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第二章
第十九話
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「悠花、好きだ」
初めて名前を呼ばれた。口からこぼれた声は低く熱を持っていた。
抱きしめる腕に戸惑いなどなく、ただ悠花を守ろうという気持ちが伝わってくる。
責任を感じる必要などない。同情など欲しくない。あなたまで傷つけたくない。
だからその手を拒んだ。
「あなたが好きだ」
メガネの奥の瞳はどこまでも優しかった。怯えて閉じこもっていた悠花が、自ら出て来るのを根気強く待ってくれた人。
あの人以上に誰かを愛する自分なんておぞましいと思っていた。
なんて薄情な人間なのだろうと嘲りさえ覚えた。
あの人以外愛せないと、愛したくないと思っていたのに、「会いたい」そう思ってしまった。
「そばにいたい」そう願ってしまった。
左手の薬指にあった指輪を捨てて、手首にブレスレットをつけた。
細いその鎖は、彼に繋がるための唯一の砦。はずしさえしなければ、今度こそ自分の愛は永遠になるのだと思いたかった。
「悠花、愛している」
あの人はいつも何気ない瞬間にそう口にする。「愛している」なんて気軽に口にできないはずなのに、あの人は照れることなく、はっきり言ってくれる。恥ずかしくなって顔を赤くするのは悠花だけだった。
「ずっと一生、一緒にいよう」
永遠に傍にいるという約束を早くから交わしてくれた。
彼だけを愛していくのだと思っていた。
――愛さないで。
――もういっそ誰も私を愛さないで。
彼らから与えられた愛の言葉を耳にしながら悠花は叫ぶ。
――お願い、愛さないで。
声にならない言葉を心の中で何度も何度も……
そうすれば彼らを苦しめずに済んだ、傷つけずにすんだ。
「幸せになんかならない」なんて言葉、言わせずにすんだ。
――幸せになってはいけないのは私。
もうこれ以上誰も愛したりしない。愛されたりしない。愛なんて苦しいだけだ――
ふっと意識が浮上して、目じりから冷たいものがすっと落ちた。
「う、そつき」
ぼやけた視界に映るのは真っ暗な天井。
愛されたくないなんて嘘。愛したくないなんて嘘。
幸せになれないなんて、あの人と同じことを言っている自分が情けなく思えた。
悠花は何度か瞬きをしたあと、こめかみを濡らした涙を拭った。見慣れないのに見覚えのある天井に、ここがどこだか思い出す。手を伸ばしてみると、記憶と同じ場所に球状のライトがあってオレンジ色の淡い光を放った。カーテンの隙間からは薄い暗闇が透けて見える。
リビング横の部屋で桧垣と言い争った。そこで眩暈を覚えて支えられ、そして過去ほんの少しの間過ごしたこの部屋に運ばれてきた。
悠花は眩暈がしないか気をつけながら、慎重にゆっくりと体を起こした。時計がないので今が何時かはわからない。
過去の自分もこうして、泣きながら目覚めた日があった。大切な人を傷つけて苦しめて、他人に負担をかけることしかできない自分が腹立たしくて惨めだった。
今の自分も結局同じ。
いつまでたっても成長できなくて、いつまでたっても誰かを傷つける。
「幸せになんかなれるわけない……」
自虐的に呟くと、悠花は膝をかかえた。
だから逃げ出したくてたまらない。誰も自分を知らないところへ行きたい。
地方へ就職してこの地を離れれば、きっとこれ以上自分への危害の可能性も薄まるはずだ。そうすれば副社長や桧垣にも迷惑をかけずにすむ。
就職活動の準備をして、引っ越しも考えて、それから機会があれば智晃と話をして、遠距離恋愛を提案して自然消滅でも図る?
自分から別れないなんて単なる詭弁だ。
破滅の音が聞こえた時から、いつだって「終わり」を感じていたのに。
いつかは「終わる」と思っていたくせに。
目覚め間際の穂高の姿が浮かんで、悠花はぎゅっと目を閉じた。
「幸せにならない」そう伝えてきた工藤の声は、すぐに穂高のものに変化した。
二人して同じことを思ってどうするのか!!
「幸せにならない」ために別れたわけじゃない!
