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第2章 カフェから巡る四季

第64話 面影がチラついて

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 強くも弱くもない雨が今日は朝から降り続いている。
 ただ気温は高いようでまだ雨に濡れてもいないのに服がぺったりと肌に張り付くのがわかる。
 こういう時、ワンピースという女性の召し物を肌につけていたらと莉子は思うが、大股で水たまりを踏みつける自分には無用のものだと改めて感じていた。

 彼女は今、エンジニアブーツそっくりなレインシューズを履きこみ、スリムジーンズにシャツの出で立ちだ。
 ようは仕事上がりに外に出た、ということである。

 今日は日曜日であるが13時までの営業とし、閉店ののち、連藤の家へと向かっていた。
 歩いても30分の距離のなか、延々と車が水を巻き上げる音が響き続けている。
 一定のリズムのようで不規則なその音は耳の表面をざわざわと擦り、胸のあたりをちりちりとさせ、それが何かはよくわからないが、思い出したくもないことを思い出させる呪文のように聞こえてくるのだ。

 莉子は頭を軽く振り、イヤホンをさし直すと、ボリュームを上げた。
 軽快なエレキギターの音が頭蓋骨に響いてくる。金切り声すら心地よい子守唄のようだ。
 何回、その曲をリピートしただろう。
 口ずさむのが飽きたと思ったところで、ちょうどあの豪華なマンションが目の前に現れた。
 いつでも緊張するこの建物に、莉子は慣れない手つきで連藤の部屋番号を押し、チャイムを鳴らす。



 部屋に着いた莉子だが、今日は落ち着かない。
 きっとこの身体の湿り気のせいじゃないか。
 そう気付いた時、隅々まで行き渡ったエアコンの冷気に当てられ、くしゃみがひとつ吐き出された。

「莉子さん、寒いか?」
「……いえ、ちょっと身体濡れてたみたいで。あとは汗のせい、かな? 今日は外、蒸し暑かったのもあったので」

 努めて明るい声を出そうとすると、余計に何かを話してしまう。
 寒くないよ。の一言でいいのに、出てきた言葉は何文字だろう。

 ───今日は、なんか変だ。

 声に出しそうになるのを喉の奥に押し込んで、莉子は持参したフルーツをキッチンへ運んだ。

「今日りんご余ったから持ってきました。りんごのカラメルでも作りましょうか?」
「それはいいな。莉子さんの好きなアイスを買ってきてあるから、今日の夕食のデザートにりんごのカラメルと一緒に食べよう」

 連藤の嬉しそうに微笑む顔を見ると、自分が何かで悩んでいることなど馬鹿みたいに思えてくる。
 だが、何で悩んでいるかもわからないのだから、馬鹿なのだ。
 馬鹿なのだから、そんな気持ちなど忘れよう。
 今日は連藤と一緒にディナーを作る約束だ。

 何を作るかは冷蔵庫を見てから決めることになっている。
 莉子が冷蔵庫に手をかけようとしたとき、携帯が鳴った。

 知らないメロディーだ。

「連藤です」

 電話を取ったのは連藤だ。
 自分の携帯が鳴らなかったのだから当たり前ではないか。

 だが、まだまだ知らないことがあるのだと気づかされる。
 電話で話す連藤を見るのも初めてだし、この顔つきも初めて見るものだ。

 今まで見たことのない鋭い表情を浮かべている。
 何か切迫した状況だとすぐにわかる。
 彼は口頭で何か指示を出しながら、携帯を肩に挟み、いつものジャケットを取り上げると玄関に向かって歩き出した。

