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10話
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それから四人で他愛もない話をしながら和気あいあいと飲み、帰宅してから携帯電話を見ると、崎本からの着信が入っていた。音を消していたので気づかなかった未央は、
『すみません、今電話あったことに気づきました。もう寝ちゃいました?』
と、メッセージを送った。それからすぐ、電話の着信音が鳴った。
「――はい」
『未央ちゃんに会いたい』
「どうしたんですか、崎本さん」
『未央ちゃん不足で死にそう』
「崎本さん、忙しそうですもんね。いつ頃落ち着きそうですか?」
『来週の月曜には何とか。火曜の定時後は予定が入ってるけど、水曜日って祝日で会社休みだろ? 会おう?』
「分かりました。どこか行きたいところありますか?」
『……未央ちゃんの中に行きたい』
「っ……、え、っと……はい。崎本さんちでいいですか?」
『うん。それをモチベにして頑張ろう、俺』
「頑張ってください」
『未央ちゃん……好きだよ』
「……はい」
電話を切った途端、未央は座っていたソファに突っ伏した。
「は、恥ずかしい……」
未央ちゃんの中に行きたい――そう言われた時、いつもならば「変なこと言わないでください!」と反応するところだが、口から出たのは躊躇いがちではあったが、それを受け入れんとする言葉だった。
多少なりとも、門真と冬海の明け透けな親密ぶりに影響を受けているな、と実感する未央だった。
こうして、少しずつでもいいから自分の内面を解《ほど》いていくことが出来たなら……そうして最終的に、心にあるしこりを完全に取り除くことが出来たなら――崎本との関係も揺るぎないものに変わっていくかも知れない。
少しだけ、そんなことを考えた。
崎本のグループが繁忙期を越えた火曜日、未央は業務命令で午後からカンファレンスに参加することになっていた。午前中の仕事と昼食を終え、準備した荷物を携えて更衣室を出たところで、入ろうとする女性と鉢合わせた。
よりにもよって、芹沢真澄その人だった。
「っ、」
未央の心臓が大きく跳ね上がった。が、向こうは未央のことなど知りもしないだろうし、会釈だけして通り過ぎようとした。すると、すれ違いざまに腕を掴まれた。相手はもちろん、真澄だった。
「え」
驚く未央。振りほどこうにも、未央より力が強いのか、まったく外れない。
次の瞬間に真澄が見せた笑みは、腕の力にはまったくそぐわない、天使のような輝きを放っていた。
「この間の更衣室での話、聞いてたんでしょ?」
「えー……」
(私……一応先輩なんだけど、なぁ……)
真澄の言葉に、まずそれを思った未央だった――が、女版・崎本、と言っても差し支えない圧倒的な美貌を目の前にして、何も言い返せない。それが同性ならなおさらだ。
「知ってます? 社内のみんなが笑ってるんですよ? 崎本さんと西村さん、全っ然釣り合ってない、って」
ゆるゆるとかぶりを振る未央。数人の女子社員からは刺々しく指摘されたことはあるが、社内で笑われているとは思ってもいなかった。
「知らなかったなら、今知ってくださいね。みぃんな言ってますから『真澄ちゃん以上に崎本さんにお似合いの女の子はいないのに、身を引かない西村未央はみっともない』って。私もそう思います。あ~みっともな~い。身のほどを弁えなきゃダメじゃないですかぁ、西村さん……勘違いするな、ブス」
真澄の言葉一つ一つが棘となって未央の心に突き刺さる。
崎本と釣り合わない――そんなことは百も承知だった。ただ、他人から面と向かって指摘されたのは初めてで。思いの外、心を深く抉られる凶器の言葉だと未央は感じていた。
くちびるを噛みしめ、込み上げるものを堪える未央。
「あー……西村がブスなら、世の中の九割の女子はブスになっちまうなぁ」
