18 / 31
番外章:モジュレーション:零れ落ちた七楽章
最終樂章: 変奏曲(バリエーション):サクラの誓い、傷だらけの共依存。
しおりを挟む
金曜日に前倒しで行われた打ち上げは、煌人がようやく多忙な商談から解放され、自由を得たことを示していた。しかし、彼の頭を占めているのは、相変わらず真翠と石小路家のことばかりだった。
自分は間違った。取り返しのつかない、大きな過ちを犯してしまった。その自覚が、じわじわと彼を蝕んでいく。
喧騒が去った後の、冷え切ったマンション。
時折鼻腔をかすめる血の匂いが、彼から眠りを奪った。煌人は引き出しから真翠の肌着を取り出し、縋るように、丁寧にそれを撫でる。
「真翠……真翠……」
名を呼んでも、胸の内の痛みは引かない。巨大な罪悪感が津波のように押し寄せ、彼女に連絡を取ることさえ躊躇わせた。
結局、一睡もできぬまま夜が明けた。
クローゼットから予備の段ボールを取り出し、煌人はマンションに残された「真翠」を詰め込み始めた。
洗面台の洗顔料、真翠専用の食器、部屋を彩っていた小物たち。そして、真翠が好きだったけれど、実家では決して使えなかったフレグランス。
——ふと、記憶が蘇る。なぜ自分はこのマンションを買おうと決心したのか。
一年前の春。
彼と真翠は、どこにでもある友達のように街を歩いていた。通りがかりの手作り香水店の店先に、真翠が煌人の袖を引いて入ったのだ。
彼女は季節限定の桜の香水を取り上げ、優雅にその香りを確かめると、煌人の鼻先に寄せた。
「試してみて」
「ん、いい匂いだね」
真翠は満足げに微笑むと、何も買わずに店を出た。不思議に思った煌人が「そんなに高くないんだし、買えばいいのに」と声をかける。
「お母さんが、こういうのにアレルギーなの。嗅ぐとくしゃみと涙が止まらなくなっちゃうから」
「へぇ、ほんとね。おばさん、香水もつけないしメイクも薄いわけだ」
「そうでしょ。それに、あなたも会社の寮暮らしじゃ、こういうの楽しめないしね」
「……なんか、勿体ないな」
真翠は悪戯っぽく、けれどどこか真剣な瞳で彼を見つめた。
「煌人、頑張って。私に、家をひとつ用意してよ」
「——了解」
それから一ヶ月後。
金曜のランチタイム、煌人はいつものように技術部を訪れ、昼食を摂る真翠を見つめて笑った。
「なによ、変な顔して」
「手を貸して」
「はい」
ポケットから取り出した鍵を、真翠の手のひらに落とす。彼女は一瞬、呆然と固まった。
「これ……」
煌人が頷くと、真翠の顔に衝撃が走る。
「まさか、ね?」
「仕事が終わったら連れて行くよ」
「……やるじゃない」
仕事が終わると、煌人は真翠を連れてそのマンションへ向かった。
会社から車でわずか十分。
往復二時間の満員電車に揺られて通勤している真翠にとって、その距離は喉から手が出るほど欲しいものだった。
玄関の前で、煌人は真翠に鍵を差し出し、自分で開けるように促した。
真翠が足を踏み入れた先には、まだ生活感の薄い、けれど煌人らしい簡潔なリビングが広がっていた。
彼女が振り返り、鍵を返そうとしたとき。
煌人はそれを受け取らず、ただ短く告げた。
「持ってて。それは、お前にあげるものだから」
真翠は驚き、それから嬉しそうに微笑んでそれを受け取った。
リビング、キッチン……。
好奇心に目を輝かせて部屋を巡る彼女を、煌人は誘うように寝室へと導く。
「……ダブルベッド?」
真翠はふう、と大げさに息をつき、茶化すような視線を煌人に向けた。
「お前、この家を買った目的ってこれだったのね? 会社の寮じゃ不便だもんね。ふふ、あははっ」
「その下品な発想を今すぐ捨てろ。営業部のエースがどれだけプレッシャーの中で生きてるか知ってるか? でかいベッドは純粋にストレス解消のためだよ」
「へぇ……本当に?」
「本当に……だよ。たぶん」
最後は少しだけ声が濁った。
確かに寮に彼女を連れ込むのは気が引ける。だが、自分の買ったマンションなら自由だ。いつかは二人で……。
そんな将来の計画を悟られまいと、煌人は少し照れ隠し気味に、真翠の背中を押して寝室から連れ出した。
「ほら、スーパーに食材買いに行くぞ。新居祝いだ」
「はいはい、お供しますよ」
