ふたりで居たい理由-Side M-

垣崎 奏

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M-12.長谷川さんの家族

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☆☆☆


「女の子、名前は?」
「長谷川さん」
「下の名前で呼んでないんだ?」
「うん」


手の速い隆聖と、僕は違う。確かに、隆聖は付き合う前から福永さんを“彩ちゃん”と呼んでいた気もする。今ではすっかり呼び捨てだ。


「好きな女の子くらい、下の名前で呼んでもいいのに」
「まだ何でもないし……」
「基樹にとっては違うんだろ? 嫌がりそうなんだったら、本人の前で呼ばなきゃいい」


(妃菜ちゃん、か……)

もし、頭でそう呼んでるのが本人の前で出たら、引かれるだろう。なんとなく、長谷川さんは馴れ馴れしさを嫌う気がした。それに、僕自身、女の子を下の名前で呼ぶなんて、ハードルが高い。


「基樹って、紳士だよな」
「どういう意味」
「一歩ずつ手順を踏んでる感じ」
「まあ、経験もないし?」
「あ、中学のこと消したな」
「あれは入んないだろ、双方向じゃなかったんだから」


何か言いたげなのは分かるけど、隆聖はそれ以上触れなかった。きっと口に出されたら、午後に支障が出るくらい身体が火照る。

(そうだよ、ちゃんと女の子を意識してからは、付き合うことだって意識するのは初めてだよ)

それこそ、手順を踏むべきだろう。経験がないんだから。


「……どう転んでも、オレは側にいるからな」
「それはどうも」
「もうちょっと大事にしとけばよかったって思う日が、近いうちに絶対来るぞ」
「そうかもね」


琴音さんにも言われたけど、見た目だけで言えばたぶん、ふたりとも騒がれる。今週の土曜には出掛ける予定があって、何も起きずに済むとは限らないし、むしろ想定しておくべきだ。

何より、隆聖は騒がれても乗り越えた、経験者でもある。

(話しておいた方が、いいかもしれないな……)





「今日はこっちかなって」
「あ、連絡すればよかったね」


オレの中では、晴れたら裏道でギターを弾くことは当たり前だった。長谷川さんは、その状況が初めてだ。連絡しておく方が親切だった。

だんだんと、左を向くことに慣れてきて、長谷川さんの顔が見える。今日はニュートラルよりも、少しキラキラして見える。


「……どうかした?」
「久々聴けるから」


(っ……)

ギターを楽しみにしていてくれたらしい。そんなに見られると弾きにくいけど、長谷川さんに喜んでもらえるのは嬉しかった。





新学期が始まってから、長谷川さんとはほぼ毎日会ってる。オレは長谷川さんと会う前から、ギターをしたり図書館へ行ったり、親が了承してくれている状態で、時間を潰してから家に帰る。

長谷川さんは、親から心配されたりしないんだろうか。ひとりで居られるから、きっと任されていて大丈夫なんだとは思うけど、女の子だし、確認しておきたかった。


「放課後、ずっとオレと居るけど」
「うん」
「親とか、大丈夫? 何か言われたりしない?」
「顔を合わせないのが普通だから」
「そうなんだ?」


聞き返すと、ニュートラルから寂しそうな表情に少し変わった。

(触れなきゃよかったかな……、いや、でも帰る時間は遅めだし)


「言いたくなければそれでも」
「……気にしないで、別に言えないことじゃないから」


長谷川さんがバッグからペットボトルを出して、一口飲んだ。その動作がやけにゆっくり見えて、何か決意みたいなものをしたんだと、感じ取った。ギターを置こうとしたけど、オレの方を向かない長谷川さんから、目を逸らせなかった。


「普通に働いてて夜遅いのもあるけど……」
「うん」


言いにくそうにしてる。話してくれるとは言ってもらった。言葉を選んでる間だ。


「……あのね、こんなの普通じゃないと思うんだけど」
「うん」
「うーん……、やっぱり上手く言えないや」


吹っ切れたように、長谷川さんは口角を上げたけど、目が笑ってない。


「源氏名の書いた名刺とか、知らない男物の香水がついた服とか、見たくないんだよね」


(……こんな知的な、長谷川さんの親が?)

