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番外章:モジュレーション:零れ落ちた七楽章
第五樂章:幻想曲(ファンタジー):If and 悪夢
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暦の上では春とはいえ、朝の空気にはまだ刺すような冷たさが残っている。窓の外では、早咲きの桜が、まだ薄暗い空の下で寒さに震えるようにして、淡い紅色の蕾をほどき始めていた。その儚い花びらは、これから始まる物語の結末を予見しているかのようだ。
穏やかな土曜日の朝。煌人は膝の上に置いたノートパソコンに視線を落とし、これから商談を行う予定の企業資料を精査していた。その時、玄関の鍵が回る音が静寂を破った。
「真翠だ。僕の部屋の鍵を持っているのは、彼女以外にいない。……でも珍しいな、この時間に彼女が来るなんて。」
ドアが開く音に、煌人は顔を上げずに習慣的に声をかけた。
「おかえり」
だが、真翠からの返事はない。不審に思った煌人が顔を上げると、そこには玄関で立ち尽くし、躊躇っている真翠の姿があった。
「どうしたんだ……」
問いかけようとした言葉が喉で止まる。彼女は、豪奢な振袖に身を包み、濃いめの化粧を施していた。……すべてを察した。彼女は、お見合いに行ってきたのだ。
「入りなよ。外は寒かっただろう?」
「煌人……抱きしめて」
真翠の消え入りそうな声に、煌人は迷わず、迷子の子猫のような彼女を抱き寄せた。
「どうした? 誰かにいじめられたのか?」
「ううん、ただ……お見合いが、すごく怖かったの。もう、行きたくない……」
煌人は真翠の髪を優しく撫でた。
「いい子だ。大丈夫、僕がいる限り、もうお見合いなんて行かなくていいよ」
「私の両親の前で、恋人のふりをしてくれる?」
「いいや、それは嫌だ」
「……そっか」
真翠の声が今にも泣き出しそうに震えた。煌人は堪えきれず、小さく噴き出した。
「婚約者がいる女の子をお見合いに行かせるなんて、不道徳だろ?」
「婚約者? 誰が?」
「僕だよ、真翠。君が僕を拾ってくれたあの日から、僕は君のものだ」
「……ただの恩返しなの?」
煌人は真翠の肩を掴み、膝をついて彼女と視線を合わせた。
「星野煌人は、石小路真翠のことが大好きなんだ。大好きで、大好きで、たまらない。君が僕を拾ってくれたから、もっと好きになった。……わかった?」
「ちょっと……複雑」
「なら、今日から毎日少しずつ教えてあげるよ。ゆっくり理解していけばいい。いいかい?」
「……うん」
「よし、いい子だ。とにかく中に入ろう」
煌人はひょいと真翠を抱き上げた。宙に浮いた彼女の足から、カラン、コロンと木履が脱げ落ちる。それはまるで、祝福を告げる鐘の音のように響いた。
玄関を離れ、煌人は彼女を離さないまま寝室のベッドへ運び、そっと腰掛けさせた。そのまま抱きしめようとする煌人に、真翠が慌てて制する。
「待って……まだ……」
煌人は彼女の耳元で楽しげに笑った。
「何もしないよ。この窮屈な和服を先に脱がせてあげたいだけだ」
「でも、着替えを持ってきてないわ」
「僕が買ってくる。いい子で待ってて」
「でも……」
「『フィアンセ』なら、いいだろう?」
「……うん」
「よし。何色がいい?」
「ライラックブルーがいいな」
「わかったよ、奥様」
「そんな呼び方しないで……」
「まだ早かったかな。まあ、すぐそうなるよ。……行ってくる」
煌人が戻るまでの間、真翠は重苦しい振袖を脱ぎ捨て、化粧を落とし、ベッドの上で彼を待った。三十分もしないうちに、煌人は上品なライラックブルーのワンピースと、もう一つの紙袋を手に戻ってきた。
「さあ、着替えて。料亭にいるご両親に会いに行こう」
「えっ、どうして?」
「お見合い相手が僕に代わるんだ。正式に挨拶に行かないとね」
「ああ……そうね。じゃあ、外に出てて。着替えるから」
「見るのもダメ?」
「当然でしょ! 早く出て!」