真翠の弾んだ声が、まだ家具の少ない部屋に明るく響いていた。
スーパーで食材を買い込み、カゴを埋めていく。
ふと思いついたように、煌人が酒のコーナーへ足を向けた。
「少し、酒も買っていこうか」
「お酒? 飲んだら、私を家まで送れないじゃない」
「俺は飲まないよ。お前が代わりに飲んでくれ。……俺の、新居祝いとしてさ」
「ああ、そういうことね」
真翠は納得したように頷き、小ぶりなワインを一本選んだ。
マンションに戻ると、彼女は慣れた手つきでエプロンを締め、キッチンに立った。
トントントン、と軽快な包丁の音がリビングに響き渡る。
煌人はソファに座ることも忘れて、キッチンで立ち働く真翠の背中をじっと見つめていた。
暖色の照明に照らされた、彼女の華奢な肩。
結い上げた髪から覗く、白いうなじ。
——今すぐ、後ろから抱きしめたい。
その衝動が、どろりとした熱を持って胸の奥で暴れる。
けれど、今そんなことをすれば、彼女を驚かせて逃げられてしまうかもしれない。
今のこの、壊れやすくも温かい空気を崩したくない。
(……我慢だ。もう少し、我慢しろ)
煌人は自分に言い聞かせるように、強く拳を握りしめた。
背中を向けて料理を作る彼女は、その視線に込められた、重すぎるほどの執着にまだ気づいていない。
「……蕎麦とハンバーグ? なんだよその組み合わせ、変なの」
煌人のツッコミに、真翠はフライパンを片手に膨れっ面をしてみせた。
「いいじゃない、食べられるだけマシでしょ。文句が多いわね」
そう言って差し出された一皿。
煌人は一口食べて、わざとらしく、小さく息をつく。
「……んー。おばさんの方が美味しいかなぁ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、真翠が「あ、そう!」と、呆れたように彼の皿に手を伸ばした。
「あ、ちょっと! 真翠、僕が悪かったって。皿を返せよ!」
「お母さんの方が美味しいんでしょ? だったら食べなくてよろしい。返して!」
「冗談だよ、冗談! ……ほら、返せってば」
笑いながら皿を取り合う二人の声。
狭いキッチンに、ハンバーグの焦げた香りと、出汁の香りが混ざり合う。
それは、どんな高級レストランの料理よりも、煌人の心を温かく満たしていた。
「で、結局なんでこの組み合わせなんだよ?」
「それは……引っ越し祝いはお蕎麦でしょ? ハンバーグは……単に私の得意料理だから」
ハンバーグは、新妻が夫に作る夕食の定番だなんて、真翠は口が裂けても言えなかった。ただ、彼の城で一度、それを作ってみたかったのだ。
「ふーん、理屈は通ってるな」
「でしょ?」
ハンバーグに赤ワイン。真翠はスーパーで買った小瓶をあっという間に空けてしまった。煌人が棚から別のボトルを取り出すと、真翠は目を細めてそれを見つめた。高そうなラベルだ。
「どこから持ってきたの?」
「取引先の特産品。評判いいらしいよ、試してみる?」
「飲む、飲む!」
煌人は小さくため息をついた。彼のアドラーは、酔うとこの状態になる。可愛すぎて困るが、まあ、彼にとっては好都合だった。
真翠はグラスを揺らしながら、とろんとした瞳で煌人を見つめる。
「ねぇ……煌人兄(にい)」
「はいはい、ここにいるよ」
「ふふっ。この家、身体で買ったんじゃないでしょうね?」
煌人は真翠の鼻を軽く摘まんだ。
「バカ言え。お兄ちゃんはこう見えてもチェリーだ。……試してみるか?」
「痛っ! ……試さない。ダメなの、そんなの試したら……」
「ん? 試したら、どうなるんだよ」
真翠は答えず、ただ首を横に振る。
「……まあな、まだその時じゃないか」
「その時って……いつ?」
「ああ、いや。このマンション、ローンが三十年もあるんだ。……一緒に返そうぜ」
「えっ? 私が?」
「そう。俺と、お前で」
「……うん、私たち?」
「……えん……」
「……二人だけ?……」
「……えん……」
「……そうなら、いいよ……」
真翠がふにゃりと、幼い子供のように無邪気に笑った。
その曇りのない笑顔が、煌人の視界を真っ白に焼き尽くすほどに眩しく、彼を眩ませた。
「約束したからな」
(返事が早すぎる。明日には忘れてるんじゃないか?)
