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番外章:スクール・プロフィール:『生徒手帳』
第三ページ —— 夏休み学習グループ 揺れる浴衣と消せない火花、この夜の鼓動を、いつか認めさせるまで
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ようやく、待ちに待った夏休みがやってきた。
陽葵が真翠の手をぐいと取り、信じられないものを見るように目を丸くしている。
「真翠、あんた凄すぎ! どうやったのよ、その順位」
真翠は言い淀みながら、困ったように視線を泳がせた。
「それは……星野君が、勉強を見てくれてるから……」
「誰よ。星野……煌人!?」
陽葵の声が裏返る。
「……あんたの親、知ってんの?」
「お父さんが誘ったのよ」
「おじさんとおばさんが知ってるならいいけど、いや、よくないわよ! 石小路真翠!」
「なによ、急にフルネームで」
「今まで隠してたなんて、いい度胸じゃない! こっちは何も知らなかったんだから」
「……どう言えばいいか分からなかったのよ」
「ふふふ……贖罪の時間よ、子猫ちゃん」
こうして、奇妙な『夏休み学習グループ』が結成された。
リーダー:星野煌人(学年首位)。
サブリーダー:佐藤大樹(上位層)。
メンバー:小井陽葵(中上位)。
メンバー:石小路真翠(中位層)。
倍になった人数を見て、煌人は少し動揺したように真翠を振り返った。
「真翠、俺はおじさんに頼まれてお前の勉強を見てるんだ。他の奴まで教えるなんて聞いてないぞ」
大樹が眼鏡を押し上げながら、冷静に口を挟む。
「俺は教えてもらう必要はない。陽葵に引っ張られてきただけだ」
陽葵は素早い手つきで大樹の口を塞ぐと、すぐさま言葉を被せた。
「いいえ! 教えてもらう必要があるわ!」
剣吞な雰囲気の三人を見て、真翠は苦笑いしながら割って入った。
「いいじゃない。人数が多い方が、勉強も捗る気がするし」
陽葵は不敵な笑みを浮かべた。
「星野君、ちょっといいかしら。外で話しましょう」
煌人は怪訝そうな顔をしながらも、真翠をちらりと一瞥してから陽葵についていった。
「大樹君、あの二人は何を話すのかしら?」
「さあな。……とりあえず、復習を始めようか」
「……ええ」
その頃、リビングに連れて行かれた煌人は、目を細めて陽葵を睨みつけていた。
「そんな目で見ないでよ、怖いじゃない」
「それで、何の用だ」
「あんた、私の成績を大樹と同じレベルまで引き上げられる?」
「はあ? なんで俺がそんなことを」
「理由はいいの。その代わり、条件があるわ。もし引き受けてくれるなら、この夏休み、私があんたと真翠のデートをセッティングしてあげてもいいわよ?」
「……何? デ、デート……?」
「そう。このまま夏休み中ずっと石小路家の書斎に二人で籠もるか、それとも真翠と一緒にプールや海、夏祭り、それから……」
「ストップ。……分かった。乗った」
「いい返事。じゃあ、交渉成立ね」
「……来週の夏祭りは?」
「私に任せなさいって」
二人が書斎に戻ってくると、煌人はいつもの冷徹な表情を崩し、突然陽葵の成績に異常なまでの熱意を見せ始めた。あと二週間で全校一位にする勢いだ。
空気は少し奇妙になったが、なぜか調和は取れていた。
一週間も勉強を続けると、あの大樹でさえ煌人を認めざるを得なかった。
「石小路さんから独学だと聞いていたが、正直、半信疑だった。……だが、君は確かに本物だ。大したものだよ、星野君」
「……お褒めに預かり光栄です、佐藤君」
午後四時の壁時計を見上げて、陽葵が声を上げた。
「よし、今日はここまで! 今夜の夏祭り、みんなで行きましょう。息抜きが必要よ。せっかくだから、浴衣に着替えましょう!」
煌人は期待に胸を膨らませたようだったが、ふと困ったような顔をした。
「俺は……」
真翠がその顔色の変化に気づく。
「どうしたの、煌人君」
煌人は首を振った。
「……いや、浴衣を持ってないんだ。俺はいつもの服で行くよ」
大樹が煌人の体格を一瞥した。自分とそれほど変わらない。
「もし嫌じゃなければ、俺の予備を貸そうか?」
「……それは助かる。恩に着るよ」
こうして、煌人は大樹の家へ、陽葵は真翠の家で着替えることになった。
四人は夜の七時、神社の前で待ち合わせる約束を交わした。
集合場所。陽葵は、真翠を穴が開くほど見つめている煌人を見て、満足げに口角を上げた。これこそ自分の自信作だ。今日の真翠は、最高に可愛い。
……しかし、煌人の口から飛び出したのは、予想外の言葉だった。
「真翠。……お前、メイク濃すぎじゃないか?」
「……は?」
陽葵の顔から笑顔が消えた。隣に立つ大樹は眼鏡のブリッジを押し込みながら、天を仰いで深くため息をつく。
(この男、本当にあの星野煌人なのか……?)