 すぐに携帯から口を離すと、

「莉子さん、すまない」
「帰りましょうか?」
「いや、すぐに戻れるから部屋で待っててもらえるか?」
「わかりました」
「好きに使って構わない」

 そう言い終わるやいなや、チャイムが鳴った。
 インターホンの画面に映し出されたのは三井だ。

 連藤が扉を開け、出ていく。
 瞬間、2人の声が重なったのがわかった。
 なんの言い合いかわからないが、互いに何かを確認し、慌ただしく扉が閉じる。

 オートロックの部屋のため、大げさな音で鍵が落ちた。
 まるで快適な牢獄に閉じ込められたよう。

 現にここにはテレビはないし、娯楽というものは何一つない。
 音楽は聴けるがそれだけだ。

 いやに広く静まり返った知らない部屋で、莉子は小さくため息をつき、なんとなくの癖なのか、莉子は自分の首を手で撫でた。

 が、この時にわかった。


 ───意外と汗をかいている!


 さらりと乾いているイメージだったがそれは飽くまでイメージであり、現実はべたりとした皮膚が全身を覆っていたのである。
 そう気付くともう耐えられない上に、落ち着いてはいられない。

「シャワー借りよ」

 莉子は誰にも聞かれないがあえて口に出してみた。
 所有者がいないこの部屋で了解を得たいためだ。

 連藤の部屋はすべて合理的に処理されており、何かを取ってから移動しなければならない、ということはまずあり得ない。
 風呂場に行けば各種タオルがあり、彼の肌着があり、シャンプーの替えももちろんあるのだ。
 洗濯機を覗くと、見事に汚れ物一つない。

 彼の完璧さがこんなところにも!
 と思うが、もしかしたら彼女がくるから片付けたのかもしれない。
 そう思った方が彼が人間らしく、可愛く思えるのでそうしておく。

 莉子は淡々とその洗濯機にシャツ、ジーンズ、下着、靴下を放り込み、洗剤と柔軟剤をセットし動かした。
 こんな汗まみれの服に再び肌をつけたくなかったのだ。
 だがそのあとをどうしようか。

「ま、シャワーはいろ」

 後回しにすることにした。



 隅々まで洗ってシャワーから上がっても、まだ洗濯機が動いている。
 乾燥機までかけたらどれぐらいかかるだろう?
 これが終わってから30分ぐらいで済むだろうか……
 それはいいとして、今着る服だ。
 頭の中で問答を繰り返しながら、何か着れる服をとバスタオルを巻いて探してみるが、探る度に何故かイライラとする気持ちがある。
 瞬間、ああ。と莉子は納得した。

「あの話を聞いたからだ……」

 三井だけの来店の際、酔っ払った拍子に話し出したのだ。
 この部屋で女と同棲していたことがある、と。

 ──ここは私と彼で決めた場所。
 あなたは選ぶ権利も何もないのよ。
 私の影に震えればいいのよ──

 妄想の元カノが囁いてくるが、実際、彼女がいた欠片など、どこの隅を見ても出てはこない。
 彼の目が見えなくなってからこの部屋は動きやすいようにリノベーションされている。
 だが、理屈ではわかっていても、ベランダで愛を語らっていたのだと思うと、寒気が走る……。

「あー……なんで、話するかなぁ!!!!」

 だがなんとなくはすっきりした。
 このモヤモヤがなんなのか。ちくちくする痛みがなんなのか。
 原因がわかれば、対処ができる。

 存在を思い出さなければいいのだ。

「簡単じゃん。今は、私が彼女ですから!」

 ふふんと鼻で笑ってあしらうと、合理的な連藤の思考をプロファイリングし、ドライヤーの場所を引き当てた。
 しっかり髪の毛を乾かしてから、綺麗にたたまれた連藤のTシャツを1枚借りる。
 腰にはタオルを巻いておこう。

「すーすーする……。パンツぐらい、乾いてないかな?」

 洗濯機を覗き込んだとき、いきなり脱衣所の扉が開かれた。

「莉子さん、ここにいたのか?」

 破壊的な驚きである。
 悲鳴すら上げられず、莉子は硬直するが、連藤はお構い無しに近づいてくる。
 そのとき、連藤は、莉子がいつもと様子が違うことに気付いたらしい。
 一歩立ち止まり、洗濯機の音や風呂場からあふれる湿度を肌で感じているようだ。