煌人がそう苦笑する頃には、真翠はテーブルに突っ伏して眠っていた。
煌人は手際よく彼女の身なりを整えると、抱きかかえて車に乗せ、彼女の家へと向かった。
インターホンを鳴らすと、真翠の母の穏やかな声が響いた。
「どなたかしら」
「おばさん、煌人です。真翠を送ってきました」
「あらあら、またあの子、迷惑をかけて……。今開けるわね」
ドアが開くと、母親は慌てて真翠を支えた。
「こんなに飲んで……煌人君、本当にごめんなさい。さあ、中で休んでいって」
「ありがとうございます。……実は、お二人にご相談したいこともありまして。車を停めてくるので、少しお待ちいただけますか」
礼儀正しく、筋の通ったこの若者と、酔い潰れた娘。真翠の母は少し言葉に詰まりながらも、娘を部屋へ運んだ後、父と共にソファで彼を待った。
「夜分に失礼いたします」
煌人は再び深く頭を下げ、新居を購入したことを報告した。両親からは心からの祝福が送られた。少し間を置いて、煌人は切り出した。
「おじ様、おば様。新しいマンションは会社まで十分の距離にあります。今後、真翠の残業が深夜に及ぶ際は、僕の部屋に泊まることを許していただけないでしょうか」
両親は予想外の申し出に戸惑いの表情を浮かべた。
「それは……煌人君、君を信じていないわけじゃないけれど。今の二人の関係では……」
「ご懸念は承知しています。彼女専用の部屋も用意しましたし、責任を持って彼女を守ります。決して、無理なことはいたしません」
「……私たちは、君に無理な約束をさせるつもりはないんだが。ただ……」
「おじ様。どうか、僕にチャンスをください」
「……わかった。あの分からず屋の娘を、よろしく頼むよ」
「はい。万感の思いを込めて、というほどの覚悟で、お引き受けします」
玄関先で、両親は煌人の背中を見送った。
「パパ、あの子なりの、覚悟のつもりだったのかしら」
「そのようだな、ママ」
「あんなにハッキリ宣言しなくても。……二階にいる本人に言えばいいのにね」
真翠の母は、困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
煌人は、段ボール箱の中に収まった真翠の「欠片」たちを、ただ茫然と見つめていた。
そこにあるのは、かつて二人で積み上げた愛おしい日常の残骸だ。
後悔が、どろりとした猛毒のように全身を駆け巡る。
あんなに我慢できていたのに。
あと、ほんの少しだったんだ。
あと少し、あのまま礼儀正しく、彼女を大切に守り抜いていれば。
手に入れられたのは、彼女の身体だけじゃない。
あの屈託のない笑顔も。
二人で描いた、眩いばかりの未来も。
彼女という存在の、そのすべてを、陽の当たる場所で堂々と手に入れられたはずなのに。
「……どうして、我慢できなかったんだ」
一度、その一線を越えてしまえば。
一度、その獣のような欲望を解放してしまえば。
もう二度と、あの春の日のような純粋な二人には戻れない。
壊してしまった。
自分自身の手で、彼女の心に鍵をかけさせ、彼女から光を奪ってしまった。
煌人は真翠の肌着を箱の底に沈めると、逃げるように蓋を閉じた。
ガムテープが引き裂かれる耳障りな音が、静まり返ったマンションに、まるで断罪の叫びのように響き渡った。
煌人は全ての力を失い、ただ引き出しを見つめていた。
そこには、あのランジェリーのセットが残されている。それだけは、真翠に返したくない唯一のものだった。
彼女が自分の世界から消えてしまった後、彼には証明が必要だった。かつて自分の太陽を、その手の中に収めていたという証拠が。
たとえそれが、彼女の純潔の痛みに染まった、苦痛の記憶そのものだったとしても。
