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春
第35話:懐かしい味_3
しおりを挟む信じられない、そんな顔をしている。或いは、まるで絶望を感じた時のような。
――私は、母のこの顔を知っている。順調に手術が終わり、その後退院して自宅療養となった父が、別の病気に罹って大事な薬を飲めなくなった時の顔と同じ。
「……お母さん……」
私は声を掛けたが、その後の言葉が続かなかった。この顔を見て、言葉に詰まってしまった。父だと信じて欲しかったはずなのに、喜んで欲しかったはずなのに、何も言葉が浮かばない。
「……嘘よ……何で……」
どういう意味の嘘なのだろうか。父がここに居ることが信じられない? それとも、私やコウ、俊君に雪まで、見ず知らずの男性のことを父と言い張ることが許せない? 死んだ父が生きていると、そんな妄言を吐くことが辛い? 沈黙が続く中、私はこれ以上声を掛けられないでいた。
「おとう……さ……」
母の目から涙が溢れていた。キャパシティをオーバーしたのかもしれない。『悪いことをしてしまった』単純にそう思った。これは、ただの私のエゴで、お母さんはこんなこと望んでいなかったのではと、今更ながら胸が痛んだ。
私は見た目も中身も父そっくりな、見ず知らずの突然現れた男性を父だと信じた。俊君も雪も、コウも信じてくれた。だから、父に会わせればみんなそうなると勝手に思い込んでいた。もちろん、懸念もあったし希望的観測だとも思ってはいたが、それでもきっと『母なら無条件で信じてくれる』と心の中でタカを括っていたのだ。
直前まで考えていたはずなのに。母の性格も考え方も、知っていたのに。上辺だけさらって『こうなったら良いのに』を、いつの間にか『こうなるに決まっている』と履き違えていた。
「……何よ……何よ……」
母が泣いている。いつも、父の話を自分からし始めては『お父さんの話すると、わかってるけど泣いちゃうのよね』と、目を真っ赤にして涙ぐみながら笑う母。震えた声で『いやぁね』と言って笑う母。……でも、今回は違う。私が母を泣かしたのだ。父が亡くなって一年経っても、母の精神はまだ不安定だとわかっていたはずなのに。
――泣くことは予想していた。だがその涙は【悲しい涙】ではなく【嬉しい涙】だと思っていた。
「ばぁば、だいじょうぶ? かなしいの?」
「……だって、ねぇ……」
座り込んで涙を流す母の頭を、雪がそっと撫でた。
「ばぁばがないたら、じぃじがかなしいよ? じぃじ、きっと、じぃじのことでないてるばぁば、みたくないよ?」
「雪!」
思わず声を荒げてしまった。
「ママこわい! なんで? じぃじをばぁばにあわせるんでしょ? せっかくじぃじがいるのに? ばぁばはうれしくないの? なんでママはおおきなこえをだすの? ゆきわるいことしたの? そんなことない! そんなこと……うわぁぁぁぁぁ!」
なんてことだ。雪まで泣かしてしまうなんて。私はただ、これ以上母を追い詰めてはいけないと思い、雪に何も言って欲しくなかっただけだ。だが、わかっている。大きな声で雪の名を呼ぶべきではなかった。この状況で、大きな声で諫めるように名前を呼ばれたら、子どもはみんな怖いだろう。
(……駄目だ……。全部、悪い方向に行っちゃう……)
今度は私が泣きそうだった。上手くいかないことに、二人も泣かせてしまったことに。
「……かーさん、ゴメン。帰ろうか」
この空気を破ったのはコウだった。
「姉ちゃんゴメン、一回帰るわ。多分、かーさんもこれ以上話できないだろうし」
「ごめん、コウ……」
「良いよ。なぁ、落ち着こう、ちょっと」
真っ赤な目で私を見た母は、恐らく怒っていた。静かに耐えて怒っていた。けれど、もうこれ以上は私のことを責めなかった。ただ帰っていった。――私は母に、もう何も言えなかった。
コウが出て行った後、泣く雪を宥めて父を見送った。父に謝られたが、父は何も悪くない。
母に持ち帰ってもらうはずの角煮は、今我が家の冷蔵庫に入っている。とてもじゃないが渡せなかった。コウだってきっと、久し振りの父の角煮を食べたかっただろうに。『やっぱり、親父の角煮は美味しいね』と涙目で食べるコウの姿が目に浮かぶ。
いつもは雪と一緒に入るお風呂も、今日は一人で入った。雪は『もうお姉ちゃんだから』と、一人で入った。
「あー……何で上手く行かないんだろう……」
一人、湯船に浸かりながら考える。今日の失敗は私の落ち度だ。途中までは上手くいったと思っていたのに、それすら実際は怪しい。ただ私だけが、そう感じていたのかもしれない。みんなは頑張ってくれたのに。後押しして、尻拭いまでしてくれたのに。
希望だけ持って、気持ちを考えていなかった。蔑ろにしていた。そんなつもりはなかった。でも、結果的にそうなってしまった。……私は、悪いことをしてしまったのだろうか。神様に聞いてみたい。『父と母を会わせたいと思うのは、許されないことなんだろうか』――と。
「もうダメなのかな……」
母の泣いている顔を思い出して、私の目からも涙が溢れた。雪に嫌な思いをさせたことで涙は止まらなくなり、父への申し訳ない気持ちで声を殺しながら落ち着くまで声を殺して泣いた。
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