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第二章

第四話

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 艶やかな気配がいつまでも肌にまとわりついているようだった。

 悠花は智晃の望み通り、週末を彼の部屋で過ごした。
 彼のベッドで一緒に眠りにつき、朝目が覚めると隣にぬくもりを感じた。
 そのまま日常が始まっても離れなくてすむ。
 調理器具だけは立派なキッチンに二人で立って、一緒に料理をした。
 外食が多いからほとんど自炊はしないこと、好き嫌いはないからなんでも食べられること、掃除は嫌いじゃないこと、そんなたわいもないことを語り合った。
 食事を終えた後は二人で協力して部屋の掃除をした。
 悠花が「私も自分の部屋の掃除をしたかったな」と言えば、智晃は申請書類のことを思い出して「できるだけ早く申請するよ。悠花の部屋に行けるようになったら僕も手伝う」と言ってくれた。
 部屋から一歩も出ることなく、おしゃべりをして、ずっと体のどこかが触れ合って過ごした休日は、心の距離を縮めるのにも愛しさがふくれあがるのにも十分だった。
 こうして彼に乞われるまま一緒に住むことができれば、そしていつかは永遠の愛を誓うことができれば、そんな大それた願望を抱いてしまうぐらいには。
 そして今朝は約束通り彼の車に送られて会社に来ていた。
 いつもと同じ通勤かばんに地味なスーツ姿で装うと、智晃は少しだけ神妙な表情をしていた。けれど「むしろ安心か……」と言って頭を撫でてくれたので、受け入れてくれたのだとは思う。
 目立たない場所で降ろしてもらったものの、降りる間際に「僕がまだあそこに通っていれば一緒に通勤できたのにね」とぼやかれて、そうならなくて良かったと思ったのは内緒だ。
 更衣室で制服に着替える時は、肌に残された痕が気になったし、鏡にうつる自分の顔も惚けてぼやけているように見えた。
 智晃は「朝からごめん」と口では謝りながらも行為を止めなかった。「ここまで長く一緒にいたのが初めてだったから止まらない」と言い訳をして朝から彼に貫かれた。シャワーを浴びたのに肌はずっとざわついていた。
 当然、お弁当は作ることはできなかったので、お昼ごはんにはコンビニで調達したものを食べた。
 食事を終える頃にメールが届く。

「朝まで一緒にいたのに、もう会いたい」

 嬉しさと恥ずかしさですぐにその画面は閉じた。

 「今夜帰ってもあなたはいないんだな……」車で送られる時に不意に彼がもらした言葉が蘇る。
 彼は敏感な人だ。悠花が言葉にせずとも意を汲んで対応してくれる。先回りして配慮してくれる。決して急かさずに悠花の不安が和らぐのを根気強く待ってくれていた彼が、どこか箍がはずれたように気持ちを吐露するのは、きっと悠花への愛情だけではない。
 不安だからだ。
 悠花が抱えている不安や怯えを、智晃は感じ取っている。
 どんなにお互いを大切に思っていても、心から愛し合っていても結ばれない現実を知っている悠花は「会いたい」気持ちのまま会うことを自分に許した今も「終わり」を意識せざるを得ない。
 彼の言う通り永遠でなくてもいい。
 「終わり」が80年後なら、いや50年後でも構わない。
 いつかくる「終わり」までの猶予が長ければいいと願っていても意識してしまうのは、知らず覚悟を決めるためだ。
 それが、自分が傷つかないための自己保身だということもわかっている。
 だから一人きりのランチを終えて、いつものようにお気に入りのお茶を飲んでいるときに戻ってきた桧垣の姿に、悠花はやっとどこか現実に帰ってきた気がしていた。


 ***



「この間はバタバタして詳しく話を聞くことができなかったから再確認したい。次の契約更新はしないという気持ちは変わらないのか?」

 会議室の電気は灯さなかったため、レースのカーテンから透ける光だけが部屋にあふれる。
 ここに呼び出されるのは人に聞かれたくない話をする場合に限る。
 入社したころはともかく、しばらくの間はこの部屋を使うことはなかった。
 工藤との再会以降増えてしまったのは、これまで単調だった悠花の世界が変わってきたせいなのだろう。
 見張るような桧垣の視線を意識してずっとおとなしく過ごしていたはずなのに、また手間をとらせる状況になっていることに申し訳ない気がしていた。

「これまでお世話になってきたのに申し訳ありません」
「世話になったと思うなら、正社員として働くことを前向きに考えてほしかったんだがな」

 悠花は再度頭をたれる。
 桧垣の声はいつもと同じ、硬質で冷たい。
 緊張を強いる空気は変わらないはずなのに、ぞんざいな口調が落ち着かない気分にさせた。

「副社長は君に正社員になってもらって、いずれは事務ではなく秘書としての仕事に就くことを望んでいた。恩を返すのならここで働いて返せばいい」

 秘書部の部長からも、このまま正社員になる気はないかと言われていた。
 いずれはそうなれればいいという思いと、これ以上の迷惑はかけたくない思いとが行き来していた。
 副社長もそう思ってくれていたと聞かされて悠花は胸がいっぱいになる。
 行き場のなかった悠花の居場所と生活の基盤を与えてくれた人だから恩返ししたい気持ちはある。でも智晃とのことを考えれば甘えないことのほうが恩返しになるはずだ。