真翠の優しさは、あまりに柔らかく、そしてあまりに苛烈だった。
彼女は煌人に最も親密な行為を許しながら、その心だけは決して近づかせまいと鍵をかけていたのだ。
煌人はそのことを、痛いほどに理解していた。
月曜日。
煌人は病欠を届け出し、昼時に「来る? 会いたい」と一通だけメッセージを送った。
仕事が終わってから来るだろうと思っていたが、予想に反して、彼女は昼過ぎにはやってきた。
カチリ、とドアが開く音。
「煌人、いるんでしょ?」
真翠の声は少し慌てているようだったが、相変わらず優しかった。
寝室に入ってきた彼女は、壁に背を預け、青白くなっている煌人を見て、その場に膝をついた。
「熱があるの?」
「……ないよ」
「ちゃんと食べてる?」
「……覚えてない」
真翠が溜息をつき、立ち上がろうとしたその瞬間。
煌人はその手を掴んで引き寄せ、彼女の頭を自分の胸に押し当てた。
そして、耳元で静かに囁く。
「真翠……お前を解放してあげるよ。いいかな」
真翠は一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐさま弾かれたように彼から離れた。
ドア際まで逃げるように後退し、複雑な視線を煌人に投げかける。
彼はただ、力なく、自嘲的な笑みを浮かべることしかできなかった。
やがて彼女は部屋を出ていき、玄関の鍵が閉まる非情な音が響いた。
これで、終わりだ。
このまま静かに死するか、あるいは世界の終わりを待つのも悪くない。
——だが、信じられないことに。
真翠は再び、寝室に戻ってきたのだ。
呆然と見つめる煌人に、彼女は何も言わずに歩み寄り、今度は自分から彼を抱きしめた。
「……寒いの?」
「うん……」
「ベッドに入る?」
「……うん」
煌人は残された力を振り絞り、真翠をベッドに押し倒した。
貪るように彼女の唇を奪う。
いつも通り、柔らかい。
なのに、どうしてこれほどまでに冷たいのだろう。
キスを終え、微かな吐息の中で煌人が呟く。
「真翠……」
煌人は、彼女の冷たい首筋に顔を埋めたまま、掠れた声で漏らした。
彼女を汚し、彼女の家族を裏切った自分には、もう未来を語る資格なんてない。
けれど、彼女のいない世界で生きていくことなんて、もっと不可能だった。
「僕たち、このままでいい。……このままで、いさせてくれるか」
(いつかお前が僕を嫌いになる日まで、この地獄でいいから隣にいてくれ)
真翠の身体が、一瞬だけ、悲鳴を上げるように微かに震えた。
彼女は煌人の背中に腕を回し、その震えを隠すように強く抱きしめ返す。
(私みたいな女、いつかあなたは捨ててしまう。……だったら、心が壊れる前に、この幸せな停滞の中に閉じ込めておいて)
「……ええ。いいわよ、煌人」
その声は、震えるほどに優しく。
そして、二人の破滅を確定させるほどに、決然としていた。
「真翠……ありがとう……」
煌人は子供のように泣きながら、彼女の温もりに縋り付いた。
二人は互いに「自分こそが相手に相応しくない」と信じ込み、その卑屈な愛ゆえに、出口のない暗闇を選んだのだ。
自分は間違った。取り返しのつかない、大きな過ちを犯してしまった。その自覚が、じわじわと彼を蝕んでいく。
喧騒が去った後の、冷え切ったマンション。
時折鼻腔をかすめる血の匂いが、彼から眠りを奪った。煌人は引き出しから真翠の肌着を取り出し、縋るように、丁寧にそれを撫でる。
「真翠……真翠……」
名を呼んでも、胸の内の痛みは引かない。巨大な罪悪感が津波のように押し寄せ、彼女に連絡を取ることさえ躊躇わせた。
結局、一睡もできぬまま夜が明けた。
クローゼットから予備の段ボールを取り出し、煌人はマンションに残された「真翠」を詰め込み始めた。