二人の後ろに、外出準備を済ませた門真が立っていた。気まずそうに頬を掻いている。
「門真さん……」
一瞬目を見開いた後、
「やだぁ……私ブスなんて言ってないですよ? 空耳じゃないですか?」
と、ニッコリとキラースマイルを放つ真澄。それを目にした門真は丸い目を更に真ん丸にして、それから、あははっ、と声を出して笑った。
「眼中にない男にまで愛想振りまかなきゃならないなんて、美人って大変なんだなぁ。ご苦労さん」
目の前の男をちょろいと踏んでいたであろう真澄は、思わぬ反応に軽く動揺を見せ、そして表情を殺して舌打ちをした。
(こんな美人にも平然としてるの、東西横綱以外にもいたよ、みんな……)
未央が心の中で同僚たちにテレパシーを送った。
そんな真澄を見て門真が一瞬目を細めたかと思うと、満面の笑みを湛え、
「ねぇ、俺は西村のこと笑ってるやつの話なんて聞いたことないんだけどなぁ? 【みんな】ってどこの人たち? ……性悪女の集団のことかなぁ?」
門真はその童顔をフル活用したような甘えた声を上げながら、とぼけた台詞を吐きかける。
「……っ、」
「とりあえず、うちの大事な後輩いじめられたら困るんで。……君が言ってたこと、途中からだけど録音しちゃった! これ崎本に聞かせちゃお~っと!」
門真は手にした携帯電話を振りながら、弾んだ声で言い放った。しかしその表情はまるで凍りついたように無表情だった。門真のこんな顔を未央はついぞ見たことがなかった。
(門真さん……顔と声が合ってないです)
門真に手を引かれながら苦笑する未央だった。
「いや~、マジえげつねぇな、あの子。イズッチが崎本に同情するの分かるわ」
「ありがとうございます……門真さん」
「……冬海がさ、西村のことえらく気に入ってんだよ。こないだからメッセージのやりとりしてるんだって? またみんなで飲みに行こう、って言ってた。あいつあぁ見えて人の好き嫌い激しいから、気に入るの珍しいんだ。自信持っていいぞ。……ま、気に入った一番の要素は『すーくんに手を出しそうにないから』らしいけどな」
ははは、と照れ笑いながら門真が手を離す。
未央と冬海は同い年ということも手伝い、初めて会った日から毎日のようにメッセージを送り合っている。今では「未央ちゃん」「冬海ちゃん」と呼び合い、門真抜きに連絡を取り合うくらいの仲になった。
「私もまた一緒に飲みたいです、冬海ちゃんと」
眉尻を下げて笑む未央に、門真はガシガシと自分の頭を掻いた。
「あのな西村、つきあってるならつきあってる、って社内で公言しちまうのもテだぞ? 崎本の口からはっきり宣言しちまった方が今みたいなことも減ると俺は思うんだけどな。攻撃は最大の防御、って言うだろ?」
その言葉と声音には、やたら説得力があるように思える。おそらく門真の今までの経験に裏打ちされた何かがそう見せているのだろう。彼のこういうところは、他人を安心させる力がある。だから営業部内でも崎本とは別な意味で人気があるし、信頼されているのだと未央は思う。
「そう……ですね、考えてみます」
そんな門真を安心させたくて、未央は笑みを浮かべて答えた。
「ん。じゃあカンファレンス行こうぜ」
未央は門真とカンファレンスに出席するべく、ベイサイドコンフォートへと向かった。同じグループの関係関連会社から多数の参加者が集まる勉強会のようなものだ。毎年全国各地のホテルのバンケットルームで行われるのだが、今年はホテル桜浜ベイサイドコンフォートで開催されることになり、未央の部署からは門真と未央、東棟からは厳原も参加することになっていた。
三人で連れ立って会場に行くと、早速厳原が知り合いに囲まれていた。その内の六割が女性だったのには門真も苦笑いしていた。未央も久しぶりに会う地方配属の同期などもいて、懐かしい話で盛り上がったりもした。
カンファレンスが無事終了すると、ちょうどいい時間だったので、未央と門真は厳原を誘って比較的空いていたホテルのイタリアンレストランで食事をすることにした。
