔した時にまた。……はい。ありがとうございます、おやすみなさい」
通話が切れると、煌人はわずかに指先を震わせながらスマホを置いた。
「ありがとう。……けど前から聞きたかったんだけど、どうやって両親を説得して、私をここに泊まらせてるの?」
煌人は真翠の好奇心に満ちた瞳を見つめたが、答えずに、ただ彼女の額にそっと唇を落とした。
「教えない」
「っ、……!」
真翠は慌てて彼を突き放した。
さっきまで世界で一番淫らな行為をしていた相手なのに、この恋人同士のような清らかな慈しみには、どうしても耐えられなかった。真翠の心は、すでに逃げ場のないほどに歪んでいた。
「なんだよ、キスくらい。……そんなに嫌か?」
「……黙って。早くシャワー浴びてきて」
煌人は彼女の心の奥底に生じた一瞬の亀裂に気づかず、いつものように茶化して笑った。
「一緒に入るか?」
「入らないわよ!」
「じゃあ、次は一緒にな……」
そう言い残して、彼は浴室へと消えた。
ベッドに残された真翠は、吸い寄せられるように彼が使っていた枕を引き寄せ、胸に抱きしめた。だがすぐに、罪悪感に襲われたようにそれを元の位置に戻す。
(……ごめんなさい、煌人。私は、あなたの彼女にはなれないの)
手早くシャワーを済ませて戻ると、煌人は再び真翠を半ば抱きしめるようにして横たわった。
「真翠。会社で、俺たちの関係を公表するか?」
真翠は細めた目で、下から彼を見上げた。
「……嫌っ。今まで通りにして」
煌人の瞳に、一瞬だけ失望の色がよぎった。だが、真翠が自分の部屋に泊まり、こうして腕の中にいてくれる。今は、それだけで十分だった。
「いいだろう。真翠の望む通りに」
しかし、この三日間の煌人は九条グループとの商談に忙殺されていた。相手は大学の二学年上の先輩であり、次期当主の九条遥。かつて九条は、煌人を直々にグループへ勧誘したことがある。当時は「スタートアップで経験を積みたい」と殊勝な顔で断ったが、本音は違った。あまりに高すぎる九条の門を、学生の身分で真翠を連れて越える自信がなかったのだ。
そして今、九条は煌人をプロジェクトの責任者に抜擢してくれた。九条は謙虚な人柄だが、何より「公私混同」を嫌う。商談を疎かにはできない。煌人は焦燥感に焼かれながら、わずかな合間を縫って真翠に連絡を入れ続けたが、梨の礫だった。
水曜日の昼前、資料の修正のために会社へ戻ると、技術部のリフレッシュルームから清らかな笑い声が漏れてきた。
少しだけ隙間の空いたドア。 そこから聞こえる真翠の声に、煌人はひび割れた心に水が染み込むような救いを感じた。「今の彼女なら、機嫌がいいのかもしれない」——そんな淡い期待を抱き、ドアノブに手をかけようとした、その時だ。
「……じゃあ、真翠先輩は星野組長と付き合ってるわけじゃないんですか?」
聞き覚えのある後輩の声が、煌人の動きを凍りつかせた。
「ええ、ただの同級生よ」
迷いのない、真翠のきっぱりとした声が、ドアを抜けて煌人の鼓膜を刺した。
「タイプ? そうね……。紳士的で、余裕があって、いざという時にちゃんと引っ張ってくれるような大人の男性かな。年齢も、二、三歳上が理想かも」
ドアノブに置かれた手から、一気に力が抜けていく。今の自分には、その扉を押し開ける勇気なんて一欠片も残っていなかった。
(……二、三歳上で、余裕のある、大人の男)
脳裏に、ある男の顔が鮮明に浮かび上がる。九条遥。 真翠が口にした理想をそのまま形にしたような、完璧な先輩。
(……絶対に、彼女を九条さんに引き合わせるわけにはいかない)
九条に対する尊敬の念は、一瞬でどす黒い危機感へと変貌した。煌人は逃げるように、音を殺してその場を去った。
一方、遠ざかっていく聞き慣れた足音を背中で聞きながら、真翠は心の中で静かに、そして冷徹に幕を下ろした。
(星野煌人。私たち、ここまでにしましょう)
彼女は、プライドの高い彼なら、今の言葉を聞いて潔く身を引くはずだと思っていた。だが、彼女は知らなかった。煌人の執着が、もはや狂気に近いほど深く、根深いものであることを。
終業時刻、真翠のスマホが震えた。届いたのは一通のメッセージ。
