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第25話
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それから、萩村佳奈ちゃんは毎日のように夏樹の病室に来ては身の回りの世話をしてくれるようになった。最初は緊張していた佳奈ちゃんも今では夏樹と仲良くやっているようだった。
ただひとつ、気になることが――。
「夏樹くん。はい、あーんして」
「一人で食えるからいいって」
病室に入って真っ先に目に飛び込んできた光景が、リンゴを食べさせてあげようとする佳奈ちゃんと、それに照れている夏樹の姿だった。
夏樹は私の存在に気付くと佳奈ちゃんと距離を取った。
「姉さん。来てくれたんだ」
「うん、着替えを持って来た……」
「春妃さん、こんにちは」
屈託のない笑顔で佳奈ちゃんは挨拶する。
「夏樹と佳奈ちゃんはすっかり仲良しね」
「ちげーよ。萩村が馴れ馴れしいんだよ、俺のことを“夏樹くん”だなんて呼ぶし」
「だって夏樹くん、私の兄と同い年だからお兄ちゃんみたいなんだもん。夏樹くんも私のこと“佳奈”って呼んでいいのに」
「名前呼びだなんて絶対に嫌だね」
夏樹はつんっと鼻を上にあげるとそっぽを向く。えー、何でよぅ、と頬を膨らませた佳奈ちゃんは夏樹にじゃれる。
「あと、変なイタズラしてくるのやめろ。この前寝ている俺の枕元にクモのおもちゃを置いたのお前だろ? びっくりして飛び起きたんだからな」
「だって夏樹くん、私が来たのに寝ているんだもん。つまんない」
「つまんないって、病院に世話しに来てるんじゃなくて遊びに来てるのか、お前は」
二人をしり目に、私は窓辺に飾ってある花瓶を手に取ると病室から出た。
佳奈ちゃんは天真爛漫で良い子だ。夏樹のお世話も熱心にやってくれている。でも。
水道の蛇口を強く捻った。水がどんどん流れ出る。
……でも、夏樹と佳奈ちゃんが一緒にいるとなんだかモヤモヤする――。
花びらが一枚散った。花びらは洗い場に落ちると水の流れに乗り、そのまま排水溝にのまれていった。
夏樹は順調に回復していき、来週には退院することになった。
そんなある日のこと。私が病院から帰ろうとすると、正面玄関の入口で柊さんと鉢合わせした。
「柊さん。どうしてここに……」
「仕事がひと段落してホテルに行ってみたら、長谷川さんから君が病院にいるって聞いたんだ」
柊さんと会うのは、あの咎められた日以来で久しぶりだった。お互いに気まずさが残っていて、何だかよそよそしかった。
病院内にある庭園へ場所を移す。庭園にはたくさんの花々が植えられていて患者さんの憩いの場になっていた。私たちはあまり人けのない芝生の広場に来た。緩やかな丘の上には大きな木が植えてあって、日射し除けに丁度よかった。
「それで夏樹くんの様子はどうなんだ」
「夏樹は元気ですよ。でも、私のことを覚えてないみたいで」
「覚えてない?」
「記憶喪失みたいな。私だけ忘れてるみたいで……どんだけ存在感がないんだか」
私は自虐的に笑った。
「どうして笑っているんだ?」柊さんが私を見つめる。「本当は泣きたいはずなのに」柊さんの顔は切なげだった。
なんで……。私が夏樹を想うことを、柊さんは快く思ってないはずなのに――。
静かに風が吹く。木の葉が揺れ、木々の間から木漏れ日がこぼれる。
「俺は周防さんと夏樹くんの仲を認めたわけではない。でも夏樹くんに忘れられて君が悲しんでいることはわかるから。君が悲しいと俺も辛い」
「ずるいですよ、そんな……」
柊さんはそうやっていつも私の気持ちを見抜いてしまう。
あれ、おかしい。私の目から次々と涙が溢れてくる。
「君のことだ。ずっと泣くのを我慢してたんだろう」柊さんは私を自分の胸に抱き寄せる。「泣きたいだけ泣けばいい。誰も見てないから」