オレは、ちゃんと顔を繕えているだろうか。漫画とか小説とかでしか知らない、夜の大人の世界の話なのは分かった。

息が上がってくるのを何とか悟られないように、ゆっくり吐くのを意識する。


「いつ帰ってくるのかも分かんない、会ったら何言われるかも分かんないから、家に居たくないし、帰りたくない。できるだけ、外に居たい」


(『できるだけ、外に居たい』、ね)

それは、オレも同じだ。雅樹が絡んでくるから、ひとりでやりたいことをやれるのは外に居る間だけ。それも、騒がれる心配のない、学校以外の場所で。


「……もしオレと、放課後過ごせてなかったら、どうしてた?」
「図書館行ってたかな。ここのは大きいし遅い時間まで開いてる」


(そうだよな……)

葦成市は県庁所在地で、中央駅周りにある市の関連施設も遅くまで開いている。図書館も、例外じゃない。

たぶん、長谷川さん的には本を読めるようなカフェでもいいんだろうけど、お金もかかるし、毎日行ける場所じゃないと思ってるのも伝わってきた。


「……長谷川さんは、どうしたい? ひとりで図書館行くか、オレと一緒にいるか」
「え?」
「帰るの、遅い方がいいんでしょ?」


女の子だから、真っ暗になる前に家の近くまで送っていたけど、長谷川さんにとってはありがた迷惑だったかも。そう思って、出た言葉だった。荒くなった呼吸を抑えるためにも、オレの行動が間違ってなかったと、言われたい。

団地のあの角まで一緒に行ってしまったら、家に帰るしかなかったんじゃないか。オレはいつも先に自転車を漕ぎ始めていたし、オレが見えなくなってから駅前まで戻ってたってことも、なくはない。

今までより遅くなったとしても、母さんは理解してくれるだろう。朝や土日の夜に雅樹がうるさくなるのだけは、覚悟がいるけど。


「……前野くんと居る方がいい」
「ん、分かった」


火照りは、しなかった。長谷川さんの家が特殊なのは分かったし、なんとなく、長谷川さんを家に帰さない方がいいって使命感みたいなものがあったからだと思う。

いつもは伸ばしている足を、スカートごと膝の裏から抱え込んで三角座りをする長谷川さんが、急に小さく見えた。ただ、そのおかげで、オレは落ち着くことができた。

(いつから? 昔からずっとその生活を?)

疑問は過ぎるけど、聞く勇気も出ない。聞いたらきっと、また息が上がってくる。長谷川さんの方が辛いはずのに、オレに症状が出る。あの時と、同じだ。

辛さなんて、人と比べる物じゃないってカウンセリングで何度も教わったけど、それでも気にしてしまう。長谷川さんがどう感じているかなんて、本当のことは話してもらわないと分からない。オレが決めつけているだけなのに。





「……夜遅いの、大丈夫なの」
「連絡だけ、してもいい?」
「うん」


母さんとのトーク画面を開く。「今日遅くなる。晩ご飯は家で食べる」と送ってすぐ、既読だけがついた。たぶん、雅樹のご飯中だから。

別に、覗かれても何もやましいことはないけど、長谷川さんがぱっと目を逸らしたのが分かった。間を繕うように、話しかけてくる。


「……お母さん?」
「そう」
「いいね」

「うらやましい?」
「心配されてるんだなあって」
「そうだね」


長谷川さんには、親とこういう連絡をすることはないんだろうと、反応で悟った。嫌なら、無理にすることもない。逃げられるなら、逃げてもいい。

(心配、か……)

オレの両親の次に思い浮かんだのが、隆聖だった。なんだかんだ面白がるけど、オレを《基樹》と下の名前で呼ぶ、限度の分かってる親友だ。


「……家族とは会わないの? 土日とかも?」
「ほぼ」
「それならさ、下の名前で呼ばれることも、ない?」
「……そうだね、考えた事なかったけど」


隆聖が、今日のお昼に言っていたこと。ずっと抱えたまま、ろくに弾かず肘置きになってたギターを、目の前に横たえた。不思議そうにオレの方を向く長谷川さんと目が合う。


「……妃菜ちゃん」
「なに?」
「いや、呼んでみただけ」


(あーー……)

