【R18】十二年の孤独な両片思い――解けない愛の無理関数

夜子

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番外章:スクール・プロフィール:『生徒手帳』

第二ページ —— 家庭教師  家族の新たな一員、弾む学び舎と不器用な「お兄ちゃん」、そして隠しきれない恋心

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石小路家の食卓には、どこか落ち着かない、刺すような空気が流れていた。
母さんと楽しげに話す星野の横で、父さんは一言も発さず、ただ品定めをするような鋭い視線を彼に投げ続けている。
無理もない。突如として娘が連れてきた「同級生」は、お世辞にも品行方正とは言えない噂の絶えない少年なのだから。

(……やっぱり、連れてくるんじゃなかった)

自分の衝動的なお節介を、心の底から後悔し始めていた。

​夕食後、父さんが重い口を開いた。
「星野君、ちょっと書斎へ来なさい」
その声の低さに、心臓が跳ねる。助け舟を出そうとした真翠の肩を、母さんが優しく制した。ただ静かに、大丈夫だからと首を振る母さんの横で、真翠は祈るような気持ちでソファに座り込み、書斎のドアを見つめるしかなかった。
​書斎の重いドアが閉まる。
父さんは、正面に座る星野を射抜くような目で見据えた。
「星野煌人君、だったな。……真翠の友達から、君の噂については色々と聞いている。あまり、感心しない話ばかりだが」
「……否定はしません。概ね、事実です」
予想外の潔さに、父さんの眉がぴくりと動いた。
「では、真翠についてはどう考えている。遊びのつもりなら、今すぐ帰ってもらうが」
​「彼女とは付き合います。浮気もしないって保証します。」
​星野は堂々と言い放った。
​「……ほう」
​父さんは、壁際に置かれたゴルフバッグに一瞬視線を落とした。
「私の娘は、異性と遊びで付き合うような珠じゃない。……次、そんな軽い口を叩いたら、本当にぶっ飛ばすからな。いいか、星野君」
「……あ、すみません」
星野は反射的に謝ったが、自分がどこで地雷を踏んだのか、あるいはなぜ許されたのか、その時の彼にはまだ分かっていなかった。
​「真翠から聞いたが、成績は優秀だそうじゃないか。塾には?」
「いえ、独学です。学校で教わる程度のことなら、一人で簡単に事足りますから」
「……なら、真翠の家庭教師を引き受けてくれないか。あの子は絵ばかりで、勉強はさっぱりだ。せめて、人並みの大学には行ってほしいと思っている。もちろん、指導料は払う」
「おじ様、お金はいりません。……その代わり、ここで晩ご飯を食べさせてくれませんか。自分の家より、ずっと安心できるんです」
「……。飯くらいなら、いくらでも食わせてやる。だが、金は受け取れ。真翠と同じように、小遣いとしてな」
「……ありがとうございます」

その日から、真翠の「受難」が幕を開けた。
星野は驚くほど自然に、石小路家に溶け込んでいった。放課後は影のように真翠の後ろをついて回り、自転車を押しながら一緒に帰宅する。夕飯が終われば、すぐさま真翠を捕まえて書斎に引き摺り込み、スパルタ補習を開始する。
美術教室の送り迎えさえ、いつの間にか母さんから彼の役割へと変わっていた。
おまけに、あの端正すぎる顔立ちのせいで講師に気に入られ、デッサンモデルのバイトまで始める始末だ。

学校でも、家でも、挙句の果てには美術教室でキャンバスに向かっている時でさえ、目の前にいるのは星野煌人。
「ねえ、星野。あんた、私の『一人っ子』の座を奪うつもり?」
​ふと見ると、母さんのエプロンを身につけた星野が、家族全員の夕食を作ろうと準備をしていた。彼は自分の方をジロジロと見る、真翠を一瞥すると、買ってきたばかりの食材に視線を戻した。
​星野の声が、ふっと低くなる。
「俺には帰る場所なんてないんだ。家に帰ったって、飯を作ってくれる奴もいないし。……ここにいたいんだよ」
​不意に見せられた剥き出しの弱音に、真翠は毒気を抜かれた。少しだけ、可哀想だと思ってしまった。
「……じゃあ、弟としてなら、居てあげてもいいけど」
「断る。俺は兄貴にしかなれない。ほら、『お兄様』って呼んでみろよ」
「二ヶ月も年下のくせに!」
「なら、チャンスをやる」
星野は机の上の問題集を指先で叩いた。
「次のテスト、順位を三十パーセント上げたら、俺を『お兄ちゃん』って呼べ。届かなかったら、家族の前で俺を『先生』って呼んでもらうぞ」
「……なんで『弟』っていう選択肢がないのよ!」
「全科目で俺より点数が高かったら、弟にしてやるよ」
「……! 最初から選択肢にないのと一緒じゃない! 喧嘩売ってんの!?」

