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二章
02
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公爵邸でマリアーナが案内された部屋は二階の客室だった。
まだ婚約も済んでおらず、単身とはいえ敵国から来た子女であるため、当然と言えば当然の扱いだろう。
ただ、国境の城からマリアーナ付きになった侍女が、馬車から荷物を持って部屋に入るとすぐそれを床に置き、そのまま部屋を出て行ってしまったことや、戸の外に見張りの者が立っていることなどは通常ではありえないことだろう。
護衛と考えれば戸の外に誰かが立つことはあり得るだろうが、その男はマリアーナが連れて来た者では当然ない。とすれば、見張りかもしくは監視する者と考えるのが妥当だ。
小さく息を吐き、一人きりになった部屋を見渡す。
公爵邸に見合った広さで、上品な調度品が並べられている。
ティフマ城の自室よりも当然広く、揃えられたものは初めて見るような意匠のものばかりなのに、上質なものしかないということだけはマリアーナにもわかった。
それなのに、客としてすらも思われていないのだと感じずにはいられない。
わざとらしく開け放たれた窓からは冬の冷気が入り込み、当然のように暖炉には火も点けられていなかったからだ。
(……仕方がないわ。この国の領地を奪おうとした男の娘だもの)
本当にそれだけだろうかと、俄かに浮上した僅かな疑念を今は胸の内に留めておく。
底冷えする部屋の空気に肩が震え、窓を閉めるためようやくマリアーナは動き出した。
窓を閉めるとその足で暖炉へ向かい、慣れた手つきで火打石を鳴らして火を点ける。
だが、少しもしないうちにマリアーナは、窓を閉めただけの部屋がティフマ城よりもずっと寒くないことに気づく。
石造りだったからか、それとも古い城だったせいか、立派な邸と古城ではこんなにも環境が違うのかと驚いた。
(お継母さまやティーナが城に拠りつかないのも当然ね)
ティフマ城のそばに造られた辺境伯邸は公爵邸ほどに立派ではなかったが、それでも城内よりは過ごしやすかったに違いない。
こんな遠い地に来て改めてそれに思い至ったことがおかしくて、マリアーナは思わずクスッと笑うと何気なく背後を振り返った。
「――、……」
だが、そこに誰かがいるわけもなく、浮かんだ笑みは徐々に沈んでいく。
もう一度静かに溜息をつくと外套を脱いで、自分でそれをクローゼットに仕舞う。
着替えをどうしようかと悩むが、先ほどアルベルトが婚約の書類に署名する話をしていた。恐らく呼び出しがあるか誰かの訪問があるだろうから、このまま待っていた方がいいだろう。
戸口に置かれた荷物を取ると着替えをクローゼットに仕舞い、化粧の道具類などをドレッサーへと片付けていく。
この五年はこういった細々とした身の回りのことを、マリアーナはほとんどすることがなかった。ただそれ以前は当たり前にしていたことだったため、特段それが苦痛だと思うことはない。
とはいえ常識で考えれば、それは珍しいことなのかも知れない。
しばらくしてカートを押して飲み物を持ってきた侍女が、荷物の片付いた部屋を見て驚いた顔をしていたからだ。
それだけでなく部屋が暖かいことに気づいたのか、視線だけで暖炉を見てさらに目を丸くする。
脱いだ外套すらも放置していないどころか、マリアーナが自分で部屋を整えていることに余程驚いたようだ。
(貴族だからと火を点けられない方なんて居ないと思うのだけど……)
マリアーナが過ごした辺境領と同じく、地続きのこのフィーアンダも冬が厳しい国だと聞いている。だとすれば、暖を取るための火が点けられないなどということはないはずだ。
ただそれを公爵の婚約者であり、今はまだ客人とも言えるか微妙な立場のマリアーナが、文句のひとつも言わずやってしまったことに驚いているようだが。