真翠は、不慣れな手つきで引いたアイラインが震えるのを感じた。浴衣に合わせて大人っぽくしたつもりだったのに、真っ先にそんなことを言われるなんて。
「……そんなに、変かな」
真翠は俯き、浴衣の袖をぎゅっと握りしめた。
「変だなんて言ってないだろ。ただ、その……」
煌人は視線を泳がせながら、首の裏をがしがしと掻いた。大樹から借りた紺色の浴衣は驚くほど似合っているのに、口を開けばこれだ。
「いつもと、全然違うから。……落ち着かないんだよ、こっちが」
「はいはい、そこまで!」
陽葵が強引に二人の間に割って入った。
「星野君、あんた今のは完全にマイナス一万点。……大樹、この失言王の口に、とりあえずリンゴ飴でも突っ込んでおいて!」
「……努力はしてみる」
大樹は呆れ顔で煌人の肩を叩き、二人の男子は少し先行して歩き始めた。
境内は屋台の明かりで黄金色に染まり、風に乗ってソースの焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。人混みに流されそうになる中、真翠は不慣れな下駄のせいで足取りが少しおぼつかない。
「……真翠」
不意に、煌人が立ち止まり、振り返った。
人混みの喧騒と花火の上がる予感の中で、彼の瞳には真翠の姿だけが映っている。
「これ」
彼はぶっきらぼうに、自分の浴衣の袖を差し出した。
「はぐれたら面倒だろ。……メイクが濃かろうがなんだろうが、見失うわけにはいかないからな」
「……それ、全然フォローになってないよ」
真翠は呆れながらも、その袖をそっと掴んだ。
薄い布越しに、彼の腕の熱が伝わってくる。
「……綺麗だ」
「え?」
「……メイクじゃなくて、その。……浴衣、似合ってる。こんな格好じゃなきゃ、恥ずかしくて言えなかった」
真翠は顔が熱くなるのを感じて、さらに深く俯いた。褒められたのは嬉しいはずなのに、なぜか素直になれない。
気づけば、いつの間にか大樹と陽葵の姿が見当たらなくなっていた。真翠は焦って辺りを見回す。
「……あ、二人ともいない! 探さないと」
「そんなに焦らなくてもいいだろ。ガキじゃないんだから」
煌人は後ろをマイペースについてくる。
「何言ってるのよ、四人で来たんだから、四人で帰らないと。万が一何かあったら……」
真翠が神社の静かな陰影へと足を踏み入れた時だった。見覚えのある、陽葵の鮮やかなオレンジ色の浴衣が目に飛び込んできた。
「あ、陽葵! 良かった、こんなところに――」
声をかけようとした瞬間。
背の高い煌人の視線が、一足先にその「現場」を捉えた。
そこで彼は、見てしまった。
陽葵を愛おしげに抱き寄せ、唇を重ねようとしている大樹の姿を。
そして、重なり合う寸前——大樹がわずかに目を開け、こちらに気づくと、ふっと勝ち誇ったように目を細めたのだ。
その瞬間、煌人の脳裏に、言葉にならない声が直接響いた。
(——見ろよ。俺は好きな女とキスできる。お前には、まだ早いんじゃないか?)
大樹の眼鏡の奥に宿った、静かな、けれど残酷なまでの「優越感」。
(……っ!)