「久しぶりに地方の同期に会えて割と楽しかったな~」
「あいつ、東京出身なのに北九州に配属されて、すっかり福岡訛りの喋り方になってたな。プレゼン聞いてびっくりしたわ俺」
「私も同期の子と会えました」
三人で楽しく食事を終えた後、店を出てロビーに出ると、門真がラウンジに目を留めた。
「あ、高森さんじゃん」
と呟いた。
「誰だよそれ」
「冬海のモデル事務所の人だよ。俺も顔見知りだからさ、ちょっと挨拶して来る。すぐ戻るからそこで待っててくれよ」
そう言って門真が席を外した。未央は厳原と一緒にロビーに立って待っていた。
門真を見ると、背の高いサラリーマン風の男性と談笑していた。未央はふと厳原のスーツに目をやった。
「あ、厳原さん、ネクタイにソースがついてます」
「マジ? うわー……信じらんねぇ。……ってか俺、ハンカチ会社に置いてきてんじゃん……最悪」
厳原はポケットを探りながら毒づいた。
「よかったらこれどうぞ」
未央がバッグからハンカチを出した。
「いーよ、汚れたら悪いから」
「大したハンカチじゃないですし、私もう一枚あるんで大丈夫ですよ。ティッシュだと繊維ついちゃいそうですし」
「そっか。悪ぃ、借りるな」
未央のハンカチを受け取った厳原はトイレに向かい、数分後、水に濡れたネクタイをハンカチで包んで帰って来た。
「ありがとな未央ちゃん。このままハンカチ借りるわ。クリーニング出して返すから」
「クリーニング代の方が高くなっちゃいますからいいですよ~」
「いや、こういうのちゃんとしないと嫁に叱られるからさー」
「奥さん、怖い人なんですか?」
「あー怖かねぇけどさ、人から借りたモノはないがしろにするな、っていつも言われてんだ」
「門真さんが美人だ、って言ってましたよ、厳原さんの奥さん」
「んーまぁまぁかな」
謙遜してはいるが、【東の横綱】の妻のことは当然ながら噂で聞いたことがあった。二人は職場結婚で今でも同じ部署で働いているそうで、以前門真に結婚式の写真を見せてもらったことがある。そこに写っていた美しい花嫁のことは、未央の記憶にも残っていた。
「今度是非会わせてください! 【東の横綱】の奥様に」
「おー。会わせてやるよ。未来の【西の横綱】の奥様?」
「――からかわないでくださ……」
苦笑いで言いかけたところで、未央の視線があるところで釘づけになった。
ホテルのフロントデスクのところに二人の男女がいた。紛うことなき、女性と腕を組んだ崎本だ。しかもその女性は、この上なく美しく、崎本とは美男美女でよく似合っている。
芹沢真澄とはベクトルが違い、この女性はゴージャスな大人美女、といったところか。つやつやした黒髪をアップにし、上品に着飾り、身につけたジュエリーもよく似合っている。そんな美女に見劣ることのない、崎本の美形ぶり。しかも隣の女性に腕を絡められても嫌がることなく、笑みさえ浮かべている。
二人はお互い見つめ合い、べったりとくっついたままロビーを横切ってエレベーターホールに消えていった。
おそらくこの二人を見た人の百パーセントが【恋人同士】と答えるであろう、【仲睦まじい男女】としての立ち居振る舞いだった。
(私以外の女性でも大丈夫……なんだ)
「……泣かなくていいのか?」
未央が何を見たのかきっと分かっているのだろう、厳原が静かに問う。
「……大丈夫、です」
何度も目を瞬かせ、口を引き結ぶ。
「お待たせ~、……って、西村どうした?」
二人のもとに帰って来た門真が、ただならぬ空気を感じて目を見張った。厳原が目配せをしながらかぶりを振る。
「私……帰りますね。お疲れさまでした。お先に失礼します」
精一杯の笑顔を作り、未央はホテルを出た。
(すごく綺麗な人……だったな)
電車に乗り込んだ未央は、空いている席に腰を下ろすと同時に、スマートフォンを取り出した。崎本からのメッセージはなかった。
未央は大学時代の友人のことを思い出した。