「残念だな、手伝ってあげようと思ったのに。……早くしろよ、無理そうなら呼んで」
ドアの向こうから聞こえる衣擦れの音を聞きながら、煌人はふと考えた。
(真翠の胸、あんなに豊かなのに、あのサイズのワンピースで胸元が収まるだろうか……)
その時、寝室から彼女の声がした。
「煌人、ちょっと入ってもいい?」
「ああ、今行く」
着替え終えた彼女は、まるで発光しているかのように美しかった。ライラックブルーは真翠の気品をこれ以上なく引き立てている。
「煌人、胸のところが少しきついの。あと、後ろのファスナーが届かなくて」
煌人は紳士的な手つきで彼女の背後に立ち、ゆっくりとファスナーを引き上げた。
「今日が終わったら、ショップに頼んで上回りのサイズを直させよう。今日は少しだけ我慢して」
そう言いながら、彼は真翠の白いうなじにそっと唇を寄せた。
「きゃっ!」
驚いて振り向く真翠を、煌人は逃さず抱き寄せた。
「いい子だ、目を閉じて」
言われるがままに目を閉じた真翠の唇に、柔らかな唇が重なる。煌人の舌先が優しく彼女の口内をくすぐり、誘うように触れては、すぐに離れていった。それは初恋のように甘く、完璧なファーストキスだった。
「行こうか」
「……ええ」
真翠は夢見心地のまま、煌人の車に揺られて料亭へと向かった。部屋には真翠の両親が待っていた。二人が手を繋いで現れたことに、両親はさほど驚いた様子もなかった。
「お父様、お母様。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
父親が頷くと、母親が口を開いた。
「真翠、煌人さんとちゃんとお話しできたのね」
「はい」
「それで、煌人さん。今日こちらへいらしたのは……」
煌人は居住まいを正し、恭しく一礼した。
「はい。真翠さんを、僕にください。結婚のお許しをいただきに参りました」
「結婚!? 煌人、急すぎるわよ」
動揺する真翠の手を、煌人は離さなかった。
「真翠、君に拾われてから十二年だ。僕はもう、十分すぎるほど待ったんだ。……伯父様、伯母様、どうかお許しください」
「いいだろう。……で、いつ真翠を娶るつもりだ?」
父親の問いに、煌人は真摯な微笑みを浮かべた。
「お許しいただけるなら、明日にも」
「えっ、明日!?」
「はい。せめて明日、役所に婚姻届だけでも提出させてください。挙式や儀式については、後日、必ずご満足いただける形で執り行います」
「いや、そこまで急がずとも……」
「僕が、急ぎたいんです。どうかご理解ください」
煌人の強い意志に、父親が気圧される。母親がそれを宥めるように言った。
「真翠の気持ちを聞きましょう」
真翠は両親を見つめ、それから隣で自分の手を力強く握りしめている煌人を見た。
「……私も。お父様、明日、婚姻届を出しに行くことを許してください」
「……やれやれ。お前たちがそう言うなら、仕方ないな」
昼食を終え、煌人は石小路家まで一家を送り届けた。
「煌人、帰らないの?」
玄関先に立ち止まったままの彼に真翠が尋ねると、彼は笑って真翠の頭を撫で、そのまま家の中まで入ってきた。
「お父様、お母様。今夜は泊まらせてください。そうすれば、明日の朝一番で真翠と一緒に役所へ行けますから」
「と、泊まる!?」
真翠が素っ頓狂な声を上げ、激しく動揺する。だが、父親は新聞から目を離すことさえせず、さも当然といった風に鼻で笑った。
「勝手にしなさい。お前は昔からよくここに泊まっていたじゃないか」
「はい、ありがとうございます、お父様」
煌人は慣れた様子で車を駐車場に停め、もう一つの紙袋を持ってきた。
「それ、何が入ってるの?」
「スーツだよ。明日、役所に着ていくための。君のワンピースとペアになるように選んだんだ」
「……最初から計画してたの?」
「当たり前だろう」
その日の午後は、石小路家で穏やかに過ぎていった。夕食を終え、風呂を済ませた真翠が自室へ戻ると、煌人が後を追ってきた。
「ちょっと、何してるの。下に両親がいるのよ」
「だから、声を出さないで。……少しだけ、抱きしめさせて」