煌人は喉の奥で、苦いものを飲み込むように激しく舌打ちをした。
「——っ! チッ、こっち見んな!」
煌人は強引に真翠の腕を引き、逃げ場を塞ぐように、その細い体を柱へと縫い付けた。
煌人の大きな手が、真翠の口をぴたりと塞ぐ。
「……んんっ!?(な、なによ!?)」
真翠が必死に煌人の手を剥ぎ取る。
「ぷはっ! ……なによ、急に! あの二人、どうしたの?」
煌人は意地悪く口角を上げると、真翠の耳元に顔を寄せ、熱い吐息を吹きかけるようにして囁いた。
「あの二人、今……『キス』してる最中だ。少しは空気読めよ、頼むから」
真翠の思考が真っ白になった。
「き……きす……えっ、あ、あの二人が……!?」
煌人は呆れたように真翠の頭をぽんぽんと叩いた。
「付き合ってるんだから当然だろ。キスくらいで驚きすぎだ」
真翠は頭では分かっていても、鼓動が収まらない。二人は音を立てないように神社を離れた。
その後は、お互いにさっきの光景を意識しすぎて、どこかふわふわした夢の中にいるような感覚だった。
そして、ついに夜空に大輪の華が咲き誇る。
打ち上げ花火が始まると、人混みはさらに激しさを増した。
「おい、離れんなよ」
煌人が、周囲の圧力から守るように、真翠の肩をそっと抱き寄せた。
彼の体温と、浴衣越しに伝わるしっかりとした腕の感触。
真翠は夜空を見上げた。大音響と共に広がる鮮やかな光。けれど、彼女の耳に響いているのは、花火の音よりもずっと大きく、激しく高鳴っている、自分自身の心臓の音だった。
夜の十一時。祭りの熱気が嘘のように静まり返った住宅街を、二人の影がゆっくりと進んでいた。
玄関の前で立ち止まった真翠を、煌人はどこか切実な、それでいて抑えきれない熱を帯びた眼差しで見つめる。
大樹に見せつけられたあの「余裕」が、どうしても脳裏から離れない。
「真翠……。俺、実は……」
喉の奥まで出かかった言葉。
今ここで彼女を抱き寄せたい。さっきの大樹と同じように、彼女に触れたい。
だが、冲動を遮るように、家の玄関が静かに開いた。
「お帰り。……だいぶ遅くなったな、煌人君」
そこには、真翠の父親が立っていた。
「まあいい。もう夜も更けているし、今夜は泊まっていきなさい。部屋は用意してある」
煌人はふっと息を吐き、握りしめていた拳をそっと解いた。
(……やっぱり、俺には無理だ)
真翠の両親を裏切ることなんて、できやしない。己の欲求を優先させるには、彼らから受け取った信頼はあまりに重すぎた。
でも、構わない。
いつの日か、真翠本人だけでなく、彼女の両親も、友人たちも——彼女を取り巻く世界のすべてに、自分を認めさせればいい。
そんな青臭くも、ひたむきな覚悟を胸に。
少年の煌人は、月明かりの下で独り、自分自身にそう言い聞かせていた。
陽葵が真翠の手をぐいと取り、信じられないものを見るように目を丸くしている。
「真翠、あんた凄すぎ! どうやったのよ、その順位」
真翠は言い淀みながら、困ったように視線を泳がせた。
「それは……星野君が、勉強を見てくれてるから……」
「誰よ。星野……煌人!?」
陽葵の声が裏返る。
「……あんたの親、知ってんの?」
「お父さんが誘ったのよ」
「おじさんとおばさんが知ってるならいいけど、いや、よくないわよ! 石小路真翠!」
「なによ、急にフルネームで」
「今まで隠してたなんて、いい度胸じゃない! こっちは何も知らなかったんだから」
「……どう言えばいいか分からなかったのよ」
「ふふふ……贖罪の時間よ、子猫ちゃん」
こうして、奇妙な『夏休み学習グループ』が結成された。
リーダー:星野煌人(学年首位)。
サブリーダー:佐藤大樹(上位層)。
メンバー:小井陽葵(中上位)。
メンバー:石小路真翠(中位層)。
倍になった人数を見て、煌人は少し動揺したように真翠を振り返った。
「真翠、俺はおじさんに頼まれてお前の勉強を見てるんだ。他の奴まで教えるなんて聞いてないぞ」
大樹が眼鏡を押し上げながら、冷静に口を挟む。
「俺は教えてもらう必要はない。陽葵に引っ張られてきただけだ」
陽葵は素早い手つきで大樹の口を塞ぐと、すぐさま言葉を被せた。
「いいえ! 教えてもらう必要があるわ!」
剣吞な雰囲気の三人を見て、真翠は苦笑いしながら割って入った。
「いいじゃない。人数が多い方が、勉強も捗る気がするし」
陽葵は不敵な笑みを浮かべた。
「星野君、ちょっといいかしら。外で話しましょう」
煌人は怪訝そうな顔をしながらも、真翠をちらりと一瞥してから陽葵についていった。
「大樹君、あの二人は何を話すのかしら?」
「さあな。……とりあえず、復習を始めようか」
「……ええ」
その頃、リビングに連れて行かれた煌人は、目を細めて陽葵を睨みつけていた。
「そんな目で見ないでよ、怖いじゃない」
「それで、何の用だ」
「あんた、私の成績を大樹と同じレベルまで引き上げられる?」
「はあ? なんで俺がそんなことを」
「理由はいいの。その代わり、条件があるわ。もし引き受けてくれるなら、この夏休み、私があんたと真翠のデートをセッティングしてあげてもいいわよ?」
