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 翌日、お嬢様の食事を作りながらアンナは憤慨していた。
 またあの護衛は帰って来ていない。
 あの護衛の存在意義は、働いてお嬢様の為に金を入れることだけである。
 菓子や野菜、果物などを良くもらってくるのは助かった。
 給料は日払いとはいえ、田舎の稼ぎなどたかが知れている。
 お嬢様に屋敷で召し上がって頂いていたような代物など用意できようはずもなく、だが少しでもいい物をとアンナは工夫を凝らしていた。
 一通りの家事ができるとは言っても、一流の料理人ではない。
 お嬢様にご満足頂けるよう、食事には気を抜けなかったし、掃除やお嬢様の着る服もできる限りいい物をと努力していた。
 お嬢様は女性であるのでお世話も他人には任せられない。
 護衛は何の役にも立たなかった。
 ならばせめて黙って金だけ稼いでくればいいのだった。
 昼を過ぎ、兵士が家にやってきた。
 畑仕事を終えてお嬢様の食事を済ませ、ようやく自分の食事の時間であった。
「何か?」
「ピーターさん、体調でも崩したのか?出勤してないんだが」
「…は?」
 アンナはイライラと眉間に皺を寄せた。
 ピーターって誰だ、と思ったが、あの護衛に新しく用意された戸籍上の名前である、と気づくのに数秒かかった。
「彼は帰って来ていません。どこかでサボっているのでは?…全く迷惑な」
「…え、あの、…」
「見かけたらさっさと金を入れに戻って来いとお伝え下さいまし」
「あ、…は、はい…」
 兵士をさっさと追い出して、アンナは力任せに扉を閉めた。
 お嬢様は耳が不自由な為、多少の音では気づかない。
 自分の食事を済ませ、食器を片づけながら晩ご飯の用意をしようとして、食材の不足に気がついた。
 …護衛が金を持って来ないので、買い物に行けない。
 所持金は、満足に肉を買うには全く足りなかった。
 平民としてこの田舎にやってくる際、荷物の持ち出しは一切許されなかった。
 粗末な服を一年分、お嬢様が着るには全くふさわしくない生地にデザイン、色も地味でアンナは悔し涙を流したものだが、それを各自が鞄一つに詰めこんで持たされた。
 所持品はそれだけであった。
 家には畑があったが、すぐに収穫できるわけではない。
 世話をせねばならないし、家の中にも食器はあったものの食品のストック等は一切なかった。
 家もお嬢様にお過ごし頂くには狭すぎるし、汚すぎた。
 備え付けの調度品は古くて汚れていて、ギシギシと軋んだ音を立てる。
 全て捨てて新しく入れ替えたい所だが、今はまず生活をしなければならない。
 泣く泣く諦め、だが食事だけはと努力をしてきたのだった。
 なのに、金が足りない。
 護衛が戻って来ない。
 今日の夕食は肉なしで…いや、そんな貧しい食事をお嬢様に召し上がって頂くなんて。
 店が開いている時間ぎりぎりまで護衛の戻りを待ったが、帰って来なかった。
 呆然としているうちに閉店の時間になり、アンナは護衛への怒りを隠しきれずに床を蹴った。
「お嬢様、申し訳ございません。今日のスープは肉が入っておりませんがお許し下さいまし」
 アンナは今までと変わらずマーシャに話しかけていた。
 マーシャは大人しく部屋で寝ていることが多かったが、一日に一度程度の割合で、ひどく叫んで暴れ出すことがあった。
 お辛いのだろうと思えばアンナも悲しくなり、マーシャが満足するまで叫ばせ、ベッドから転がり落ちないようにだけ気をつけながら見守った。
 侯爵令嬢の部屋とは思えぬ程に何もない部屋であった。
 ベッドの他には、アンナが座る為の椅子、食事を置くためのテーブル。クローゼットは小さな物が備え付けられ、その中に鞄の物が全て収まってしまうことが悲しみを助長した。
 マーシャが暴れるので、手の届く範囲に物はない。
 テーブルの上にひび割れた花瓶を置き、そこに買ってきた花を飾っていた。それだけが唯一の彩りと言って良く、侘しさにアンナは唇を噛みしめた。
 マーシャはアンナの世話を大人しく受けていた。
 アンナに暴力を振るうことはなかったし、手を握れば弱々しくではあるが握り返しておそらくアンナの名を呼んでくれる。