洗面台の洗顔料、真翠専用の食器、部屋を彩っていた小物たち。そして、真翠が好きだったけれど、実家では決して使えなかったフレグランス。
——ふと、記憶が蘇る。なぜ自分はこのマンションを買おうと決心したのか。
一年前の春。
彼と真翠は、どこにでもある友達のように街を歩いていた。通りがかりの手作り香水店の店先に、真翠が煌人の袖を引いて入ったのだ。
彼女は季節限定の桜の香水を取り上げ、優雅にその香りを確かめると、煌人の鼻先に寄せた。
「試してみて」
「ん、いい匂いだね」
真翠は満足げに微笑むと、何も買わずに店を出た。不思議に思った煌人が「そんなに高くないんだし、買えばいいのに」と声をかける。
「お母さんが、こういうのにアレルギーなの。嗅ぐとくしゃみと涙が止まらなくなっちゃうから」
「へぇ、ほんとね。おばさん、香水もつけないしメイクも薄いわけだ」
「そうでしょ。それに、あなたも会社の寮暮らしじゃ、こういうの楽しめないしね」
「……なんか、勿体ないな」
真翠は悪戯っぽく、けれどどこか真剣な瞳で彼を見つめた。
「煌人、頑張って。私に、家をひとつ用意してよ」
「——了解」
それから一ヶ月後。
金曜のランチタイム、煌人はいつものように技術部を訪れ、昼食を摂る真翠を見つめて笑った。
「なによ、変な顔して」
「手を貸して」
「はい」
ポケットから取り出した鍵を、真翠の手のひらに落とす。彼女は一瞬、呆然と固まった。
「これ……」
煌人が頷くと、真翠の顔に衝撃が走る。
「まさか、ね?」
「仕事が終わったら連れて行くよ」
「……やるじゃない」
仕事が終わると、煌人は真翠を連れてそのマンションへ向かった。
会社から車でわずか十分。
往復二時間の満員電車に揺られて通勤している真翠にとって、その距離は喉から手が出るほど欲しいものだった。
玄関の前で、煌人は真翠に鍵を差し出し、自分で開けるように促した。
真翠が足を踏み入れた先には、まだ生活感の薄い、けれど煌人らしい簡潔なリビングが広がっていた。
彼女が振り返り、鍵を返そうとしたとき。
煌人はそれを受け取らず、ただ短く告げた。
「持ってて。それは、お前にあげるものだから」
真翠は驚き、それから嬉しそうに微笑んでそれを受け取った。
リビング、キッチン……。
好奇心に目を輝かせて部屋を巡る彼女を、煌人は誘うように寝室へと導く。
「……ダブルベッド?」
真翠はふう、と大げさに息をつき、茶化すような視線を煌人に向けた。
「お前、この家を買った目的ってこれだったのね? 会社の寮じゃ不便だもんね。ふふ、あははっ」
「その下品な発想を今すぐ捨てろ。営業部のエースがどれだけプレッシャーの中で生きてるか知ってるか? でかいベッドは純粋にストレス解消のためだよ」
「へぇ……本当に?」
「本当に……だよ。たぶん」
最後は少しだけ声が濁った。
確かに寮に彼女を連れ込むのは気が引ける。だが、自分の買ったマンションなら自由だ。いつかは二人で……。
そんな将来の計画を悟られまいと、煌人は少し照れ隠し気味に、真翠の背中を押して寝室から連れ出した。
「ほら、スーパーに食材買いに行くぞ。新居祝いだ」
「はいはい、お供しますよ」
真翠の弾んだ声が、まだ家具の少ない部屋に明るく響いていた。
スーパーで食材を買い込み、カゴを埋めていく。
ふと思いついたように、煌人が酒のコーナーへ足を向けた。
「少し、酒も買っていこうか」
「お酒? 飲んだら、私を家まで送れないじゃない」
「俺は飲まないよ。お前が代わりに飲んでくれ。……俺の、新居祝いとしてさ」
「ああ、そういうことね」
真翠は納得したように頷き、小ぶりなワインを一本選んだ。