控えめなノックの音がして、悠花は扉を見た。乱れた髪を整えて、涙で汚れた頬を拭った。
「悠花ちゃん……?」
優しい声音で名前を呼んだ夫人は、けれど扉をあけただけで中に入ってこようとはしなかった。
「体調はどう? 大丈夫そうなら、少し食事でもしましょう? 食欲がないかもしれないけど抜くのは感心しないわ。良かったらダイニングにいらっしゃい」
悠花の泣き顔に気づかない振りをして、それだけを告げると再び扉が閉まる。
悠花はもう一度涙を拭った。
夢の中の穂高と同じことを言ってはダメだ。
逃げたくてたまらないほど苦しくても、それ以上に自分は他人を苦しめている。
せめて副社長や夫人にはこれ以上の心配はかけたくない。悠花はベッドから降りて部屋を出た。
広いダイニングルームには副社長の姿も桧垣の姿もなかった。壁の時計を盗み見ると十九時を少し過ぎていた。随分長い時間眠っていたようだ。
一枚板のブラックチェリーのテーブルの上には、暖かな湯気を浮かべた雑炊が置かれてあって、夫人がお茶を運んできた。
「これぐらいだったら食べられるかしら?」
「はい。ありがとうございます」
夫人には、食欲がなかったことも眠れていなかったことも、なにもかもお見通しに違いない。以前は「ご迷惑をおかけしてすみません」とばかり口にして、窘められたことがある。今も本当は謝罪をしたいけれど、それ以上に彼女の準備してくれたものを口にするほうが喜ばれるのを、悠花は知っていた。
席についてれんげを手にすると、一口口に含んだ。熱すぎずちょうどいい温度にされた雑炊は、悠花の胃へとすっと流れていく。優しさとか温かさとかそんなものが食べ物と一緒に伝わってきて涙ぐみそうだった。
悠花は無言のまま、雑炊を口にする。ないと思っていた食欲を思い出したかのように、体はすいすいとそれらを飲みこんでいった。優しい出汁や野菜の味は、失いかけていた味覚も呼び覚ます。
「桧垣さんは心配していたけど帰ってもらったわ。あなたを追い詰めてしまったって反省していたのよ」
気になっていたことを夫人はさらりと教えてくれた。悠花は首を左右に振る。
「桧垣さんのせいではありません。私の……体調管理不足なだけです」
睡眠不足に食欲不振、噂の渦中においての引継ぎ作業、周囲への警戒などで気を張りつめていた。
そして智晃とのこと加えて、桧垣の思いもよらない発言で、ぎりぎりだった決壊が壊れただけの話だ。
「会社を辞めることになったって決まったなら、すぐにうちに呼んでほしかったのに……まだ社員だからあなたは甘えないだろうってあの人が言うから今日まで我慢したのよ」
夫人はお茶を飲みながら、ふふふとやわらかな笑みを浮かべた。そうして見るとどことなく智晃と面影が重なる。初めてバーで出会ったとき警戒心がなかったのは、夫人と似ていたせいだろうかとふと思った。
「悠花ちゃん……つらかったわね」
「いえ、いえ……私なんか……」
泣くまいと思うのに声がつまる。タオルハンカチとティッシュを差しだされて、悠花は慌てて涙を拭った。
「智晃も……あなたを追い詰めたんじゃない?」
「違います! 智晃さんは何も悪くありません! むしろ私が……私の方が彼を苦しめて。すみません……私、知らなくて、何も知らなくて……おばさまの甥だなんて、私……恩を仇で返すような真似をして!! 本当に申し訳ありません!」
「悠花ちゃん! だめよ!」
れんげを置いて、深く頭を下げた悠花に厳しい声がかかる。悠花はびくっとして体を縮めた。
彼らを前にすると申し訳なさが先に立つのは、自分を卑下している証拠だ。彼らは悠花の噂が嘘だと知っているし、むしろかわいがってくれている。その愛情を疑うセリフを口にしている自覚はある。
でも卑しい噂に塗れている女が、身内に近づくなんて、これ以上のマイナスを彼らに与えたくないのだ。大切にされているとわかるからこそ、これ以上の迷惑も負担もかけたくない。
「あなたが土下座しかねない勢いで謝罪してきたって……うちの人だってショックを受けていたわ。私だってそうよ。聞いて、悠花ちゃん。私たちはあなたを娘のように大事に思っている。穂高くんを心から愛していたあなたを知っているのよ。あなたに愛される穂高くんは幸せそうだった。その愛情を今度は智晃に与えてくれたんでしょう? あの子も深く人を愛せる子だったけれど、残念なことにそれは報われなかった。あなたのおかげで、愛し愛される喜びを知ったのよ。感謝こそすれ、謝罪なんか必要ない」