真翠は彼の胸に飛び込んだ。一分ほどそうしていた後、煌人は彼女を離した。
「君のバスタオルを一枚貸して」
「客用のは下にあるわよ」
「真翠、僕は客じゃない。……それに、君の香りに包まれて眠りたいんだ」
「変態……」
「で、真翠はそんな僕が好きなんだろ?」
「……はい、これ。早く下に行って!」
真っ赤な顔でタオルを押し付け、真翠は彼を部屋から追い出した。
煌人は満足げに風呂を使い、石小路家の客間の布団に横たわった。
明日は真翠にもっと似合う服を買いに行こう。婚姻届を出した後は、最高級のレストランで祝おう。……幸せな夢の中に、彼は溶けていった。
――不意に、激しい悪寒に襲われた。
息が詰まるような苦しさ。
目を開けると、そこは石小路家の和室ではなく、冷え切った自分のマンションの寝室だった。
今日、彼は残業していた真翠を無理やり連れ帰り、彼女の母親に電話を入れさせ、ここで彼女を「所有」したのだ。
ゴミ箱に捨てられたティッシュと、中身が詰まったまま口を縛られた二つのゴムが、昨夜の狂乱を如実に物語っていた。
彼は、腕の中で眠る真翠の背中に顔を埋め、震える唇で囁いた。
「真翠……奥様。……ごめん」煌人はもう、失ってしまったのだ。あの陽だまりのような場所で、自分にだけ向けられた爛漫な微笑みを。共に甘い夢を語り合ってくれた、あの頃の真翠を。
煌人は真翠の背中を壊れ物を扱うように抱きしめ、声にならない涙を枕へと染み込ませた。
(明日……明日になったら、君に似合う綺麗な服を買いに行こう。美味しいものを食べに行こう……ねえ、いいだろう?)
心の中で幾度も繰り返すその願いは、ついに言葉として形を成すことはなかった。そんな慈悲を乞う資格など、今の自分にはないと分かっていたからだ。
真翠がマンションの鍵を返してから、二週間が過ぎようとしていた。真翠の誕生日前夜、煌人は狂ったような執着で準備を進めた。彼女のサイズをミリ単位で思い出し、選び抜いた数着のオートクチュール。
煌人は彼女をマンションへ連れ戻すと、ソファの上に並べられた、裁断の精緻な、価値も付けられないほど高価なドレスたちを指し示した。
「試着してごらん。全部、君のサイズだ。一着選んで、食事に行こう」
煌人は期待していた。彼女が驚き、あるいは戸惑いながらも、その華やかな布地を身に纏う姿を。それを見守る自分を。
しかし、返ってきたのは死のような静寂だった。
次の瞬間、真翠の涙が堰を切ったように溢れ出した。
それは、煌人がこれまで一度も見たことのない泣き方だった。静かに頬を伝う涙ではない。魂そのものを吐き出そうとするかのような、激しい嗚咽。 肺から空気を絞り出し、内臓を嘔吐するかのような、凄まじい悲鳴だった。
「真翠? 君……どうしたんだ?」
煌人の心から、期待も欣喜も一瞬で消え失せた。狼狽えた彼は、震える手で彼女の肩に触れようとした。
「ごめん、真翠。気に入らなかったのか? 僕はただ、君に……」
真翠はもはや、彼の言葉など聞き届けなかった。糸の切れた人形のように絨毯へ崩れ落ち、ゆっくりと、震える手足で膝を抱え込んだ。その中に顔を深く埋め、身体を激しく痙攣させながら泣き続ける。
煌人はそれ以上、声をかけることも、近づくこともできなかった。ただ傍らで、時が過ぎるのを待つしかなかった。
真夜中、真翠が泣き疲れて気を失うように倒れ込むまで。彼はようやく彼女を抱き上げ、ベッドへと運んだ。
夜が明ける頃、煌人はようやく重い瞼を閉じ、微睡みの中に逃げ込んだ。
やがて、キッチンから微かな音が聞こえてきた。真翠が朝食を作る音だ。
ダイニングテーブルを挟み、二人は沈黙の中で食事を摂った。耐えきれなくなった煌人が、ようやく口を開く。
「真翠、昨日は……どこか具合が悪かったのか?」
真翠は何も答えなかった。彼女は手に持っていた半分のトーストを、汚物でも見るかのように皿へと放り出した。
そのまま立ち上がり、洗面所で無機質に手を洗うと、挨拶一つ、視線一つ交わすことなく、逃げるようにマンションを去っていった。