在学中、彼女は不倫をしていた。相手は八才ほど年上のサラリーマンだ。未央を含めた友人たちは「奥さんいる人なんてやめた方がいいよ」と何度も助言したのだが、彼女は決まって、
「彼、奥さんのことはもう愛してないんだって」
「いつもあたしのこと『愛してる』って言ってくれるの」
「デートのたびにいろんなところに連れてってくれるし、もうラブラブなの」
「もうすぐ離婚するから、そしたら結婚しようね、って言ってるんだ」
と、不倫している女性が必ずと言っていいほど壮語する常套句でかわしていた。
しかし、
【『妻とは別れる』と言う不倫男の九〇%以上は、絶対に別れない。】
とあるデータが示す通り、不倫相手は最終的には妻を選んだ。そのお腹の中には新しい生命が宿っていたという。未央の友人は怒り狂い、不倫相手の家に乗り込んで修羅場を引き起こした。
未央は友人の当時の荒れ狂いようを思い出し、胸が痛くなった。もちろん、彼女と自分の状況はかなり違う。未央は妻子のある男性とそういう関係になったわけではないので不倫とは言わない。
しかし果たしてこの関係に【浮気】は存在しなかったのか? ――そう聞かれると何も答えられない。そして実際、未央は耳にし、目撃した。
崎本とただならぬ関係になったという真澄の話を。
美しい女性と親密そうにホテルを歩く崎本の姿を。
(きっと私が浮気だったんだ……)
真澄やあの女性、そして自分――誰が本命で誰が浮気かと尋ねられれば、それは自明の理である。あの二人と比べたら、何をどうしたって未央は見劣りがしてしまう。彼女自身ですらそう思うのだから、女性恐怖症を克服したであろう今の崎本なら、当然それに気づくはずだ。そして未央のことは【一時の気の迷い】ということにしておしまい。
そんな惨めなことになるくらいなら、その前に離れてしまおう。二人の本当の関係がほとんど認知されていない今ならまだ、周囲の憐憫に満ちた視線に晒されることなくフェイドアウト出来るだろう。
未央は自宅に戻るや否や、崎本から借りた本やブルーレイをすべて袋に詰めた。明後日の朝イチで彼の机に戻すためだ。そして携帯電話を取り出し、素早くメッセージを送った。
『すみません、明日のお休みですが、実家の親に呼び出されてしまい、会えなくなりました。ごめんなさい』
(明日が祝日でよかった……)
未央は着替えもせずにベッドに身体を横たえた。
『すみません、今電話あったことに気づきました。もう寝ちゃいました?』
と、メッセージを送った。それからすぐ、電話の着信音が鳴った。
「――はい」
『未央ちゃんに会いたい』
「どうしたんですか、崎本さん」
『未央ちゃん不足で死にそう』
「崎本さん、忙しそうですもんね。いつ頃落ち着きそうですか?」
『来週の月曜には何とか。火曜の定時後は予定が入ってるけど、水曜日って祝日で会社休みだろ? 会おう?』
「分かりました。どこか行きたいところありますか?」
『……未央ちゃんの中に行きたい』
「っ……、え、っと……はい。崎本さんちでいいですか?」
『うん。それをモチベにして頑張ろう、俺』
「頑張ってください」
『未央ちゃん……好きだよ』
「……はい」
電話を切った途端、未央は座っていたソファに突っ伏した。
「は、恥ずかしい……」
未央ちゃんの中に行きたい――そう言われた時、いつもならば「変なこと言わないでください!」と反応するところだが、口から出たのは躊躇いがちではあったが、それを受け入れんとする言葉だった。
多少なりとも、門真と冬海の明け透けな親密ぶりに影響を受けているな、と実感する未央だった。
こうして、少しずつでもいいから自分の内面を解《ほど》いていくことが出来たなら……そうして最終的に、心にあるしこりを完全に取り除くことが出来たなら――崎本との関係も揺るぎないものに変わっていくかも知れない。
少しだけ、そんなことを考えた。
