883 / 967
翡翠の姫
十六夜に会いましょう/1
しおりを挟む
いつまでもやってこない衝撃と濁流の音。貴増参はそっと目を開ける。すると、青いほのかな灯りに包まれた、広い空間にまっすぐ立っていた。
「…………」
足元はしっかりとしていて、白い四角いものが散らばり、あんなに強く吹いていた風もない。
振り返ると、淡いオレンジ色の光がひとつ薄闇にポツリと灯りを落としていた。
「…………」
白い幕――レースのカーテンが左手にさざ波のように広がり、本特有の湿った紙の匂いが体の内へかすかな呼吸のように入り込んでくる。
床の上を反転して、乱雑な書斎机を真正面にすると、鍵のかかる引き出しは開け放ったままだった。
「……戻ってきた……みたいです」
確信はなかったが、人生の大半を過ごす教授室に魔法でもかけられたように再び立っていた。
散らかった紙の上に無造作に置いてある、腕時計を引き寄せ、時刻を瞳に映す。
――二時八分。
「丑三つ時……」
過ぎたはずの時間は、ループしたみたいにそのままだった。土砂降りの茂みの中に立っていたのに、髪も服も濡れている場所はどこにもなく。嘘みたいに何も痕跡が残っていなかった。
「夢……?」
あのひどく痛んだ頭の傷もない。狐にでも化かされたようだったが、右手から青緑の光を発しているものだけが、唯一現実だったと教えていた。
必死に握りしめていたようで、指先の痺れと震えの中で、姿を現したものの名を貴増参は口にした。
「翡翠……」
逆巻く波を横から見たような曲線を描く勾玉――
あの別世界へ行く前は石だけだった。だが今手の中にあるものは、白の巫女が肌身離さず首につけていた、皮の紐がついていた。
深夜にも関わらず、帰ることなど忘れて、貴増参はあごに手を当て、優しさの満ちあふれた茶色の瞳を影らした。
「人々はどうなったのでしょう?」
他国の陰謀である可能性は非常に高かった。そうなると、白の巫女が守ろうとした弱き者たちは、無事とは限らない。
多くを語れず、防ぐこともできず、傍観者として、過ごした数時間だった。だが、歴史はそこに大きく息づいていた。
「過去のどちらの時点にも、手を加えることは僕に許されていません」
手を貸して、一人でも多くの人が幸せになるように物事が運べばいい。それは願いであって、決して確実な事実ではない。
「その先のいくつもの未来まで変えてしまう可能性があります。天文学的数字に登る人々の行末までも変えてしまう」
人に未来は見えない。誤って、悪政を敷く指導者が代替わりすることが続き、数世紀も人々が悪戯に苦しむ未来へとつながらないとは言えない。
まだ光り続けている勾玉を握りしめて、深夜の教授室をかかとをかつかつと鳴らしながら、修復作業をしていた土器があるテーブルへとやってきた。
「今、研究室にある出土品も、この大学という制度さえもなくなってしまうかもしれない……」
この部屋に大量に置かれた本。表現の自由も許されず、人々が知恵をつけることも制限されてしまうかもしれない。今着ている服さえも提供されないかもしれない。
同じ世界の過去でなかったとしても、あの時間の延長上が存在していることを考えるからこそ、貴増参はため息をもらすしかできなかった。
「だから、僕は君に手を貸せませんでした――」
目の前で人が死ぬ。尊い心を持った人がいなくなる。やるせない気持ちでいっぱいになり、貴増参はテーブルの上に両手をついて、固く目をつむった。
「できるのなら助けたかった……」
一人の人間としてはそう思っていた。だが、人の勝手な判断で、変えていい未来ではなかった。
あの牢屋から出る時につないだ、白の巫女の手の温もりが今も強く残っている。
だが、もうどこにもない。どこにもいない。他の誰かでなく、彼女でなくては意味がない。
それなのに、あの濁流にお互い投げ出され、引き離され、二度とめぐり合うことができないように、探すこともできない。
素直で柔軟性があるかと思いきや、頑として引かない強情な性格。それは誰かを守るためのものであって、決して自分のためではない。キラキラと輝く心を持った少女。
「っ……」
貴増参は少し苦しそうに唇を噛みしめ、白い布地をぎゅっと握りしめると、歪みができて土器のカケラがカラカラと虚しく音を立てた。
「…………」
足元はしっかりとしていて、白い四角いものが散らばり、あんなに強く吹いていた風もない。