『駐車場に来い。来ないなら、今すぐお前の家に行って、両親に俺たちの関係をすべてぶちまける』
スマホを握りしめる手に力がこもる。なんて卑劣な男。両親を盾に取るなんて。真翠は苦い思いを呑み込み、重い足取りで駐車場へと向かった。
夕闇の中、ライラックブルーのSUVが、そこだけ異質に浮いて見えた。
真翠は怒りに震えながらドアに手をかけたが、運転席で目を閉じている煌人の姿を見て、言葉を失った。
彼の顔は幽霊のように蒼白で、唇は血の気が引いて青ざめている。
「……煌人、具合が悪いの?」
怒りよりも先に、心配が口をついて出た。
まさか、事ここに至ってもなお、真翠が自分を案じてくれるなんて。
煌人は不意を突かれたように目を開けた。その瞬間、胸の奥が焼けるように疼く。耳の奥で、十七歳の真翠の声がリフレインした。あの日も、彼女はこんなふうに自分を気遣ってくれた。すべては、彼女のその無意識の優しさから始まったのだ。
煌人は必死に意識を繋ぎ止め、震える声で唐突に問いかけた。
「……俺じゃ、ダメなのか? 真翠」
「……え?」
真翠の戸惑いに、煌人は自嘲気味な溜息をついて話題を切り替えた。
「真翠、もう俺を避けるな。責任は取る」
だが、その言葉は彼が期待したような救いにはならなかった。真翠は感情の消えた声で、突き放すように言った。
「いらない」
「……でも、お前、初めてだったんだろ?」
「そんなこと、あなたも同じでしょう? なかったことにしてください。お互い様なんですから」
そのあまりにも事務的で冷徹な響きに、煌人の胸に鋭い痛みが走る。
「真翠……」
すがるようにその名を呼んだ彼を、彼女の鋭い言葉が遮った。
「呼ばないで」
星野煌人、という存在そのものを拒絶するような響き。
煌人は怒りと悲しみ、そして言いようのない焦燥感に突き動かされた。だが、今の自分に彼女を責める資格があるのかと自問し、かろうじて言葉を飲み込んだ。
「星野煌人、二度と私の親を脅さないで。次やったら、あなたが話す前に私から全てぶちまけてやるわ。私なら本当にやるってこと、分かっているでしょう?」
真翠の瞳には、かつてないほど鋭い拒絶の光が宿っていた。
「……ああ、分かっているよ」
これ以上の対話を拒むように、真翠がドアノブを引く。だが、その手を煌人の強引な力が遮った。
「じゃあ、あの三十人の見合い相手はどうするつもりだ?」
「自分で解決する」
「真翠、俺たちの関係をただの『取引』だと思っているのか? 違う……俺たちは共犯者だ」
「……何を言っているの?」
煌人は逃げ場を塞ぐように畳みかける。
「ここでお前が降りれば、お前は一人で三十人の男と向き合い、品定めされることになる。両親も心配し続けるだろう。……だが、俺と一緒に来れば、両親は安心するし、お前ももう誰かに振り回される必要はなくなる。……どっちを選ぶ?」
ドアノブにかけていた真翠の手が、ぴたりと止まった。
彼女はうつむいたまま、何も言わない。狭い車内に、エアコンの微かな音だけが冷たく響く。
……やがて、真翠は激しい葛藤を押し殺すように、ゆっくりとドアを閉め直した。
煌人はその音を聞き、望んでいた答えを得たことに満足げな笑みを浮かべた。彼は真翠の頭に手を伸ばし、慈しむように、けれどどこか支配的な手つきでその髪を撫でた。
「いい子だ」
エンジンが始動し、ライラックブルーの車体は夜の帳へと滑り出した。
マンションに着くなり、煌人は焦燥感に突き動かされるように真翠をベッドへ押し倒した。
「……お父様に、もう私には触れないって約束したはずよ」
真翠の冷ややかな拒絶が、煌人の胸を鋭く刺す。正式な誓いを立て、彼女を妻にしたいと心から願っているのは自分だ。だが、真翠は彼に「愛される資格」さえ与えてくれない。
煌人は彼女の両手首を封じ、逃げ場を奪うように組み伏せた。
「あれは石小路家が、お前の将来の夫や恋人と交わした約束だ。……真翠、今の俺はお前にとって誰なんだ?」
真翠は答えず、抵抗を止めた。その瞳はどこか虚ろで、彼女自身、その答えを見つけられずにいた。
沈黙を肯定と受け取った煌人は、さらなる苦痛と執着に突き動かされる。
(紳士的、成熟、余裕……?)