言い合いは絶えないけれど、二人の距離は少しずつ、確実に熱を帯びていった。
​ある週末。星野は真翠の解答用紙を睨みつけながら、心底呆れたように吐き捨てた。
「石小路真翠、お前、よく高校に受かったな……。円周率の意味すら分かってないだろ」
「何よ、また!」
「……ほら、こっち来い」
​星野は真翠の手首を掴むと、自分の大きな手を私の手に重ねた。手の中から伝わる熱に、心臓が跳ねる。
彼はどこからか赤い毛糸を取り出すと、それを机の上に置いた。
​「これが直径だ。この毛糸を円周に巻き付けていくぞ……一回、二回、三回。……ほら、少し足りないだろ? これが3.14だ」
​赤い糸が円を描く。顔が触れそうなほど近く、彼の髪から微かにミントの香りがした。
「……へぇ、本当だ」
「分かったか?」
耳元をかすめる吐息が、身体の芯を痺れさせる。
「……わ、分かったわよ」
顔を向けられなかった。その赤い糸は紙の上じゃなくて、私の胸のど真ん中に巻き付けられたような気がしたから。

​美術教室での緊張感は、それ以上だった。
デッサンの時間、煌人の体のラインに苦戦している真翠を見て、煌人は不敵に笑いながら囁いた。
「真翠。……そんなに苦労してるなら、脱いでやってもいいんだぜ。本物の人体構造、復習したいだろ?」
「……! お父さんに言って、ゴルフバッグでぶっ飛ばしてもらうから!」
「おい、冗談だって」
星野は苦笑いして両手を挙げたけれど、真翠は密かに思っていた。
(……本当は、ちょっとだけ見てみたいかも)

期末試験の結果が出た日。廊下には熱を帯びた蝉時雨が流れ込んでいた。
ようやく平均点まで這い上がった成績表を見て、真翠は安堵のため息をつこうとした。けれど、視線の先――首位に君臨する名前は、相変わらず星野煌人。その圧倒的な数字は、もはや暴力に近い。
​煌人は壁に背を預け、逆光の中でミントタブレットを噛んでいた。真翠に気づくと、彼は挑発的に成績表をひらつかせ、口パクでこう告げた。

『お・に・い・ち・ゃ・ん・、だ・ろ?』

「……死ね、ナルシスト!」
真翠は彼を激しく睨みつけ、足早に立ち去った。

その日の夜。補習はいつものように、静まり返った書斎で行われていた。
デスクライトの狭い光の中で、星野はペンを置き、楽しそうに私を見つめた。
「成績表、見たぞ。三十一パーセントアップ。俺の勝ちだな、石小路」
「……忘れたわよ、そんなの」
「しらばっくれるなよ」
星野の声が甘く低くなり、心臓を直接揺さぶる。
「いいよ。じゃあ、目を閉じろ」
「な、何よ……」
「いいから、早く」
星野は少し苛立ったように急かしたけれど、真翠は気づかなかった。彼が握りしめているペンが、微かに震えていることに。

真翠は服の裾をぎゅっと掴み、震えながら目を閉じた。
​部屋は死んだように静まり返り、二人の鼓動だけが重なって聞こえる。星野の気配が近づいてくる。初吻(はつこい)――そんな言葉が脳裏をよぎり、呼吸の仕方を忘れてしまう。
​あと数センチ。唇に触れる、と思ったその時。
父さんの『遊び半分ならぶっ殺すぞ』という声が、星野の脳裏を過った。

「ペシッ!」

乾いた音が響いた。
「痛っ! 星野煌人、あんた小学生!?」
真翠は額を押さえて飛び退いた。目尻には驚きと痛みで、じわりと涙が滲む。
​「お兄ちゃんって呼ばないからだろ」
星野は素早く姿勢を正した。耳の付け根まで真っ赤にしながら、どこか必死な顔で。
「……何かされるかと思ったじゃない」
真翠は額をさすりながら、自分でも気づかないほど小さな、落胆の混じった声を漏らした。
​「何かされるかと思った?」
内心を見透かされた動欲を隠すように、星野はいつもの毒舌を吐いた。
「お前みたいな魅力のカケラもない女に、手を出すわけないだろ。自惚れんな」

……その言葉が、胸に深く刺さった。
(そうよね。あいつにとって、私は『手を出す価値もない女』なんだ)
「そうよね。天才様は、さぞかしお目が高いんでしょうよ!」
真翠はふてくされてうつむき、問題集をバサバサと乱暴にめくった。

真翠は気づかなかった。向かい側に座る星野が、本をめくる動作で真っ赤になった耳を隠し、二度と私と目を合わせられなくなっていたことに。
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