「シャワーに入ってたのか?」
「あまりにベタベタだったので。すみません、洗濯機とシャワーを借りました。勝手に使ってしまってすみません……」
「それは構わないが、服はどうしたんだ?」
「これも大変申し訳ないのですが、肌着を1枚借りてます」
「下着は……?」
「洗濯機で回ってます」

 連藤がうつむいたかと思うと、いきなり声を立てて笑い出した。

「全く莉子さんなら」

 笑い続ける連藤に、恥ずかしく思う気持ちと、なぜそこまでという不貞腐れたい気持ちが混ざってくる。

「そこまで笑うことないでしょ?」

 口について出てしまうが、それでも連藤は満面に笑顔を浮かべている。

「かわいいと思って」
「……はぁ?」
「莉子さんはときどき子供のようになるから本当に飽きないんだ。後先考えず、そのときの気分がいいものを選ぶからな」


 その通りです……


 図星すぎて反論もできない。

「でもすっきりしたならよかった。風呂上がりなら、ちょうどランブルスコを冷やしてあるから、それと軽くおつまみを食べよう。そんな格好じゃ料理もしづらいだろ?」
「すみません……」

 莉子は小さく身体を丸めながら、連藤に促されるままに前へと歩いていく。
 そしてリビングソファに腰をかけろと手で示され、言われた通りに腰を下ろした。

 彼はそのままキッチンへ赴くと、いちじく、生ハム、マスカルポーネ、ルッコラを取り出した。
 いちじくは皮をむいて食べやすい大きさにざく切りにし、生ハムは手で適当にちぎる。
 それを大きめのボールにオリーブオイルと塩胡椒を入れて混ぜ、その中に切ったいちじく、生ハム、さらにそこにマスカルポーネとルッコラをざっくり混ぜ合わすと、大きめの皿に盛り付ける。
 アクセントに刻んだかぼちゃの種をふりかけ、もう一度オリーブオイルと胡椒を振り掛ければ出来上がりだ。

 まず料理が運ばれ、次にワインクーラーに差し込まれ出てきたのは、ランブルスコというワインである。
 ランブルスコはイタリア北部の土着品種の葡萄の名前だという。
 さらに赤ワインでありながら、天然微発泡のワインでもある。甘口、辛口があり、今回は甘口のようだ。

「では、もう携帯が鳴ることはないので、ゆっくりしようか」

 連藤の持ってきたグラスに、莉子はランブルスコを注いでいく。
 色の濃い赤は深く、炭酸の気泡が見えないほどだ。
 だがグラスを上から覗くと、弾ける空気の玉が見える。
 香りはジューシーな葡萄の香りだ。

 小さくグラスが重なってから、ゆっくりと口へ運ばれた。

 一口含むと果実味あふれる口当たりで、喉越しも滑らか。
 後味がほんのりと甘く、食前酒にはもってこいである。
 そこに連藤が作ったサラダを頬張ると、どうだろう。
 同郷といえる生ハムの塩気と、良いいちじく甘みがランブルスコを通すことで、滑らかな調和になるではないか。
 まるでこのワインがソースかのように生ハムの塩気を程よくいなし、いちじくの尖った感覚をうまく包んでいく。マスカルポーネの酸味がまた後味の甘さを引き立てて、ついワインが進んでしまう。

「連藤さん、これ完璧すぎますっ」

 莉子がにやけながら2杯目に手を伸ばした時、連藤もにっこりと微笑んだ。
 そして莉子の肩をそっと抱き寄せ、

「機嫌が治ったならよかった」

 こつりとおでこを当ててくる。

 千里眼だ……

 莉子は思いながら2杯目を一気に飲み干した。
 同時に洗濯完了メロディーが響いてきたが、連藤はまだこのままでいたいらしい。
 離されない肩に少し苛立ちながら、3杯目をグラスに注いで、ひと口飲み込んだ。
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