ニュートラルな長谷川さんに、普通に返された。今は絶対に、顔が赤い。幸い、陽は落ちてきているから、あまりよくは見えないはず。

似合わないことをするものじゃないと、頭を掻いても、呼んでしまった事実は変わらない。


「なら、私も基樹くんって呼ぼうかな」
「え?」
「あれ、そういう意味じゃない?」
「いや、長谷川さんがいいならいいけど……」

「戻ってる、せっかくなら呼んでよ」
「……うん」


ふふっと笑いながら、そんな風に言われたら、従うしかなくなる。家の話をしていた時の小ささは消えて、いつも通りの、……妃菜ちゃんが見える。

(……むしろ、呼んでもらえる口実ができてよかったかも)

《基樹くん》なんて、普段から女子に呼ばれてるのに。一度ケースの上に置いたギターを、抱え直した。





何曲か弾いて、ギターを抱えたまま譜面の入ったファイルを閉じて、トートバッグに片付ける。


「そろそろ帰る?」
「いや、見えなくなってきたから」
「ああ……」


(まだ、帰らないよ。大丈夫)

妃菜ちゃんと一緒に居られる時間が長くなるのは嬉しいけど、家に帰ってからの時間は短くなる。心配なのは、課題だ。授業の予復習もある。

雅樹が寝てから帰ることになるから、むしろ今までより進むかもしれない。いや、寝ないと怒られる。


「……基樹くん」
「っ」


呼ばれるとびくっと反応してしまって、妃菜ちゃんが笑う。

クールビューティーに見える彼女は、意外と、表情を表に出す。毎日会って、妃菜ちゃんが目に映ることに慣れてきたとはいえ、頬が赤くなってるんじゃないかと、顔を逸らしてしまう。


「呼ばれ慣れてない?」
「そんなことはないけど……」
「そうだよね、爽やかイケメンだもん」


(まあ、楽しそうだからいいんだけど……)

この揶揄い方は、隆聖に似てる。妃菜ちゃんだから、嫌じゃないんだと思う。この短期間で、そう思える相手になってることが驚きだ。


「家帰ってからは、何してるの」
「んー、課題とか?」
「今日はいいの?」
「うん」
「明日は?」
「とりあえずは」


なんとなく、何が言いたいのかは分かった。確かに、今はまだ新学期も始まってすぐだし、余力があるけど、すぐ手が回らなくなってくるはず。


「図書館の自習室、行ったことある?」
「うん」
「今度、行こっか。机、欲しいもんね」





自転車を押して歩くことは今まで変わらない。でも、周囲は真っ暗で、街灯が目立つ。オレが一緒にいてあげられる、限界の時間だ。

母さんが起きてる以上、オレもそれなりには帰らないと、母さんが寝られない。オレが後に寝ると言っても、たぶんそれは聞き入れてもらえない。


「基樹くん」
「はい」
「ふふ、呼んだだけ」


暗くて顔は見づらいけど、笑ってるのは分かる。やっぱり、焦りや怒りも生まれてこなかった。妃菜ちゃんは、オレとこの距離で楽しめる女の子だ。


「また明日ね」
「うん」
「あ、妃菜ちゃん」


オレが名前を呼んだからか、ちょっと驚いた妃菜ちゃんと目が合った。その反応に、笑ってしまう。妃菜ちゃんは、オレのこと散々呼んで面白がったくせに。


「メッセ、送ってきていいからね」
「うん、ありがと」


自転車を漕いで、曲がり角から離れた。

(親は基本的に家に居ないけど、会ったら何を言われるか分からない……?)

直接言いはしなかったけど、妃菜ちゃんが親に抱いてる感情は《負》だろう。恐怖か、何か。普通じゃないとも言ってたし、何かしてあげられることがあるといいんだけど。





時間的に、雅樹はもう寝ているはず。そっと玄関のドアを開けて、ギターを背負ったままリビングに入る。


「ただいま」
「お帰りなさい」


母さんが晩ご飯を温め直して並べてくれる。雅樹がいないから、お茶を飲む母さんと向かい合わせだ。


「明日からも遅くなるよ」
「あら、雅樹が寝た後に帰ってくるのね?」
「そのつもり」
「分かったわ、晩ご飯要らなければ、早めに連絡ちょうだいね」
「うん」


理由を、聞いてこない。この時間まで女の子と一緒に居たいからなんて、言ってもいいけど言いたくない。いくら母さんに話すとしても、恥ずかしさが勝つ。

ご飯を食べてお風呂に入った後、トートバッグとギターも一緒に自分の部屋へ戻った。結局、妃菜ちゃんからの通知は鳴らなかった。
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