その理想を反芻するたび、煌人の瞳にはどす黒い悦楽にも似た決意が宿っていく。自分自身と、身体の下の真翠に、深く呪いをかけるように。
(……忘れさせてやる。そんな理想、二度と思い出せないくらいに。俺がお前のすべてを、俺の色で塗り潰してやる)
言葉には出さず、ただ暗い炎を灯した瞳で、煌人は真翠を侵食するように、その唇を塞いだ。
煌人は真翠を貪るように、一枚ずつ服を剥ぎ取っていく。相変わらず彼女の胸に執着し、耳元で低く囁いた。
「なあ、真翠……赤ん坊みたいに吸ってもいいか?」
「……好きにすればいいでしょ。いちいち聞かないで」
煌人は低く笑った。少なくともベッドの上では、彼女のすべては自分の意のままだ。
悪戯に、そして執拗に吸い付く。彼女が「痛い、優しくして」と抗議するまで、独占欲を隠そうともせず、その柔らかな果実を堪能し尽くした。
煌人は片手で彼女の胸を弄りながら、もう片方の手で、湿り気を帯びた場所へと指を滑らせる。下着はすでに、逃げ場のない熱に濡れそぼっていた。
「準備はいいか、真翠」
「……あれ、持ってるの? その……」
言葉に詰まる真翠に、煌人は意地悪く笑い、サイドテーブルの引き出しから小さな箱を取り出した。
父親から説教を受けていた時も、実は鞄の中にこれが入っていたという皮肉。もう使うことはないかもしれないと思いながらも、男としての本能が、いつかこれを使う日を夢見ていたのだ。
「これのことか?」
「……ええ」
「いい子だ。お前が着けてくれ」
「わ、私……やり方なんて知らないわよ」
「説明書、読むか?」
「嫌よ、恥ずかしい……!」
「じゃあ、身体で覚えるか」
包装を引き裂き、薄紫色のそれを取り出す。
「……あれ? この色……」
真翠が戸惑うように呟くと、煌人はわざとらしく真剣な表情を浮かべ、淡々と問い詰めた。
「ふん、珍しいか? 普通は何色がスタンダードだと思っているんだ。透明か? ……真翠、あんな知識、どこで学んできたんだ?」
「っ、聞かないで……! ほら、着けるから、早くして!」
真翠は顔を真っ赤に染め、震える手で彼の熱りへとそれを被せていく。サイズが合っていないのか、それとも彼の存在が大きすぎるのか。指先から伝わる圧倒的な熱と硬さに、真翠は否が応でも圧倒されていく。
「くっ……きついな」
ようやく準備が整い、煌人は真翠を再びベッドに沈めた。
「次はもっと大きいサイズを買っておくよ。ハニー、知ってるか? これでもXLなんだぜ」
「そんなこと言わないで!」
「俺のサイズを身体が覚えたら、他の男じゃ満足できなくなるぞ」
「……関係ないわ。他に人なんていないもの」
「そうだ。お前は俺だけのものだ」
前回のような荒々しさはなかった。
彼は極めて緩やかに、一ミリずつ、慈しむように内側へと進んでいった。きつい抵抗感が彼に汗を滲ませるが、執拗にその速度を保つ。
「あ……っ、んん……」
真翠は細い喉を反らせた。一寸ずつ広げられ、熱い異物感に支配されていく感覚に、魂が震える。紫色の薄膜が第二の皮膚のように、二人の摩擦の中で「ギュチ、……ギチッ」と、微かな、それでいて羞恥を煽る音を立てる。
「真翠、中がすごく熱い……お前も、俺を歓迎してるんだろ?」
最奥まで達した時、真翠は壊れたような声を漏らした。
「深い……煌人、深すぎるわ……っ」
煌人はすぐには動かなかった。彼女の体温を、内壁が痙攣しながら自分を吸い込む感覚を、噛みしめるように感じていた。やがて、彼は動き始める。それは衝動的なピストンではなく、執拗な「研磨」だった。
彼女の肉体の一寸一寸(いっすんいっすん)を記憶に焼き付けるような偏執的な動き。引き抜くたびに極限まで焦らし、「ズブ、……チュルリ」と卑猥な水音を立てながら、抜け落ちる直前で、より重く、深く、容赦なく突き立てる。「ドスッ」という重い衝撃が、彼女の奥を突き上げる。
「煌人……やめて……もっと、早く……お願い……っ」
じれったいほどのスローテンポに、真翠の理性は崩壊寸前だった。彼女は自ら彼の首にしがみつき、支えを求めた。
「お願いって、何をだ?」
煌人は彼女の唇を塞ぎ、角度を変えながら、逃れられない聖域を的確に抉る。
「早く壊してほしいのか? それとも……一生、止めないでほしいのか?」