一番辛いのは記憶を失っている夏樹だ。ずっとそう自分に言い聞かせてきた。でも……。
『あなたは誰ですか――?』
どうして私のことを忘れたの。
『姉さん』
いつもみたいに春妃って呼んでよ。
これまで塞き止めていたものが崩れる。
私は柊さんの胸を借りてわんわん泣いた。ねぇ夏樹。早く私のことを思い出して――。
高鳴る胸を抑えながら私は病院の廊下を歩いていた。
今日はクッキーを作って来ちゃった。私は可愛くラッピングされたクッキーを空中に掲げる。夏樹くん、喜んでくれるといいな。
私、萩村佳奈は恋している。こんな感情を抱くなんて思いもしなかった。私は事故を引き起こした言わば加害者のようなものだし、最初はケガをさせてしまった申し訳なさでいっぱいだった。だけれど……。
『あんたたちが無事だったなら俺も助けがいがあったよ。何もなくて良かった』
もしかしたら自分が死んでいたのかもしれなかったというのに、あんな言葉を投げかけてくれるなんて。その瞬間、私は恋に落ちたのだ。そんなことで好きになっちゃうだなんて単純だと思う。でも、好きになってしまったんだもの。私は絶対に夏樹くんを振り向かせてみせるんだから。
病室の前に立つと深呼吸した。早く夏樹くんに会いたい気持ちを落ち着かせると、悪戯心が働いた。そうだ、夏樹くんを驚かしちゃおう。
私は扉を少し開けた。扉の隙間から眠っている夏樹くんが見えた。それから春妃さんの姿も。その瞬間、悪戯心が急速に萎んでいくのがわかった。扉の隙間に手を掛け、病室に入った。
「あ、佳奈ちゃん」
春妃さんが私に微笑む。
「こんにちは……」
私は会釈した。春妃さんは優しくて親しみやすい夏樹くんのお姉さんだ。でも、私はそんな春妃さんに少し違和感を覚える時がある。
さっきだって私は見てしまった。少しだけ開いた扉の隙間から、眠っている夏樹くんのことを愛おしそうな目で見おろしている春妃さんの姿を。あれは“姉”というよりも、まるで“恋人”のような――。
私は手を後ろにまわして隠していたクッキーの袋を強く握りしめる。パキ、とクッキーが割れる音がした。
ただひとつ、気になることが――。
「夏樹くん。はい、あーんして」
「一人で食えるからいいって」
病室に入って真っ先に目に飛び込んできた光景が、リンゴを食べさせてあげようとする佳奈ちゃんと、それに照れている夏樹の姿だった。
夏樹は私の存在に気付くと佳奈ちゃんと距離を取った。
「姉さん。来てくれたんだ」
「うん、着替えを持って来た……」
「春妃さん、こんにちは」
屈託のない笑顔で佳奈ちゃんは挨拶する。
「夏樹と佳奈ちゃんはすっかり仲良しね」
「ちげーよ。萩村が馴れ馴れしいんだよ、俺のことを“夏樹くん”だなんて呼ぶし」
「だって夏樹くん、私の兄と同い年だからお兄ちゃんみたいなんだもん。夏樹くんも私のこと“佳奈”って呼んでいいのに」
「名前呼びだなんて絶対に嫌だね」
夏樹はつんっと鼻を上にあげるとそっぽを向く。えー、何でよぅ、と頬を膨らませた佳奈ちゃんは夏樹にじゃれる。
「あと、変なイタズラしてくるのやめろ。この前寝ている俺の枕元にクモのおもちゃを置いたのお前だろ? びっくりして飛び起きたんだからな」
「だって夏樹くん、私が来たのに寝ているんだもん。つまんない」
「つまんないって、病院に世話しに来てるんじゃなくて遊びに来てるのか、お前は」
二人をしり目に、私は窓辺に飾ってある花瓶を手に取ると病室から出た。
佳奈ちゃんは天真爛漫で良い子だ。夏樹のお世話も熱心にやってくれている。でも。
水道の蛇口を強く捻った。水がどんどん流れ出る。
……でも、夏樹と佳奈ちゃんが一緒にいるとなんだかモヤモヤする――。
花びらが一枚散った。花びらは洗い場に落ちると水の流れに乗り、そのまま排水溝にのまれていった。
