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春
第28話:父の料理_3
しおりを挟む段々とキッチンに良い匂いが広がってきた。そうそう、この匂いだ、間違いない。父の作る、角煮の匂い。懐かしくて、美味しそうで、鼻だけでなく、心にもこの匂いが染みわたってくる気がする。それだけで、私の胸はもういっぱいになっていた。
「あら。何だか懐かしくて良い匂いがするわね」
母も気が付いたらしい。そりゃそうか。母のほうがずっと、この匂いを嗅いできたはずだ。気になるようで、司を片手で支えつつ、顔をこちらに向けてわかり易いように鼻をクンクンと鳴らして見せた。
「やだ、もしかして美代、これお父さんの角煮じゃないの?」
「あ……わかっちゃった?」
「何よ、美代だけちゃっかりレシピ聞いていたのね?」
「あーっと……いや、そういうわけじゃなくて、その、料理教室の前を通ったら、懐かしい匂いがしてて。『これお父さんの角煮の匂いじゃん⁉︎』って思ったから、そのい、いきなりは失礼だし、無理かも? とは思ったんだけどね⁉︎ 中に入って、レシピ教えてください、料理教えてくださいって、今日来ている、えっと、お……っ……宮内先生にお願いしたのよ!」
我ながら、良くもまぁこんなにスラスラと言いわけの台詞が出て来るものだと感心する。……嘘だ、スラスラは言えなかったが、おおむね中身に矛盾はない。……はずである。
父は自分のことが言われているとしっかり認識していて、笑顔で母に会釈をした。
「あら、じゃあ、お父さんも実はその料理教室で角煮のレシピを教わっていたりして?」
「あ、はは……。かもしれないよね、うん」
そんな料理教室は存在しないし、何なら今料理を作っているのは亡くなった父だ。こんな嘘をついてしまって申し訳ない気持ちと、こんな嘘を信じてしまって大丈夫なのかと言う気持ちが、私の中でせめぎ合っていた。
「えーと……宮内、さん? すみませんねぇ、娘が変なことを言い出して。外で料理教室をやっているのに、イキナリ家に来て教えてくれ、何て言い出したんでしょう?」
「……あぁ、いえいえ、とんでもないですよお母さん。私で力になれるのなら、嬉しい限りですから」
「昔っから変なこと言うんだから……。お姉ちゃんを見習ってほしいわ、まったく……」
いつもの私に対する嫌味だろうが、父は気にすることなく母に返事をした。……母も嫌味だと気が付いてないから、私だけ気にしても仕方がない。ただメンタルが削られるだけで、何もいいことはないのだから。こういう時は無視するに限る。
「それにしても、本当にいい匂いねぇ」
「ご飯のお供にぴったりだよね」
「だわね。……私も、レシピ教えてもらおうかしら?」
「終わってからにしてよね?」
「一緒に聞いたほいが早いんじゃないの?」
その言葉に思わず手が止まる。
「えっ、え? 何のためにお母さんに来てもらったと思ってるのよ」
「だって別にとっしー君だっているじゃない」
「俊君には買い出しとかお願いしなきゃいけなくなるかもしれないし……? まっ、まぁまぁ、良いじゃん! 司にも雪にも会いたかったんでしょ?」
「そりゃそうよ。当たり前じゃない」
私に便乗しようとする母を、強引にいなす。確かに俊君のくだりは無理があったかもしれないが、万が一の場合も考えて、この場にフリーな状況でいてほしかった。コウも同様だ。レシピに関してはまぁ、私が教えるのであれば構わないだろう。父が教えることは、今後の展開によって簡単にも難しくもなる。
それに、今は出来るだけ余計なことはしたくないのだ。ただでさえ粗のありそうなこの計画。何が計画の崩れに繋がるか、母の不信感に繋がるかわからないから。穏便に、正確に、スムーズに、この計画は進めていきたい。
――しかし、私は忘れていたのだ。
「では、食材も全部入れて、下処理もしましたので、後は鍋にお願いしましょう。時々火加減と中身を見て」
「そうですね。大きな鍋買っておいて良かったなぁ」
「沢山作る時は便利ですよね」
「本当に」
蓋を閉め、弱火にかける。まだ上手く出来上がるかはわからないが、鍋が頑張って柔らかくて食べやすい角煮を作ってくれるのを待つだけだ。
(……待つだけ?)
私は、ずっと父とキッチンに立っているつもりだった。下手に会話してボロを出したくなかったから。
「終わり? じゃあ、美代も座ったら? 宮内さんも」
なんてことだ。母と会話するタイミングを、作ってしまった。
(……でも、しまった。ずっとキッチンにいるわけにいかないじゃんね……。角煮の煮込む時間の存在忘れてた……!)
その間、キッチンで立ちっぱなし。……それは父も辛いだろう。椅子を持って行ってもいいが、母もコウもいて、私たちだけキッチンに居座るのも変な話だ。
手が空いたなら司と雪を見るべきだし、母任せにはできない。いい匂いが立ち込めるキッチンで至福の時を……とはいかないようだ。
(あぁ、やっぱり私は詰めが甘い……)
その時は来てしまったからどうしようもない。とくに気の利いた言い訳も見つからなかった。父が私、どちらかキッチンに残ることは可能だ。……この場合、残るべきなのは絶対に父である。まだネタバラシ前の今、母の目に長くは晒せない。
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