「優しさ」という名の網の中で、彼女が完全に壊れていく。清冷だった瞳は絶望的なまでに緋色に染まる。煌人は速度を上げた。
「パンッ、パンッ!」「グチュ、……ジュブッ!」
水音が激しく響き、二人の間で紫の薄膜が狂ったように引き絞られる。それはまるで、逃れられない宿命の鎖のように。
「真翠、この感覚を刻み込め」
腰を叩きつけるたび、肉体が激しくぶつかり合う。
「俺にしか与えられない……死ぬほどの快楽をな!」
「あ……あぁっ! ……きらと……っ!!」
「ここにいる。真翠、俺はここにいる……。呼べ、もっと俺の名前を。続けろ」
「……っ、煌人……あぁっ、……煌人……っ! ぁ……あぁっ!! ……きらと……っ!!」
理性の欠片も残っていない真翠は、言われるがままに彼の名前を連呼し、泣き叫ぶように縋り付いた。最後の一突き、煌人は彼女の腰を抱き上げ、すべての執念と熱を、紫色の余韻の中へと注ぎ込んだ。
乱れたベッドの上で、真翠はぐったりと横たわりながら、暗闇の中でなおも自分を見つめる煌人の瞳を見た。
分かっていた。
一生、この「共犯者」という名の牢獄から逃げることはできないのだと。
煌人は真翠を壊れ物を扱うように抱きしめ、二人の呼吸が整うのを待った。
「……煌人、シャワー浴びてきて」
「嫌だ。俺が中に入っている間に、お前、また逃げるだろ」
図星だった。真翠は彼が席を外した隙に、服を着て立ち去るつもりだったのだ。
「真翠、今日はもう遅い。泊まっていけ……いいだろ?」
「でも……お母様が……」
「前と同じでいい。俺からおばさんに話しておく」
真翠が渋々頷くのを見て、煌人はスマホを取り出し、手慣れた様子で番号をタップした。彼は一度、わざとらしく喉を鳴らして声を整えると、非の打ち所のない「好青年」の声で語りかけた。
「……あ、もしもし。おばさん、煌人です。夜遅くにすみません。はい、そうなんです……真翠さんたち技術部の仕事が、どうしても今日中に終わらなくて。ええ……。はい、ご安心ください。僕がちゃんと付いてますから」
煌人は電話を耳に当てたまま、もう片方の手で真翠の裸の肩を抱き寄せた。真翠は彼の胸に顔を埋めている。受話器の向こうの母親には決して見えない、あまりにも背徳的で幸福な光景。
「……あはは、分かってます。俺……礼儀は、……絶対に守りますから。 ……ええ、大丈夫です。週末にお邪魔した時にまた。……はい。ありがとうございます、おやすみなさい」
通話が切れると、煌人はわずかに指先を震わせながらスマホを置いた。
「ありがとう。……けど前から聞きたかったんだけど、どうやって両親を説得して、私をここに泊まらせてるの?」
煌人は真翠の好奇心に満ちた瞳を見つめたが、答えずに、ただ彼女の額にそっと唇を落とした。
「教えない」
「っ、……!」
真翠は慌てて彼を突き放した。
さっきまで世界で一番淫らな行為をしていた相手なのに、この恋人同士のような清らかな慈しみには、どうしても耐えられなかった。真翠の心は、すでに逃げ場のないほどに歪んでいた。
「なんだよ、キスくらい。……そんなに嫌か?」
「……黙って。早くシャワー浴びてきて」
煌人は彼女の心の奥底に生じた一瞬の亀裂に気づかず、いつものように茶化して笑った。
「一緒に入るか?」
「入らないわよ!」
「じゃあ、次は一緒にな……」
そう言い残して、彼は浴室へと消えた。
ベッドに残された真翠は、吸い寄せられるように彼が使っていた枕を引き寄せ、胸に抱きしめた。だがすぐに、罪悪感に襲われたようにそれを元の位置に戻す。
(……ごめんなさい、煌人。私は、あなたの彼女にはなれないの)
手早くシャワーを済ませて戻ると、煌人は再び真翠を半ば抱きしめるようにして横たわった。
「真翠。会社で、俺たちの関係を公表するか?」
真翠は細めた目で、下から彼を見上げた。
「……嫌っ。今まで通りにして」
煌人の瞳に、一瞬だけ失望の色がよぎった。だが、真翠が自分の部屋に泊まり、こうして腕の中にいてくれる。今は、それだけで十分だった。
「いいだろう。真翠の望む通りに」
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