崎本のグループが繁忙期を越えた火曜日、未央は業務命令で午後からカンファレンスに参加することになっていた。午前中の仕事と昼食を終え、準備した荷物を携えて更衣室を出たところで、入ろうとする女性と鉢合わせた。
よりにもよって、芹沢真澄その人だった。
「っ、」
未央の心臓が大きく跳ね上がった。が、向こうは未央のことなど知りもしないだろうし、会釈だけして通り過ぎようとした。すると、すれ違いざまに腕を掴まれた。相手はもちろん、真澄だった。
「え」
驚く未央。振りほどこうにも、未央より力が強いのか、まったく外れない。
次の瞬間に真澄が見せた笑みは、腕の力にはまったくそぐわない、天使のような輝きを放っていた。
「この間の更衣室での話、聞いてたんでしょ?」
「えー……」
(私……一応先輩なんだけど、なぁ……)
真澄の言葉に、まずそれを思った未央だった――が、女版・崎本、と言っても差し支えない圧倒的な美貌を目の前にして、何も言い返せない。それが同性ならなおさらだ。
「知ってます? 社内のみんなが笑ってるんですよ? 崎本さんと西村さん、全っ然釣り合ってない、って」
ゆるゆるとかぶりを振る未央。数人の女子社員からは刺々しく指摘されたことはあるが、社内で笑われているとは思ってもいなかった。
「知らなかったなら、今知ってくださいね。みぃんな言ってますから『真澄ちゃん以上に崎本さんにお似合いの女の子はいないのに、身を引かない西村未央はみっともない』って。私もそう思います。あ~みっともな~い。身のほどを弁えなきゃダメじゃないですかぁ、西村さん……勘違いするな、ブス」
真澄の言葉一つ一つが棘となって未央の心に突き刺さる。
崎本と釣り合わない――そんなことは百も承知だった。ただ、他人から面と向かって指摘されたのは初めてで。思いの外、心を深く抉られる凶器の言葉だと未央は感じていた。
くちびるを噛みしめ、込み上げるものを堪える未央。
「あー……西村がブスなら、世の中の九割の女子はブスになっちまうなぁ」
二人の後ろに、外出準備を済ませた門真が立っていた。気まずそうに頬を掻いている。
「門真さん……」
一瞬目を見開いた後、
「やだぁ……私ブスなんて言ってないですよ? 空耳じゃないですか?」
と、ニッコリとキラースマイルを放つ真澄。それを目にした門真は丸い目を更に真ん丸にして、それから、あははっ、と声を出して笑った。
「眼中にない男にまで愛想振りまかなきゃならないなんて、美人って大変なんだなぁ。ご苦労さん」
目の前の男をちょろいと踏んでいたであろう真澄は、思わぬ反応に軽く動揺を見せ、そして表情を殺して舌打ちをした。
(こんな美人にも平然としてるの、東西横綱以外にもいたよ、みんな……)
未央が心の中で同僚たちにテレパシーを送った。
そんな真澄を見て門真が一瞬目を細めたかと思うと、満面の笑みを湛え、
「ねぇ、俺は西村のこと笑ってるやつの話なんて聞いたことないんだけどなぁ? 【みんな】ってどこの人たち? ……性悪女の集団のことかなぁ?」
門真はその童顔をフル活用したような甘えた声を上げながら、とぼけた台詞を吐きかける。
「……っ、」
「とりあえず、うちの大事な後輩いじめられたら困るんで。……君が言ってたこと、途中からだけど録音しちゃった! これ崎本に聞かせちゃお~っと!」
門真は手にした携帯電話を振りながら、弾んだ声で言い放った。しかしその表情はまるで凍りついたように無表情だった。門真のこんな顔を未央はついぞ見たことがなかった。
(門真さん……顔と声が合ってないです)
門真に手を引かれながら苦笑する未央だった。
「いや~、マジえげつねぇな、あの子。イズッチが崎本に同情するの分かるわ」
「ありがとうございます……門真さん」
「……冬海がさ、西村のことえらく気に入ってんだよ。こないだからメッセージのやりとりしてるんだって? またみんなで飲みに行こう、って言ってた。あいつあぁ見えて人の好き嫌い激しいから、気に入るの珍しいんだ。自信持っていいぞ。……ま、気に入った一番の要素は『すーくんに手を出しそうにないから』らしいけどな」
