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病院には、独特の空気がある。
シャンデリアの煌めく吹き抜けの天井や、クラシック音楽が流れる待合室、所々にバランスよく置かれた観葉植物、壁面に飾られた大きな絵。
新しく建てられたばかりの総合病院は、まるでホテルのような雰囲気だ。
けれど、白衣を着たスタッフや、車椅子に座る患者さん、どことなく漂っている消毒薬の匂いは、ここが病院であることを否が応にも知らしめる。
私、関崎凛は見舞い客専用の入り口をくぐり、腕に抱えたバッグを持ち直した。中身は仕事関係の資料と経済誌、経営に関する書籍類だ。
この病院の特別フロアに、私の勤める会社のCEOである溝口さんが入院している。彼は大手不動産会社を退職した後独立し、今の会社を築き上げた。事業内容は、不動産開発や地域再生、新しいビジネスモデルの提案など。様々な分野でイノベーション事業を手掛けるベンチャーだ。
シャッター街になりかけていた商店街を立ち直らせたり、過疎化が進む地域を再開発したり、売り上げが落ちた飲食チェーン店を盛り上げたり、といったことをしている。
生まれ変わったように活気づいた地域や、これまで以上に売り上げを伸ばした店舗などが出ると、その都度マスコミに騒がれるぐらいには知名度がある。
私は数年前に秘書課に配属され、ついこの間までCEO専属秘書だった。
どの会社のトップもそうだろうけれど、CEOである溝口さんもやはり仕事人間で――私は彼の秘書としてそばにいて、健康にも気を配っていたつもりだった。休むだけでは戻らない顔色の悪さに、無理やり人間ドックの予約を入れたのも私だ。
溝口さんは苦笑しながら『関崎さんがそこまで心配するなら』と人間ドックを受診してくれた。
結果、彼はこうして入院することになり、私は彼の秘書として毎週末この病院を訪れては、会社の状況を報告していた。
院内を進み、特別フロアのある階でエレベーターを降りる。いつもはしんと静まり返っているナースステーションが、ほんの少しざわついていた。私は首をかしげながら、いつもと同じようにカウンターで面会者名簿に名前を記入した。
「そんなに素敵な人だった?」
「見るからに上等な男って感じだったわよ。帰る時にでも見てみれば?」
ナースたちがささやき声で交わすその会話で、なんとなく落ち着かない雰囲気の理由がわかった。
見舞い客にイイ男でもいたんだろう。
私の存在に気づいた年配ナースが、わかりやすく咳払いして会話を交わす彼女たちを窘める。私は知らぬふりをしてボールペンを置いた。ふと見ると、名簿の数行上に見覚えのある名前があってドキッとする。
――つい先日会社で、溝口さんの長期休養と新しいトップの就任が報告された。面会者名簿には、神経質そうな字体で、その新CEOの名前が書かれていた。
「出てきたみたい!」
ナースステーションに駆け込んできた一人のナースが、同僚たちに小さく声をかける。彼女たちの視線がカウンターの外に向けられた。
特別フロアのある方向から、一人の男性が姿を見せる。
上質そうな濃紺のスーツに、均整のとれた体躯を包んでいる。きちんと締められたネクタイには一分の隙もなく、硬質な空気がまとわりつく。一瞬で人目を引く存在感に加えて、端整な顔立ち。普段真面目に仕事をしているナースたちの視線を奪うのも頷ける男だった。
彼はナースステーションからの視線を感じたようだが、気にしたふうもなく一瞥してそのまま私の横を通り過ぎていった。
瞬間、私の背中にぞくぞくっと悪寒が走る。
会ったのは今日が初めてだけれど、私は彼を知っていた。
写真嫌いだという彼の画像は、インターネットにも載っていなかった。でも社内の誰かが写真つきの小さな記事を見つけてくれたおかげで、おぼろげながらも風貌を目にすることができたのだ。
また、写真以外の情報はかなり見つけられた。高校生の頃は全国模試でトップクラスだったとか、剣道の大会で優秀な成績をおさめただとか。留学先の大学でも経済関係の論文で学会誌に載っただとか、ずっと海外で経営コンサルタントとして活躍してきたとかいう、華々しすぎる経歴も耳に入ってきた。
学生時代に数学オリンピックなるものに出場した経験もあるほど数字に強く、ありとあらゆるものを数値化して、データにすることによって経営改善をすすめてきたらしい。
彼に救われた企業はいくつもある。
三十五歳の若さで様々な実績を残しているほど優秀なコンサルタントで、イケメンで独身と三拍子そろえば、社内が騒ぐのも仕方がないとは思っていた。それでも私は大半の噂を適当に聞き流し、あまつさえちょっと大げさなんじゃないかと考えていたのである。
でも――
「あれが、氷野須王……」
実物は、想像以上だ。二十九年生きてきて、こんな完璧そうな男に会ったのは初めてだ。
あの男が……今度、我が社のCEOとしてやってくる。
ナースステーションには一瞬でピンク色の空気が漂ったけれど、私の腕には鳥肌が立っている。
……もしかして、完璧すぎて生理的に受けつけない――とか?