救われたのは自分の方だと悠花は思った。
智晃が報われなかった愛。
でも彼ならきっと、愛し愛される相手と遠からず出会ったに違いない。
汚点のある自分なんかじゃなく、もっと彼にふさわしい相手と。
「でも……私は、結局、智晃さんを苦しめて」
「悠花ちゃん……智晃ね、あなたを迎えに来たの」
夫人の言葉に悠花は大きく目を見開いた。
アルコール臭の漂う、薄暗い部屋に一人置いてきてしまった。何の説明もせずに、逃げ出してきた。そのうえ、追いかけて来てくれなかったことに、勝手に傷ついた。
「あなたがうちにいることを伝えたの。そうしたら、すぐにここに来たわ。あなたを真剣に思っているってきちんと伝えに来た。うちの人に追い返されちゃったけど……」
――来てくれた。
苦しめて、傷つけて、逃げたのに。
過去も同じ。
穂高を苦しめて、傷つけて、逃げてきた。
そして挙句の果てに「幸せにはならない」と言わせた。
「悠花ちゃん、智晃ときちんと話をしてあげて。身をひいても誰も幸せにならないことをあなたは知ったはずよ。今度は逃げずに、二人で幸せになる方法を探してほしいの。私は、あなたにも智晃にも穂高くんにも、幸せになってほしいの」
そうだ。
「幸せにならない」なんて言わせたくない。言いたくない。
穂高との出会いや別れを「幸せになれない」原因にしたくない。
もう、逃げてはだめだ。
逃げたくて、逃げたくてたまらないけれど、逃げてはだめだ。
そう思う。
そしてそう思っていても、これから先どうすればいいのか道が見えない。
「傷つけるのもあなたなら、癒すのもあなただ」
智晃の声が聞こえてくる。悠花は嗚咽を抑えながら泣き崩れた。
苦しめた分、傷つけた分、幸せにすればいい。
頭ではわかっていても、それでも目の前は真っ暗で、今の悠花は迷子のまま足踏みをするしかなかった。
そしてそんな弱い自分がとても嫌いだと思った。
どうすれば幸せを感じるかは智晃に聞けばいい。
「終わり」がくるその日を待つよりも、「幸せ」がくる日を待ちたい。
一人ではなく、二人で。
初めて名前を呼ばれた。口からこぼれた声は低く熱を持っていた。
抱きしめる腕に戸惑いなどなく、ただ悠花を守ろうという気持ちが伝わってくる。
責任を感じる必要などない。同情など欲しくない。あなたまで傷つけたくない。
だからその手を拒んだ。
「あなたが好きだ」
メガネの奥の瞳はどこまでも優しかった。怯えて閉じこもっていた悠花が、自ら出て来るのを根気強く待ってくれた人。
あの人以上に誰かを愛する自分なんておぞましいと思っていた。
なんて薄情な人間なのだろうと嘲りさえ覚えた。
あの人以外愛せないと、愛したくないと思っていたのに、「会いたい」そう思ってしまった。
「そばにいたい」そう願ってしまった。
左手の薬指にあった指輪を捨てて、手首にブレスレットをつけた。
細いその鎖は、彼に繋がるための唯一の砦。はずしさえしなければ、今度こそ自分の愛は永遠になるのだと思いたかった。
「悠花、愛している」
あの人はいつも何気ない瞬間にそう口にする。「愛している」なんて気軽に口にできないはずなのに、あの人は照れることなく、はっきり言ってくれる。恥ずかしくなって顔を赤くするのは悠花だけだった。
「ずっと一生、一緒にいよう」
永遠に傍にいるという約束を早くから交わしてくれた。
彼だけを愛していくのだと思っていた。
――愛さないで。
――もういっそ誰も私を愛さないで。
彼らから与えられた愛の言葉を耳にしながら悠花は叫ぶ。
――お願い、愛さないで。
声にならない言葉を心の中で何度も何度も……
そうすれば彼らを苦しめずに済んだ、傷つけずにすんだ。
「幸せになんかならない」なんて言葉、言わせずにすんだ。
――幸せになってはいけないのは私。
もうこれ以上誰も愛したりしない。愛されたりしない。愛なんて苦しいだけだ――
ふっと意識が浮上して、目じりから冷たいものがすっと落ちた。
「う、そつき」
ぼやけた視界に映るのは真っ暗な天井。
愛されたくないなんて嘘。愛したくないなんて嘘。