 それだけで、アンナは幸せであった。
 さらに翌日になっても護衛は戻って来ない。
 さすがにアンナは不審に思った。
 マーシャが眠っている隙に外出し、兵士の詰所に赴き護衛の行方について訪ねるが、兵士達も無断欠勤している護衛を心配しているようだった。
「無断欠勤…?」
「こっちも困ってるんだよ。このままじゃクビになるぜ」
「…逃げた?」
「…行方不明なら、捜索しないといけなくなるが…」
「捜索して下さい!」
「お、おう…」
 まさか逃げるはずはない、とアンナは思っていたから、青天の霹靂であった。
 だって逃亡は死刑なのだ。
 それを承知で逃げたのならば、もうこの村には戻って来ないということだった。
「あんなおっかねぇ嫁がいるなら、逃げたくもなるよなぁ」
 誰かの呟きに追従の笑いが続く。
 アンナは否定する気力もなく、帰宅した。
 食材を確認するが、明らかに足りなかった。
 金もない。
 今日の食事をどうすればいいのか。
 いずれ生活が安定したら、お嬢様には体力ポーションと魔力ポーションを飲んで頂き、元のお嬢様に戻ってもらおうと思っていた。
 その夢が遠のいたのだった。
 マーシャはもはや回復の見込みはない、ということを知らないアンナは、それだけを希望に生きているのだった。
 だが今日の食事をなんとかしなければならない。
 残り僅かな金を握りしめ、アンナは再び外出する。
 市場を見ても、どれも高いと思えてしまう自分が嫌になる。
 侯爵家にいた頃、アンナが冒険者との契約にどれだけの金を動かしていたと思っているのか。
 それが今や、夕食にすら事欠く貧しさなのだった。
 惨めになりながら、明日の朝食用のパンを買う。
 何も買えなくなった。
 自然俯き加減になり、家への道を歩けば自分が着ている服の貧しさにも嫌気がさした。
 当時はメイドのお仕着せを着ていたが、侯爵家のメイドの服は平民が買えない程に高価だったのだ。
 それが今や、ボロを着ている。
 虚しくなり、顔を上げれば道の両脇には畑が広がっていた。
 冬でもたわわに実った野菜が、たくさんあった。
 思わず立ち止まり、凝視する。
 周囲を見渡し、…遠くに歩いている村人がいて、断念した。
 帰宅して、お嬢様に泣きながら謝り、粗末なスープを提供するしかなかった。
 調味料は揃っているので、味にはそれほど変化はない。
 だが舌の肥えたマーシャは何かが足りないと思ったのだろう、微妙な顔をして、スープを残した。
 内心傷つきながらもアンナは涙を拭い、残ったスープを引き上げる。
 今日はアンナの分はない。
 …躊躇ったが、マーシャが残したスープを飲んだのだった。
 深夜、アンナは外に出る。
 見回りの兵士に見つからないよう周囲を見回しながら慎重に歩く。
 柵も何もない畑は入り放題、盗み放題であった。
 だが気づかれてはいけない。
 一本ずつ、一つずつ。
 たくさんできているのだから、一つくらい取ったところでバレやしないだろうと思う。
 両手で持てるだけの野菜を盗み、帰宅した。
 心臓が飛び出しそうな程に激しく高鳴っており、全身汗だくになっていた。
 井戸から水を汲み、湯を沸かす。
 真冬であるので家の中は常に寒く、暖炉の火を絶やすことはできない。
 熱気が全室に行き渡るようパイプが通されている為、寝る時も凍えずに済むのだった。
 薪は家の外壁に積まれており、引っ越してきた当初は一冬は越せそうだと思っていたが、気づけば半分以上がなくなっていた。
 これもいずれ調達しなければならない。
 沸かしたお湯で身体を拭き、服を着替える。
 マーシャに魔力があれば浄化魔法を使うことも、水を出したり火を熾したりするのも困ることはないのだが、全てアンナが手仕事でやらねばならず、思いの外毎日体力を消耗していた。
 ベッドに横になれば熟睡し、気づけば朝になる日々である。
 本当はお嬢様に風呂にも入って頂きたい。
 だがアンナの力ではマーシャを風呂まで運ぶことはできないし、湯を浴槽に一人で張ることすらも大変である。
 この家に魔道具はなかった。
 いずれ生活が安定したら、導入しようと思っていたのだった。
 あの忌々しい護衛め。