マンションに戻ると、彼女は慣れた手つきでエプロンを締め、キッチンに立った。
トントントン、と軽快な包丁の音がリビングに響き渡る。
煌人はソファに座ることも忘れて、キッチンで立ち働く真翠の背中をじっと見つめていた。
暖色の照明に照らされた、彼女の華奢な肩。
結い上げた髪から覗く、白いうなじ。
——今すぐ、後ろから抱きしめたい。
その衝動が、どろりとした熱を持って胸の奥で暴れる。
けれど、今そんなことをすれば、彼女を驚かせて逃げられてしまうかもしれない。
今のこの、壊れやすくも温かい空気を崩したくない。
(……我慢だ。もう少し、我慢しろ)
煌人は自分に言い聞かせるように、強く拳を握りしめた。
背中を向けて料理を作る彼女は、その視線に込められた、重すぎるほどの執着にまだ気づいていない。
「……蕎麦とハンバーグ? なんだよその組み合わせ、変なの」
煌人のツッコミに、真翠はフライパンを片手に膨れっ面をしてみせた。
「いいじゃない、食べられるだけマシでしょ。文句が多いわね」
そう言って差し出された一皿。
煌人は一口食べて、わざとらしく、小さく息をつく。
「……んー。おばさんの方が美味しいかなぁ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、真翠が「あ、そう!」と、呆れたように彼の皿に手を伸ばした。
「あ、ちょっと! 真翠、僕が悪かったって。皿を返せよ!」
「お母さんの方が美味しいんでしょ? だったら食べなくてよろしい。返して!」
「冗談だよ、冗談! ……ほら、返せってば」
笑いながら皿を取り合う二人の声。
狭いキッチンに、ハンバーグの焦げた香りと、出汁の香りが混ざり合う。
それは、どんな高級レストランの料理よりも、煌人の心を温かく満たしていた。
「で、結局なんでこの組み合わせなんだよ?」
「それは……引っ越し祝いはお蕎麦でしょ? ハンバーグは……単に私の得意料理だから」
ハンバーグは、新妻が夫に作る夕食の定番だなんて、真翠は口が裂けても言えなかった。ただ、彼の城で一度、それを作ってみたかったのだ。
「ふーん、理屈は通ってるな」
「でしょ?」
ハンバーグに赤ワイン。真翠はスーパーで買った小瓶をあっという間に空けてしまった。煌人が棚から別のボトルを取り出すと、真翠は目を細めてそれを見つめた。高そうなラベルだ。
「どこから持ってきたの?」
「取引先の特産品。評判いいらしいよ、試してみる?」
「飲む、飲む!」
煌人は小さくため息をついた。彼のアドラーは、酔うとこの状態になる。可愛すぎて困るが、まあ、彼にとっては好都合だった。
真翠はグラスを揺らしながら、とろんとした瞳で煌人を見つめる。
「ねぇ……煌人兄(にい)」
「はいはい、ここにいるよ」
「ふふっ。この家、身体で買ったんじゃないでしょうね?」
煌人は真翠の鼻を軽く摘まんだ。
「バカ言え。お兄ちゃんはこう見えてもチェリーだ。……試してみるか?」
「痛っ! ……試さない。ダメなの、そんなの試したら……」
「ん? 試したら、どうなるんだよ」
真翠は答えず、ただ首を横に振る。
「……まあな、まだその時じゃないか」
「その時って……いつ?」
「ああ、いや。このマンション、ローンが三十年もあるんだ。……一緒に返そうぜ」
「えっ? 私が?」
「そう。俺と、お前で」
「……うん、私たち?」
「……えん……」
「……二人だけ?……」
「……えん……」
「……そうなら、いいよ……」
真翠がふにゃりと、幼い子供のように無邪気に笑った。
その曇りのない笑顔が、煌人の視界を真っ白に焼き尽くすほどに眩しく、彼を眩ませた。
「約束したからな」
(返事が早すぎる。明日には忘れてるんじゃないか?)
