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2.酒は飲むとも飲まれるな
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えらいモノを見てしまった。
一瞬のけぞりそうになったが、かろうじて持ちこたえた。
何故かこいつとは縁がある。夜勤はやたらと一緒になるし、ロッカーは真向かいだし、極めつけが先日押し倒すはめになるし。
周囲に人気はない。
「なんでこんなところに寝ているかな、お前は」
溜息をつきたくなる。いや。思いきりついた。
俺の目の前では海藤真樹が便器に片足かけてそのまま両手でかかえこむという、実に理解しがたい格好で眠り込んでいた。
海藤の世にも珍しい姿をたっぷりと堪能したのち、正直俺はそのまま回れ右をして立ち去ろうかと思った。
会はそろそろ終わりに差し掛かっていたし、どうせそのうち誰かが海藤を探しにくるだろう。
なんせ2次会はこいつがいないと盛り上がりにいまいち欠けるらしいから。
とはいえ一応、声をかけてみる。
「海藤、ここで寝るな。寝るくらいなら家に帰れ」
足で軽くつついて揺り起こそうとするものの、酔っ払いはこのくらいでは起きようとしない。
「んが?」
返事とも何ともつかない妙なうめき声を上げて、再び便器にしがみつく。
駄目だ。起きる気配なんて微塵もない。
俺はいとも簡単にあきらめてさっさと立ち去ろうとした、が。
「……おい」
声をかけたのが大きな間違い。
あろうことか、海藤は俺の足首をがっちりとつかんでいた。
実はお前、意識あるんじゃないのか?
そう問いただしたくなるくらいにしっかりと握られた。
「おい、海藤。放せ」
肩を揺さぶり、なんとか振り払おうとするものの一向に目を覚まさない。
「か・い・と・う」
耳元ではっきり名前を呼んで、そこでようやくなんとなく意識が戻ってきたらしい。
ようやく目が開いた。
あいたはいいが、目の焦点は合っていない。
今の状態ならばなんとか手を振り払うこともできた。
だが、意識は戻ってきたにしろ、どうにもおぼつかない表情に俺は珍しく同情してしまったのだ。
同情の余地は十分にある状況だったのだ。海藤の隣は竹内女史だったし、場を盛り上げるために大分奮起していた。
そもそも女史の隣ってのが悪かった。
なんせ女史は自分が飲めない分、人に気持ちよく飲ませることが恐ろしくうまいのだ。だから大抵女史の隣に座ると酔いつぶれるのが常だった。
「海藤、大丈夫か? そろそろ店を出るようだけど、立てるか?」
俺の言葉に海藤は目だけを俺へと向ける。
見ようによっては結構色っぽい視線だろうな。
そんなことを冷静に考えて、海藤の腕をひく。
立てるか? だけが聞こえたらしく、壁に身体を預けながらも何とか立つ。
「……ち…は?」
本人はまともにしゃべっているつもりだろうが、とてもじゃないが呂律は全く回っていない。
ついで言うと立ち上がったはいいが、一人では立てない状態らしい。俺の手を支えにようやく立っているといった状態だ。
「何を言っているのか解らない」
俺の返答に海藤は眉を寄せ、それから先ほどよりは幾分しっかりした調子で声を発する。
「樋口、は?」
俺?