「――飲み物を持って来てくれたのね、ありがとう」
固まってなかなか動かない侍女にマリアーナが声をかければ、ようやく彼女は動き出してテーブルに飲み物を置いていく。
すぐに出て行くのかと思えば今回は待機することにしたようで、部屋の隅に寄っていく。
もうすぐ来客があるのかも知れないと頭の隅に置いて、マリアーナはカップに手を伸ばした。
取っ手に触れ、顔に近づけて香りを確かめながら口をつける。
「……」
思わずその口元がほころんだ。懐かしい、と胸中で呟いたのは“味が”ではなくその温かさだ。
カートの上でポットからカップへ注ぎ、すぐに差し出されたもののはずなのに、完全に冷めきる一歩手前のような温さだった。
(国境の町で過ごした頃のことを思い出すわ)
ティフマ城ではなく、亡き母とともに過ごした国境に近い町で、世話をしてくれた使用人たちがよくやっていた嫌がらせだ。
ただ、その時の嫌がらせに比べれば、温いくらいどうということもない。部屋が寒いことも、暖炉に火が点いていないことも、荷物の片づけを手伝ってくれないことも、マリアーナにとっては何てことはない。
むしろ当時の使用人の嫌がらせに関しても初めは辛く思うこともあったが、身の回りのことを自分でするようになれば辛いと思うこともなくなった。
それよりも、町民や子供たちの自分に対する仕打ちの方が、マリアーナにとってはだいぶ堪えた。
当時のことを思い出していると、ふとあることに思い至ってマリアーナは侍女を振り返る。
「そういえば馬車でのこと、ごめんなさいね」
「――え……は、い? あの……」
唐突に声をかけられたからか、謝罪の意味がわからなかったのか、侍女は動揺を隠せずあたふたしている。
今度は困らせてしまったことを申し訳なく思いながら、マリアーナは謝罪の言葉を重ねた。
「ごめんなさい、突然言われても困るわよね。――国境の城を出るとき、あなたと馬車の同乗を断ったことを謝りたくて――」
マリアーナが同乗を断ったのは一日目だけのつもりだったが、その後も気を遣ってくれたのか侍女が同乗することはなかった。
ただ、貴人を乗せる馬車は一台しかない。彼女はきっと御者の隣か、あるいは荷馬車に乗って移動していたのだろう。
「いろいろなことが起こって、せめて初日だけでも一人になりたいと我儘を言ってしまって……そのせいで、あなたに不必要な面倒をかけてしまったこと、お詫びいたします」
そう言ってマリアーナは小さく頭を下げた。
やはり侍女は驚いた様子で言葉も出てこないようだったが、マリアーナ自身はおかしなことを言っているとは思っていない。
公爵の婚約者と使用人という立場であれば、確かにマリアーナは頭を下げるべきではない。客という立場でも、使用人としての体面を考えて謝罪ではなく感謝に留めるべきだろう。
しかしマリアーナは今どちらの立場とも言えない。むしろここへ来た経緯を考えれば弱い立場だと言える。であれば今のうちに謝っておこうと、そう思ったのだ。
彼女の機嫌が悪かったのは、決してそれだけではないのだろうとわかってはいるが。
侍女が何も言わないので、マリアーナは微笑みを見せて姿勢を戻したことで話を終わらせた。
マリアーナの視界の外で侍女が何か言いたげにしていたが、当然見えていないのでわかりようもない。
再びカップに口をつけて冷めた紅茶を嗜んでいると、ドアがノックされる。
対応した侍女がアルベルトの来訪を告げるので、今度はマリアーナが驚く番だった。
(まさかご本人がわざわざいらっしゃるなんて)
てっきり応接間かどこかに呼び出されるか、あるいは使いの者が来るかと思っていた。
出迎えるために慌てて立ちあがり姿勢を正す。
侍女がドアを開けると現れたのはアルベルトとフランの二人だった。
両者とも公爵邸に着くまでは軍服に身を包んでいたが、今はすでに着替えている。