その背中を見送りながら、煌人は呪いのような確信に打ちのめされた。
自分はもう、彼女に贈り物をする資格さえない。
彼女にとっての自分は、贈り物を受け取るにふさわしい「愛する人」ではなく、ただの「略奪者」なのだ。
自分は、不相応な存在。
その断罪の鐘の音が、空っぽの部屋にいつまでも響き渡っていた。
穏やかな土曜日の朝。煌人は膝の上に置いたノートパソコンに視線を落とし、これから商談を行う予定の企業資料を精査していた。その時、玄関の鍵が回る音が静寂を破った。
「真翠だ。僕の部屋の鍵を持っているのは、彼女以外にいない。……でも珍しいな、この時間に彼女が来るなんて。」
ドアが開く音に、煌人は顔を上げずに習慣的に声をかけた。
「おかえり」
だが、真翠からの返事はない。不審に思った煌人が顔を上げると、そこには玄関で立ち尽くし、躊躇っている真翠の姿があった。
「どうしたんだ……」
問いかけようとした言葉が喉で止まる。彼女は、豪奢な振袖に身を包み、濃いめの化粧を施していた。……すべてを察した。彼女は、お見合いに行ってきたのだ。
「入りなよ。外は寒かっただろう?」
「煌人……抱きしめて」
真翠の消え入りそうな声に、煌人は迷わず、迷子の子猫のような彼女を抱き寄せた。
「どうした? 誰かにいじめられたのか?」
「ううん、ただ……お見合いが、すごく怖かったの。もう、行きたくない……」
煌人は真翠の髪を優しく撫でた。
「いい子だ。大丈夫、僕がいる限り、もうお見合いなんて行かなくていいよ」
「私の両親の前で、恋人のふりをしてくれる?」
「いいや、それは嫌だ」
「……そっか」
真翠の声が今にも泣き出しそうに震えた。煌人は堪えきれず、小さく噴き出した。
「婚約者がいる女の子をお見合いに行かせるなんて、不道徳だろ?」
「婚約者? 誰が?」
「僕だよ、真翠。君が僕を拾ってくれたあの日から、僕は君のものだ」
「……ただの恩返しなの?」
煌人は真翠の肩を掴み、膝をついて彼女と視線を合わせた。
「星野煌人は、石小路真翠のことが大好きなんだ。大好きで、大好きで、たまらない。君が僕を拾ってくれたから、もっと好きになった。……わかった?」
「ちょっと……複雑」
「なら、今日から毎日少しずつ教えてあげるよ。ゆっくり理解していけばいい。いいかい?」
「……うん」
「よし、いい子だ。とにかく中に入ろう」
煌人はひょいと真翠を抱き上げた。宙に浮いた彼女の足から、カラン、コロンと木履が脱げ落ちる。それはまるで、祝福を告げる鐘の音のように響いた。
玄関を離れ、煌人は彼女を離さないまま寝室のベッドへ運び、そっと腰掛けさせた。そのまま抱きしめようとする煌人に、真翠が慌てて制する。
「待って……まだ……」
煌人は彼女の耳元で楽しげに笑った。
「何もしないよ。この窮屈な和服を先に脱がせてあげたいだけだ」
「でも、着替えを持ってきてないわ」
「僕が買ってくる。いい子で待ってて」
「でも……」
「『フィアンセ』なら、いいだろう?」
「……うん」
「よし。何色がいい?」
「ライラックブルーがいいな」
「わかったよ、奥様」
「そんな呼び方しないで……」
「まだ早かったかな。まあ、すぐそうなるよ。……行ってくる」
煌人が戻るまでの間、真翠は重苦しい振袖を脱ぎ捨て、化粧を落とし、ベッドの上で彼を待った。三十分もしないうちに、煌人は上品なライラックブルーのワンピースと、もう一つの紙袋を手に戻ってきた。
「さあ、着替えて。料亭にいるご両親に会いに行こう」
「えっ、どうして?」
「お見合い相手が僕に代わるんだ。正式に挨拶に行かないとね」
「ああ……そうね。じゃあ、外に出てて。着替えるから」
「見るのもダメ?」
「当然でしょ! 早く出て!」
「残念だな、手伝ってあげようと思ったのに。……早くしろよ、無理そうなら呼んで」
ドアの向こうから聞こえる衣擦れの音を聞きながら、煌人はふと考えた。
(真翠の胸、あんなに豊かなのに、あのサイズのワンピースで胸元が収まるだろうか……)
その時、寝室から彼女の声がした。