「できるだけ近づかないようにしよう」
私は腕をさすりつつ、小さく呟いた。
特別室のこげ茶色の引き戸をノックすると、低くやわらかな声で「はい」と返事がある。その声音で、私はほんの少し肩の力を抜き、室内に入った。
――大丈夫、思ったより溝口さんの声は落ち着いている。
溝口さんは考え事をしている時、声のトーンが落ちる。機嫌がいい時は明るい。そんな判断をすることも、もうないんだな、と思うと胸がつきんっと痛んだ。
さっき氷野須王を目の当たりにして、彼が我が社のCEOとしてやってくるのだと実感してしまったから……
「失礼します。おかげんはいかがですか?」
「こんにちは、関崎さん。体調は大丈夫だよ」
そう言って溝口さんは、私を安心させるような穏やかなほほ笑みを浮かべる。
――つい数ヶ月前まで、五十歳近いとは思えないほど若々しかった溝口さん。黒々とした艶のある髪も、がっしりとした体つきも、出会った頃からあまり変わっていなかった。わずかに増えた、目元の小さな皺だけが時の流れを感じさせたくらいだ。
けれど今は、その面影が消えつつある。
「ついさっきまで氷野くんが来ていたんだよ。廊下ですれ違ったりしなかったかい?」
私は「いえ」とだけ答えて、持ってきたバッグをテーブルの上に置いた。
溝口さんの入院している部屋は特別室のため、大きなベッド以外にソファセットや簡易キッチンが設置されている。豪奢な刺繍のカーテンやソファだけ見れば、この部屋は本当にホテルのような空間だ。
「持ってきた書籍は、こちらの棚にしまって構いませんか? 資料や雑誌はいつもの場所に置いておきますね」
「ああ、それで構わない。それに……」
溝口さんがなにか言いかけたので、バッグから中身を出していた手を、思わず止める。
「会社の資料はもう必要ない。関崎さんがまとめたこれまでの資料も合わせて、氷野くんに渡してくれるかな」
「でも!」
反射的に口にしたけれど、それ以上は言葉が出てこなかった。
だって、わかっていたから――いつか必要ないって言われる日が来るって。
入院して毎週末訪れる私に、溝口さんが苦笑していたのも知っている。
遠まわしに、毎週来る必要はないと言われても、私は『相談したいことがある。報告したいことがある』と食い下がり病室に来ていた。
私は縋るように溝口さんを見る。
そう、わかっている。
溝口さんの髪に一気に白いものが増えたことも、首筋が痩せてきたことも、声に張りがなくなってきたことも。
仕事をしている場合じゃない。会社を気にかけている場合じゃない。自分の体を第一に考え、病気と対峙することが今の彼には必要だ。
「会社はもう私のものじゃない。氷野くんに、そして君たちに任せた。だから資料は必要ない」
溝口さんの静かな口調に胸がざわめく。
――人間ドックなんて、すすめなきゃよかった? でも、そうしなかったら病気はわからなかった。
とはいえ、こんな形で彼の隣を離れることになるなんて……
唇を噛んで俯く。
会社は溝口さんの手から離れた。そして後を引き継ぐのは、あの男――
氷野須王。
「その資料は氷野くんに渡してほしい」
「……はい」
「私を支えてくれたように、彼を支えてくれるかい? 凛ちゃん」
私は、がばっと顔を上げて溝口さんを見た。
久しぶりに、そう愛称で呼ばれた瞬間――ああ、溝口さんはもう私の上司ではなくなったのだと、私は彼の専属秘書ではなくなったのだと思った。
それじゃあ、今度は、あの男の専属秘書になる?