煌人がそう苦笑する頃には、真翠はテーブルに突っ伏して眠っていた。
煌人は手際よく彼女の身なりを整えると、抱きかかえて車に乗せ、彼女の家へと向かった。
インターホンを鳴らすと、真翠の母の穏やかな声が響いた。
「どなたかしら」
「おばさん、煌人です。真翠を送ってきました」
「あらあら、またあの子、迷惑をかけて……。今開けるわね」
ドアが開くと、母親は慌てて真翠を支えた。
「こんなに飲んで……煌人君、本当にごめんなさい。さあ、中で休んでいって」
「ありがとうございます。……実は、お二人にご相談したいこともありまして。車を停めてくるので、少しお待ちいただけますか」
礼儀正しく、筋の通ったこの若者と、酔い潰れた娘。真翠の母は少し言葉に詰まりながらも、娘を部屋へ運んだ後、父と共にソファで彼を待った。
「夜分に失礼いたします」
煌人は再び深く頭を下げ、新居を購入したことを報告した。両親からは心からの祝福が送られた。少し間を置いて、煌人は切り出した。
「おじ様、おば様。新しいマンションは会社まで十分の距離にあります。今後、真翠の残業が深夜に及ぶ際は、僕の部屋に泊まることを許していただけないでしょうか」
両親は予想外の申し出に戸惑いの表情を浮かべた。
「それは……煌人君、君を信じていないわけじゃないけれど。今の二人の関係では……」
「ご懸念は承知しています。彼女専用の部屋も用意しましたし、責任を持って彼女を守ります。決して、無理なことはいたしません」
「……私たちは、君に無理な約束をさせるつもりはないんだが。ただ……」
「おじ様。どうか、僕にチャンスをください」
「……わかった。あの分からず屋の娘を、よろしく頼むよ」
「はい。万感の思いを込めて、というほどの覚悟で、お引き受けします」
玄関先で、両親は煌人の背中を見送った。
「パパ、あの子なりの、覚悟のつもりだったのかしら」
「そのようだな、ママ」
「あんなにハッキリ宣言しなくても。……二階にいる本人に言えばいいのにね」
真翠の母は、困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
煌人は、段ボール箱の中に収まった真翠の「欠片」たちを、ただ茫然と見つめていた。
そこにあるのは、かつて二人で積み上げた愛おしい日常の残骸だ。
後悔が、どろりとした猛毒のように全身を駆け巡る。
あんなに我慢できていたのに。
あと、ほんの少しだったんだ。
あと少し、あのまま礼儀正しく、彼女を大切に守り抜いていれば。
手に入れられたのは、彼女の身体だけじゃない。
あの屈託のない笑顔も。
二人で描いた、眩いばかりの未来も。
彼女という存在の、そのすべてを、陽の当たる場所で堂々と手に入れられたはずなのに。
「……どうして、我慢できなかったんだ」
一度、その一線を越えてしまえば。
一度、その獣のような欲望を解放してしまえば。
もう二度と、あの春の日のような純粋な二人には戻れない。
壊してしまった。
自分自身の手で、彼女の心に鍵をかけさせ、彼女から光を奪ってしまった。
煌人は真翠の肌着を箱の底に沈めると、逃げるように蓋を閉じた。
ガムテープが引き裂かれる耳障りな音が、静まり返ったマンションに、まるで断罪の叫びのように響き渡った。
煌人は全ての力を失い、ただ引き出しを見つめていた。
そこには、あのランジェリーのセットが残されている。それだけは、真翠に返したくない唯一のものだった。
彼女が自分の世界から消えてしまった後、彼には証明が必要だった。かつて自分の太陽を、その手の中に収めていたという証拠が。
たとえそれが、彼女の純潔の痛みに染まった、苦痛の記憶そのものだったとしても。
真翠の優しさは、あまりに柔らかく、そしてあまりに苛烈だった。
彼女は煌人に最も親密な行為を許しながら、その心だけは決して近づかせまいと鍵をかけていたのだ。
煌人はそのことを、痛いほどに理解していた。
月曜日。
煌人は病欠を届け出し、昼時に「来る? 会いたい」と一通だけメッセージを送った。
仕事が終わってから来るだろうと思っていたが、予想に反して、彼女は昼過ぎにはやってきた。
カチリ、とドアが開く音。
「煌人、いるんでしょ?」
真翠の声は少し慌てているようだったが、相変わらず優しかった。
寝室に入ってきた彼女は、壁に背を預け、青白くなっている煌人を見て、その場に膝をついた。
「熱があるの?」
「……ないよ」
「ちゃんと食べてる?」
「……覚えてない」
真翠が溜息をつき、立ち上がろうとしたその瞬間。
煌人はその手を掴んで引き寄せ、彼女の頭を自分の胸に押し当てた。
そして、耳元で静かに囁く。
「真翠……お前を解放してあげるよ。いいかな」