「煌人、ちょっと入ってもいい?」
「ああ、今行く」
着替え終えた彼女は、まるで発光しているかのように美しかった。ライラックブルーは真翠の気品をこれ以上なく引き立てている。
「煌人、胸のところが少しきついの。あと、後ろのファスナーが届かなくて」
煌人は紳士的な手つきで彼女の背後に立ち、ゆっくりとファスナーを引き上げた。
「今日が終わったら、ショップに頼んで上回りのサイズを直させよう。今日は少しだけ我慢して」
そう言いながら、彼は真翠の白いうなじにそっと唇を寄せた。
「きゃっ!」
驚いて振り向く真翠を、煌人は逃さず抱き寄せた。
「いい子だ、目を閉じて」
言われるがままに目を閉じた真翠の唇に、柔らかな唇が重なる。煌人の舌先が優しく彼女の口内をくすぐり、誘うように触れては、すぐに離れていった。それは初恋のように甘く、完璧なファーストキスだった。
「行こうか」
「……ええ」
真翠は夢見心地のまま、煌人の車に揺られて料亭へと向かった。部屋には真翠の両親が待っていた。二人が手を繋いで現れたことに、両親はさほど驚いた様子もなかった。
「お父様、お母様。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
父親が頷くと、母親が口を開いた。
「真翠、煌人さんとちゃんとお話しできたのね」
「はい」
「それで、煌人さん。今日こちらへいらしたのは……」
煌人は居住まいを正し、恭しく一礼した。
「はい。真翠さんを、僕にください。結婚のお許しをいただきに参りました」
「結婚!? 煌人、急すぎるわよ」
動揺する真翠の手を、煌人は離さなかった。
「真翠、君に拾われてから十二年だ。僕はもう、十分すぎるほど待ったんだ。……伯父様、伯母様、どうかお許しください」
「いいだろう。……で、いつ真翠を娶るつもりだ?」
父親の問いに、煌人は真摯な微笑みを浮かべた。
「お許しいただけるなら、明日にも」
「えっ、明日!?」
「はい。せめて明日、役所に婚姻届だけでも提出させてください。挙式や儀式については、後日、必ずご満足いただける形で執り行います」
「いや、そこまで急がずとも……」
「僕が、急ぎたいんです。どうかご理解ください」
煌人の強い意志に、父親が気圧される。母親がそれを宥めるように言った。
「真翠の気持ちを聞きましょう」
真翠は両親を見つめ、それから隣で自分の手を力強く握りしめている煌人を見た。
「……私も。お父様、明日、婚姻届を出しに行くことを許してください」
「……やれやれ。お前たちがそう言うなら、仕方ないな」
昼食を終え、煌人は石小路家まで一家を送り届けた。
「煌人、帰らないの?」
玄関先に立ち止まったままの彼に真翠が尋ねると、彼は笑って真翠の頭を撫で、そのまま家の中まで入ってきた。
「お父様、お母様。今夜は泊まらせてください。そうすれば、明日の朝一番で真翠と一緒に役所へ行けますから」
「と、泊まる!?」
真翠が素っ頓狂な声を上げ、激しく動揺する。だが、父親は新聞から目を離すことさえせず、さも当然といった風に鼻で笑った。
「勝手にしなさい。お前は昔からよくここに泊まっていたじゃないか」
「はい、ありがとうございます、お父様」
煌人は慣れた様子で車を駐車場に停め、もう一つの紙袋を持ってきた。
「それ、何が入ってるの?」
「スーツだよ。明日、役所に着ていくための。君のワンピースとペアになるように選んだんだ」
「……最初から計画してたの?」
「当たり前だろう」
その日の午後は、石小路家で穏やかに過ぎていった。夕食を終え、風呂を済ませた真翠が自室へ戻ると、煌人が後を追ってきた。
「ちょっと、何してるの。下に両親がいるのよ」
「だから、声を出さないで。……少しだけ、抱きしめさせて」
真翠は彼の胸に飛び込んだ。一分ほどそうしていた後、煌人は彼女を離した。
「君のバスタオルを一枚貸して」
「客用のは下にあるわよ」
「真翠、僕は客じゃない。……それに、君の香りに包まれて眠りたいんだ」
「変態……」