私があの男を支える?
……なんとなく、嫌だ。私は溝口さんを支えたくてCEO専属秘書になったんだもの。今はまだ、溝口さん以外の下につく自分なんて想像したくない。
だからって、今の溝口さんに『わかりました』なんて嘘をつくことも、『あの男を支えるのは嫌です』なんて本音を言うこともできない。
泣きそうな表情を隠して、私は秘書の仮面を張り付ける。
「私にできることは、精一杯努めます。溝口さんも、してほしいことがあったら遠慮なく言ってくださいね」
そして、にっこり笑ってみせた。
私の曖昧な返答に苦笑しつつも溝口さんは「じゃあ、時間がある時にはこうして、お見舞いにきてもらおうかな。入院生活は退屈だから話し相手をしてもらえたら嬉しいよ」と言ってくれた。
……新CEOの専属秘書。命じられれば従うしかないのが会社員だ。
けれどあの男には、できれば近づきたくない気がする。
溝口さんと話しながら、私は心の中でなんとかならないものかと、あれこれ考えていた。
第一章 CEOと秘書の攻防
私が病院で氷野須王と会ってから三ヶ月――
「私! もう無理です!」
CEO専属秘書が業務を行う部屋――専属秘書室の扉が勢いよく開かれる。そうして私たちのいる隣室、秘書課の部屋に入ってきた人物は両手で顔を覆って、わぁっと泣き崩れた。
……ああ、また。
私は頭を抱えたくなるのを堪えて、自分の仕事を中断した。
氷野須王の就任に伴い、当然専属秘書を誰にするのかという話が上がった。周囲はそのまま私がつけばいいと言ってきたが、のらりくらりとかわして今に至る。
社会人としてあるまじき行為だと自覚しながらも、感傷からくる個人的願望を優先させたのだ。
私以外の人が新CEOの秘書になることには、幸い、秘書課メンバーの後押しもあった。
なにせ新CEOは病院でナースが騒ぐほどの容貌である。当然うちの女子社員たちも大いに騒いでいた。
高身長でスタイルも抜群、そして冷静な態度。海外生活が長かったせいか、立ち居振る舞いが堂々としており落ち着いている。涼やかな眼差しひとつで空気をしんとさせるところさえ、クールでカッコいいと周囲に言わしめた。
そのうえ、独身だ。
女性たちが目の色を変えるのも無理はない。
だから『私も専属秘書の経験を積みたいです』とか『CEOのお役に立てるなら喜んで』といった立候補者がたくさんいた。
そうして最初に選ばれたのは、秘書課の中でも比較的職歴が長く、仕事ができて落ち着いている綺麗な女の子。
なのに――そんな彼女は二ヶ月前、『私には氷野さんのサポートは無理です!』と泣きながら部屋から飛び出してきたのだ。
残念なことに、それから同じような場面が続いている。
……いや、今回は少し長くもったかな?