 身体を拭いて差し上げることしかできずにアンナは歯噛みするのだが、マーシャはおそらく暴れる際にはその辺の不満も全てぶつけているのだろうと思われた。
 思い通りにならない身体、意志の疎通のできなくなった自分。
 そんな自分に苛立っているのだろう。
 せめて意志の疎通はしたいとアンナも思う。
 だがどうすればいいのか、わからなかった。
 紙にペンを持たせ、書いてもらおうとしたこともあった。
 だがお嬢様は文字も書けなくなってしまったのだった。
 支えて書かせても、絵のような記号のような物の羅列で、読めないのだ。
 アンナの知らない言語なのか、言語ですらないのかも判別できず、今となっては紙すら買うことは難しくなってしまい、試行錯誤をすることもできなくなってしまった。
 翌日も、また翌日も、アンナは深夜に野菜を盗む。
 護衛は帰って来なかった。
 逃亡したのだという噂はあっという間に村中に広まり、原因はアンナであるということになっていた。
 村を歩けばひそひそと陰口を叩かれる。
 元々村人に関わっていたのは護衛だけであり、アンナは全く関わろうとしていなかったから誤解があっても解くことができないし、その必要も感じなかった。
 自宅の畑で収穫できた根菜はひょろりとしていて、食べ応えは全くなかった。
 やはり調達して来るのが正解だとアンナは思う。
 必要最低限の生活だけならばできるのだが、肉も食べたいし、お嬢様に服だって作って差し上げたい。
 お菓子だってそうだ。
 マーシャは護衛がいなくなってから明らかに食事の質が落ち、菓子類も一切出なくなり、花の香りも何も楽しみがなくなってしまったことを不満に思っているようである。
 今までアンナに反抗するようなことはなかったのに、最近はあからさまに不満を顔に出し、口にするようになっていた。
 何を言っているのかはわからなくとも、感情は伝わって来るのだ。
 アンナは悲しかったし、事情を説明できないことがもどかしかった。
 調味料も順に底を尽き始め、こればかりは盗むにも難しい。
 店に押し入ることなどできないし、他人の家に入ることにも抵抗があった。
 同じような味付けのスープについに飽きたのか、マーシャは一口飲んでスプーンを置いてしまった。
「お嬢様、お口に合わないことは承知しております。ですがどうか、お身体の為にもお飲み下さいませ」
 アンナはベッド端に腰掛け、マーシャに語りかける。
 だがマーシャは不機嫌な表情で顔を逸らし、それ以上口にしようとはしなかった。
「…お嬢様…」
 そっとマーシャの手に触れようとしたアンナの手を、マーシャは払いのけた。
 瞬間スープの入った器はひっくり返り、床へと落ちて残った中身をぶちまけた。
 呆然と見下ろすアンナの前を、スプーンが飛んでいく。
 扉に当たり、跳ね返って床へ転がり、器の隣へと収まった。
 何の冗談だろうと思い、そして唐突に溢れ出す悲しみに耐えきれなくなりアンナはその場で号泣した。
 マーシャは全くアンナの方を見ず、そのままベッドに潜り込んで目を閉じていた。
 どれくらい泣いていたのか、瞼の腫れと喉の痛み、おまけに頭痛を自覚してアンナは泣きやみ、ぼんやりとする意識で部屋を見渡す。
 スープは床に吸われて色を変えており、器もスプーンも無惨に転がったままだった。
 マーシャを見れば、すっかり眠ってしまっている。
 昔のお嬢様であったなら、アンナが泣いていたら必ず慰めてくれただろう。
 どうしたの、と聞いてくれ、解決法を一緒に考えてくれたはず。
 今のお嬢様にそんな余裕はないのだろうことは理解している。
 理解しているが、アンナは悲しかった。
 ふらつく身体を支えるようにして立ち上がり、器とスプーンを片づける。
 すっかり床に染みてしまったスープはもはやどうしようもなかった。
 具を拾い上げ、布で拭けるだけ拭いた。
 侯爵家にいた頃であれば染みを取るための薬剤もあったし、床を綺麗に掃除する目の細かな布だってあった。
 今は何も、なかった。
 キッチンへと下り、リビングの椅子に座り込む。
 その日アンナは深夜出歩くことはせず、夜が明けるまでぼんやりと暖炉の火を見て過ごした。
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