夏樹は順調に回復していき、来週には退院することになった。
そんなある日のこと。私が病院から帰ろうとすると、正面玄関の入口で柊さんと鉢合わせした。
「柊さん。どうしてここに……」
「仕事がひと段落してホテルに行ってみたら、長谷川さんから君が病院にいるって聞いたんだ」
柊さんと会うのは、あの咎められた日以来で久しぶりだった。お互いに気まずさが残っていて、何だかよそよそしかった。
病院内にある庭園へ場所を移す。庭園にはたくさんの花々が植えられていて患者さんの憩いの場になっていた。私たちはあまり人けのない芝生の広場に来た。緩やかな丘の上には大きな木が植えてあって、日射し除けに丁度よかった。
「それで夏樹くんの様子はどうなんだ」
「夏樹は元気ですよ。でも、私のことを覚えてないみたいで」
「覚えてない?」
「記憶喪失みたいな。私だけ忘れてるみたいで……どんだけ存在感がないんだか」
私は自虐的に笑った。
「どうして笑っているんだ?」柊さんが私を見つめる。「本当は泣きたいはずなのに」柊さんの顔は切なげだった。
なんで……。私が夏樹を想うことを、柊さんは快く思ってないはずなのに――。
静かに風が吹く。木の葉が揺れ、木々の間から木漏れ日がこぼれる。
「俺は周防さんと夏樹くんの仲を認めたわけではない。でも夏樹くんに忘れられて君が悲しんでいることはわかるから。君が悲しいと俺も辛い」
「ずるいですよ、そんな……」
柊さんはそうやっていつも私の気持ちを見抜いてしまう。
あれ、おかしい。私の目から次々と涙が溢れてくる。
「君のことだ。ずっと泣くのを我慢してたんだろう」柊さんは私を自分の胸に抱き寄せる。「泣きたいだけ泣けばいい。誰も見てないから」
一番辛いのは記憶を失っている夏樹だ。ずっとそう自分に言い聞かせてきた。でも……。
『あなたは誰ですか――?』
どうして私のことを忘れたの。
『姉さん』
いつもみたいに春妃って呼んでよ。
これまで塞き止めていたものが崩れる。
私は柊さんの胸を借りてわんわん泣いた。ねぇ夏樹。早く私のことを思い出して――。
高鳴る胸を抑えながら私は病院の廊下を歩いていた。
今日はクッキーを作って来ちゃった。私は可愛くラッピングされたクッキーを空中に掲げる。夏樹くん、喜んでくれるといいな。
私、萩村佳奈は恋している。こんな感情を抱くなんて思いもしなかった。私は事故を引き起こした言わば加害者のようなものだし、最初はケガをさせてしまった申し訳なさでいっぱいだった。だけれど……。
『あんたたちが無事だったなら俺も助けがいがあったよ。何もなくて良かった』
もしかしたら自分が死んでいたのかもしれなかったというのに、あんな言葉を投げかけてくれるなんて。その瞬間、私は恋に落ちたのだ。そんなことで好きになっちゃうだなんて単純だと思う。でも、好きになってしまったんだもの。私は絶対に夏樹くんを振り向かせてみせるんだから。
病室の前に立つと深呼吸した。早く夏樹くんに会いたい気持ちを落ち着かせると、悪戯心が働いた。そうだ、夏樹くんを驚かしちゃおう。
私は扉を少し開けた。扉の隙間から眠っている夏樹くんが見えた。それから春妃さんの姿も。その瞬間、悪戯心が急速に萎んでいくのがわかった。扉の隙間に手を掛け、病室に入った。
「あ、佳奈ちゃん」
春妃さんが私に微笑む。
「こんにちは……」
私は会釈した。春妃さんは優しくて親しみやすい夏樹くんのお姉さんだ。でも、私はそんな春妃さんに少し違和感を覚える時がある。
さっきだって私は見てしまった。少しだけ開いた扉の隙間から、眠っている夏樹くんのことを愛おしそうな目で見おろしている春妃さんの姿を。あれは“姉”というよりも、まるで“恋人”のような――。
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