「俺はお前のように酔っぱらっていない。便器もかかえていない。ついでに言うとさっさと帰りたい」
その途端、海藤は実に情けない顔をして今度こそ俺に顔を向けてきた。
「何?」
「聞こえなかったのか? おれは。酔っ払っていない」
「じゃ、……なくて。帰るの、か?」
帰るのか、って。
「2次会まで付き合う筋はないと思うけど」
いまさら何を言うか。俺が2次会に付き合ったことなんてほとんどない。それは海藤自身がわかっていることだろうに。
俺の言葉にますます海藤は眉を寄せて、やけに恐ろしい形相を向けて、そして最悪な一言。
「吐く」
おい待て。
「待て! 海藤!!」
俺の制止を聞くまでもなく、海藤は便器へと身体を折り曲げて盛大に吐き始めた。
当然のごとく、俺もその被害を少なからず受けた。
今年の冬に新調したばかりのスーツなのに、という思いもあったが、あまりに突然の嘔吐に、それどころではなくなってしまった。
立ったまま、便器に手をかけて吐き続けて、ようやく落ち着いてきたらしい。
出してしまったらちょっとは楽になったのか、そのままトイレの壁に身を預けて深呼吸を始めた。
「座れ海藤」
それに対しては首を振る。
「立ったままだと辛いだろう?」
「……多分、もう、へいき。ぜんぶ、でた」
現に蒼白だった顔にわずかに赤みがもどってきていた。
とはいえ、ふらふらした状態はまだ続いている。
「平気に見えないぞ」
「だいりょぶ、だいりょぶ。おれ、いつも三回戻せば大体だいじょぶ」
悪いが全然大丈夫には見えないし、ラッパーのように節つけて説明するな。
典型的酔っ払いの体に俺はうんざりして距離を置こうとした。
しかし海藤は俺の不機嫌な態度などものともせず、そのまま手を振り振り、俺のほうへと倒れこんできた。
咄嗟に手を差し伸べて、そのまま支えようとしたが、突然のことにバランスを崩した。
くそ。こいつ、重い。
勢いで海藤の全体重ごとトイレの壁へとたたきつけられる。
「おい!」
壁を背にしてなんとか海藤を支え、ずり落ちそうになるのを堪える。
俺は左手を海藤の背に回し、右手でトイレのドアに手をかけた。
全体重がかかってきているため、思うように身動きが取れない。
意識のない酔っ払いほど重いモノはない。
仕方なく覚悟を決めて、そのままの体制で誰かが来るのを待つことにした。
身動きすればまた吐かれかねない。
「うー。? ……なんか樋口、におう」
「お前の吐いたモンかかっているんだからしょうがないだろ」
考えないようにしていたのに、腹立たしいことを口にするやつだな、こいつは。
俺の怒った口調が気に障ったのか、海藤は潤んだ目で俺を覗き込む。
そのさまは怒られてしょげている大型犬そのまま。
「ごめんらぁ。樋口」
「……いいよもう」
「いくないよー。ごめんらぁ。ごめんらー」
何で泣くんだよ。先ほどの陽気な態度はどうしたんだ? ころころかわりやがって。いくら酔っ払っているとはいえ、こんな図体で泣くなよ、おい。
「わかったわかった。泣くな。大丈夫だから」
どうしてこうなるんだよ。
俺は背中に回した手でぽんぽんとたたく。
まるで子供をあやしているような気分になって、俺のほうが泣きたくなってきた。
「おーい、海藤。そろそろ2次会いくぞー。大丈夫、か??? ──あれ? 樋口?」
呑気な声とともに現れたのは葛原さんだった。
海藤を抱えたままの俺と、葛原さんと、3秒ほど見つめあい、大きく溜息をついた。
本当に重いよ、こいつ。
「何してんの?」
「海藤に絡まれてます。──こいつ、2次会は無理ですね。盛大に吐いたばかりですし」
「大丈夫なのか?」