簡素ながらも上質なジャケットを羽織り、その下には豪華な刺繍のほどこされたベストが見える。首周りには真っ白のクラバットを巻き、丈の長めのトラウザーズに膝下までのロングブーツを合わせている。
ロングブーツの履き口から見える毛皮が温かそうに見えた。
「失礼する」と断りを入れてアルベルトは、真っ直ぐにマリアーナが寛いでいたソファの傍へ来ると、マリアーナにも座るよう促してから対面に腰かける。
一方フランは以前の気安い雰囲気を押し隠して、侍女を一瞥し部屋を見回してからアルベルトの背後に控えた。
そのアルベルトが丸めて持っていた紙をテーブルに広げるので、マリアーナがテーブルに置いたままのカップを端によけていく。
差し出された紙は二枚あった。
「こちらが婚約契約書、こちらが国に提出する書類になる」
どちらも婚約に関する書類だと聞いて、内心驚く。思わずエーリスとの婚約を思い返そうとするが、あれは父親が取り付けた婚約だったためマリアーナは何かした覚えがない。
(あの時もこんな風に契約書があったのかしら……)
貴族の婚約、婚姻は国王の許可がいるのはティペリッシュも同じだ。そのために提出する書類は父親も用意しただろうが――。
(それとも、この婚約が特殊なものだから契約書が必要なのかしら)
契約書に並ぶ文面を見て、マリアーナはやはりこの婚約が普通ではないのだと改めて思う。
(婚約の間、衣食住と安全を保障する――常に護衛をつけるが、これを断ることはできない――ティペリッシュへ手紙を送る際、中身はあらためられる……つまり検閲されるのね)
マリアーナの生活と安全を約束するものもあるが、敵国の子女として警戒対象であると知らしめるものもあった。
そして――
(婚約期間中あるいは婚姻後、子をもうけた場合……性別を問わず健康な子であれば、婚約もしくは結婚の継続の自由を委ねる……)
前半は婚前交渉を指し、後半は子供を生むことがあれば婚約もしくは結婚の継続をマリアーナの意思に委ねると書かれている。
これが意味するところを察して、マリアーナは急に指先が冷えていくのを感じた。
(これはつまり……子を成せばわたしは不要だと……)
「勘違いして欲しくないんだが、私はきみも被害者だと思っている」
まるで心情を読み取ったかのような言葉に、弾かれたように視線を上げると真っ直ぐにこちらを見つめるアルベルトと目が合う。
感情の見えにくい表情は、だが真摯にマリアーナと向き合おうとしているのだと言うことはわかった。
「だからこそ、きみが責任を果たしたのちは選択の自由があってもいいと思っている。私から解放されたいと思うなら、それを受け入れる心づもりはある。もちろん、その後の生活もできる限り保障しよう」
(選択の自由……それをわたしに与えてくださると……)
過去を振り返ればマリアーナにとって有り得ないことだった。
エーリスとの婚約も、自分がどこで生活するかといったことも、大事なことはすべて父親が決めていた。
マリアーナが自由にできることと言えば、日々の些細な――父親の目が行き届かない些末なことだけだった。
そんな自分に、子供を生むという責任を果たせば、あとは自由にしていいと大きな選択を与えられるのだという。
今後、一生を監視されながら過ごすことになると思っていたマリアーナにとって、それは喜ぶべきことのはずなのだが――。
(なぜかしら……まるで放り出されるみたいに心許なく感じてしまうのは……)
アルベルトの言葉をどう受け取ったらいいのか、この気持ちをどのように表したらいいのかと、迷っているうちに話が進んでしまう。
「この内容に異論なければ――署名を」
フランが筆記具を書類のそばに置いていく。
湧き上がる感情を整理できないままペンを取ると、すでにアルベルトの署名がある下方へペンを走らせる。
(わたしに異論を唱える権利なんてない……)