ははは、と照れ笑いながら門真が手を離す。
未央と冬海は同い年ということも手伝い、初めて会った日から毎日のようにメッセージを送り合っている。今では「未央ちゃん」「冬海ちゃん」と呼び合い、門真抜きに連絡を取り合うくらいの仲になった。
「私もまた一緒に飲みたいです、冬海ちゃんと」
眉尻を下げて笑む未央に、門真はガシガシと自分の頭を掻いた。
「あのな西村、つきあってるならつきあってる、って社内で公言しちまうのもテだぞ? 崎本の口からはっきり宣言しちまった方が今みたいなことも減ると俺は思うんだけどな。攻撃は最大の防御、って言うだろ?」
その言葉と声音には、やたら説得力があるように思える。おそらく門真の今までの経験に裏打ちされた何かがそう見せているのだろう。彼のこういうところは、他人を安心させる力がある。だから営業部内でも崎本とは別な意味で人気があるし、信頼されているのだと未央は思う。
「そう……ですね、考えてみます」
そんな門真を安心させたくて、未央は笑みを浮かべて答えた。
「ん。じゃあカンファレンス行こうぜ」
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カンファレンスが無事終了すると、ちょうどいい時間だったので、未央と門真は厳原を誘って比較的空いていたホテルのイタリアンレストランで食事をすることにした。
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「あいつ、東京出身なのに北九州に配属されて、すっかり福岡訛りの喋り方になってたな。プレゼン聞いてびっくりしたわ俺」
「私も同期の子と会えました」
三人で楽しく食事を終えた後、店を出てロビーに出ると、門真がラウンジに目を留めた。
「あ、高森さんじゃん」
と呟いた。
「誰だよそれ」
「冬海のモデル事務所の人だよ。俺も顔見知りだからさ、ちょっと挨拶して来る。すぐ戻るからそこで待っててくれよ」
そう言って門真が席を外した。未央は厳原と一緒にロビーに立って待っていた。
門真を見ると、背の高いサラリーマン風の男性と談笑していた。未央はふと厳原のスーツに目をやった。
「あ、厳原さん、ネクタイにソースがついてます」
「マジ? うわー……信じらんねぇ。……ってか俺、ハンカチ会社に置いてきてんじゃん……最悪」
厳原はポケットを探りながら毒づいた。
「よかったらこれどうぞ」
未央がバッグからハンカチを出した。
「いーよ、汚れたら悪いから」
「大したハンカチじゃないですし、私もう一枚あるんで大丈夫ですよ。ティッシュだと繊維ついちゃいそうですし」
「そっか。悪ぃ、借りるな」
未央のハンカチを受け取った厳原はトイレに向かい、数分後、水に濡れたネクタイをハンカチで包んで帰って来た。
「ありがとな未央ちゃん。このままハンカチ借りるわ。クリーニング出して返すから」
「クリーニング代の方が高くなっちゃいますからいいですよ~」
「いや、こういうのちゃんとしないと嫁に叱られるからさー」
「奥さん、怖い人なんですか?」
「あー怖かねぇけどさ、人から借りたモノはないがしろにするな、っていつも言われてんだ」
「門真さんが美人だ、って言ってましたよ、厳原さんの奥さん」
「んーまぁまぁかな」
謙遜してはいるが、【東の横綱】の妻のことは当然ながら噂で聞いたことがあった。二人は職場結婚で今でも同じ部署で働いているそうで、以前門真に結婚式の写真を見せてもらったことがある。そこに写っていた美しい花嫁のことは、未央の記憶にも残っていた。
「今度是非会わせてください! 【東の横綱】の奥様に」
「おー。会わせてやるよ。未来の【西の横綱】の奥様?」
「――からかわないでくださ……」
苦笑いで言いかけたところで、未央の視線があるところで釘づけになった。