私は泣いている彼女を他の人に頼み、専属秘書室に入ると、その隣にあるプレジデントルームへと続くドアの前に立った。
きりっと胃が痛くなる。かといって、秘書課の責任者としてはこの事態を放っておくわけにはいかない。
私は嫌々ながらドアをノックしてから入室した。
「なんの用だ。呼びもしないのに来るな」
パソコンに向かったまま、我が社のCEOに就任したばかりの氷野須王が言った。目が据わっていて見るからに不機嫌だ。なまじ顔立ちが整っているせいで、余計に凄みがある。
ひゅるるーと奴から冷気が漂うのを感じながらも、私は頑張って彼の机の前に立った。
「今度はなにが原因ですか?」
「女が泣く原因に心当たりなんかない。俺は仕事を命じただけだ」
私は机の上に積み上げられた膨大な書類にちらりと目を向けた。おそらく短期間で、あれらの資料をまとめるなり、整理するなりを命じたのだろう。
「あれを一人で行うのは無理です」
「どうやれば遂行できるか考えるところからが仕事だ。給料を払っているんだから、それ相応の対価を求めて当然だろう?」
相変わらずパソコン画面を見たまま、彼は無表情で言い放つ。
「君こそ毎度毎度ご苦労なことだな。俺に文句をつける暇があるなら、君が代わりにあれをやればいい」
いきなり、すっと視線が私をとらえた。
人の心を切り裂くような鋭い視線に、背中に悪寒が走る。
……出た、出たよ、殺人ビーム。
蛇に睨まれたカエルのように固まりそうになる。
「関崎。俺は役に立たない人間はいらない。それに無駄口を叩く奴も。さっさと仕事に戻れ」
私は口をパクパクさせて、けれどなんの言葉も出てこなくて、すごすごとまわれ右をした。ついでに積み上げられた書類を手にして秘書課に戻る。
大量の書類を自分の机の上に置くと、まだ涙目の彼女が「関崎さん……すみません」と謝ってきた。
私は首を横に振り、それらの書類を手早く秘書課のメンバーに振り分ける。
書類の一番上に貼られていた付箋には、綺麗だけれど神経質そうな字で締め切り日が書かれていた。
『十日以内に』という指示があるからには、それまでにデータ化しろということだろう。
「CEOの要望に応えるのは秘書の役割だけど、一人でこなさなくていいのよ。みんなで手分けしましょう。氷野さんだって、一人でやれって命じたわけじゃないんだし」
秘書課のメンバーは誰もが一度は氷野須王に泣かされている。
敵が外部にできると身内には結束力が生まれるものだ。みんな渋々ながら私が振り分けた書類を受け取りにきてくれた。
「関崎さん、やっぱりこれ以上、専属秘書を務めるのは無理です。私、プレジデントルームの真横にあるあの部屋で、一人で待機できません」
……だよね。
私はなにも言えずに、ため息だけをついた。
* * *
「秘書課、撃沈だって?」
同期で人事部に所属する武井礼香がサラダをつつきながら話を切り出してくる。
お昼休憩の今、私たちは会社近くにある穴場の洋食屋に来ていた。社内に休憩スペースはあるが食堂はないため、こうして外へ出てランチをして情報交換をする。
いや、互いの愚痴をこぼし合うのだ。
「うちだけじゃないでしょう? どの部署もカウンターパンチくらっているって聞いたけど」
「そうなのよねえ」
――氷野須王は就任してすぐさま、様々な事柄を各部署に命じた。
経理にこれまでの経営収支報告を、人事には各自の業務成績の提出を、プロジェクト統括部にいたっては、今進行中のプロジェクトだけでなく過去のものまで報告するよう言ったらしい。
氷野須王が来始めた数日間こそ、女子社員たちは憧れの眼差しで奴を見ていた。それはもう『え? ここ会社だよね?』と言いたくなるほどの騒ぎで、女性というものはいくつになっても、たとえ恋人がいても「イイ男」には目がないのだと改めて教えられたものだ。
でも奴は一瞬で、そんな彼女たちの目を覚まさせた。