そう思うのに、エーリスとの婚約破棄の書面に署名するときと違い、なぜかマリアーナは手の震えが止められなかった。
まだ婚約も済んでおらず、単身とはいえ敵国から来た子女であるため、当然と言えば当然の扱いだろう。
ただ、国境の城からマリアーナ付きになった侍女が、馬車から荷物を持って部屋に入るとすぐそれを床に置き、そのまま部屋を出て行ってしまったことや、戸の外に見張りの者が立っていることなどは通常ではありえないことだろう。
護衛と考えれば戸の外に誰かが立つことはあり得るだろうが、その男はマリアーナが連れて来た者では当然ない。とすれば、見張りかもしくは監視する者と考えるのが妥当だ。
小さく息を吐き、一人きりになった部屋を見渡す。
公爵邸に見合った広さで、上品な調度品が並べられている。
ティフマ城の自室よりも当然広く、揃えられたものは初めて見るような意匠のものばかりなのに、上質なものしかないということだけはマリアーナにもわかった。
それなのに、客としてすらも思われていないのだと感じずにはいられない。
わざとらしく開け放たれた窓からは冬の冷気が入り込み、当然のように暖炉には火も点けられていなかったからだ。
(……仕方がないわ。この国の領地を奪おうとした男の娘だもの)
本当にそれだけだろうかと、俄かに浮上した僅かな疑念を今は胸の内に留めておく。
底冷えする部屋の空気に肩が震え、窓を閉めるためようやくマリアーナは動き出した。
窓を閉めるとその足で暖炉へ向かい、慣れた手つきで火打石を鳴らして火を点ける。
だが、少しもしないうちにマリアーナは、窓を閉めただけの部屋がティフマ城よりもずっと寒くないことに気づく。
石造りだったからか、それとも古い城だったせいか、立派な邸と古城ではこんなにも環境が違うのかと驚いた。
(お継母さまやティーナが城に拠りつかないのも当然ね)
ティフマ城のそばに造られた辺境伯邸は公爵邸ほどに立派ではなかったが、それでも城内よりは過ごしやすかったに違いない。
こんな遠い地に来て改めてそれに思い至ったことがおかしくて、マリアーナは思わずクスッと笑うと何気なく背後を振り返った。
「――、……」
だが、そこに誰かがいるわけもなく、浮かんだ笑みは徐々に沈んでいく。
もう一度静かに溜息をつくと外套を脱いで、自分でそれをクローゼットに仕舞う。
着替えをどうしようかと悩むが、先ほどアルベルトが婚約の書類に署名する話をしていた。恐らく呼び出しがあるか誰かの訪問があるだろうから、このまま待っていた方がいいだろう。
戸口に置かれた荷物を取ると着替えをクローゼットに仕舞い、化粧の道具類などをドレッサーへと片付けていく。
この五年はこういった細々とした身の回りのことを、マリアーナはほとんどすることがなかった。ただそれ以前は当たり前にしていたことだったため、特段それが苦痛だと思うことはない。
とはいえ常識で考えれば、それは珍しいことなのかも知れない。
しばらくしてカートを押して飲み物を持ってきた侍女が、荷物の片付いた部屋を見て驚いた顔をしていたからだ。
それだけでなく部屋が暖かいことに気づいたのか、視線だけで暖炉を見てさらに目を丸くする。
脱いだ外套すらも放置していないどころか、マリアーナが自分で部屋を整えていることに余程驚いたようだ。
(貴族だからと火を点けられない方なんて居ないと思うのだけど……)
マリアーナが過ごした辺境領と同じく、地続きのこのフィーアンダも冬が厳しい国だと聞いている。だとすれば、暖を取るための火が点けられないなどということはないはずだ。
ただそれを公爵の婚約者であり、今はまだ客人とも言えるか微妙な立場のマリアーナが、文句のひとつも言わずやってしまったことに驚いているようだが。
「――飲み物を持って来てくれたのね、ありがとう」
固まってなかなか動かない侍女にマリアーナが声をかければ、ようやく彼女は動き出してテーブルに飲み物を置いていく。