幸せになれないなんて、あの人と同じことを言っている自分が情けなく思えた。
悠花は何度か瞬きをしたあと、こめかみを濡らした涙を拭った。見慣れないのに見覚えのある天井に、ここがどこだか思い出す。手を伸ばしてみると、記憶と同じ場所に球状のライトがあってオレンジ色の淡い光を放った。カーテンの隙間からは薄い暗闇が透けて見える。
リビング横の部屋で桧垣と言い争った。そこで眩暈を覚えて支えられ、そして過去ほんの少しの間過ごしたこの部屋に運ばれてきた。
悠花は眩暈がしないか気をつけながら、慎重にゆっくりと体を起こした。時計がないので今が何時かはわからない。
過去の自分もこうして、泣きながら目覚めた日があった。大切な人を傷つけて苦しめて、他人に負担をかけることしかできない自分が腹立たしくて惨めだった。
今の自分も結局同じ。
いつまでたっても成長できなくて、いつまでたっても誰かを傷つける。
「幸せになんかなれるわけない……」
自虐的に呟くと、悠花は膝をかかえた。
だから逃げ出したくてたまらない。誰も自分を知らないところへ行きたい。
地方へ就職してこの地を離れれば、きっとこれ以上自分への危害の可能性も薄まるはずだ。そうすれば副社長や桧垣にも迷惑をかけずにすむ。
就職活動の準備をして、引っ越しも考えて、それから機会があれば智晃と話をして、遠距離恋愛を提案して自然消滅でも図る?
自分から別れないなんて単なる詭弁だ。
破滅の音が聞こえた時から、いつだって「終わり」を感じていたのに。
いつかは「終わる」と思っていたくせに。
目覚め間際の穂高の姿が浮かんで、悠花はぎゅっと目を閉じた。
「幸せにならない」そう伝えてきた工藤の声は、すぐに穂高のものに変化した。
二人して同じことを思ってどうするのか!!
「幸せにならない」ために別れたわけじゃない!
控えめなノックの音がして、悠花は扉を見た。乱れた髪を整えて、涙で汚れた頬を拭った。
「悠花ちゃん……?」
優しい声音で名前を呼んだ夫人は、けれど扉をあけただけで中に入ってこようとはしなかった。
「体調はどう? 大丈夫そうなら、少し食事でもしましょう? 食欲がないかもしれないけど抜くのは感心しないわ。良かったらダイニングにいらっしゃい」
悠花の泣き顔に気づかない振りをして、それだけを告げると再び扉が閉まる。
悠花はもう一度涙を拭った。
夢の中の穂高と同じことを言ってはダメだ。
逃げたくてたまらないほど苦しくても、それ以上に自分は他人を苦しめている。
せめて副社長や夫人にはこれ以上の心配はかけたくない。悠花はベッドから降りて部屋を出た。
広いダイニングルームには副社長の姿も桧垣の姿もなかった。壁の時計を盗み見ると十九時を少し過ぎていた。随分長い時間眠っていたようだ。
一枚板のブラックチェリーのテーブルの上には、暖かな湯気を浮かべた雑炊が置かれてあって、夫人がお茶を運んできた。
「これぐらいだったら食べられるかしら?」
「はい。ありがとうございます」
夫人には、食欲がなかったことも眠れていなかったことも、なにもかもお見通しに違いない。以前は「ご迷惑をおかけしてすみません」とばかり口にして、窘められたことがある。今も本当は謝罪をしたいけれど、それ以上に彼女の準備してくれたものを口にするほうが喜ばれるのを、悠花は知っていた。
席についてれんげを手にすると、一口口に含んだ。熱すぎずちょうどいい温度にされた雑炊は、悠花の胃へとすっと流れていく。優しさとか温かさとかそんなものが食べ物と一緒に伝わってきて涙ぐみそうだった。
悠花は無言のまま、雑炊を口にする。ないと思っていた食欲を思い出したかのように、体はすいすいとそれらを飲みこんでいった。優しい出汁や野菜の味は、失いかけていた味覚も呼び覚ます。
「桧垣さんは心配していたけど帰ってもらったわ。あなたを追い詰めてしまったって反省していたのよ」
気になっていたことを夫人はさらりと教えてくれた。悠花は首を左右に振る。
「桧垣さんのせいではありません。私の……体調管理不足なだけです」
睡眠不足に食欲不振、噂の渦中においての引継ぎ作業、周囲への警戒などで気を張りつめていた。
そして智晃とのこと加えて、桧垣の思いもよらない発言で、ぎりぎりだった決壊が壊れただけの話だ。