その、大丈夫なのか? の言葉にはきちんと反応する。
「あー。俺、すぐに吐いちゃうんですよぉ。3回吐けば大抵おわるんですよー」
へらへらと笑い、ひらひらと手を振る。
まったくこいつは。
「すみません葛原さん。タクシー呼んでもらって、それとこいつ運ぶの手伝ってもらえますか? とりあえず俺、送っていきますから」
「あ、うん。わかった。ちょっと待ってろー」
葛原さんが慌てて立ち去ると、再び静寂が戻ってきた。
「海藤、大丈夫か?」
なんだか目がうつろだが。
「ぅひっ? うー。だいひょうぶら~」
……全然大丈夫じゃないだろ。
俺は長い一日になることを覚悟して、海藤をしっかりと抱きしめた。
一瞬のけぞりそうになったが、かろうじて持ちこたえた。
何故かこいつとは縁がある。夜勤はやたらと一緒になるし、ロッカーは真向かいだし、極めつけが先日押し倒すはめになるし。
周囲に人気はない。
「なんでこんなところに寝ているかな、お前は」
溜息をつきたくなる。いや。思いきりついた。
俺の目の前では海藤真樹が便器に片足かけてそのまま両手でかかえこむという、実に理解しがたい格好で眠り込んでいた。
海藤の世にも珍しい姿をたっぷりと堪能したのち、正直俺はそのまま回れ右をして立ち去ろうかと思った。
会はそろそろ終わりに差し掛かっていたし、どうせそのうち誰かが海藤を探しにくるだろう。
なんせ2次会はこいつがいないと盛り上がりにいまいち欠けるらしいから。
とはいえ一応、声をかけてみる。
「海藤、ここで寝るな。寝るくらいなら家に帰れ」
足で軽くつついて揺り起こそうとするものの、酔っ払いはこのくらいでは起きようとしない。
「んが?」
返事とも何ともつかない妙なうめき声を上げて、再び便器にしがみつく。
駄目だ。起きる気配なんて微塵もない。
俺はいとも簡単にあきらめてさっさと立ち去ろうとした、が。
「……おい」
声をかけたのが大きな間違い。
あろうことか、海藤は俺の足首をがっちりとつかんでいた。
実はお前、意識あるんじゃないのか?
そう問いただしたくなるくらいにしっかりと握られた。
「おい、海藤。放せ」
肩を揺さぶり、なんとか振り払おうとするものの一向に目を覚まさない。
「か・い・と・う」
耳元ではっきり名前を呼んで、そこでようやくなんとなく意識が戻ってきたらしい。
ようやく目が開いた。
あいたはいいが、目の焦点は合っていない。
今の状態ならばなんとか手を振り払うこともできた。
だが、意識は戻ってきたにしろ、どうにもおぼつかない表情に俺は珍しく同情してしまったのだ。
同情の余地は十分にある状況だったのだ。海藤の隣は竹内女史だったし、場を盛り上げるために大分奮起していた。
そもそも女史の隣ってのが悪かった。
なんせ女史は自分が飲めない分、人に気持ちよく飲ませることが恐ろしくうまいのだ。だから大抵女史の隣に座ると酔いつぶれるのが常だった。
「海藤、大丈夫か? そろそろ店を出るようだけど、立てるか?」
俺の言葉に海藤は目だけを俺へと向ける。
見ようによっては結構色っぽい視線だろうな。
そんなことを冷静に考えて、海藤の腕をひく。
立てるか? だけが聞こえたらしく、壁に身体を預けながらも何とか立つ。
「……ち…は?」
本人はまともにしゃべっているつもりだろうが、とてもじゃないが呂律は全く回っていない。
ついで言うと立ち上がったはいいが、一人では立てない状態らしい。俺の手を支えにようやく立っているといった状態だ。
「何を言っているのか解らない」
俺の返答に海藤は眉を寄せ、それから先ほどよりは幾分しっかりした調子で声を発する。
「樋口、は?」
俺?