すぐに出て行くのかと思えば今回は待機することにしたようで、部屋の隅に寄っていく。
もうすぐ来客があるのかも知れないと頭の隅に置いて、マリアーナはカップに手を伸ばした。
取っ手に触れ、顔に近づけて香りを確かめながら口をつける。
「……」
思わずその口元がほころんだ。懐かしい、と胸中で呟いたのは“味が”ではなくその温かさだ。
カートの上でポットからカップへ注ぎ、すぐに差し出されたもののはずなのに、完全に冷めきる一歩手前のような温さだった。
(国境の町で過ごした頃のことを思い出すわ)
ティフマ城ではなく、亡き母とともに過ごした国境に近い町で、世話をしてくれた使用人たちがよくやっていた嫌がらせだ。
ただ、その時の嫌がらせに比べれば、温いくらいどうということもない。部屋が寒いことも、暖炉に火が点いていないことも、荷物の片づけを手伝ってくれないことも、マリアーナにとっては何てことはない。
むしろ当時の使用人の嫌がらせに関しても初めは辛く思うこともあったが、身の回りのことを自分でするようになれば辛いと思うこともなくなった。
それよりも、町民や子供たちの自分に対する仕打ちの方が、マリアーナにとってはだいぶ堪えた。
当時のことを思い出していると、ふとあることに思い至ってマリアーナは侍女を振り返る。
「そういえば馬車でのこと、ごめんなさいね」
「――え……は、い? あの……」
唐突に声をかけられたからか、謝罪の意味がわからなかったのか、侍女は動揺を隠せずあたふたしている。
今度は困らせてしまったことを申し訳なく思いながら、マリアーナは謝罪の言葉を重ねた。
「ごめんなさい、突然言われても困るわよね。――国境の城を出るとき、あなたと馬車の同乗を断ったことを謝りたくて――」
マリアーナが同乗を断ったのは一日目だけのつもりだったが、その後も気を遣ってくれたのか侍女が同乗することはなかった。
ただ、貴人を乗せる馬車は一台しかない。彼女はきっと御者の隣か、あるいは荷馬車に乗って移動していたのだろう。
「いろいろなことが起こって、せめて初日だけでも一人になりたいと我儘を言ってしまって……そのせいで、あなたに不必要な面倒をかけてしまったこと、お詫びいたします」
そう言ってマリアーナは小さく頭を下げた。
やはり侍女は驚いた様子で言葉も出てこないようだったが、マリアーナ自身はおかしなことを言っているとは思っていない。
公爵の婚約者と使用人という立場であれば、確かにマリアーナは頭を下げるべきではない。客という立場でも、使用人としての体面を考えて謝罪ではなく感謝に留めるべきだろう。
しかしマリアーナは今どちらの立場とも言えない。むしろここへ来た経緯を考えれば弱い立場だと言える。であれば今のうちに謝っておこうと、そう思ったのだ。
彼女の機嫌が悪かったのは、決してそれだけではないのだろうとわかってはいるが。
侍女が何も言わないので、マリアーナは微笑みを見せて姿勢を戻したことで話を終わらせた。
マリアーナの視界の外で侍女が何か言いたげにしていたが、当然見えていないのでわかりようもない。
再びカップに口をつけて冷めた紅茶を嗜んでいると、ドアがノックされる。
対応した侍女がアルベルトの来訪を告げるので、今度はマリアーナが驚く番だった。
(まさかご本人がわざわざいらっしゃるなんて)
てっきり応接間かどこかに呼び出されるか、あるいは使いの者が来るかと思っていた。
出迎えるために慌てて立ちあがり姿勢を正す。
侍女がドアを開けると現れたのはアルベルトとフランの二人だった。
両者とも公爵邸に着くまでは軍服に身を包んでいたが、今はすでに着替えている。
簡素ながらも上質なジャケットを羽織り、その下には豪華な刺繍のほどこされたベストが見える。首周りには真っ白のクラバットを巻き、丈の長めのトラウザーズに膝下までのロングブーツを合わせている。