ホテルのフロントデスクのところに二人の男女がいた。紛うことなき、女性と腕を組んだ崎本だ。しかもその女性は、この上なく美しく、崎本とは美男美女でよく似合っている。
芹沢真澄とはベクトルが違い、この女性はゴージャスな大人美女、といったところか。つやつやした黒髪をアップにし、上品に着飾り、身につけたジュエリーもよく似合っている。そんな美女に見劣ることのない、崎本の美形ぶり。しかも隣の女性に腕を絡められても嫌がることなく、笑みさえ浮かべている。
二人はお互い見つめ合い、べったりとくっついたままロビーを横切ってエレベーターホールに消えていった。
おそらくこの二人を見た人の百パーセントが【恋人同士】と答えるであろう、【仲睦まじい男女】としての立ち居振る舞いだった。
(私以外の女性でも大丈夫……なんだ)
「……泣かなくていいのか?」
未央が何を見たのかきっと分かっているのだろう、厳原が静かに問う。
「……大丈夫、です」
何度も目を瞬かせ、口を引き結ぶ。
「お待たせ~、……って、西村どうした?」
二人のもとに帰って来た門真が、ただならぬ空気を感じて目を見張った。厳原が目配せをしながらかぶりを振る。
「私……帰りますね。お疲れさまでした。お先に失礼します」
精一杯の笑顔を作り、未央はホテルを出た。
(すごく綺麗な人……だったな)
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在学中、彼女は不倫をしていた。相手は八才ほど年上のサラリーマンだ。未央を含めた友人たちは「奥さんいる人なんてやめた方がいいよ」と何度も助言したのだが、彼女は決まって、
「彼、奥さんのことはもう愛してないんだって」
「いつもあたしのこと『愛してる』って言ってくれるの」
「デートのたびにいろんなところに連れてってくれるし、もうラブラブなの」
「もうすぐ離婚するから、そしたら結婚しようね、って言ってるんだ」
と、不倫している女性が必ずと言っていいほど壮語する常套句でかわしていた。
しかし、
【『妻とは別れる』と言う不倫男の九〇%以上は、絶対に別れない。】
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未央は友人の当時の荒れ狂いようを思い出し、胸が痛くなった。もちろん、彼女と自分の状況はかなり違う。未央は妻子のある男性とそういう関係になったわけではないので不倫とは言わない。
しかし果たしてこの関係に【浮気】は存在しなかったのか? ――そう聞かれると何も答えられない。そして実際、未央は耳にし、目撃した。
崎本とただならぬ関係になったという真澄の話を。
美しい女性と親密そうにホテルを歩く崎本の姿を。
(きっと私が浮気だったんだ……)
真澄やあの女性、そして自分――誰が本命で誰が浮気かと尋ねられれば、それは自明の理である。あの二人と比べたら、何をどうしたって未央は見劣りがしてしまう。彼女自身ですらそう思うのだから、女性恐怖症を克服したであろう今の崎本なら、当然それに気づくはずだ。そして未央のことは【一時の気の迷い】ということにしておしまい。
そんな惨めなことになるくらいなら、その前に離れてしまおう。二人の本当の関係がほとんど認知されていない今ならまだ、周囲の憐憫に満ちた視線に晒されることなくフェイドアウト出来るだろう。
未央は自宅に戻るや否や、崎本から借りた本やブルーレイをすべて袋に詰めた。明後日の朝イチで彼の机に戻すためだ。そして携帯電話を取り出し、素早くメッセージを送った。
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正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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