「……何? デ、デート……?」
「そう。このまま夏休み中ずっと石小路家の書斎に二人で籠もるか、それとも真翠と一緒にプールや海、夏祭り、それから……」
「ストップ。……分かった。乗った」
「いい返事。じゃあ、交渉成立ね」
「……来週の夏祭りは?」
「私に任せなさいって」
二人が書斎に戻ってくると、煌人はいつもの冷徹な表情を崩し、突然陽葵の成績に異常なまでの熱意を見せ始めた。あと二週間で全校一位にする勢いだ。
空気は少し奇妙になったが、なぜか調和は取れていた。
一週間も勉強を続けると、あの大樹でさえ煌人を認めざるを得なかった。
「石小路さんから独学だと聞いていたが、正直、半信疑だった。……だが、君は確かに本物だ。大したものだよ、星野君」
「……お褒めに預かり光栄です、佐藤君」
午後四時の壁時計を見上げて、陽葵が声を上げた。
「よし、今日はここまで! 今夜の夏祭り、みんなで行きましょう。息抜きが必要よ。せっかくだから、浴衣に着替えましょう!」
煌人は期待に胸を膨らませたようだったが、ふと困ったような顔をした。
「俺は……」
真翠がその顔色の変化に気づく。
「どうしたの、煌人君」
煌人は首を振った。
「……いや、浴衣を持ってないんだ。俺はいつもの服で行くよ」
大樹が煌人の体格を一瞥した。自分とそれほど変わらない。
「もし嫌じゃなければ、俺の予備を貸そうか?」
「……それは助かる。恩に着るよ」
こうして、煌人は大樹の家へ、陽葵は真翠の家で着替えることになった。
四人は夜の七時、神社の前で待ち合わせる約束を交わした。
集合場所。陽葵は、真翠を穴が開くほど見つめている煌人を見て、満足げに口角を上げた。これこそ自分の自信作だ。今日の真翠は、最高に可愛い。
……しかし、煌人の口から飛び出したのは、予想外の言葉だった。
「真翠。……お前、メイク濃すぎじゃないか?」
「……は?」
陽葵の顔から笑顔が消えた。隣に立つ大樹は眼鏡のブリッジを押し込みながら、天を仰いで深くため息をつく。
(この男、本当にあの星野煌人なのか……?)
真翠は、不慣れな手つきで引いたアイラインが震えるのを感じた。浴衣に合わせて大人っぽくしたつもりだったのに、真っ先にそんなことを言われるなんて。
「……そんなに、変かな」
真翠は俯き、浴衣の袖をぎゅっと握りしめた。
「変だなんて言ってないだろ。ただ、その……」
煌人は視線を泳がせながら、首の裏をがしがしと掻いた。大樹から借りた紺色の浴衣は驚くほど似合っているのに、口を開けばこれだ。
「いつもと、全然違うから。……落ち着かないんだよ、こっちが」
「はいはい、そこまで!」
陽葵が強引に二人の間に割って入った。
「星野君、あんた今のは完全にマイナス一万点。……大樹、この失言王の口に、とりあえずリンゴ飴でも突っ込んでおいて!」
「……努力はしてみる」
大樹は呆れ顔で煌人の肩を叩き、二人の男子は少し先行して歩き始めた。
境内は屋台の明かりで黄金色に染まり、風に乗ってソースの焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。人混みに流されそうになる中、真翠は不慣れな下駄のせいで足取りが少しおぼつかない。
「……真翠」
不意に、煌人が立ち止まり、振り返った。
人混みの喧騒と花火の上がる予感の中で、彼の瞳には真翠の姿だけが映っている。
「これ」
彼はぶっきらぼうに、自分の浴衣の袖を差し出した。
「はぐれたら面倒だろ。……メイクが濃かろうがなんだろうが、見失うわけにはいかないからな」
「……それ、全然フォローになってないよ」
真翠は呆れながらも、その袖をそっと掴んだ。
薄い布越しに、彼の腕の熱が伝わってくる。
「……綺麗だ」
「え?」
「……メイクじゃなくて、その。……浴衣、似合ってる。こんな格好じゃなきゃ、恥ずかしくて言えなかった」
真翠は顔が熱くなるのを感じて、さらに深く俯いた。褒められたのは嬉しいはずなのに、なぜか素直になれない。
気づけば、いつの間にか大樹と陽葵の姿が見当たらなくなっていた。真翠は焦って辺りを見回す。
「……あ、二人ともいない! 探さないと」
「そんなに焦らなくてもいいだろ。ガキじゃないんだから」
煌人は後ろをマイペースについてくる。
「何言ってるのよ、四人で来たんだから、四人で帰らないと。万が一何かあったら……」
真翠が神社の静かな陰影へと足を踏み入れた時だった。見覚えのある、陽葵の鮮やかなオレンジ色の浴衣が目に飛び込んできた。
「あ、陽葵! 良かった、こんなところに――」
声をかけようとした瞬間。
背の高い煌人の視線が、一足先にその「現場」を捉えた。
そこで彼は、見てしまった。
陽葵を愛おしげに抱き寄せ、唇を重ねようとしている大樹の姿を。
そして、重なり合う寸前——大樹がわずかに目を開け、こちらに気づくと、ふっと勝ち誇ったように目を細めたのだ。
その瞬間、煌人の脳裏に、言葉にならない声が直接響いた。
(——見ろよ。俺は好きな女とキスできる。お前には、まだ早いんじゃないか?)