ロングブーツの履き口から見える毛皮が温かそうに見えた。
「失礼する」と断りを入れてアルベルトは、真っ直ぐにマリアーナが寛いでいたソファの傍へ来ると、マリアーナにも座るよう促してから対面に腰かける。
一方フランは以前の気安い雰囲気を押し隠して、侍女を一瞥し部屋を見回してからアルベルトの背後に控えた。
そのアルベルトが丸めて持っていた紙をテーブルに広げるので、マリアーナがテーブルに置いたままのカップを端によけていく。
差し出された紙は二枚あった。
「こちらが婚約契約書、こちらが国に提出する書類になる」
どちらも婚約に関する書類だと聞いて、内心驚く。思わずエーリスとの婚約を思い返そうとするが、あれは父親が取り付けた婚約だったためマリアーナは何かした覚えがない。
(あの時もこんな風に契約書があったのかしら……)
貴族の婚約、婚姻は国王の許可がいるのはティペリッシュも同じだ。そのために提出する書類は父親も用意しただろうが――。
(それとも、この婚約が特殊なものだから契約書が必要なのかしら)
契約書に並ぶ文面を見て、マリアーナはやはりこの婚約が普通ではないのだと改めて思う。
(婚約の間、衣食住と安全を保障する――常に護衛をつけるが、これを断ることはできない――ティペリッシュへ手紙を送る際、中身はあらためられる……つまり検閲されるのね)
マリアーナの生活と安全を約束するものもあるが、敵国の子女として警戒対象であると知らしめるものもあった。
そして――
(婚約期間中あるいは婚姻後、子をもうけた場合……性別を問わず健康な子であれば、婚約もしくは結婚の継続の自由を委ねる……)
前半は婚前交渉を指し、後半は子供を生むことがあれば婚約もしくは結婚の継続をマリアーナの意思に委ねると書かれている。
これが意味するところを察して、マリアーナは急に指先が冷えていくのを感じた。
(これはつまり……子を成せばわたしは不要だと……)
「勘違いして欲しくないんだが、私はきみも被害者だと思っている」
まるで心情を読み取ったかのような言葉に、弾かれたように視線を上げると真っ直ぐにこちらを見つめるアルベルトと目が合う。
感情の見えにくい表情は、だが真摯にマリアーナと向き合おうとしているのだと言うことはわかった。
「だからこそ、きみが責任を果たしたのちは選択の自由があってもいいと思っている。私から解放されたいと思うなら、それを受け入れる心づもりはある。もちろん、その後の生活もできる限り保障しよう」
(選択の自由……それをわたしに与えてくださると……)
過去を振り返ればマリアーナにとって有り得ないことだった。
エーリスとの婚約も、自分がどこで生活するかといったことも、大事なことはすべて父親が決めていた。
マリアーナが自由にできることと言えば、日々の些細な――父親の目が行き届かない些末なことだけだった。
そんな自分に、子供を生むという責任を果たせば、あとは自由にしていいと大きな選択を与えられるのだという。
今後、一生を監視されながら過ごすことになると思っていたマリアーナにとって、それは喜ぶべきことのはずなのだが――。
(なぜかしら……まるで放り出されるみたいに心許なく感じてしまうのは……)
アルベルトの言葉をどう受け取ったらいいのか、この気持ちをどのように表したらいいのかと、迷っているうちに話が進んでしまう。
「この内容に異論なければ――署名を」
フランが筆記具を書類のそばに置いていく。
湧き上がる感情を整理できないままペンを取ると、すでにアルベルトの署名がある下方へペンを走らせる。
(わたしに異論を唱える権利なんてない……)
そう思うのに、エーリスとの婚約破棄の書面に署名するときと違い、なぜかマリアーナは手の震えが止められなかった。
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