最初に秘書についた子には『役に立たない秘書はいらない。むしろ邪魔だ』と言い放ったのである。
華やかな受付嬢がモーションをかけた時も、『ここは会社だ。男漁りなら別でやれ』と冷淡に告げた。
それはそれはドスの効いた低い声で、ものすごく冷たい視線で、周囲が震え上がるほど威圧感を与えながら。
それらを目の当たりにした女子社員たちが、そそくさと逃げ出したのは言うまでもない。
言い方が冷たい、優しくない。さらに仕事面では要求が高すぎて対応できない。できないと呆れたような目で見られる。
我が社の新CEOは冷静、冷酷、冷淡……だと評判が立ち、今では彼の名前をもじって、社員の間で『アイスキング』と呼ばれている。
「まあ、それでもわざわざうちの会社に来てくれた救世主だから、指示には従わざるを得ないんだけど」
礼香は肩をすくめて呟く。
――そうなのだ。
彼が日本の、それもうちのようなベンチャー企業に来たのは奇跡みたいなものだった。どうやら溝口さんと個人的な繋がりがあったようだ。
日本で仕事をする気があるなら我が社でとか、望み通りの待遇を用意するからぜひうちへといった引き合いが各所からあったと聞く。
要は、うちにはもったいない人だということである。
私としては、熨斗をつけて差し出したい気分なのに。
「そうだけど……もっと穏やかな言い方なりやり方なりをすればいいのに」
私はサラダのミニトマトに、ぐさっとフォークを突き刺した。ぐちゃっとつぶれて果肉が飛び出す。
「仕事もできるし能力もあるんだろうけど、人としてどうなの? って感じ。会社のトップに立ったんなら、データとか数字ばっかり見ないで、人を見なさいよ! 社員を見なさいよ! 溝口さんが作り上げた会社なのよ! ぐちゃぐちゃにしないでほしい!」
私がつぶれたミニトマトを口に放り込むと、パスタのお皿が運ばれてくる。
「凛は溝口フリークだもんねえ」
礼香は「おいしそう」と続けながら、ベーコンときのこのトマトソースパスタをフォークに巻き付けた。
――私にとって溝口さんは、我が社のCEOというだけではない特別な人だ。
私が溝口さんと知り合ったのは十歳の時。
その頃の彼は三十歳で、不動産会社勤務のサラリーマンだった。
我が家は昔からの家業を引き継ぎ、商店街で小さな呉服屋を経営している。
けれど、近隣に大きなショッピングモールが建設されたことで、昔ながらの商店街は人足が途絶え、経営が悪化して廃業を余儀なくされる店が続出した。近所の顔見知りが引っ越していき、シャッターが閉まったままの空き店舗が増えていく。その頃、商店街の代表を務めていた父は夜な夜な話し合いに駆り出され、疲労にまみれていた。
みんなが途方に暮れていた中で、商店街を訪れたのが溝口さんだった。
土地を売ってマンションを建てればいいなどと言ってきた不動産屋が多かったから、父は最初、大手不動産会社に勤めていた溝口さんも同類だと決めつけて怒鳴って追い出した。
けれど彼は、これまでの人たちとは異なる提案をしてきたのだ。
『商店街を蘇らせましょう』と。
商店街の人たちは、思いもしなかった提案と、彼のプレゼンテーションに、瞬く間に魅了された。陰鬱としていた会合は、活発な議論の場となって、みんなが商店街の再開発に意欲を燃やすようになったのである。
父にも活力が戻った。
商店街の代表だった父と彼とは、会合の後、酒を酌み交わす仲に。そして私たちは家族ぐるみの付き合いを始めた。彼には奥さんと私より八歳下の息子がいて、商店街が生まれ変わって活気づくまでの数年間、交流が続いた。
私が高校生になると同時に、彼は『もっと支援活動の幅を広げたい』として独立し、起業したのが今の会社だ。
私にとって溝口さんは、生まれ育った商店街に笑顔を取り戻してくれた魔法使いのような人。
彼の手で救われていく町やお店を見ているうちに、私は彼への憧れを強くしていき、気がつけば淡い想いを抱いていた。
――私も誰かを笑顔にする仕事がしたい。
溝口さんのそばで、彼を支えながら、彼の夢を一緒に叶えていきたい。
大学生になると彼の会社に無理やりバイトとして押しかけ、将来はここで働きたいとワガママを言った。入社試験の面接の日の、溝口さんの仕方なさそうな笑みも優しい眼差しも覚えている。
少しでも彼の力になりたくて、手助けしたくて頑張ってきた。
そして数年前に、ようやく秘書として直接彼を支えられる場所にきた。
溝口さんの専属秘書でいることが、彼のそばにいられる唯一の方法だったのに――
「それで……次は誰が生贄になるの?」
礼香に聞かれて、私は眉根を寄せた。
そうなのだ。今日の子が秘書課の最後の砦だった。けれど彼女も、脱落してしまった。つまり秘書課にはもう対応できる人材が残っていない。
「もう、いっそ礼香やってみない?」
そうだ。
この際、秘書課の人間でなくてもいい。あの男とやり合える人ならウェルカムだ。
礼香は口元をナフキンで拭くと、にっこりと綺麗に笑った。
「丁重にお断りいたします。どんなに顔がよくてスタイルがよくて頭がよくて仕事ができても無理ですから」
ことさら丁寧な口調で、息継ぎもせずに言い放つ。
「氷野さん狙いの女子社員とかいない?」
「就任当初ならともかくねえ、そんな強者なんているかなあ。超肉食女子とか? いや、それはむしろ、氷野さんが嫌がりそう。あれは多分、女嫌いだもの」
……女嫌い。
礼香のコメントに心当たりがありすぎて、私は顔をしかめた。
「エレベーターで乗り合わせた時に挨拶しても、一瞥するだけで答えないし。近づくと眉間に皺を寄せているし。まだ、男性社員のほうが彼とスムーズにコミュニケーションを取れている気がするのよね」
「やっぱり、礼香もそう思う? そんな私的な感情を仕事に持ち込まないでほしいんだけど」
私はフォークをぐるりぐるりまわして、アスパラと生ハムのクリームパスタをすくい上げた。
――礼香の言う通り、氷野須王は相当な女嫌いだと思う。その証拠に、奴は着任直後、お茶出しをした秘書を追い出して『自分でやるから部屋に準備してくれ』と言った。だから私が、あの部屋にティーセットやコーヒーメーカーを設置した。
スケジュールを確認しに行けば『自分で確認するから必要ない』とバッサリ。
資料を届けに行けば『重要度別にボックスに入れておけ。俺の都合がいい時にチェックする。終わったものはこちらへ置いておく』とのたまった。
ことごとく秘書を排除しようとしているのが見て取れた。
「『最終兵器』を投入するしかないかな」
「『最終兵器』ってなによ!」
呟きに反応した礼香に、私は悪人顔でふふふと笑みをもらす。
「凛、顔が気持ち悪い」と言われたけれど構わない。
そう、もうこの際、秘書課の人間でなくてもいい。
私が持つ、とっておきの権限を使って采配させていただきましょう!
* * *
秘書課で働く者たちは、会社の経営を担う上司を支えていくんだ! という気持ちが強い。
少しでも役に立ちたい、必要とされたい、そんな想いが生まれる。
専属秘書なんかになれば尚更だ。
だから秘書課の女の子たちはみんな、なんとか『アイスキング』の役に立とうと張り切って、多すぎる業務を一人で抱え込んで、耐えられなくなった。
これまでの奴の仕事のやり方を見ていると、『自分の役に立ち、ほしい情報を得られ、自分の言う通りに動く者なら誰でもいい』といったスタンスである。
さらに命じてくる仕事量も多い。
専属秘書一人でこなせるものではないのだ。
だったら、専属秘書はいっそ伝達役に徹して、秘書課全員で仕事をしたほうがいい。
秘書の仕事などなにも知らないほうが、むしろ伝達役には徹しやすいに違いない。つまり私は、秘書課以外から適任者を選出しようと考えたのである。
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