大樹の眼鏡の奥に宿った、静かな、けれど残酷なまでの「優越感」。
(……っ!)
煌人は喉の奥で、苦いものを飲み込むように激しく舌打ちをした。
「——っ! チッ、こっち見んな!」
煌人は強引に真翠の腕を引き、逃げ場を塞ぐように、その細い体を柱へと縫い付けた。
煌人の大きな手が、真翠の口をぴたりと塞ぐ。
「……んんっ!?(な、なによ!?)」
真翠が必死に煌人の手を剥ぎ取る。
「ぷはっ! ……なによ、急に! あの二人、どうしたの?」
煌人は意地悪く口角を上げると、真翠の耳元に顔を寄せ、熱い吐息を吹きかけるようにして囁いた。
「あの二人、今……『キス』してる最中だ。少しは空気読めよ、頼むから」
真翠の思考が真っ白になった。
「き……きす……えっ、あ、あの二人が……!?」
煌人は呆れたように真翠の頭をぽんぽんと叩いた。
「付き合ってるんだから当然だろ。キスくらいで驚きすぎだ」
真翠は頭では分かっていても、鼓動が収まらない。二人は音を立てないように神社を離れた。
その後は、お互いにさっきの光景を意識しすぎて、どこかふわふわした夢の中にいるような感覚だった。
そして、ついに夜空に大輪の華が咲き誇る。
打ち上げ花火が始まると、人混みはさらに激しさを増した。
「おい、離れんなよ」
煌人が、周囲の圧力から守るように、真翠の肩をそっと抱き寄せた。
彼の体温と、浴衣越しに伝わるしっかりとした腕の感触。
真翠は夜空を見上げた。大音響と共に広がる鮮やかな光。けれど、彼女の耳に響いているのは、花火の音よりもずっと大きく、激しく高鳴っている、自分自身の心臓の音だった。
夜の十一時。祭りの熱気が嘘のように静まり返った住宅街を、二人の影がゆっくりと進んでいた。
玄関の前で立ち止まった真翠を、煌人はどこか切実な、それでいて抑えきれない熱を帯びた眼差しで見つめる。
大樹に見せつけられたあの「余裕」が、どうしても脳裏から離れない。
「真翠……。俺、実は……」
喉の奥まで出かかった言葉。
今ここで彼女を抱き寄せたい。さっきの大樹と同じように、彼女に触れたい。
だが、冲動を遮るように、家の玄関が静かに開いた。
「お帰り。……だいぶ遅くなったな、煌人君」
そこには、真翠の父親が立っていた。
「まあいい。もう夜も更けているし、今夜は泊まっていきなさい。部屋は用意してある」
煌人はふっと息を吐き、握りしめていた拳をそっと解いた。
(……やっぱり、俺には無理だ)
真翠の両親を裏切ることなんて、できやしない。己の欲求を優先させるには、彼らから受け取った信頼はあまりに重すぎた。
でも、構わない。
いつの日か、真翠本人だけでなく、彼女の両親も、友人たちも——彼女を取り巻く世界のすべてに、自分を認めさせればいい。
そんな青臭くも、ひたむきな覚悟を胸に。
少年の煌人は、月明かりの下で独り、自分自身にそう言い聞かせていた。
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