真翠は一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐさま弾かれたように彼から離れた。
ドア際まで逃げるように後退し、複雑な視線を煌人に投げかける。
彼はただ、力なく、自嘲的な笑みを浮かべることしかできなかった。
やがて彼女は部屋を出ていき、玄関の鍵が閉まる非情な音が響いた。
これで、終わりだ。
このまま静かに死するか、あるいは世界の終わりを待つのも悪くない。
——だが、信じられないことに。
真翠は再び、寝室に戻ってきたのだ。
呆然と見つめる煌人に、彼女は何も言わずに歩み寄り、今度は自分から彼を抱きしめた。
「……寒いの?」
「うん……」
「ベッドに入る?」
「……うん」
煌人は残された力を振り絞り、真翠をベッドに押し倒した。
貪るように彼女の唇を奪う。
いつも通り、柔らかい。
なのに、どうしてこれほどまでに冷たいのだろう。
キスを終え、微かな吐息の中で煌人が呟く。
「真翠……」
煌人は、彼女の冷たい首筋に顔を埋めたまま、掠れた声で漏らした。
彼女を汚し、彼女の家族を裏切った自分には、もう未来を語る資格なんてない。
けれど、彼女のいない世界で生きていくことなんて、もっと不可能だった。
「僕たち、このままでいい。……このままで、いさせてくれるか」
(いつかお前が僕を嫌いになる日まで、この地獄でいいから隣にいてくれ)
真翠の身体が、一瞬だけ、悲鳴を上げるように微かに震えた。
彼女は煌人の背中に腕を回し、その震えを隠すように強く抱きしめ返す。
(私みたいな女、いつかあなたは捨ててしまう。……だったら、心が壊れる前に、この幸せな停滞の中に閉じ込めておいて)
「……ええ。いいわよ、煌人」
その声は、震えるほどに優しく。
そして、二人の破滅を確定させるほどに、決然としていた。
「真翠……ありがとう……」
煌人は子供のように泣きながら、彼女の温もりに縋り付いた。
二人は互いに「自分こそが相手に相応しくない」と信じ込み、その卑屈な愛ゆえに、出口のない暗闇を選んだのだ。
0
あなたにおすすめの小説
繰り返す夜と嘘 〜【実録】既婚の僕と後輩の彼女、あの夜のキスから始まった13年の秘密〜
まさき
恋愛
結婚して半年の僕と、同じ職場の彼女。
出会った頃は、ただの先輩と新入社員だった。
互いに意識しながらも、
数年間、距離を保ち続けた。
ただ見つめるだけの関係。
けれど――
ある夏の夜。
納涼会の帰り道。
僕が彼女の手を握った瞬間、
すべてが変わった。
これは恋でも、友情でもない。
けれど理性では止められない、
名前のない関係。
13年続いた秘密。
誓約書。
そして、5年の沈黙。
これは――
実際にあった「夜」の記録。
カモフラージュの恋
湖月もか
恋愛
容姿端麗、文武両道、しかも性格までよし。まるで少女漫画の王子様のような幼馴染な彼。
当たり前だが、彼は今年も囲まれている。
そんな集団を早く終わらないかなと、影から見ている私の話。
※あさぎかな様に素敵な表紙を作成していただきました!
うちの幼馴染がデレすぎてて俺の理性はもう限界。でも毎日が最高に甘いからもうどうでもいいや
静内燕
恋愛
相沢悠太の日常は、規格外の美少女である幼馴染、白石葵によって完全に支配されている。
朝のモーニングコール(ベッドへのダイブ付き)から始まり、登校中の腕組み、そして「あーん」が義務付けられた手作り弁当。誰もが羨むラブラブっぷりだが、悠太はこれを「家族愛」だと頑なに誤解(無視)している。
「ゆーたは私の運命の相手なんだもん!」と、葵のデレデレは今日も過剰の一途。周囲の冷やかしや、葵を狙う男子生徒のプレッシャーが高まる中、悠太の**「幼馴染フィルター」**はついに限界を迎える。
この溺愛っぷり、いつまで「家族」で通せるのか?
甘すぎる日常が、悠太の鈍感な理性を溶かし尽くす――最初からクライマックスの、超高濃度イチャイチャ・ラブコメ、開幕!
旦那様の愛が重い
おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。
毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。
他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。
甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。
本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
由香
恋愛
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる