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6話 <カイル視点>
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カイルはいつもの時間になっても皇太子の執務室に現れないサディアスに、もやもやとした怒りを感じていた。
サディアスは昨日外遊から帰って来ており、今日は王宮へ出てくる予定だったはずだ。
夏の間サディアスは、聖女エラと各地の穀倉地帯を周り、日照りに苦しむ土地に雨をもたらすという重要な仕事をしている。
何も宰相自らお供しなくても良いではないか。ただ聖女と一緒に旅をしたいだけという魂胆が見え見えだ。
まぁ、宰相の仕事も滞りなく進むように手配しているので、文句は言えないが……
しかし、俺に会う予定を蔑ろにするなど、今回は一言何か言ってやらないと気が済まない。
サディアスが来たら何と言ってやろうか、と悶々と思考を巡らせているカイルの部屋に、従者が届け物を持って現れた。
「サディアス宰相からのお手紙です」
恭しく渡された封書をペーパーナイフで開けると、見慣れた几帳面なサディアスの文字が並んでいた。
我が太陽、カイル殿下にご挨拶申し上げます。
申し訳ありません。病に罹患し、王宮に赴くことがかないません。
この病は、体に黒い痣が広がっていくという、今までになかったものです。
荒唐無稽な話と思われるかもしれませんが、私はこの病が流行ることを夢にて知っておりました。
実はエラが聖女であることも、今年日照りが続き干魃に見舞われることも知っておりました。
私が見た夢では、この病に罹った者は全て死に至り、国内の半数近い者が罹患するという恐ろしいものです。
エラが聖女であったこと、日照りが起きたこと、この病が発生したことは全て私の見た夢の通りになっております。
どうか、これから病が鎮静するまでは、カイル殿下は出来る限り人と接触しないようになさってください。
カイル殿下に仕える者もごく少数に絞り、その者も人との接触を制限するようにしてください。
国内に発症者が現れ始めましたら、患者の隔離を徹底し、国民に病が広がっている事を周知し、集会や市の禁止を行って人々の接触をできる限り制限することが必要かと思います。
私の執務机の引き出しに、一連の対策案をまとめてあります。よろしくお願いいたします。
私の夢と異なる点は、今、我が国に聖女がいることです。
私の病も、国民も病も、聖女の力によって何とか寛解できれば良いのですが、どこまで聖女の力が効くのかはわかりません。
カイル殿下はくれぐれも、しばらくの間王宮の外に出られないよう。何卒よろしくお願いいたします。
――サディアス……何を言っているのだ?
カイルはあまりの情報量の多さに咀嚼が追いつかないでいた。
サディアスが病?
死に至る病?
サディアスは冗談でこのような事を言う人間ではない。
夢で予見?
確かに、サディアスが養子に迎え入れた娘がたまたま聖女だったなんて、偶然ができ過ぎているとは思っていた。
それに、まだ力を発現していなかった聖女が、たまたま日照りの地を訪れ雨を降らせるなど、どう考えてもサディアスはこの事を知っていたとしか思えない。
サディアスが死ぬ?
やめてくれ……
カイルが急いでコートを羽織り部屋を出ると、二人の近衛兵に行き先を阻まれた。
「殿下、本日外出はなりません」
「ここを通せ」
「なりません」
「私の命令が聞けぬというのか?」
怒り心頭のカイルに、近衛は真っ直ぐに顔を向けた。
「殿下の命令よりも、殿下の安全が優先されます」
サディアスが近衛に先に手を回したのか? お前は全く、何をしてくれるんだ!
がんと動かない近衛に負け、カイルは行き先を変更してサディアスの執務室へ向かった。
執務机の引き出しを開けると、病が流行した場合に行う施策が具体的にまとめられた書類が入っていた。
サディアス……
俺の師であり、
俺の右腕であり、
俺が唯一ただ一人……
カイルが書類を手に呆然としていると、慌ただしく伝令が部屋に入ってきた。
「殿下、ここにいらっしゃいましたか! ご報告が」
伝令に渡された紙に目を通すと、体に黒い痣が浮き出てくる謎の病が発生し、各地で何人もの患者が教会を訪れていると書かれていた。
本当に病が流行し始めている……
カイルは消化しきれない頭のまま、伝令に大臣たちを集めるよう命令した。
一日中慌ただしく国内の対応を決め、実行に移したカイルは、夜遅い時間にやっと寝室に戻ることができた。
カイルは部屋のランプの火を消し、懐に夜光石を忍ばせた。
――俺を舐めてもらっては困る。
カイルは音を立てないように、自室の棚の下の秘密通路の入り口を開けた。
通路を抜け王宮敷地内の森に出ると、そのまま外へ誰にも気付かれず脱出することができた。
黒いローブですっぽりと頭を覆い、サディアスの屋敷まで早足で走ってきたカイルは、静まり返った屋敷の呼び鈴を鳴らした。
扉に現れた執事は皇太子の訪問に驚きながらも「お通しできません」と言い張ったが、カイルは老執事の横を無理やりすり抜け、サディアスの寝室に向かった。
乱れた息のままサディアスの寝室の扉を開けると、ベッドサイドにいた聖女が振り返った。
「いけません! お帰りください!」
立ち上がった聖女の向こうで、ベッドの上のサディアスが少し体を起こし、「来てはいけません!」と老人のような声を上げた。
カイルは、左の頬を残して全て黒く染まったサディアスの顔を見て戦慄した。
「サディアス……」
一気にサディアスの死が現実味を帯びて目前に迫ってくる。
ふらふらとベッドに近寄ったカイルは、止めようとする聖女の手を両手で握った。
「聖女エラ……あなたの力でどうにかできないのか?」
カイルの必死の懇願にも、エラは顔を横に振るだけだった。
カイルは、今日国政の合間を縫って目を通した、過去の聖女の奇跡の伝承に関する文献の挿絵を思い浮かべた。
「……口付け……聖女の口付けは?」
カイルのつぶやきに、エラが目を見張った。
「や……やってみます」
エラがふらふらとベッドに近づこうとすると、カイルはその腕を取って止めた。
「待ってくれ。もし聖女の口付けで病が治るとしたら、もしかしたらあなたの唾液を混ぜた水でもいいのでは?」
カイルは真面目な顔で突拍子もない事を言い出すと、ベッドサイドにおいてある水差しから水をコップに注ぎ、エラの手に渡した。
エラは強く頷いてコップを受け取ると、唾液を溜め、コップの中にぽたりと落とした。
聖女が必死に唾を吐くあまりにシュールな光景に、カイルもサディアスも若干顔を引き攣らせてそれを見守った。
え……そんなにたっぷり……
カイルの方からも泡が浮いているのが見えるそれを、聖女が真面目な顔でサディアスに渡した。
「お義父様、全て飲み干してください」
サディアスが少し躊躇してその液体をじっと見ている。
「飲め」
カイルも、サディアスすまない……と思いつつ、圧をかけた。
サディアスは観念したのか、苦しそうにゆっくりと時間をかけてコップの液体を飲み干した。
「どうだ?」
カイルの質問に、サディアスが不思議そうな顔を見せた。
「何か清涼なものが、体に広がっている感じがします」
「お義父様……痣が薄くなっていきます……」
聖女がサディアスの頬に触れた。
サディアスも真っ黒だった自分の手に目をやり、明らかに肌の色をとり戻していっているそれを見て、驚いている。
……効いた……
カイルは、そのまま床に崩れ落ちた。
見上げれば、顔色を取り戻したサディアスが心配そうにこちらを見ている。
「サディアス……よかった……」
「お前を失うのかと思った……」
一人、この世に置いていかれるのかと思った。
孤独で暗い、冷たい穴の底に突き落とされたかと思った。
「お前のいない世界など……」
一日中張り詰めていた緊張が解け、勝手に目から熱いものがこぼれ落ちていく。
ベッドに顔を伏せ、背中を震わせるカイルの髪を、サディアスはずっと優しく撫で続けた。
サディアスは昨日外遊から帰って来ており、今日は王宮へ出てくる予定だったはずだ。
夏の間サディアスは、聖女エラと各地の穀倉地帯を周り、日照りに苦しむ土地に雨をもたらすという重要な仕事をしている。
何も宰相自らお供しなくても良いではないか。ただ聖女と一緒に旅をしたいだけという魂胆が見え見えだ。
まぁ、宰相の仕事も滞りなく進むように手配しているので、文句は言えないが……
しかし、俺に会う予定を蔑ろにするなど、今回は一言何か言ってやらないと気が済まない。
サディアスが来たら何と言ってやろうか、と悶々と思考を巡らせているカイルの部屋に、従者が届け物を持って現れた。
「サディアス宰相からのお手紙です」
恭しく渡された封書をペーパーナイフで開けると、見慣れた几帳面なサディアスの文字が並んでいた。
我が太陽、カイル殿下にご挨拶申し上げます。
申し訳ありません。病に罹患し、王宮に赴くことがかないません。
この病は、体に黒い痣が広がっていくという、今までになかったものです。
荒唐無稽な話と思われるかもしれませんが、私はこの病が流行ることを夢にて知っておりました。
実はエラが聖女であることも、今年日照りが続き干魃に見舞われることも知っておりました。
私が見た夢では、この病に罹った者は全て死に至り、国内の半数近い者が罹患するという恐ろしいものです。
エラが聖女であったこと、日照りが起きたこと、この病が発生したことは全て私の見た夢の通りになっております。
どうか、これから病が鎮静するまでは、カイル殿下は出来る限り人と接触しないようになさってください。
カイル殿下に仕える者もごく少数に絞り、その者も人との接触を制限するようにしてください。
国内に発症者が現れ始めましたら、患者の隔離を徹底し、国民に病が広がっている事を周知し、集会や市の禁止を行って人々の接触をできる限り制限することが必要かと思います。
私の執務机の引き出しに、一連の対策案をまとめてあります。よろしくお願いいたします。
私の夢と異なる点は、今、我が国に聖女がいることです。
私の病も、国民も病も、聖女の力によって何とか寛解できれば良いのですが、どこまで聖女の力が効くのかはわかりません。
カイル殿下はくれぐれも、しばらくの間王宮の外に出られないよう。何卒よろしくお願いいたします。
――サディアス……何を言っているのだ?
カイルはあまりの情報量の多さに咀嚼が追いつかないでいた。
サディアスが病?
死に至る病?
サディアスは冗談でこのような事を言う人間ではない。
夢で予見?
確かに、サディアスが養子に迎え入れた娘がたまたま聖女だったなんて、偶然ができ過ぎているとは思っていた。
それに、まだ力を発現していなかった聖女が、たまたま日照りの地を訪れ雨を降らせるなど、どう考えてもサディアスはこの事を知っていたとしか思えない。
サディアスが死ぬ?
やめてくれ……
カイルが急いでコートを羽織り部屋を出ると、二人の近衛兵に行き先を阻まれた。
「殿下、本日外出はなりません」
「ここを通せ」
「なりません」
「私の命令が聞けぬというのか?」
怒り心頭のカイルに、近衛は真っ直ぐに顔を向けた。
「殿下の命令よりも、殿下の安全が優先されます」
サディアスが近衛に先に手を回したのか? お前は全く、何をしてくれるんだ!
がんと動かない近衛に負け、カイルは行き先を変更してサディアスの執務室へ向かった。
執務机の引き出しを開けると、病が流行した場合に行う施策が具体的にまとめられた書類が入っていた。
サディアス……
俺の師であり、
俺の右腕であり、
俺が唯一ただ一人……
カイルが書類を手に呆然としていると、慌ただしく伝令が部屋に入ってきた。
「殿下、ここにいらっしゃいましたか! ご報告が」
伝令に渡された紙に目を通すと、体に黒い痣が浮き出てくる謎の病が発生し、各地で何人もの患者が教会を訪れていると書かれていた。
本当に病が流行し始めている……
カイルは消化しきれない頭のまま、伝令に大臣たちを集めるよう命令した。
一日中慌ただしく国内の対応を決め、実行に移したカイルは、夜遅い時間にやっと寝室に戻ることができた。
カイルは部屋のランプの火を消し、懐に夜光石を忍ばせた。
――俺を舐めてもらっては困る。
カイルは音を立てないように、自室の棚の下の秘密通路の入り口を開けた。
通路を抜け王宮敷地内の森に出ると、そのまま外へ誰にも気付かれず脱出することができた。
黒いローブですっぽりと頭を覆い、サディアスの屋敷まで早足で走ってきたカイルは、静まり返った屋敷の呼び鈴を鳴らした。
扉に現れた執事は皇太子の訪問に驚きながらも「お通しできません」と言い張ったが、カイルは老執事の横を無理やりすり抜け、サディアスの寝室に向かった。
乱れた息のままサディアスの寝室の扉を開けると、ベッドサイドにいた聖女が振り返った。
「いけません! お帰りください!」
立ち上がった聖女の向こうで、ベッドの上のサディアスが少し体を起こし、「来てはいけません!」と老人のような声を上げた。
カイルは、左の頬を残して全て黒く染まったサディアスの顔を見て戦慄した。
「サディアス……」
一気にサディアスの死が現実味を帯びて目前に迫ってくる。
ふらふらとベッドに近寄ったカイルは、止めようとする聖女の手を両手で握った。
「聖女エラ……あなたの力でどうにかできないのか?」
カイルの必死の懇願にも、エラは顔を横に振るだけだった。
カイルは、今日国政の合間を縫って目を通した、過去の聖女の奇跡の伝承に関する文献の挿絵を思い浮かべた。
「……口付け……聖女の口付けは?」
カイルのつぶやきに、エラが目を見張った。
「や……やってみます」
エラがふらふらとベッドに近づこうとすると、カイルはその腕を取って止めた。
「待ってくれ。もし聖女の口付けで病が治るとしたら、もしかしたらあなたの唾液を混ぜた水でもいいのでは?」
カイルは真面目な顔で突拍子もない事を言い出すと、ベッドサイドにおいてある水差しから水をコップに注ぎ、エラの手に渡した。
エラは強く頷いてコップを受け取ると、唾液を溜め、コップの中にぽたりと落とした。
聖女が必死に唾を吐くあまりにシュールな光景に、カイルもサディアスも若干顔を引き攣らせてそれを見守った。
え……そんなにたっぷり……
カイルの方からも泡が浮いているのが見えるそれを、聖女が真面目な顔でサディアスに渡した。
「お義父様、全て飲み干してください」
サディアスが少し躊躇してその液体をじっと見ている。
「飲め」
カイルも、サディアスすまない……と思いつつ、圧をかけた。
サディアスは観念したのか、苦しそうにゆっくりと時間をかけてコップの液体を飲み干した。
「どうだ?」
カイルの質問に、サディアスが不思議そうな顔を見せた。
「何か清涼なものが、体に広がっている感じがします」
「お義父様……痣が薄くなっていきます……」
聖女がサディアスの頬に触れた。
サディアスも真っ黒だった自分の手に目をやり、明らかに肌の色をとり戻していっているそれを見て、驚いている。
……効いた……
カイルは、そのまま床に崩れ落ちた。
見上げれば、顔色を取り戻したサディアスが心配そうにこちらを見ている。
「サディアス……よかった……」
「お前を失うのかと思った……」
一人、この世に置いていかれるのかと思った。
孤独で暗い、冷たい穴の底に突き落とされたかと思った。
「お前のいない世界など……」
一日中張り詰めていた緊張が解け、勝手に目から熱いものがこぼれ落ちていく。
ベッドに顔を伏せ、背中を震わせるカイルの髪を、サディアスはずっと優しく撫で続けた。
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