「会社を辞めることになったって決まったなら、すぐにうちに呼んでほしかったのに……まだ社員だからあなたは甘えないだろうってあの人が言うから今日まで我慢したのよ」
夫人はお茶を飲みながら、ふふふとやわらかな笑みを浮かべた。そうして見るとどことなく智晃と面影が重なる。初めてバーで出会ったとき警戒心がなかったのは、夫人と似ていたせいだろうかとふと思った。
「悠花ちゃん……つらかったわね」
「いえ、いえ……私なんか……」
泣くまいと思うのに声がつまる。タオルハンカチとティッシュを差しだされて、悠花は慌てて涙を拭った。
「智晃も……あなたを追い詰めたんじゃない?」
「違います! 智晃さんは何も悪くありません! むしろ私が……私の方が彼を苦しめて。すみません……私、知らなくて、何も知らなくて……おばさまの甥だなんて、私……恩を仇で返すような真似をして!! 本当に申し訳ありません!」
「悠花ちゃん! だめよ!」
れんげを置いて、深く頭を下げた悠花に厳しい声がかかる。悠花はびくっとして体を縮めた。
彼らを前にすると申し訳なさが先に立つのは、自分を卑下している証拠だ。彼らは悠花の噂が嘘だと知っているし、むしろかわいがってくれている。その愛情を疑うセリフを口にしている自覚はある。
でも卑しい噂に塗れている女が、身内に近づくなんて、これ以上のマイナスを彼らに与えたくないのだ。大切にされているとわかるからこそ、これ以上の迷惑も負担もかけたくない。
「あなたが土下座しかねない勢いで謝罪してきたって……うちの人だってショックを受けていたわ。私だってそうよ。聞いて、悠花ちゃん。私たちはあなたを娘のように大事に思っている。穂高くんを心から愛していたあなたを知っているのよ。あなたに愛される穂高くんは幸せそうだった。その愛情を今度は智晃に与えてくれたんでしょう? あの子も深く人を愛せる子だったけれど、残念なことにそれは報われなかった。あなたのおかげで、愛し愛される喜びを知ったのよ。感謝こそすれ、謝罪なんか必要ない」
救われたのは自分の方だと悠花は思った。
智晃が報われなかった愛。
でも彼ならきっと、愛し愛される相手と遠からず出会ったに違いない。
汚点のある自分なんかじゃなく、もっと彼にふさわしい相手と。
「でも……私は、結局、智晃さんを苦しめて」
「悠花ちゃん……智晃ね、あなたを迎えに来たの」
夫人の言葉に悠花は大きく目を見開いた。
アルコール臭の漂う、薄暗い部屋に一人置いてきてしまった。何の説明もせずに、逃げ出してきた。そのうえ、追いかけて来てくれなかったことに、勝手に傷ついた。
「あなたがうちにいることを伝えたの。そうしたら、すぐにここに来たわ。あなたを真剣に思っているってきちんと伝えに来た。うちの人に追い返されちゃったけど……」
――来てくれた。
苦しめて、傷つけて、逃げたのに。
過去も同じ。
穂高を苦しめて、傷つけて、逃げてきた。
そして挙句の果てに「幸せにはならない」と言わせた。
「悠花ちゃん、智晃ときちんと話をしてあげて。身をひいても誰も幸せにならないことをあなたは知ったはずよ。今度は逃げずに、二人で幸せになる方法を探してほしいの。私は、あなたにも智晃にも穂高くんにも、幸せになってほしいの」
そうだ。
「幸せにならない」なんて言わせたくない。言いたくない。
穂高との出会いや別れを「幸せになれない」原因にしたくない。
もう、逃げてはだめだ。
逃げたくて、逃げたくてたまらないけれど、逃げてはだめだ。
そう思う。
そしてそう思っていても、これから先どうすればいいのか道が見えない。
「傷つけるのもあなたなら、癒すのもあなただ」
智晃の声が聞こえてくる。悠花は嗚咽を抑えながら泣き崩れた。
苦しめた分、傷つけた分、幸せにすればいい。
頭ではわかっていても、それでも目の前は真っ暗で、今の悠花は迷子のまま足踏みをするしかなかった。
そしてそんな弱い自分がとても嫌いだと思った。
どうすれば幸せを感じるかは智晃に聞けばいい。
「終わり」がくるその日を待つよりも、「幸せ」がくる日を待ちたい。
一人ではなく、二人で。
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