「で、真翠はそんな僕が好きなんだろ?」
「……はい、これ。早く下に行って!」
真っ赤な顔でタオルを押し付け、真翠は彼を部屋から追い出した。
煌人は満足げに風呂を使い、石小路家の客間の布団に横たわった。
明日は真翠にもっと似合う服を買いに行こう。婚姻届を出した後は、最高級のレストランで祝おう。……幸せな夢の中に、彼は溶けていった。
――不意に、激しい悪寒に襲われた。
息が詰まるような苦しさ。
目を開けると、そこは石小路家の和室ではなく、冷え切った自分のマンションの寝室だった。
今日、彼は残業していた真翠を無理やり連れ帰り、彼女の母親に電話を入れさせ、ここで彼女を「所有」したのだ。
ゴミ箱に捨てられたティッシュと、中身が詰まったまま口を縛られた二つのゴムが、昨夜の狂乱を如実に物語っていた。
彼は、腕の中で眠る真翠の背中に顔を埋め、震える唇で囁いた。
「真翠……奥様。……ごめん」煌人はもう、失ってしまったのだ。あの陽だまりのような場所で、自分にだけ向けられた爛漫な微笑みを。共に甘い夢を語り合ってくれた、あの頃の真翠を。
煌人は真翠の背中を壊れ物を扱うように抱きしめ、声にならない涙を枕へと染み込ませた。
(明日……明日になったら、君に似合う綺麗な服を買いに行こう。美味しいものを食べに行こう……ねえ、いいだろう?)
心の中で幾度も繰り返すその願いは、ついに言葉として形を成すことはなかった。そんな慈悲を乞う資格など、今の自分にはないと分かっていたからだ。
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煌人は彼女をマンションへ連れ戻すと、ソファの上に並べられた、裁断の精緻な、価値も付けられないほど高価なドレスたちを指し示した。
「試着してごらん。全部、君のサイズだ。一着選んで、食事に行こう」
煌人は期待していた。彼女が驚き、あるいは戸惑いながらも、その華やかな布地を身に纏う姿を。それを見守る自分を。
しかし、返ってきたのは死のような静寂だった。
次の瞬間、真翠の涙が堰を切ったように溢れ出した。
それは、煌人がこれまで一度も見たことのない泣き方だった。静かに頬を伝う涙ではない。魂そのものを吐き出そうとするかのような、激しい嗚咽。 肺から空気を絞り出し、内臓を嘔吐するかのような、凄まじい悲鳴だった。
「真翠? 君……どうしたんだ?」
煌人の心から、期待も欣喜も一瞬で消え失せた。狼狽えた彼は、震える手で彼女の肩に触れようとした。
「ごめん、真翠。気に入らなかったのか? 僕はただ、君に……」
真翠はもはや、彼の言葉など聞き届けなかった。糸の切れた人形のように絨毯へ崩れ落ち、ゆっくりと、震える手足で膝を抱え込んだ。その中に顔を深く埋め、身体を激しく痙攣させながら泣き続ける。
煌人はそれ以上、声をかけることも、近づくこともできなかった。ただ傍らで、時が過ぎるのを待つしかなかった。
真夜中、真翠が泣き疲れて気を失うように倒れ込むまで。彼はようやく彼女を抱き上げ、ベッドへと運んだ。
夜が明ける頃、煌人はようやく重い瞼を閉じ、微睡みの中に逃げ込んだ。
やがて、キッチンから微かな音が聞こえてきた。真翠が朝食を作る音だ。
ダイニングテーブルを挟み、二人は沈黙の中で食事を摂った。耐えきれなくなった煌人が、ようやく口を開く。
「真翠、昨日は……どこか具合が悪かったのか?」
真翠は何も答えなかった。彼女は手に持っていた半分のトーストを、汚物でも見るかのように皿へと放り出した。
そのまま立ち上がり、洗面所で無機質に手を洗うと、挨拶一つ、視線一つ交わすことなく、逃げるようにマンションを去っていった。
その背中を見送りながら、煌人は呪いのような確信に打ちのめされた。
自分はもう、彼女に贈り物をする資格さえない。
彼女にとっての自分は、贈り物を受け取るにふさわしい「愛する人」ではなく、ただの「略奪者」なのだ。
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