「お気持ちはありがたいのですが申し訳ありません」
「そうか。私の方から副社長には伝えておくがおそらく副社長からも引き留められるだろう。説得は自分でするといい」
「はい」
「それで、これからどうする?」
「小さくても正社員で雇ってくださる会社を探すつもりです」

 本当はずっと迷っていた。
 副社長に甘えて、この会社で正社員となって働き雇ってもらった恩を返す。
 でもここで働き続けることが恩返しになるのか不安だった。
 いつか……迷惑をかけてしまうときがくるかもしれないと思うと踏ん切りがつかなかった。
 けれどこれ以上甘え続けるわけにはいかない。
 智晃とのつき合いが続くのか、途切れてしまうのかわからないけれど、彼との接点を持ってしまった以上、このままここにはいられない、その思いがくすぶっている。
 同時に穂高とのことを過去にして、新たに一歩足を踏み出す時がきたのだとも思っている。
 自分の足で立って歩いていくために、閉じこもっていた世界から飛び立つ必要があるのだ。

「……結婚するからってわけじゃないんだな、やっぱり」
「え?」

 質問の意味がすぐに把握できずに悠花は思わず顔をあげて、そして後悔した。
 目の前に座る桧垣との間にはテーブルがあるのに、彼が前かがみの姿勢のためやけに近づいた気がした。

「世田智晃とはうまくいっているのか?」

 海であんなやりとりをしても、翌週の桧垣の態度は変わらなかった。
 彼が出張で留守がちだったこともあったし、悠花も特に意識しないようにしていた。
 契約更新しない旨を告げる時はさすがに悩んだけれど、バタバタと彼が副社長に呼び出されたせいで、その時の会話もあやふやになった。
 発せられた問いに、悠花は答えに窮する。
 改めて問われるかもしれない可能性を考えなかったわけじゃない。触れずなかったことにするのが互いのためだと思っていた。だからなんと答えていいか迷う。あんなことがあった手前「あなたには関係ない」と突っぱねることもできない。

「お付き合いをさせていただいています」

 心の揺らぎを吐露しておきながら、こういう結果になったことがなんとなく後ろめたくて、目をそらしたかった。
 それができなかったのは桧垣が上司としての空気をがらりと変化させたせいだ。
 海での接触がなければ、素ともいえる桧垣を知らずにいれば、そんな変化など見過ごしたのに強い視線に囚われる。悠花は思わず左手首をぎゅっと握りしめた。

「その割に君は幸せいっぱいって感じじゃないな。私が海で君に言った言葉、あれは冗談でなく本気だ。世田氏と別れたら……君は私と結婚することになる。それが嫌なら別れないことだ」

 悠花は反射的に首を横に振った。
 もし智晃と別れても、桧垣との結婚など考えられるわけがない。
 自分と結婚したくなければ智晃と別れるな、ということを暗に言いたいのだろうけれど、彼は自分が結婚相手としてどれほど有望かわかっているのだろうか。
 悠花のような女を選ばずとも、ふさわしい女性は彼の周囲にきちんといる。
 はずれくじみたいな言い方などする必要のない男性だ。

「そんなことをおっしゃると、桧垣さんと結婚したければ別れればいいことになりますよ」
「そう言っているつもりだが」

 軽く流したつもりだったのに即答される。

「別れればいいと思っている。君がいつまでもそんな表情をするなら、そうさせる男とは別れればいい」

 悠花は言葉の代わりに口の中にたまった唾液を飲み込んだ。
 目をそらしたいのにそらせない。逃げたいのに逃げられない。
 背中を見せればつかまりそうな獰猛な気配が桧垣の周囲に漂っている。
 第三者に聞かれでもすれば誤解されそうなセリフだ。
 暗に悠花に気があるような素振りさえ感じて、そんなことがあるわけないとわかっている悠花さえ呑まれる。

「わ、かれません。彼とは別れません。だから、だから桧垣さんがそんなことを私相手に言う必要はないんです」
「……ぜひそうしてくれ」

 桧垣のほうが先にゆるやかに視線をそらし背中をソファにあずけた。
 悠花は立ち上がると頭をさげて部屋を出る。
 手がかすかに震えていて両手を合わせて抑え込んだ。
 ああいうのはずるい。あんな強引さはとてもずるいと思う。
 あんな言い方で悠花の逃げ場を塞いでいるのか確保しているのかわからないけれど、桧垣が心を砕いてくれていることだけはよくわかる。
 悠花は軽く頭を振ってさっきまでの出来事も桧垣のセリフも振り払った。
 日々の仕事をないがしろにしないことだけが悠花ができる恩返しだ。
 動揺を押し隠して悠花は気持ちを切り替えた。
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