「俺はお前のように酔っぱらっていない。便器もかかえていない。ついでに言うとさっさと帰りたい」
その途端、海藤は実に情けない顔をして今度こそ俺に顔を向けてきた。
「何?」
「聞こえなかったのか? おれは。酔っ払っていない」
「じゃ、……なくて。帰るの、か?」
帰るのか、って。
「2次会まで付き合う筋はないと思うけど」
いまさら何を言うか。俺が2次会に付き合ったことなんてほとんどない。それは海藤自身がわかっていることだろうに。
俺の言葉にますます海藤は眉を寄せて、やけに恐ろしい形相を向けて、そして最悪な一言。
「吐く」
おい待て。
「待て! 海藤!!」
俺の制止を聞くまでもなく、海藤は便器へと身体を折り曲げて盛大に吐き始めた。
当然のごとく、俺もその被害を少なからず受けた。
今年の冬に新調したばかりのスーツなのに、という思いもあったが、あまりに突然の嘔吐に、それどころではなくなってしまった。
立ったまま、便器に手をかけて吐き続けて、ようやく落ち着いてきたらしい。
出してしまったらちょっとは楽になったのか、そのままトイレの壁に身を預けて深呼吸を始めた。
「座れ海藤」
それに対しては首を振る。
「立ったままだと辛いだろう?」
「……多分、もう、へいき。ぜんぶ、でた」
現に蒼白だった顔にわずかに赤みがもどってきていた。
とはいえ、ふらふらした状態はまだ続いている。
「平気に見えないぞ」
「だいりょぶ、だいりょぶ。おれ、いつも三回戻せば大体だいじょぶ」
悪いが全然大丈夫には見えないし、ラッパーのように節つけて説明するな。
典型的酔っ払いの体に俺はうんざりして距離を置こうとした。
しかし海藤は俺の不機嫌な態度などものともせず、そのまま手を振り振り、俺のほうへと倒れこんできた。
咄嗟に手を差し伸べて、そのまま支えようとしたが、突然のことにバランスを崩した。
くそ。こいつ、重い。
勢いで海藤の全体重ごとトイレの壁へとたたきつけられる。
「おい!」
壁を背にしてなんとか海藤を支え、ずり落ちそうになるのを堪える。
俺は左手を海藤の背に回し、右手でトイレのドアに手をかけた。
全体重がかかってきているため、思うように身動きが取れない。
意識のない酔っ払いほど重いモノはない。
仕方なく覚悟を決めて、そのままの体制で誰かが来るのを待つことにした。
身動きすればまた吐かれかねない。
「うー。? ……なんか樋口、におう」
「お前の吐いたモンかかっているんだからしょうがないだろ」
考えないようにしていたのに、腹立たしいことを口にするやつだな、こいつは。
俺の怒った口調が気に障ったのか、海藤は潤んだ目で俺を覗き込む。
そのさまは怒られてしょげている大型犬そのまま。
「ごめんらぁ。樋口」
「……いいよもう」
「いくないよー。ごめんらぁ。ごめんらー」
何で泣くんだよ。先ほどの陽気な態度はどうしたんだ? ころころかわりやがって。いくら酔っ払っているとはいえ、こんな図体で泣くなよ、おい。
「わかったわかった。泣くな。大丈夫だから」
どうしてこうなるんだよ。
俺は背中に回した手でぽんぽんとたたく。
まるで子供をあやしているような気分になって、俺のほうが泣きたくなってきた。
「おーい、海藤。そろそろ2次会いくぞー。大丈夫、か??? ──あれ? 樋口?」
呑気な声とともに現れたのは葛原さんだった。
海藤を抱えたままの俺と、葛原さんと、3秒ほど見つめあい、大きく溜息をついた。
本当に重いよ、こいつ。
「何してんの?」
「海藤に絡まれてます。──こいつ、2次会は無理ですね。盛大に吐いたばかりですし」
「大丈夫なのか?」
その、大丈夫なのか? の言葉にはきちんと反応する。
「あー。俺、すぐに吐いちゃうんですよぉ。3回吐けば大抵おわるんですよー」
へらへらと笑い、ひらひらと手を振る。
まったくこいつは。
「すみません葛原さん。タクシー呼んでもらって、それとこいつ運ぶの手伝ってもらえますか? とりあえず俺、送っていきますから」
「あ、うん。わかった。ちょっと待ってろー」
葛原さんが慌てて立ち去ると、再び静寂が戻ってきた。
「海藤、大丈夫か?」
なんだか目がうつろだが。
「ぅひっ? うー。だいひょうぶら~」
……全然大丈夫じゃないだろ。
俺は長い一日になることを覚悟して、海藤をしっかりと抱きしめた。
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