振り返ると、淡いオレンジ色の光がひとつ薄闇にポツリと灯りを落としていた。
「…………」
白い幕――レースのカーテンが左手にさざ波のように広がり、本特有の湿った紙の匂いが体の内へかすかな呼吸のように入り込んでくる。
床の上を反転して、乱雑な書斎机を真正面にすると、鍵のかかる引き出しは開け放ったままだった。
「……戻ってきた……みたいです」
確信はなかったが、人生の大半を過ごす教授室に魔法でもかけられたように再び立っていた。
散らかった紙の上に無造作に置いてある、腕時計を引き寄せ、時刻を瞳に映す。
――二時八分。
「丑三つ時……」
過ぎたはずの時間は、ループしたみたいにそのままだった。土砂降りの茂みの中に立っていたのに、髪も服も濡れている場所はどこにもなく。嘘みたいに何も痕跡が残っていなかった。
「夢……?」
あのひどく痛んだ頭の傷もない。狐にでも化かされたようだったが、右手から青緑の光を発しているものだけが、唯一現実だったと教えていた。
必死に握りしめていたようで、指先の痺れと震えの中で、姿を現したものの名を貴増参は口にした。
「翡翠……」
逆巻く波を横から見たような曲線を描く勾玉――
あの別世界へ行く前は石だけだった。だが今手の中にあるものは、白の巫女が肌身離さず首につけていた、皮の紐がついていた。
深夜にも関わらず、帰ることなど忘れて、貴増参はあごに手を当て、優しさの満ちあふれた茶色の瞳を影らした。
「人々はどうなったのでしょう?」
他国の陰謀である可能性は非常に高かった。そうなると、白の巫女が守ろうとした弱き者たちは、無事とは限らない。
多くを語れず、防ぐこともできず、傍観者として、過ごした数時間だった。だが、歴史はそこに大きく息づいていた。
「過去のどちらの時点にも、手を加えることは僕に許されていません」
手を貸して、一人でも多くの人が幸せになるように物事が運べばいい。それは願いであって、決して確実な事実ではない。
「その先のいくつもの未来まで変えてしまう可能性があります。天文学的数字に登る人々の行末までも変えてしまう」
人に未来は見えない。誤って、悪政を敷く指導者が代替わりすることが続き、数世紀も人々が悪戯に苦しむ未来へとつながらないとは言えない。
まだ光り続けている勾玉を握りしめて、深夜の教授室をかかとをかつかつと鳴らしながら、修復作業をしていた土器があるテーブルへとやってきた。
「今、研究室にある出土品も、この大学という制度さえもなくなってしまうかもしれない……」
この部屋に大量に置かれた本。表現の自由も許されず、人々が知恵をつけることも制限されてしまうかもしれない。今着ている服さえも提供されないかもしれない。
同じ世界の過去でなかったとしても、あの時間の延長上が存在していることを考えるからこそ、貴増参はため息をもらすしかできなかった。
「だから、僕は君に手を貸せませんでした――」
目の前で人が死ぬ。尊い心を持った人がいなくなる。やるせない気持ちでいっぱいになり、貴増参はテーブルの上に両手をついて、固く目をつむった。
「できるのなら助けたかった……」
一人の人間としてはそう思っていた。だが、人の勝手な判断で、変えていい未来ではなかった。
あの牢屋から出る時につないだ、白の巫女の手の温もりが今も強く残っている。
だが、もうどこにもない。どこにもいない。他の誰かでなく、彼女でなくては意味がない。
それなのに、あの濁流にお互い投げ出され、引き離され、二度とめぐり合うことができないように、探すこともできない。
素直で柔軟性があるかと思いきや、頑として引かない強情な性格。それは誰かを守るためのものであって、決して自分のためではない。キラキラと輝く心を持った少女。
「っ……」
貴増参は少し苦しそうに唇を噛みしめ、白い布地をぎゅっと握りしめると、歪みができて土器のカケラがカラカラと虚しく音を立てた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。
【R18】仲のいいバイト仲間だと思ってたら、いきなり襲われちゃいました!
奏音 美都
恋愛
ファミレスのバイト仲間の豪。
ノリがよくて、いい友達だと思ってたんだけど……いきなり、襲われちゃった。
ダメだって思うのに、なんで拒否れないのー!!
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる