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第一章

第九話

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 智晃は読み終えた書類を机の上に投げるとメガネをずらし目頭を強く押した。今夜はめずらしく他のスタッフの姿がない。仕事がないときは早目に帰った方がいいので特に何も思わないが、外出の多くなった智晃にとって、夜のオフィスに一人残されるのは久しぶりのことだった。
  目の届く範囲の広さ、自分が管理できる最低限のスタッフの数、智晃はこの会社の代表ではあるが「社長」ではなく、名字か名前で呼ばせている。独立して数年はスタッフ教育に時間を割いた。その後はスタッフの定着を目指した。人が集まればその集団にはカラーがでる。
  智晃は今のスタッフたちに、その人間関係に、社内の雰囲気に満足していた。気さくさがありながらも、礼儀は弁え、一定のラインは守る。請け負う仕事は、まず今いるスタッフで成果を出せるかを考えて引き受けることを前提にしているので、ひどい無理はさせていないと思いたい。
  智晃にとっては小さな小さな城。
  部屋を見渡した後、机の上の書類に視線を戻した。投げ出した書類は新たなクライアントとかわした契約書。自分がつくりあげた王国からしばらく離れて、巨大な傘の下に入らなければならない。
  本来、智晃がコンサルティングするクライアントは個人事業や中小企業など従業員数が50未満の会社が多い。
  大手企業に勤めていた時、智晃はいかに末端といわれる位置にある会社を守るのが難しいか実感した。経営改善にリストラはどうしてもつきもので、そうなると一番に犠牲になるのは弱いものだ。長年の情としがらみを断ち切るのをためらうならまだいい。だが現実は容赦ない。上司の一言で紙切れ一枚で、実践される。まるで必要があれば生えてくるとかげのしっぽのように安易に。
  それをコンサルティングと称して、経営改善のお手伝いと見目のいい言葉で誤魔化して、提案することが嫌でたまらなかった。
  それに、日本経済を牽引しているのは大企業だけじゃない。小さな会社の大きな集まりにどれほど価値があるか。地域に根差し、貴重な技術を引き継ぎ、地道に開拓して支えているのは小さな人たちの方だ。
  智晃は上からひっぱりあげるのではなく、下から支える仕事がしたくて独立した。
  一番弱いものを、価値がないと捨てられそうになるものを、拾って大事にしたかった。智晃の両手が守れるのは小さな世界。でも小さなものたちが手を繋いで、大きな輪を作れば誰かが落ちても伸ばす手がたくさんある。
  切り捨てるのではなく、拾い上げる会社。強引にひっぱるのではなく下から支える会社。
  甘いと言われるかもしれなくとも、それが智晃の目指すものだ。
  体が弱く、自分には価値がないと、苦しみを抱え続けた晴音は、そんなマイナスの心を覆い隠して笑っていた。弱さを見せれば愚痴を言えば周囲が心配する。だから晴音の口癖は「ごめんね」と「大丈夫」だった。
  晴音の存在が、智晃に新しい世界を教え、道を照らした。
  だからこれまでであれば、大きな企業からの依頼は断る。智晃が手を差し伸べずとも、差し出される手を大企業は持っているからだ。ずっと躱してきたけれども今回ばかりは断ることができなかった。規模が大きいため、智晃はしばらくその案件につきっきりになることが決まっていた。
  はあっとため息をついて、机の引き出しから、自分には似つかわしくない封筒を取り出す。薄紅色に滲んだ封筒の中にはお金が入っている。彼女に渡された「割り勘」の代金。今が一番大事な時期だと思うのに、彼女に会う時間はとれそうにない。
  彼女の服装や持ち物を見ても、シンプルで質素で、何の仕事をしているかはわからないが、余裕があるようには見えない。それはここのスタッフの女性たちと比べてもわかる。
  だからすんなり智晃に奢られてくれればいいのに、頑なにそれを嫌がる。いまどきめずらしいほど慎ましいのに、ベッドの上では恥ずかしがりながらも智晃が誘うままに乱れる。痴態を思い出しかけて、渇きを自覚する自分がいやらしく思えた。
 「智、まだいたのか?……なんだよ、今時ラブレターか」
  三住が目ざとく智晃が手にしていたものを見つけて茶化してくる。咄嗟に引き出しにしまったが「おい本当にラブレターかよ」と余計にからかわれる羽目になった。
 「ラブレターじゃない、お金だ」
 「金―?何?おまえ女に貢がせているのか?」
 「人聞きの悪いことを言うな。割り勘のお金だ。……正直どう扱っていいかわからない」
  できれば彼女には一銭も支払わせたくない。イブは素直に甘えてくれたが、結局あの封筒にはその分も含まれているのではと勘繰りたくなる金額が入っていた。バレンタインデーだって黙って強引に温泉旅館に連れて行ったのは智晃だ。その分も前もって考えて追加されていたようにも思う。
  だから返したかった。けれど彼女は受け取らないどころか、払わせてもらえないなら食事には行かないなど脅してくる。
 「割り勘……って、今時?そしておまえ相手に?」
  投げ捨てていた書類をファイルにしまいながら、智晃は頷いた。三住が妙なものを食べたような表情をしている。
 「おまえからぶんだくらなくて、誰からぶんだくるんだよ。オレだって割り勘させたことないぞ。ああ……もしかしておまえが経営者でおぼっちゃんだってこと知らないのか」
  三住は自分の言葉に何かを思い出したのか、デスクの引き出しから小さな箱を取り出した。
 「よかった、思い出して。肩書つきの名刺、切れていただろう?さすがに今度のクライアントには肩書つきでないとまずいだろうと思って頼んでおいた」
  智晃は仕事をするときに二枚の名刺を使い分ける。社名のみのものと肩書つきのものとだ。
  智晃がコンサルティングする相手は、飲食店や美容店、診療所、下請け企業など小さな個人事業主や、中小企業がメインのため、そういう場所で「代表」の肩書をもつ名刺を渡すとどうしても恐縮されてしまう。智晃は確かにこの会社の代表だが、それはそういうのが必要だからで、正直パートナーである三住でもよかった。三住は嫌がって智晃に押し付けてきただけだ。
  智晃をいちコンサルタントとして見てほしいため、普段は基本的には社名のみの名刺を使う。
  だから、ネットでわざわざ名前を調べでもしない限り、代表だとはわからない。
  智晃は名刺を一枚取り出して、ぼんやり眺めた。ずっと頼まれながら避けていた仕事。さすがに業績悪化の資料を数期続けて見せられ、独立にあたっても援護してくれた叔父の頼みを断ることができなかった。
 「どうせ……こんな名刺がなくても、僕のバックグラウンドは噂になって広まっている」
 「あー、まーな、でも仕方ないだろう。おまえの叔父さんだって、外部のコンサルティング会社入れるのにおまえの素性は暴露しているだろうし、遅かれ早かれ知れ渡るさ。
 親会社の世田会長と同じ名字だ、推測は容易いよ。ま、母方の名前まで出なきゃいいなあ、ぐらいでいかないと」
  智晃の両親はいわゆる大企業同士の政略結婚で結ばれた。兄二人はそれぞれ父方と母方のグループ企業に勤めている。智晃も両方から「仕事を手伝え」とか「関連会社を受け持て」と言われてきたけれど、ずっと逃げてきた。まったく関係のない大手コンサルティング会社に入社した上に独立した智晃を、両親族とも静観しているように思えたのに、ここにきて父方企業がヘルプを出してきた。
  本当は関わりたくない。両企業の血が流れていても、智晃は数いるうちの甥や孫の一人で、今はしがない個人経営者でしかない。晴音などは当初、智晃のバックグラウンドを知って自分と関わるのを辞めようとした。理人との結婚にすぐに応じなかった一因でもある。
  だから独立した。
  智晃自身は一個人のつもりでも、背後の素性を知れば、目の色を変える人間がいることはこれまでの経験でわかっている。今回はおそらくあからさまにそういう目で見られることになるだろう。素性が明らかになっているうえで、そこで仕事をするのだから。
  彼女はどうなるだろうか。
  智晃の素性どころか、仕事も、名前さえ知らない彼女は。
  もし知ったら、どうするだろうか。それだけが智晃の唯一の不安の種。
 「イブに会ったのと割り勘の相手は同じなのか?」
 「ああ」
 「ふーん、だったらホワイトデーに会えない分、おかえしに何かプレゼントでもすれば」
  割り勘のお金の使い道を、この男は考えてくれたらしい。
 「でも、指輪は、ひかれるよな……」
 「晴音ちゃん結婚して、落ち込んでいるかと思えば……おまえいつのまにそんな女見つけてんの?そこまで入れ込んでいるなんて聞いてないけど!!」
 「言っていないからね」
  言えるわけがない。いまだ彼女の名前を知らないことも、自分の素性を教えていないことも。
  少しずつ彼女が歩み寄ってくれて、桜が咲くころは名前を呼びたいと言ってくれたから、やっと言えそうな状況になった。いやここまできたら、桜が咲きはじめたらたとえ彼女が戸惑っても自分の素性を先に教えてしまおうとも思っている。もちろん逃がさないようにしたうえで。
 「えー会いたい!つうか会わせろ!」
 「何言っている?僕だって会う時間ないんだ。おまえに会わせる時間なんてとれるわけないだろう」
  Sコンサルティング代表、世田智晃。
  この名刺を彼女に渡して、そして名前を呼んでほしい。
  「アキ」ではなく「智晃」と。



  ***



  「怖い」悠花は何度も「アキ」にそう言ったと思う。
  気持ちが変わることが怖かった。穂高を心から愛していたのに、別れたとはいえたった数年で別の男を愛しいと思う自分の感情の移り変わりが怖かった。
  「アキ」の本当の名前を知り、また「恋」をすることが怖かった。
  でも彼は「一人で怖がらなくていい」と「ずっとそばにいる」と言ってくれた。
  
  だから穂高の結婚式の日、一人海でさよならの儀式をした。
  
  穂高にもらった指輪を、初めて気持ちを告げられてキスをした海に投げた。
  理由などわからなくても「会いたい」その気持ちだけで積み重ねた彼との関係。



 「名前を教え合ったら、二人の恋をはじめよう」



  それが交わした約束。
  だから……指輪を海に飲み込ませた後、悠花はやっとメールで伝えることができた。



 「今度会ったときに名前を教えてください」と。




  ***




  「名前を教えてほしい」とメールをしたとき、彼は海外出張中だった。少し遅れてきた返事は「仕事を放りだして今すぐ日本に帰りたい」だった。悠花はそのメールを何度となく表示させてながめる。彼らしくない気がしたけれど、悠花が知る彼などごくわずかで、これからもっと彼のことを知っていくのだと思うと胸が騒いだ。同時に自分のことも知られることに小さな怯えも抱えている。
  過去のこと、穂高との関係、そこで起こった出来事。
  すべてを一気に話すことは無理だろうけれど、伝えないわけにもいかない。
  悠花は時計を見て、もうすぐお昼休みが終わるのに気づくと、テーブルを片付け始めた。めずらしく顔を出した部長から、午後から頼みたいことがあると言われていた。休憩から帰ってきた同じ秘書事務の女の子たちがわずかに興奮したように話しているのを見て、また誰か素敵な取引先の人でも来たのだろうかと思う。
 「名月さん!午後からは総務の事務の子と一緒に部屋の準備をしてほしいんだって」
 「3月末から、外部のコンサルティング会社から人が来るみたい。3週間ぐらいいるみたいだから仕事ができる環境を整えてほしいそうよ」
  すでに部長に言われていたのか、彼女たちの言葉に悠花は素直に頷いた。
  この会社の前回の決算は下方修正されあまり業績がよくなかった。続く悪化のテコ入れのためにコンサルティングをいれるいれないでもめていたようだが、どうやら外部から呼ぶことにしたのだろう。親会社にもコンサルティング部門があってそちらに依頼をするという話もあったのにと不思議に思っていると、どうやら親会社の創業者一族の関係者らしいと彼女たちが教えてくれる。
 「部屋はどこのフロアになるんですか?」
 「総務と企画のフロアだって。戦略室やこの役員室も候補にあがったらしいけど、広めの部屋を希望したみたいで、そっちになったそうよ」
  企画のフロアは他社と合同で仕事を行うときに使う部屋があるため、必要最低限の物はすでに揃っている。役員フロアでなくて悠花は正直ほっとしていた。あまり外部の人とは接触したくない。それが親会社の関係者ならなおさら。彼女たちがはしゃいでいるのは、創業者一族の部分があるせいだろう。どこまでの関係者かわからないが、もし相手が独身で運よく縁があればセレブの仲間入りになれる。
  よりよい結婚相手を望むのは女なら誰だって夢見ること。
  悠花は現実を知り、大変さを見てきた。そして未来を見失った。それでも夢見る彼女たちに現実を諭そうとは思わない。夢見ているときが一番幸せなのだから。




 「Sコンサルティング代表 世田智晃」




  しばらく慌ただしくなるのだろう、この時にはそう思っただけだった。
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